メイクオフ後も愛してくれよ

Q.➽

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 暫くそうしていると、再びカツンカツンと足音がした。今度は複数っぽい。
 久賀はようやく唇を離したが、依人は酸欠を起こしたのかはあはあと肩を上下させている。

「…大丈夫?」

「……に、見える?」

 息を整えながら答える依人の額に、久賀は自分の額を付けた。

「会いたかったんだ」

 甘えたような掠れ声に依人の胸が高鳴る。

「俺、あの時傷つけたんだよな、よりの事。でも、多分よりが思ってる意味で笑ったんじゃないと思う。
それでも、傷つけた事は、ごめん」

「……」

「よりが隠したかった事だったんだろうに、って、後悔した。誰だって何かしらあるのにな、そんな事」

「…俺も、黙ってて…ごめん」

 本当に真摯に謝罪してくれているとわかって、依人もそう返した。笑われたのは傷ついたけど、笑った久賀が悪い訳じゃない。誰だって想定外に目にした出来事に、驚いたり泣いたり笑ったり、そんな事はよくある事だ。問題はその後だ。
 告白だけをした和泉は論外として、依人の素顔を見た男達は、久賀を除いた全てがわかり易く依人を拒絶した。謝ってなんてくれなかった。
 
 でも、久賀は違う。

 捜していたというのは本人申告だから本当なのかはわからないが、きちんと謝罪してくれている。だからと言って傷ついたあの時の依人の心がどうなるものでもないけれど、少なくとも今は少し、気持ちが解れたように感じた。

「…あ、時間…」

 久賀の腕の中に閉じ込められていて、また数分が過ぎてしまって依人は焦った。待ち合わせにはもう数分も無い。時間に正確な麻宮は既に待っているだろう。走っても遅刻だ。
 なのに久賀は離してくれる気は無いようだ。どうしよう、と困惑する。
 確かに、久賀が言うように、別れ話は依人からの一方的なLIMEの一言だけだった。しかも久賀の合意は得ていない。ならば久賀の言う通り、依人と久賀は別れておらず、現在進行形で恋人同士という事になるのだろうか?なら、麻宮は現カレではなく浮気相手…という事に…なるの、か?

 しかし既にフリーだという認識だったし、と依人は悩んだ。この場合、優先すべきはどちらなんだろうか。
 判断できかねて動きの止まった依人に業を煮やしたのか、久賀はまた依人に迫った。

「より。ホントにこれから会うソイツの事、好きなの?」

 問われて依人は視線を上げて久賀を見た。何故だか肯定の言葉が出てこない。

「どれくらい付き合ってるのか知らないけどさ、ホントに好きなら直ぐに選べるんじゃないのか?何で即答出来ないんだ?」

「…ちゃんと、好き…だと…」

「ちゃんとって何?」

 本当だ。ちゃんと、なんて、そんな義務みたいな『好き』に何の価値があるんだろう、と思う。実際は疑いだらけなのだ。薄々感じている。麻宮も他の元カレ達と同じように手のひらを返すんじゃないかと。何故なら麻宮もまた、彼らと同じように依人の見た目しか褒めない。

 今夜、麻宮との食事の後に行く予定のホテルで、メイクを落とした依人を見た彼は何を思うのか、どんな言葉を口にするのか。

 既に見えている気がしていた。

 また黙り込んで俯いた依人の耳元に、久賀は囁く。

「行っても良いよ。よりが、ソイツを信じたいくらい好きなら。
でも、絶対ソイツより俺の方が何億倍もよりの事を好きだと思うなぁ」

 ことり、と依人の中で何かが落ちる音がした。

 久賀は依人の顔をもう知っているのに、それでも依人を好きだと言う。あの頃よりも強い熱量で、捕まえた依人を逃がすまいとしてくれている。嘘でも嬉しい。それは依人がずっと求めていたものだ。
 
 でも…。

 依人の鞄の中から、スマホの着信音が小さく鳴り出した。迷っている間に待ち合わせの時間は過ぎている。
 依人は震える手で鞄からスマホを取り出した。当然ながら画面には麻宮の名が表示されていた。通話ボタンをタップする。

「…はい、平松です」

『依人さん?どうしました?もうとっくに時間過ぎてますよ』

 久賀は依人のスマホを優しく奪った。漏れ聞こえていた咎めるような麻宮のセリフに、依人の代わりに返事を返す。

「悪いな?よりはそっちにゃ行けねえよ」

『は?え?誰…』

「時間過ぎてるって、2分過ぎたくらいで電話してくるような器の小せえ奴によりは千年早えよ。悪いが諦めてくれ」

 遣り取りの感じで、未だ関係は浅い事が見てとれた。にも関わらず、自分を待たせるなと言わんばかりの様子に、違和感を持った。だから遠慮はしなかった。
 まあ、それはあくまで恋敵憎しの久賀の憶測に過ぎない部分もあったのだが、実際麻宮は相手を支配下に置こうとモラハラを繰り返して歴代の恋人達と別れていたから、恋する男の勘も捨てたものではない。
 容赦なくブチ切られたスマホを、依人は呆気に取られて見つめた。次に久賀の顔をしげしげと見つめた。

