俺はつがいに憎まれている

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「君と出会いさえしなければ、今頃は…」


いつものように溜息混じりで呟く男に、圭は無表情と無言で答えた。一緒になってからというもの、まるで自分だけが被害者であるような物言いを続ける男に、正直うんざりしている。最近ではその言葉を聞く度に、そんなのはお互い様だと叫び出し出したくなるくらいのストレスを感じている。
けれど、彼とは切り捨てたものの重さが違うのかもしれない、という気持ちが反論する口を噤ませていた。
それに、それを口にする事で諍いになり、今よりも更に居心地が悪くなるのが目に見えている。

よって、圭は今日もつがいである男の恨み言とも言える愚痴を聞き流すしかない。






三村圭(みむら けい)は半年前に番婚をしたオメガ男性である。
つがいとなった相手は矢崎衛(やざき まもる)というアルファ男性。2人の出会いは、出張帰りに新幹線を降りてコンコースを歩いていた時の事だった。

矢崎とは、まだ互いの姿を視界に認めてもいない内から、フェロモンを察知した。
その時の事を、圭は今でもはっきりと覚えている。それまでに嗅いだ事の無い、強烈で濃厚な香りが突然鼻腔を刺激して、油断しきっていた脳髄は何の防御も出来ないまま、麻痺寸前になってしまったからだ。
不意打ちに食らった強烈なアルファフェロモンは、圭のオメガとしての本能を激しく掻き乱した。

外的要因により、急激に擬似ヒートを起こしかけているのではないかと気づいた圭は、最寄りのトイレ…それも、たまたま赤ん坊を抱えた母子が出て来て空いたばかりの多目的トイレに駆け込んだ。常に携帯している抑制剤を追加服用する必要があると考えたからだ。アルファもオメガも、一旦乱されてしまったホルモンバランスを安定させるには、緊急に抑制剤を摂取しなければ、高確率でヒートと呼ばれる発情を起こしてしまう。オメガがヒート状態になれば、つられて周囲に要るアルファもヒートを誘発され、それが不幸な事故に繋がる事もある。

数多の利用客が行き交う場所で、そんな状態になる訳にはいかなかった。

圭はトイレの引き戸を荒々しく閉めようとした。早くロックを掛けて、抑制剤をださなければ。
だが、それは阻まれた。引き戸が閉まりきる前に、外から何者かに引手を掴んで止められたのだ。

そして、開かれたそこに立っていたのは―――…。

体中から濃厚なアルファフェロモンを漂わせながら、髪を乱し肩で息をしている、スーツ姿の矢崎だった。

「君…君は…私の…」

「ひっ」

腕を伸ばして来る矢崎に、圭は混乱した。

(またにおいが…強く…)

普段でも朝晩の抑制剤は欠かした事が無い。ヒート周期が近づけば、対応する特殊バースのパートナーを持たないオメガ用の、出来うる限りフェロモンの発散を抑制する成分を増やした抑制剤も常備している。
それは万が一の為だった。
圭の恋人である菱田 斗真はベータ男性であり、ヒート中にどれだけセックスしたとしても、オメガ独特の飢餓感を完全には癒せない。だが、恋人にベタ惚れである圭にとって、その程度の事は大した問題ではなかった。
斗真は特殊バースに理解があり、協力的だ。付き合って初めてのヒートの時は有休まで取り、付き合ってくれた。
普通のベータ男性の斗真が、ヒートを起こしたオメガの底なし沼のような要求に応えるのは体力的にもきつかっただろうに、彼は献身的に圭を抱いてくれたのだ。優しく、甘く、力強く。

自分の人生、斗真さえいればアルファなんか必要無い。貫かれて、体の芯に甘い痺れを感じる度、本気でそう思えた。
いつも困ったように眉を下げて笑う優しい笑顔が、圭の癒しだった。

実際、斗真を知ってからの圭は他のアルファ達に見向きもしなかった。多少フェロモンでモーションをかけられたって、涼しい顔でやり過ごせた。

自分には最愛の恋人がいる。どんなアルファが現れようと、彼だけは裏切らない。
そんな自信があった。
だが、念には念を入れるのも大事な事だ。だから圭も他のオメガ達に倣い、きちんと緊急抑制剤を常備・携帯するようにしていたのだ。

なのにまさか、突然こんな事が起きるなんて。
圭には信じられなかった。

伸びてきた矢崎の右腕は圭の首を捉え、引き寄せ、左腕は引き戸を閉めてロックを掛けた。その音に背中にひやりと冷たいものが走るのに、腰を抱かれるとそれに反応するように心拍数と体温が上がる。


「私は矢崎だ。矢崎 衛…」

自分を映す見る矢崎の目が熱を帯びて潤み、明らかに発情しているのを見て、圭はおかしいと思った。
おかしい。変だ。
だって圭のヒートはまだ1ヶ月は先の予定だった筈。今朝も抑制剤を服用したし、ついさっきこの男のフェロモンを感知するまでは体に変調もなかった。それなのに圭がフェロモンの発散をしたとは考えにくい。それに、抑制剤で故意に嗅覚も鈍らせている筈なのに、何故この男のフェロモンだけを強烈に嗅ぎ取ったのだろうか。

(まさか…)

今度は胸の中がひやりと冷えた。
その答えを知れば、引き返せないと予感がした。

「は、離して下さい…離せっ」

自分を囲う矢崎の腕から逃れようと腕をばたつかせるが、すぐに思ったより力が入らない事に気づく。
ほんの数十秒の間に、決して狭くはない多目的トイレの中が矢崎のフェロモンで充満していた。







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