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16 異世界で初風邪 (逃桐)
しおりを挟む「なるほど…え、右端を?持ってきて…。」
タブレットを使っての検索の末、一番簡単そうなプレーンノットという結び方をクロゼットの横にある鏡の前で練習中。
ネクタイは祖父さんや父さんが式典なんかで結んでいるのは見た事がある。
でも俺達の世代ではあまり流行らないものだし、それが必要無いデザインのスーツが主流だ。
だから見た事はあっても一度も実践した事はなかった。簡易なものに慣れ過ぎている自覚はある。
「お、なかなか良いんじゃね?」
客観的に判定してくれる人間はいないが、自分で見る限りは良い出来な気が。
「…つーか、ネクタイだけ結べてもなあ…。」
俺はネクタイを解いてハンガーに掛け、傍のベッドに寝転がった。
…疲れた…。
なんか色々疲れた。
こっちの俺に成り代わって生きていくのも、結構大変そうだ。
日常生活で色んな部分が違い過ぎるし、頭が追いつかない。
さっきタブレットのアイコンを一つずつ確認していて見つけた地図アプリケーションで、リュックの中に入っていた封筒に記載された学校と住所を検索してみたから、大体の場所はわかった。
引き出しを全部開けてみて、銀行の通帳を見つけて確認したら、家賃や光熱費や諸々の引き落としはその銀行口座から引き落としになっている。
それとは別にもう一冊、通帳とカードがあったけれど、まぁそれなりに少しずつ金は貯めていたらしい。
この世界での貨幣価値が未だどのくらいなのかが把握できないけれど、…まあ本当にそれなりだ。
それにしても、この給料って、高いんだか安いんだか。
…この質素さからすると、高くはなさそうだよな。
それはそうと、こっちの俺って実家はどうなってんだろ?
親はちゃんと生きてんのかな。あっちでは俺は市内にある実家住まいだったけど、何でこっちの俺は一人でアパート住まいなんだろ。
この世界じゃ、実家は市内じゃないんだろうか。
もしかすると親父が、社会に出たら独立しろって感じのスパルタ主義になってたりするのかもしれん。
「…入れ替わったら、何とかなるって思ってたのになあ…。」
家族の事すらわからない。
わからない事が多過ぎて、ものの数時間で異世界疲れしてる。俺が望んで仕出かした事なのに。
自由の無い性奴隷人生より百倍マシなんだから頑張らないといけないのに、何でもうこんなに寂しいんだろ。
「さっき迄はラッキーだと思ってたのになぁ…。」
両親が居たって、見た目は同じでも俺を育てた両親じゃないんだよな。
友達だって、存在してる奴と、してない奴がいるだろう。
基本の出発点は同じでも、少しずつ分岐が違えばその違いはあらゆる部分に出ている筈だ。
決済方法が既に違うように。
あっちにやった"俺"も、きっと戸惑ってるんだろうなあ。
状況的にはマシになった筈の俺が、これだけ心細いのだ。あの覇気の無い大人しそうな"俺"なんか、もう泣いてるんじゃねえかな。
「…ごめんなぁ。」
初めて、はっきりと罪悪感を感じた。
皇子達に連れてかれて、俺の代わりに囲われてるなら物質面では不自由しないだろうけど、そういう事じゃ、ないもんな。
当たり前に生きてた世界が丸ごと変わるってのは、望んだ訳じゃない人間には受け入れ難いものの筈だ。
せめて、糞ガキ皇子があいつに優しくしてくれると良い。俺にしたみたいな酷い事は、しないでくれたら良い。
うとうとしながらそんな事を考えている内に、何時の間にか眠ってしまっていた。
何か音がする、と思って目を覚ました。頭が痛くて重い。
覚醒しきらない頭と目で、何処からの音なのかを見回すと、昨日は気づかなかったベッドのサイドボードに点滅をする長細い電子機器が。これ、電話だな。
似たようなもの、子どもの頃に見た事がある。
表示されているのは鷹が峰高等学校の文字と数字の羅列。
…出た方が良いのか。出るべきだよな、多分。
「…はい。」
取り敢えず受話器マークのボタンを押して出ると、中年の女性らしき声が聴こえてきた。
『おはようございます、桐原先生。上原ですが。』
「あ、おはようございます…。」
これ、職場だよな。
え、ちょっと待て。今って何時?げ、9時?!
『一向に出勤していらっしゃないし連絡も無いのでご連絡差し上げたんですが…どうかなさいましたか?』
しまった。そうか、仕事だよな。
いやでもどうしよ。
何だか体がだるい。
「すみません、昨晩から熱が出て、具合いが悪くて起きられなくて…。」
半分正直に言ってみた。
寝転がったまま何も掛けずに寝たからなのか、薄着でウロウロしていたのが祟ったのか、それとも傷が熱を持ったのか。
多分、全部だな。とにかく辛い。
声が異様に枯れてるのは、寝起きだけのものじゃない感じがする。
電話の向こうの相手は、あら~、と言って、誰かと何かボソボソ話している様子だった。
ややあって。
『桐原先生、取り敢えず今日はお休みになられて下さい。病院には行けそうですか?』
女性の声がそう告げてくる。
休めそうだな、良かった。
「いえ…ちょっとまだ動けそうには…。」
と答えると、ではとにかく今日は休んで、明日からの土日でしっかり治すようにと言われた。
週明けに改善しないようなら、また休みの連絡をして病院に行くなりしてくれと。
俺が返事をすると、あちらが最後にお大事に、と言って通話は切れた。
体は辛いけど、体調崩して助かったのかも。
全然何も知らないまま出勤しても不審がられるだけだろうし。
でもそれより、今は体を何とかしないと…。
手で額を触ってみると、やはり少し熱かった。
「…えーと、水か。水は冷蔵庫にあったよな。」
この部屋には薬とかってあるのか?あっても探す気力がねえわ。
俺はフラフラと冷蔵庫に向かい、水のボトルを出して、食器棚からコップを手に取った。
水を注いで少しずつ喉に流し込む。
けほっ、と咳が出て噎せた。
ベッドサイドに戻って、昨夜確認していた三段ボックスの真ん中の引き出しから部屋着らしき長袖のシャツを出して、のろのろと着替えた。
それからベッドに戻り、今度は畳まれていた2枚の毛布を広げて重ね、中に潜り込む。
体が疲れていて、苦しいのに直ぐに意識が落ちた。
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