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10 弥音10
しおりを挟む社の裏には水が湧いている。
山水が湧く場所はいくつもあるのに、それがたまたま神社の敷地内に湧いているだけで御神水などと呼ばれてありがたがられる事が、弥音はいつも不思議だった。
だが、そんな事を口にしては信心深い年寄り達に咎められるとも知っていた。だからわざわざ言ったりはしなかったが、胸の中でそう思っているだけでもいけなかったのだろうか。自分が信心深くないから家族を取り上げられ、今また自らの命をも捧げなければならなくなったのか。敬意が足りなかった為の神罰なのだろうか。
まあ、仮にそうだとしても、時は戻らない。
神社に到着して、まず弥音が案内されたのは、宮司の待つ本殿だった。そこで長い祈祷を受けた後、社殿裏に連れて行かれた。そこには竹藪に続く細い道があり、その更に奥には弥音が詰める予定の小さなお堂がある。先ほどの湧水は、そのお堂のわきに湧いているものだった。
先導していた浄衣姿の神職の男が、お堂の前に待機していた2人の巫女の傍に寄り何かを囁くと、巫女達はコクリと頷いた。何を言ったのかは、男の声が小さくて聞き取れなかったが、弥音は気にしなかった。ただ、お堂周りの竹を始めとした木々の隙間から見える空の青さが美しく、吹き抜ける風が心地良いと思った。
幼い頃、祖母に連れられてこのお堂に御神水を汲みに来たの日の記憶がありありと蘇ってきて、思わず頬が緩む。
(…笑っている?)
浄衣の男は、その場面をたまたま見て内心で驚いた。家からここまで何を告げてもずっと無表情だった贄役の青年が、何の前触れも無く急に微笑んだのだから、困惑するのは当然だ。
神職の男も村の者だ。弥音の事も、家の事情も知っている。あの流行り病で失われた命は数あれど、弥音の家程の被害を被った家は他に無かった。弥音の表情が乏しくなった事も当然だと思った。その上で今回の贄の神託だ。とうとう気が触れてしまったのかもしれないと、哀れに思った。
だが同時に、髪に隠れていない顔、左半分の造作の美しさに息を飲む。
その美しい微笑みは、弥音が元々は美しい少年だった事を思い出させるのに十分だった。
お堂に入る前に、弥音には湯浴みの用意がされていた。待機していた2人の巫女は、その手伝いをする為の人員だったらしい。彼女達は、自分で出来ると恐縮する弥音の手をやんわりと躱して、沸かした御神水を汲んだ手桶を弥音の頭の上で優しく傾ける。思わぬ温かい湯に、てっきり冷たい水で浄められるとばかり覚悟していた弥音は嬉しくなった。
半刻ほどかけて髪を洗われ体の垢を落とした弥音の肌は、見違えるように白くきめ細かく、巫女達も神職の男も驚いた。
白絹の衣を身に纏い、伸びた髪を櫛で梳き後ろで束ね、痘痕の残った右半分の顔を髪で隠してしまうと、痩せぎすではあれど、弥音はどこからどう見ても美しい若衆だった。確かに神の贄に相応しいと納得してしまう。
だが、今となってはその美しさすら哀れを誘うばかりだと、神職の男は弥音から目を逸らしながら思った。
昼の膳が運ばれて来て、弥音はひとりで食事をとった。ひとりなのは家に居ても此処に来ても変わらないので、黙々と食べ進める。自分で作る簡素な料理に比べると、品数も多く手も込んでいて見た目も綺麗だが、やはり味はしないなと思った。
膳が下げられると、宮司がやって来た。
何か話があるのだろうかと思って迎え入れると、いきなり頭を下げられた。
「すまない」
「え?」
「…此度は村の為に大切な命を水神様に捧げてもらう事になり…」
「お告げなら仕方の無い事です。どうせご神託からは逃げられないと聞くし…」
そう言った時に僅かに歪んだ宮司の表情を、俯いていた弥音は気づかなかった。
最初に言ったすまない、の中に込められていたのが、実は自分の娘の身代わりにした事への謝罪である事など、わかる筈も無かった。
卑怯な謝罪だと、宮司自身もわかっている。だが、それでも娘が可愛い。せっかく整った縁談で、幼い頃からの想い人に嫁ぐあやめから、幸せな未来を奪いたくはない。その為になら他者を犠牲にする事も厭わない。神に仕える資格を失ってでも、あやめを守りたかった。
だが、嫌いなあやめの代わりに贄に仕立てられた哀れな弥音は、そんな宮司の胸中を知る由もなく、薄く笑みを浮かべるだけだった。
『ご神託なら仕方ない』
そう言って。
宮司の胸の中には罪悪感が渦巻くが、かといって今更何を覆す気も無いのだった。
2人の間に暫しの沈黙が流れた後、宮司が再び口を開いた。
「…今夜、」
その声に顔を上げる弥音。澄んだ左眼の視線の圧を受けながら、宮司は続ける。
「夕餉の膳を引き揚げた後、良寿郎様が此方へおいでになられる」
良寿郎の名を聞き、弥音の心臓が大きくとくんと鳴った。
ここ暫く顔を見ていない。今夜会うのが今生の別れになると知っていても、早く会いたいと思った。
性根が悪い癖に、何でも持っていて、終いには良寿郎さえ夫に得てしまうあやめが嫌いだった。
贄になる代わりに願いを聞くと言われて良寿郎の名を出したのは、そんなあやめに対する意趣返しのつもりだった。だが今では、それが自分の本心である事を知っている。
死を前にして、弥音は自分の感情が、日毎に薄皮が捲れるようにクリアになっていくのを感じていた。今更気持ちを誤魔化して何になるのか。全てを胸にしまい込んだまま逝くなんて馬鹿らしい。
どうせ死ぬなら、たった一度の想いくらい遂げさせてもらっても良いではないか。もし良寿郎が、男であゆら弥音の体を見て、どうしても弥音を抱けないと言うのならばそれはそれで良かった。
体の契りが駄目なら、抱きしめて寝てくれるだけでも良い。手を繋いで添い寝してくれるだけでも良い。それも駄目なら、一晩中昔話をして朝まで付き合ってくれるだけでも酔い。
弥音はとにかく、最後の時間を良寿郎と過ごしたかったのだ。彼を独占したかった。
閉じた瞼の裏に、優しく微笑む良寿郎の顔が浮かぶ。
「…はい」
弥音は宮司の言葉に頷いて、手をついて頭を下げた。宮司はあやめの父親だ。娘婿になる良寿郎に弥音の願いを通すのは、彼にとっても葛藤があった筈だった。
「良寿郎のあにさまにお話を通していただき、ありがとうございます。
明日は立派につとめを果たさせていただきます」
何の曇りも無い表情で、ただ素直に感謝の言葉を述べた弥音に、宮司は複雑な気持ちで頷いた。そしてそれからすぐに本殿へ戻って行き、弥音はまた、薄暗いお堂にひとりになった。
そしてその夜。
蝋燭の火を灯して待つ弥音の元に、良寿郎がやって来た。
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