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6 王子様の膝枕
しおりを挟む通称黒服と呼ばれる男性スタッフの後について、店内の通路を歩く蛍。あちこちの客席から視線が注がれるが、スタッフの背中しか見ていない蛍は気づかない。さっきから何故か少し足が縺れるような感じがしていて、気をつけていないとまっすぐ歩けない気がしていたからだ。
(おかしいな)
お茶かジュースしか飲んでいない筈だが、間違えて酒でも口にして酔っているのだろうか。視界が揺れているように見えるのは、もしかして酔いというものではと思ったが、酔った状態の経験が無いのでよくわからない。とにかく気を抜いたら転んでしまいそうだ。しかし、せっかく就いた仕事の初日からそんな失態を犯す訳にはいかない。あと2時間、頑張らなければと考えていると、蛍を先導していたスタッフが、店内奥の部屋のドアの前で立ち止まり、振り返った。
「此方がVIPルームです。お客様の中でもほんの数名の特別な方々しかお通し出来ないお部屋です。これから付く羽黒様も、ご来店の際にはこちらのお部屋しかお使いになられません。そういったお方ですので、くれぐれも失礼のないように」
男性スタッフの言葉に、蛍はこくりと頷く。それを確認したスタッフは、コンコンとドアをノックしてから中に呼びかけた。
「お待たせいたしました。ほたるさんです」
「ご指名ありがとうございます!ほたるです!」
スタッフが開けてくれたドアから、やたらハキハキと元気な挨拶をしながら入室した蛍。そして奥の客席に向かってお辞儀をして、背後でドアの閉まる音を聞いた途端、フッと視界が暗くなった。
額に何やら温もりを感じる。
誰かが蛍の額に触れている。一体、誰が?
重い瞼を何とか持ち上げようと頑張る。最初は細く、少しずつ。
「…?」
「大丈夫?」
すぐ間近で、人の声がした。耳触りの良い低い声。男の人だ。
(父さん?)
父の声に似ているような、そうでもないような。でももし父の声だとしたら、これは夢だろうか。まだ父が生きていた頃の夢を見ているのか、それとも父が夢に出て来てくれたのか。
今しがた目は開けたつもりだったけど、実はまだ目覚めていなかったんだろうか、なんてぼんやりと考える。
だが、無事に目は覚めていたようだ。じきにぼんやりとした人影が見え始めたかと思うと、滲んでいた輪郭はっきりと縁取られていき、世界が徐々に鮮明さを取り戻してきた。
「気がついた?」
「…王子さまだ…」
「おうじ?」
視界に映っていたのは、目が覚めるような美青年の顔。凛々しい眉を寄せ、心配げに蛍の顔を覗き込んでいる。ハリウッド俳優でもここまではと思うほど整った顔立ちに、綺麗に上げられた艶のある黒髪。憂いを秘めた切れ長の眼差し。その様子がまるでおとぎ話の王子様みたいだ、と思ったら、そのまま口から漏れていた。王子様の不思議そうな顔を見た途端、蛍の意識は急激に覚醒した。
「あっ、えっ?!」
ガバッと体を起こしたら、頭がクラッとして目を閉じる。
「急に起き上がったりしたら危ないよ」
「あ、う~…」
一体どういう状況だ?何が起きた?何故自分は超絶イケメンの膝枕で寝ていた?
めまぐるしく頭を回転させ、記憶を整理しようとしていた蛍に、王子様は言った。
「君、倒れたんだよ。覚えてない?今、店長を呼びに行かせてる」
「倒れた…?」
「此処に入って来てすぐにね。多分、頭は打ってなかったと思うけど…痛いとこある?」
聞かれて、両手で頭を触って確認してみる。たんこぶは無いみたいだし、何処も痛いところは無い。手足も床にぶつけてはいないのか、特に痛むところは無い。よほど上手く倒れたのかなと自分を褒める蛍。しかし徐々に倒れる直前の記憶が蘇って来ると、これはかなり不味い状況なのではないかと思い始めた。
「あの、俺、倒れてからどれくらい…」
おずおずと聞いた蛍に、
「ん?いや、そんなに長くは。せいぜい5分くらいかな」
と、腕時計を見ながら答える王子様。
「そ、ですか…」
「店長、外出中なのかもね」
思っていたよりも短い時間だった事に安心しつつも、しくじってしまったと思ってしまう。あれほど失礼のないようにと言われた席で、まんまとこの体たらく。店長が来たらクビにされてしまうかもと考え、蛍はガックリと肩を落とした。いくら何でもたった2時間でクビになるなんて、前代未聞なのではないだろうか。
起き上がって横に座ったものの、急にしょんぼりした蛍の様子に、王子様は首を傾げながら問いかけた。
「でも、どうして倒れちゃったの?初日だってのは聞いてるけど…緊張しちゃった?」
そう聞かれて、蛍も首を傾げて考えた。これはどうやら、元同僚のおっちゃん達に聞いていたような酔いの症状とは違うようだ。そしてこの、湧きいずる生理的欲求。 間違いない、これは…。
「いえ、これは多分、ここ3日くらいの食事が、1日2食の素そうめんオンリーだったからだと思います」
蛍の答えにキョトンとする王子様。
「素そうめん?」
どうやら聞きなれない語彙だったもよう。蛍は頷いて、説明する。
「具なしの素麺です」
「具なしの?!」
王子様、本格的にビックリしたらしい。蛍はさっきのスタッフの言葉を思い出した。この王子様は、お店にとって物凄く大切なお客様なのだ。来店の度に特別室に通されるほどの。という事は、ものすごくお金持ち。きっと超がつくセレブなのだろう。
そんな超セレブが、具材ゼロの素麺など知る筈がない。本当に未知の言葉だったんだろうと蛍は思った。だがまあ、倒れた原因はわかった。
つまり、原因は空腹と栄養不足。カロリーが足りていないのだ、圧倒的に。その状態でバイトに求職活動に動き回って、さらに今日は夕飯も食べないままここの仕事に入った。そりゃ倒れる。
「どうしてそんな...ダイエット...じゃないよね、かなり細いし」
「そうですね、俺もできる事ならこんな食生活はしたくありませんでしたけど、やむにやまれぬ経済的事情がありまして」
蛍はそう答えて、長い溜息を吐いた。
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