薄幸系オメガ君、夜の蝶になる

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33 蛍の嬉しさと迷い

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『nobilis』が休みの日、蛍の朝は少し遅めだ。

 出勤の日の帰宅は夜半を回る。母は相変わらず起きて待ってくれていて、蛍の腹具合いによっては軽い食事を作ってくれる。まあ、蛍は店の営業中に羽黒にたらふくご馳走になっているので、せいぜい小腹が空く程度。なので出てくるのは、葱を散らした月見うどんとか、焼いた鮭を解して作ったお茶漬けなどだ。大抵は蛍が1人で食事をして、母は向かいでゆっくりお茶を飲む。蛍がその日あった事を話す事もあれば、母が観ていたテレビの話題を話す事もある。羽黒が例の店の寿司折りを持たせてくれた日などは、それを一緒につまんだりしながら話す。
 
食事が済むと、蛍は風呂に入る。夜中なので長風呂はせずシャワーで済ませ、歯を磨く頃には眠さは最高潮だ。後はヨタヨタと部屋へ向かい、布団に潜り込むと数秒で健やかな寝息を立て始める。その頃には、時刻はもう3時前。そんな時間の就寝なのだから、翌日の起床は早くて午前9時、または10時。
 どうせ昼食まで間があるからと、目覚めても寝床でダラダラとスマホを弄り、メールや連絡事項などのチェック。最近は蛍にも美優や流星達など、職場関係だが親しい友人(?)もポツポツ出来たので、なんとLIMEでメッセージなんかも来てしまう。しかしその中にお客からのものは一通も無かった。
『nobilis』では、キャストと客の連絡先交換を推奨しておらず、客はキャストに自分の名刺を渡しても、執拗くプライベートの連絡先を聞いてくる事は無い。だがキャスト側の判断で連絡先を教えるのは構わないとされていて、殆どのキャストは本指名の席に呼ばれた時点でそれを教える。店を通さず直接連絡出来る方が同伴や来店の予定も立て易いからだ。
 ただ、キャストの中にはプライベートと仕事を切り離したいタイプも居て、客との連絡は店電で、もしくは来店時にという者も少なくなかった。
 蛍の場合は、昼職が見つかるまでの繋ぎのつもりで元々長く勤める気が無かったのと、単純に客と連絡を取る必要性を感じなかったので教えなかった。唯一、羽黒には教えておいても良いかと思ったのだが、彼は蛍の出勤日には漏れなく来店するし、次回の同伴の予定もその時に場所と時間を決めてしまう為、教えるタイミングをうっかり逃してしまっていたのである。可哀想な羽黒。

と、それは置いといて。

その日、蛍に届いていた数通のメッセージの中には、覚えのある差出人からのものがあった。

(んん、あれ?これって…)

 蛍は人差し指でタップして、そのメールを開いた。
 そして読み進めていくうち、その目は驚愕に見開かれていく。寝転がっていた布団から、思わず跳ね起きた。

 蛍は『nobilis』で働きながらも、休みの日には求人情報をチェックしているし、学歴不問など条件が合いそうな会社を見つけては面接に行くなどの求職活動を続けていた。それは水商売で高額な給与を得られるとわかってからも変わらずに。
ただ、その殆どが残念な結果に終わっていて、来るメールも俗に言う"お祈りメール"なるものばかりだったのである。
 しかし、今日届いたメールは一味違った。

「採用…」

 なんとそれは、蛍を正社員として採用したいという中堅の清掃会社からの通知だった。採用にあたり、所定の期日までに連絡をと。

「やったあ!!」

 とうとう正社員になるチャンスを掴んだ、と顔が綻ぶ。ちょうど買い物から帰って来た母に知らせると、とても喜んでくれた。勿論、試用期間はあるのだが、蛍は真面目にコツコツ仕事をこなすのだけは得意だ。その点で言うと、自分は清掃業なるものにとても適性があると思うのだ。面接さえ突破出来たなら、正社員になる自信しかない。
清掃会社の初任給はそう高くはないが、技術の習得や経験次第で昇給はあると説明された。羽黒と『nobilis』の給料のお陰で借金が殆ど返済出来た今、例え給料がそう高くなくとも、母子2人生活していくには十分な筈だ。今まではもっとずっと慎ましく暮らして来たのだから、その日々を思えば随分人並みの生活が送れるだろう。
 蛍は嬉しかった。とてもとても嬉しかった。嬉しさ度合いで言えば、『nobilis』の最初の給料日に目の玉が飛び出るほどの高額な給与明細を見た時よりも高いかもしれない。水商売は嫌いじゃない。何なら店にも人にも馴染んで来た今は、とても楽しく仕事出来ている。たくさんお金が貰えるのも嬉しい。けれど、やはりそれは刹那的なものだ。25歳迄という期間限定だから価値を付けてもらえるだけの。
 人生は若くて綺麗な時期よりも、そこを過ぎてからの方がずっと長い。ごく短期間の旬しか稼げないより、細くとも長く稼げる方が、結局は安定する。
図らずもごく若い内から辛酸を舐めてきた蛍は、天真爛漫ながら妙にリアリストなところがあった。
 それに、昼職が決まれば『nobilis』は辞める。そう決めてもいた。以前より多少マシになったとはいえ、蛍の体力では2つの仕事の掛け持ちなど不可能だからだ。

(よーし、やっと決まった会社、がんばるぞ。入社日が決まったら、店長に辞める事言わなきゃ…)

 採用になった会社に電話を掛けようとスマホを持ち直した時、ふと羽黒の笑顔が脳裏に浮かんだ。

「お店辞めたら…羽黒さまにも会えなくなるんだな」

(それは、なんかヤだな…)

蛍の中に、初めて迷いが生まれた瞬間だった。



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