「…信じられない…」

「だってより、こいつより俺の方が好きって顔に書いてあるからいいかなって」

「適当な事言うなよ、もう」

 依人の顔は見る間に耳迄赤くなった。思わず両手で頬を覆う。
 そうだ。一方的に傷ついて、自分からあんな別れ方をしたのにも関わらず、依人は久賀を忘れられていない。初めての男だから、傷ついたから。でもそれ以上に、愛し愛された日々の、幸福な記憶が消せなかったから。
 久賀に刻まれた幸せが大き過ぎて深過ぎて、その後のどんな恋人も久賀の記憶を塗り替える事は出来なかった。まあ、人材にも恵まれなかったというのが正しいかもしれない。

 真っ赤になった依人に、分があると満足した久賀は依人の手を取り指を絡ませた。そして、反対側の手に依人の鞄を引き受けて言った。 

「より、行こ」

「え、何処に…」

「俺の部屋。より、今日誕生日だろ?飯作ってあげる。…あ、予約のケーキ取りに寄らなきゃだわ」

「…覚えてたのか」

「当たり前だろ、恋人の誕生日だぞ。祝う直前にトンズラされたから、一昨年も去年もよりの顔貼ったニッキーにケーキ供えてハピバ歌ったわ」

「に、ニッキーに?」

 ニッキーとは、恐らく付き合っている間にデートで行った、某テーマパークで買ったマスコットキャラクターのぬいぐるみだ。それに、依人の顔を貼ったとは一体…。

「一緒に撮った画像引き伸ばして顔に被せたんだよ」

「嘘だろ…」

「だって、寂しくて」

 久賀は指を絡ませた依人の手を引きながら、にっと笑う。部屋に連れて行く事に躊躇が無いのは、久賀には他に誰も居ないからだと思って良いのだろうか、と依人は思ったが、そう言えば久賀の中では交際継続中だったのだった、と思い出した。

 まさか久賀がそんなに一途でいてくれたなんて思いもよらなかったから、依人は何度か他の男に体を許してしまっていたのだが。
 半年前に別れた男なんて顔を見せたら嫌な顔をされたものの、直ぐに電気を消されて有無を言わせずセックスされて、終わってから『やっぱ無理かも』と言ったのだ。
 だから寝る前に申告したのに、と依人は脱力したが、取り敢えずそんな下衆とはそのまま別れる事が出来たから勉強代だと諦めたのだ。今回の麻宮も、そうなる可能性が無くもなかったように思う。

 手を引かれながら階段を降り、地下の食品売り場迄降りた。幾つものケーキショップのテナントの並ぶエリアで、有名パティシエが手掛けた店で予約していたというケーキを受け取った。それから近隣のコインパーキングに停めてある車に案内され、乗り込んだ。久賀は車を購入していたのか。しかも、社会人になりたての若い男には、ちょっと値の張る車種だったので依人は少し心配になった。
 車がパーキングを出て走り出した時、そう言えばこのままこの道を行くと途中に麻宮との待ち合わせ場所があるよなと気づいた。案の定、麻宮は未だそこにいて、スマホを耳にあてながら苛立ったように周囲を見回していた。依人が左手に握りしめているスマホからは着信音が流れている。掛けているのは多分、麻宮だ。
 幸いな事に、彼が立っているのは車道を挟んだ向こうの通りだった為、依人の乗った車には全く気づいてはいなかった。




 久賀のマンションは以前の場所と同じまま、変わっていなかった。

「お邪魔します…」

「ハイドーゾ」

 2年振りに入った部屋の中の配置は、幾つか買い足されている物はあったが殆どが最後に見たあの日のままだった。壁掛けの大きめのコルクボードには、2人で撮った写真が何枚も。

 どうやら久賀は本当にこの2年、一人でいたようだ。誰かを連れ込むなら、こんな写真を飾っておくとは思えない。

 懐かしさについキョロキョロしながら鞄を下に置くと、後ろから柔らかく抱きしめられた。

「おかえり。やっと戻って来たな」

「…そうなるのかな?ただいま」

 このただいま、は久賀の部屋にというより、久賀の腕の中にという意味だろうと依人は解釈した。

「より、顔、化粧落として見せてくれない?」

「えっ、急に?」

「頼むよ」

 着いた早々?しかも何故またスッピンを?と戸惑ったが、どうせ一度見られている。依人は大人しくクレンジングシートを取り出して洗面所に向かった。瞼を軽く押すようにして拭い、洗面台に置いてあった久賀の洗顔料を拝借して出来るだけ泡立ててから顔を洗った。普通の洗顔料で落とせるのがあのBBクリームの良い所だ。
 今日は顔と情緒が忙しい日だな、と思いながら、依人は顔を念入りに濯いだ。

 全てをすっかり落としてしまうと、依人は久賀の居る部屋に戻って鞄の中のポーチを取り出した。小さな容器の化粧水を手のひらに出して擦り合わせ、頬や額を押さえるように浸透させる。

「ふう…」

 一息ついたけれど、久賀の反応が怖かった。
 ポーチをしまいながらちらりと横目で見ると、久賀は何故かキラキラした目で依人を見ていた。




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