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3 弥音3
しおりを挟むまた来ると言い、雪が降り出す前に帰っていく清太のずんぐりした後ろ姿を、弥音は家の戸口から見送った。
久々に自分以外に生きて動いている人間を見たなあとぼんやり思う。
父の幼馴染みである清太は、確かひと月ほど前に嫁と娘を含む一家で流行り病にかかったけれど、全員が少しの熱で済んだと聞いた。
この病は一度かかって回復してしまえばもうかからない。
つまり清太達のような回復組は、もう病を恐れずに動き回れるという事だ。その分、他の家に助けに入ったりもしていたのだろう。なら、何故もっと早く様子を見に来てくれなかったのだろうか…。
いけないと思っても、恨めしく思ってしまう気持ちが次から次へと湧いてくる。
もし、介抱してくれる誰かがいてくれたら、生き残れたのは弥音ひとりではなかったかもしれないのに、と。
でもそんなのは考えても詮無い事だ、と弥音はそのどろどろした考えを打ち消した。仕方のなかった事だ、誰も悪くなんかない。回復した者達だって、病み上がりの消耗した体で周りの者達を手助けするのに必死だったに違いないのに。弥音の家族の全員の症状が重くなったのは、本当に不幸な偶然でしかなかった。誰かの手が入っても、他の家族が助かったとは限らないのだ。
誰も悪くない。悪かったのは、運だけだ。
恨んでは駄目だ。人も、天も、運命も。
弥音はその夜、家族の遺体の無くなった家の中で、本当に初めてひとりで過ごした。
食欲などなかったが、体を回復させなければならない。何かしら食べるものを作らなければと考えて、家の表の薪小屋に薪を、傍の小屋に備蓄してある食糧を取りに出た。
七人家族だからと冬支度には毎年、それなりの量の薪や食糧の蓄えが必要だった。けれど今年は家族全員が病に倒れた為にそれが途中どまりになってしまった。それでも弥音一人がひと冬を過ごすのであれば、既に十分な量があった。
家の中に戻ると弥音は、まだ力のこもらない細い腕で囲炉裏に薪をくべて火を起こし、母が何時もしていたように鍋に野菜を煮ようと思った。野菜を切る手伝いはよくしていたけれど、煮炊きはした事は無かったから、煮立った鍋の縁で手に少しの火傷をしてしまった。
「…つっ…」
皮膚を焼く鉄鍋の縁の熱さに、杓子の柄を中に取り落としてしまった。弥音は縁の線がついて赤くなった左手首の内側を右手で押さえ、痛みに呻いた。
前なら怪我をしたら、誰かが駆け寄ってきてくれた。でも、もう弥音が痛くても辛くても、誰もいない。
上手くできない。母のようには上手くできない、何ひとつ。
「かぁ、さ…」
じんじんと脈打つような痛み。でもそれより胸が痛い。苦しい。小さな唇から掠れた呟きが漏れた。
母の優しい手も、父の大きな逞しい手も、兄のすらりとした手も、祖父母のしわくちゃだけれどあたたかな手も、妹の、小さく柔らかなもみじのような手も…
誰の手も、差し出されはしない。
親離れした動物のように、自分の傷は自分で舐めて治していかなければならない。
本当に、全てをうしなったのだと実感した。
「…死にてぇなあ…」
椀の中のあたたかい大根汁を一口だけ啜った後、ぽそりと呟いた。それでももう、涙は出てはこない。
いちどきに失ってしまったものが大き過ぎて、絶望する事にも草臥れてしまったからだ。
「同じに作ったと、思ったのにな…」
いつも見ていた、ほぼその通りに作ったと思ったのに、全然違う仕上がりになってしまったのは何故だろう。
けれどそんな事を考えても仕方ない。今はもう、過ぎ去ったあの日々の追憶を思いながら、ひとり味のしない汁を啜る。そして、どうにか冬を越し、春になって家族の弔いが済んだら後を追う。
それだけが弥音が冬を越す理由になった。
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