NO.1様は略奪したい

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仕事を始める前に、祈里は天馬の勤務する店の近くの路地裏にある古い喫茶店で、ある男に引き合わさされた。天馬の知り合いだという、所作は丁寧だが無愛想な30絡みの黒いスーツの男は、自分の名前を宇高と名乗った。宇高は、祈里の頭のてっぺんから足の爪先まで何度も視線を往復させてから、天馬の顔を見て小さく頷いた。すると天馬はホッとしたような顔をして、宇高に祈里を任せて自分はさっさと店に出勤していってしまった。祈里は初対面の強面の男の前で緊張するわ居心地が悪いわで帰りたくなったが、天馬の立場を思うとそうもいかない。喫茶店の古くて赤い合皮のソファに浅く腰掛けて、心細い気分で俯く。テーブルを挟んで座っている宇高が、祈里に向かって問いかけた。

「アンタも大変だな。この仕事、初めてなんだって?」

「はい」

「オトコの経験はあるんだよな?」

「それは、はい」

 あれ?と思う。天馬は祈里の事を、宇高にどう伝えたのだろう?付き合っている恋人だとは言っていないのか?それとも、あまりそういう事は言わない方が良いものなのか。
 腑に落ちないまま、宇高の説明が始まった。
 この近辺だと、その手の商売に適した場所は幾つかあるらしい。その中から、祈里の年齢的にこの辺りが良いだろうと決められた。
 接触してきた客とどんな風に交渉するのか。金額が折り合い交渉が成立した場合に向かうホテルはどこにするか。何軒もあるホテルの中のどこならば同性同士でも利用し易いか、休憩料金の相場はどれくらいなのか、入室してから金を受け取るタイミングなどなど、基本的な事を教えられた。
 加えて、あらゆる病気への感染対策としての手洗いうがい、出来れば事前にはシャワー。男同士の場合は特に結合時には気をつけて、ローションを使い局部を保護し、怪我をしないように。そして避妊具の使用は徹底するようにと細かい部分も注意された。この仕事は言葉通りに体が資本だし、性病とも隣り合わせだから、自分の体を守る為には自衛しろという事らしい。
 更に宇高は、『本来は売る側が主導でプレイする流れの方がトラブルは少ないのだが、慣れない祈里には最初は難しいかもしれない。もし客とトラブルになった場合は自分に連絡を寄越すか、これを客に見せるように』と言って、自分の名刺をくれた。簡素に見える白い名刺には、真ん中に大きく"宇高 遼平"と、黒字の名前のみ。右上には金の箔押しで、どこかで見た事があるような無いようなマークがあり、会社や部署名は一切無かった。裏返すと、そこに携帯電話のナンバーがあるのみ。名刺というものはあまり見た事が無いが、こういうものだっけ?と、祈里は少し不思議に思った。

「売れるよ、アンタ」

 あらかた説明を終えると、最後に宇高は祈里の顔をもう一度まじまじと見つめてそう言い、祈里はそれを、複雑な気分で聞いた。売れる、と言うのは、つまり客が見込めるという事だ。それは、これから祈里がそれだけたくさんの客に抱かれるという事。
昨日は仕方なく...勢いで承諾してしまったけれど、まさか心の準備をする暇もなく、こんなに急展開で事が進んでしまうなんて。
 これからそう遠くない未来に、自分が天馬以外の男と知らないホテルでセックスしているなんて、想像しただけで憂鬱になる。じわりと目頭が熱くなるが、キュッと目を閉じて涙を耐えた。ここで泣いたからとて、未来が変わる訳でもない。天馬の為だ。

 宇高は冷めたコーヒーの残りを飲み干してから、祈里に言った。

「アンタみたいなのを好きなオッサンは意外と居るぜ。特にゲイタウンからも離れたこの辺じゃ、若い男は珍しいからな」

「僕みたいな?」

「小綺麗で素人っぽいの。この辺りはゲイタウンからも離れてるから、若い男ってだけでも目を惹くだろうしな」

「そうですか...」

 気の無い返事をした祈里を、宇高は少し面白いものを見るような目で見る。細い目が更に細められ、無表情だったのが、まるで笑っているようだ。そんな宇高の視線に気づき、祈里は少しドキリとした。まるで蛇のようで怖いと思ったのだ。
 宇高も、天馬とはまた違う意味で、祈里が初めて会う種類の人間だった。
 
「俺は女専門なんだが...お兄さんは何だか、普通の男でもクラッとくる何かがあるね」

「...はあ、そうでしょうか?」

「思い当たる事、ない?」

「...」

 そう聞かれて、どうだっただろう、と記憶を辿ってみる。祈里の男遍歴が始まったのは中学時代だが、確かにそれまでは好意を示される比率は異性同性そんなに変わらなかったように思う。それが、先輩に犯された後からは一気に同性に傾いた、気はする。しかも、言い寄って来るのは必ずしもゲイばかりではなかった。寧ろ、祈里と出会うまでは彼女も居るストレートだったと言っていた者が多かった。
 そういう事なんだろうか、と思う。自分には"普通"の男を惑わせる、何かがあるのかもと。しかしそれに気づいたからと言って、特に嬉しくもない。
 祈里が黙っていると、宇高はフッと鼻先で笑ったようだった。

「まあ今までがどうあれ、この商売で稼ごうと思ってんなら、それはメリットでしかないさ。せいぜい気張んな」

「ありがとうございます」

 嬉しくはないが、おそらく褒められているのだろうからと、祈里は礼を口にした。宇高はまたあの不快な視線で祈里を舐めて、

「じゃあ、これからよろしくな」

 と言った。

 それから祈里は、宇高と共に喫茶店を出て、見世となる公園へ連れて行かれた。その公園の内外には女性ばかりが何人も、スマホを弄りながら立っていた。彼女達は宇高と面識があるのか、宇高に気づくと小さく会釈をする。そして、宇高が連れている祈里が男であるのに気づくと、一瞬驚いたような表情になり、しかし殆どはまたすぐにスマホに目を落とした。
 祈里は宇高に、公園の入り口付近で待つように言われ、ぽつんと取り残された。それでも祈里に声を掛けてくる女性は居なかった。というか、これだけ若い女が一所に居るにも関わらず、話し声すら聞こえない。辺り一帯に、退廃的で冷めた空気が漂っているようだった。
 でも祈里は、その空気をラクだと感じた。こういう仕事をするのに、余計な興味を持たれたり詮索されるのが嫌だと思うのは、皆同じなのだろうと。

 そして、そこに立って僅か数分後。祈里に初めての客がついた。
 祈里を買ったのは、小肥りの中年男。多分祈里の父親よりも歳上で、酒とメンソールの混ざった臭い息をしていたが、口調も雰囲気も優しかった。そして、左手の薬指には銀色の指輪が肉にくい込んでいた。
 祈里が今日初めての仕事だと知ると客は喜んで、祝儀だと言って料金に1万追加でくれた。

「あの辺で男の子は珍しいよね。でも君みたいな子の初めての客になれるなんて、今夜はアタリだ」

 客は笑顔でそう言いながら、祈里の乳首を舐め回し、アナルにしゃぶりついた。それから、挿入してみこすり半で達した。
 男が終始優しかったからなのか、覚悟していたほどの嫌悪感は無く、その事に祈里は複雑な気持ちになった。
 そしてそれを皮切りに、祈里は次第に身を売る事に慣れていった。

  

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