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37 隣を埋めてほしいのは

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 その晩の蛍は、目の回るような忙しさだった。

 退店の話が周知されてしまったお陰で、本指名以外の卓からも指名がかかってしまったからだ。
『nobilis』に入店するまでの経緯や、背負って来た苦労を知られてしまっている蛍は、キャスト達にも好感度が高いので、その卓に呼ばれたのである。(正しくは同情&慈愛の目であたたかく見守られていると言った方が正しいのだが...。)
 呼ばれたからには短時間ずつでも挨拶しに回らなければならない。3分や5分刻みで忙しなく卓から卓へ移動し、行く先々でドリンクをいただいて、残すのは失礼だからと律儀に飲み干して離席した蛍のお腹の中は、水分でチャプチャプになった。
 最後の別れを惜しんでくれるのも、新しい門出を祝ってくれる気持ちもありがたいけれど、今夜だけで3日分くらいの水分を摂った気がする。チャプチャプだ、チャプチャプ。水分はもう良いから、なにか固形物が食べたい。

(羽黒さまの卓に戻りたいよう...)

 黒服スタッフに離席を促されて、次の卓へと案内されながら、蛍は羽黒の待つVIPルームが恋しくて仕方なかった。同伴で入店してから、羽黒の卓にもまだ2回しか戻れていない。店で一緒に食べようとテイクアウトしたヤンニョムチキンも、とうの昔に冷めてしまっている。
 
「はぁ...まだ一箱しか食べてなかったのに...」

 店内の通路を歩きながら、残して来たヤンニョムチキンを思い溜息を吐く蛍。ちなみに件のヤンニョムチキンは羽黒により5箱購入され、一箱の内容量はこぶし大のチキン5個である。そして蛍は、本日羽黒との同伴中に老舗の高級すき焼き店ですき焼き8人前をキメてきている。
 店を辞めて本当に良いのか蛍。果たして蛍は、一度覚醒した食欲を封印出来るのだろうか。心配だ。

 一方その頃、羽黒はVIPルームで一人、蛍の戻りを待っていた。入れ替わり立ち代りヘルプを寄越されるのも気忙しいし、一人のヘルプにずっと居られるのもあまり好きではない。客を一人で放置は出来ないという店側の思惑は理解出来るが、今の羽黒にはそれが煩わしかった。
 蛍以外の人間を自分の隣に座らせたくない。
 我ながら実に子供じみていると思うのだが、蛍への気持ちを自覚してしまってからというもの、どうしてもそれ以外の人間に至近距離に来られるのが煩わしく感じてしまう。その人間に他意の有る無しはどうでも良く、とにかく、要らない。
 羽黒の隣を埋めるのは、蛍だけで良い。
 狙いを定めた者以外を忌避してしまうのは、アルファの本能なのか、自身の性質なのか。羽黒にも、わからない。
 という訳で、VIP担当の黒服・柚木に「ヘルプは要らない」と断って、羽黒は一人、手酌にてシャンパンを傾けているのだった。
 しかし、そうしていても胸中を占めるのは、やはり店を離れる蛍の事。店の規定により、客からキャストに連絡先を聞く事は出来ない。それはVIP客である羽黒であろうと変わらない。だからこそ、蛍の方から連絡先を教えてくれるのを待っているのだが、一向にその気配が無い。もしやこのまま、退店と同時にお役御免なのかと思うと、羽黒の気分は憂鬱になるばかりなのだった。

(所詮客なんて、店に在籍してる間だけ金を落とさせるだけの存在って事か...。いや、ほたる君はそんな子じゃない)

 そんな卑屈な考えが浮かんでしまうのを打ち消すように酒を呷るが、全く酔えない。
 蛍の信頼を勝ち取る為に、自分に出来る事はなんだってしてきたつもりだ。売り上げだって十分に協力したし、本人が望む何倍ものものを与えた。
 あれ以上、何が足りなかったのだろう?
 好意を示されてばかりで生きてきた羽黒には、これ以上どうしたら良いのかわからない。今、蛍から感じている好意を、もっと特別なものにするには...。
 
 思考が堂々巡りになってきた時、微妙な振動を感じて我に返る。

(...長いな)

 という事は、メールやSNSの通知ではない。
 羽黒は着信の確認をする為、テーブルの上のスマホに目をやった。この時間なら、仕事ではなくプライベートの連絡だろう。家族か、友人か。
 しかし表示されている名前はそのどちらでもなく、秘書の楡崎だった。彼には公私共に頼っているので、勤務時間外でも羽黒の方から相談を持ち掛けるのは日常茶飯事(迷惑上司)なのだが、この時間に楡崎の方から連絡が来るのは珍しい。
 何かあったのだろうかと訝しげに思いながら、羽黒は電話を受けた。途端、聴こえて来た楡崎の声は常よりもやや早口で、珍しく焦っているようだった。
 
 そして短いやり取りを終わらせた羽黒は、コールで黒服の柚木を呼んで何かを言いつけた後、早足で店を出て、既に近くに横付けされていた迎えの車に乗り込んだ。そして蛍は、羽黒が急用で帰宅した事を他の卓で知らされ、首を傾げた。羽黒が途中で帰ってしまう事なんて初めてだ。

(もしかして、あまり卓にいられないから機嫌を悪くなさったのかなあ...)

 そう思って柚木に聞いてみたけれど、それは違うと首を振られた。
 柚木によれば、羽黒は帰る直前に電話を受けており、蛍の代わりに送り出しについて行くと、いつもは呼ばないと来ない迎えの車が既に横付けされていたのだという。よって、羽黒のプライベートで何かしらのアクシデントが発生した為で、羽黒からもそう聞いているらしい。

「ご家族の事だから詳しい事は言えなくて申し訳ないと謝られたよ。ほたる君にもよろしくって。
明後日の同伴はキャンセルしなきゃならないけど、最終日だし閉店までにはきっと顔を出すと仰ってたよ」

「そうですか...」

「それと、ヤンニョムチキンの残り4箱。厨房の冷蔵庫で預かってるから、忘れずに持って帰ってね」

「はい、ありがとうございます」

 ヤンニョムチキンは家であっためて食べようと思いつつ、蛍は頷いた。優しい羽黒が怒る筈無いと思っていたけど、やっぱり怒ってはいなかった事にホッとする。最終日の同伴キャンセルは残念だけど、顔を出してくれるというから、連絡先は渡せるだろう。

 蛍は安心して、また次の卓へと向かった。

 しかし、2日後。
 店は蛍の退店を惜しむ指名客で終始溢れかえったが、VIPルームはラストまで空のままだった。
 蛍は羽黒と会えないまま、『nobilis』に別れを告げる事になったのだ。



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