薄幸系オメガ君、夜の蝶になる

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32 羽黒様、庶民感覚に触れる

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 一時間後。

 羽黒は蛍を伴って入ったショップの支払いカウンターで決済を終え、首を傾げながら店を出た。会計を担当した店員と他の店員が2人、大きなショッパーを3つ持って店の出入り口まで見送ってくれる。

「羽黒様、白川様、本日はまことにありがとうございました、ご購入いただきました残りのお品は明日中に、取り寄せ分も最速で白川様のお宅に送らせていただきます。今後ともご贔屓によろしくお願いいたします」

 およそ、大衆的なショッピングモールのショップではあまり聞き慣れない文言での丁重すぎる見送り。それが、今回羽黒がこの店で使った金額を如実に表している。だが、平素からそういう見送られ方が普通である羽黒がその違いに気づく事はなかった。
  
「ああ、頼んだよ。また機会があれば寄らせてもらおう」

 ショッパーを受け取る羽黒の顔には微笑み。その隣で蛍は…。

「店長さん、ありがとうございました!羽黒様、ありがとうございます!」

 満面の笑みだった。


 実は、ショップに入店した当初、羽黒と蛍は普通に服を見繕っていただけだった。しかしこの店には、思った以上に蛍に似合う服が多かった。適度に流行を取り入れ洗練されたデザイン。色みのラインナップにも品がある。"とりあえず普段着を何着か"のつもりが、蛍が試着室から出てくる度にキープする着数が増えていき…。異変に気づいて接客に寄って来た店員がいらっしゃいませと言い終わる前に、あれもこれも色違いもと言いつけたその総数、42点。内、シューズ類5点。 合計金額、68万7000円。
しかし羽黒が首を傾げたのは、その金額に対してだ。勘の良い方はお気づきだと思うが、おそらくご明察である。

(2度確認したから間違いではないらしいが…)

 会計が、思いの外安過ぎたのだ。こんなの、今スーツの下に着ているシャツ1枚の値段とそう変わらないではないかと羽黒は内心で驚愕した。念の為渡された明細を確認してみたところ、今日買った蛍の服で1番高かったのは5万8000円の白いダウンコート、最安値は2900円のTシャツだった。

(こんなに安くて、品質は大丈夫なんだろうか)

 服を着たり羽織ったりした蛍があまりに可愛くて思わず一気に買ってしまったが、今更心配になって来る。だが、ここは大衆向けのショッピングモール。世間の多くの人々が当たり前のように利用している中にある店だ。それを鑑みれば、寧ろこれが世間一般的な流通の価格帯なのかもしれないと思い直した。

(ここでズレているのは、僕の方か…)

 買い物をする時に値札を見る習慣を持たない羽黒。蛍に出会ってからここ最近、差し入れの菓子や食事の出前などで少しは市井の相場を知れたつもりでいたが、まだまだだったと世間知らずな自分を恥じた。
 モール内の通路沿いの柱の前で立ち止まり、ショッパーの持ち手を握り締めて沈痛な表情を浮かべる羽黒。その背中に、対照的な笑顔の蛍が礼を言った。

「ありがとうございました、羽黒さま!あんなにたくさん買っていただいて。この先10年は服買わなくて良いかも!」

 スタバと財布で頭がいっぱいで、よもや自分の服を買う事になるとは思ってもみなかった蛍。しかもショップに入ったら、次から次へと服をあてられ、試着室に送り込まれた。その服を着て試着室のドアを開けたら、待ち構えていた羽黒と、いつの間にか増えていた店員達に似合う似合うと褒めそやされ、すっかりその気に。しかしまさか、次々にレジカウンターの方に運ばれていった服を羽黒が全部購入してしまうとは…。
 良いのかなあと思う反面、いつも羽黒が店で支払っている金額を考えると、彼にとってこれくらいの金額はなんでもないのだろうとも思う。とはいえ、蛍にとってはありがたい事だ。
 接客用の店の貸衣装でも、試着で着るカジュアルテイストの服でも、新しい服に袖を通すのは心が躍る。しかも羽黒が買ってくれるのなら、これは蛍の服になり、返さなくて良いのだ。そう思うと、本当に嬉しかった。
 事情があって清貧に甘んじていただけで、蛍だって普通の若い男子なのだ。しかも、そこそこ外見が良い自覚のある。そんな子が、お洒落に全く興味が無い筈がないのだった。

「超嬉しいです!母さん、びっくりするだろうなあ」

 蛍に弾んだ声で礼を言われ、羽黒は我に返った。振り返ると、いつもの無邪気な笑顔。真新しいボルドーカラーのハイネックセーターにゆるっとした黒のパンツ、件の白いダウンコートに着替えた蛍。出会った頃より少しだけ肉付きが良くなって、整った容姿に相応しい物を身につけたその姿からは、今や苦労してきた歳月など微塵も伺えない。

(可愛いなあ)

 何でも与えてやりたいと思う。愛しいと思うこの想いのまま、羽黒が与えうる全てを与えて、骨の髄まで甘やかしてやりたい。 

(もういっそ、このまま囲い込んでしまおうか)

 そう思う。
 羽黒は、蛍に好かれていると思っている。けれど、今の段階で無理に囲い込んでも嫌われないほどの自信は無い。蛍がオメガとしてとして年相応に成熟していれば、アルファである羽黒にはもう少し利があっただろう。しかし蛍は、未だヒートらしいヒートが来た事が無いという。かかりつけの医師には、成長期を慢性的な低栄養状態で過ごしていた弊害だと言われているらしく、蛍の口からそれを聞いた羽黒がそれまで以上に蛍の餌付けに熱心になったのは言うまでもない。
 蛍にオメガとして当たり前の兆候さえ起これば…
羽黒にもチャンスが訪れる筈だから。
 羽黒は"その時"、蛍の最も近くにいるアルファでいなければならない。そう思っているのだった。

 蛍の香りは、きっと羽黒がこれまで嗅いできたどんなオメガのものよりも馨しい。


 ショッピングモールを出た2人は、蛍の同伴出勤の為、ゆっくりと歩いて『nobilis』へ向かい、そこからはいつも通りVIPルームで過ごした。
 それから蛍の出勤日は毎回羽黒との同伴となり、食事や買い物をするのに運転手付きの羽黒の車に乗る事も多くなった。
 暫くそんな風に平和な日々が続いたある日、蛍の元にとある連絡が届く。

 それは蛍が待ちかねた、しかし羽黒には招かざる客と言えるものだった。




 

 




 

 
 




 

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