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⑭
しおりを挟むその後、宇高に次の予定が入っているのを事前に聞いていた麗都は、1時間きっかりで話を切り上げた。現時点ではこれ以上引き出せる情報も無さそうだ。
「ありがとうございました」
麗都が礼を言いながら立ち上がると、宇高も立ち上がり、いやいやと手を振った。
「いやいや、Y’stさんにはいつもお世話になってますんでね。そのトップの頼みとなりゃ、この程度の事は」
そんな宇高の言葉に、少し苦笑してしまう麗都。どんな関係であれ、赤の他人の身分証のコピーなどの個人情報をすんなり渡してしまうのが"この程度の事"、だとは...。しかし、だからこそ得たい情報が得られたのだし、宇高との関係性を利用した麗都自身も咎め立て出来る立場には無いとわかっているから笑うしかない。
「ではまた」
そう言って事務所を出ようとして、はたと立ち止まる。一番肝心な事を聞き逃してしまうところだったと気づいたからだ。
麗都は宇高に振り返り、問いかけた。
「それで、彼に割り振ったエリアというのは...」
宇高は一瞬キョトンとした顔をしたが、すぐにニヤッと笑って答える。
「〇〇公園の入り口付近です」
「ありがとうございました」
麗都は小さく会釈をして、今度こそ事務所の出入口ドアに向かった。先ほど迎えてくれた強面の男がドアを開けてくれ、1階玄関まで着いてきた。建物を出てすぐの場所で最敬礼を超えるような深いお辞儀をされ、見送られている麗都にも通行人達の好奇と畏怖を含む視線が突き刺さる。だが日頃から人の視線には慣れている麗都は、それを意に介さずゆっくりと歩いた。シャツの胸ポケットからフリスクの小箱を取り出し、3粒を口に放り込む。慣れた清涼感が口腔に広がり、鼻腔を抜けていく。
今夜は出勤日ではないから、祈里が居るという公園に向かってみようかと思ったが、やめた。今日はさっさと家に帰って、途中の仕事を再開しなければならない。それに、宇高の言う通り売れっ子ならば、もう誰かに買われている筈。しかしそれを想像すると少し胸がチリつくのは、何故だろう。本当に、どうしてこんなにも...。やはりあの時、一目惚れしてしまったのだろうか。
顔を上げれば、来た時にはまだ夕暮れだった空も、陽が落ちきっている。それなのに、あまり暗くなったと感じないのは、灯され始めた街の明かりが夜空を照らしてしまうからだ。
この街は不夜城だ。そして、人々はそれに慣れている。麗都もその一人だ。なのに、無性にこれではないと思う時がある。
これは本物の夜ではないと。
麗都は、何一つ照らすものの無い、真っ暗な夜空に輝く星の美しさを知っている。あの、祈里という青年の瞳のような。
昔、そんな静かな夜の訪れるところに住んでいた事がある。
(そうだ、あれは...)
――ふと、幼い子供の高い声が記憶の隅を掠めた。日頃は蓋をしていた幼い頃の記憶が鮮やかに蘇ってくる。
今となれば忘れ去っていた遠い日々の事だ。
未熟児で産まれた麗都は、生まれつき気管支が弱かった。成人した今でこそ体も丈夫になったが、子供の頃はその影響で風邪を引き易く、またそれを度々拗らせていた。あの頃も今と変わらず麗都の両親はどちらも仕事を持っていて多忙だった為、一人息子のケアにまでは手が回らず、麗都は専らベビーシッターや家政婦を母親代わりとして育った。
しかし、小学校低学年の冬。運悪くインフルエンザに罹患してしまった麗都は、重症化して入院。生死の境を彷徨った。その後回復はしたものの、病院から家に帰宅させて、家政婦だけでは手が回らなくなる事を恐れた母は医師に相談。麗都は小児医療に特化した病院に転院して、持病の治療をする事になった。幸い病院のある土地は、母方の祖父母宅から車で30分ほどの山間の田舎町。排気ガスを出す車が少なく、緑が多い為空気は良いが、都会育ちのませた小学生には退屈なところ。
あらゆる刺激を排除したかのような白壁の個室。簡易なベッドと、すぐ側に置かれたテレビ。大きな窓には白いカーテンが引かれ、外からの眩し過ぎる光を辛うじて遮っていた。その窓の下には長いソファ。午後にはそこに座って外を眺めるのが日課になっていて、体調の良い時には風の匂いに誘われて、庭に散歩に出たりもした。
物理的距離が開いたのもあって、両親は滅多に面会には訪れず、足の悪い祖母が一日おきに洗濯物を持って身の回りの世話をする為に短時間来てくれるのみ。実家で暮らしていた頃から親とまともに顔を合わせなかったお陰で里心はつかなかったが、仲の良い友人や賑やかな学校の事を思い出す時には、ほんの少しだけ寂しくなった。
(ここって、本当につまらない)
体が癒えていく毎に、そんな思いは強くなる。何も無く、見えるのは山ばかり。病室を出て白い廊下を少し歩くとスタッフステーションがあり、その先は別棟に繋がっていた。一度、祖母と一緒に散歩に出る途中、遠回りしてそこを通ってみたら、同じような年頃の子供の姿も見えた。確か...あの子に会ったのも、その時だった。
よく母親に連れられて上の兄弟の見舞いに来ていた、小さな男の子。兄弟に付きっきりになる母親にほったらかされても、病室前の廊下なんかでひとり大人しく飛行機のオモチャで遊んでいた。僅か2、3歳くらいの幼子がそうしているのが気になり、声を掛けたのは退屈しのぎの気紛れだ。だが遊び相手をしてやると、幼子は自分を構ってくれる麗都に懐いた。笑顔を見せるようになり、兄弟の居ない麗都は弟が出来たように嬉しく、幼子を可愛く思うようになった。飛行機や消防車を転がし、時にはせがまれて絵本を読んであげて。味気無い入院生活の中、幼子とのその時間だけが色付いた。
それが、麗都の体が安定した事で、また勝手に退院させられてしまった。家に戻ってからは、通院は再び前の病院になり、一度も幼子に会いに行ける事は無く。
確かあの時期は、自宅に戻ってからもそれが辛くて暫く塞ぎ込んでしまった覚えがある。
祈里という青年の面立ちは、あの幼子の事を思い起こさせた。
(そういや、俺はあの子をなんて呼んでたっけ...)
「...ちいくん?みいくん?だっけ?...」
おそらく名前の一文字なのだろうが、どちらにしても祈里という名前のどこにも被らない。10数年の時を経て成長して再会、なんて偶然はフィクションの世界の話だ。別人だろう。けれど...。
「〇〇県...か」
先ほど見た祈里の身分証コピーの本籍地は、麗都が入院していた病院と祖父母の家のある県と同じだった。
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