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第二章、ありふれた奇跡
三、柿の落つまで
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まだ日の昇らぬ、青ざめた空。
薄暗い闇の中で腕を広げ、長いこと凝り固まっていた筋肉をほぐす。否、それは腕ではなかった。体が覚えているに任せ、大きく空を掻く。
風を切って大地を離れ、上昇してゆく。まるで海を泳ぐようだ。まだ入道雲もない空が視界に満ち、ぐんぐんと薄雲が近づき、手が届きそうになる。やがて雲だったもやを抜け、眼下に雲海が広がった。それは、遠き日に村はずれの断崖から臨んだ蒼海よりもはるかに雄大で、そしてただ静かにたゆたっていた。
黄金色の朝陽が昇る。緑銅色の鱗の色を、長い月日の間にもう輝かなくなったそれをようやく知った。そして何より、朝陽を掲げる雲の海が、ただただ美しかった。忙しなく羽ばたくのをやめ、滑空する。びゅうびゅうと裂けゆく風が心地よかった。空はこんなにも広く、そして外はこれほどまでに変わらず壮麗であってくれたのか。
もう長らく忘れていた。自分が何者であったのか。そう、自分はこうあるべきだったに違いない。我が血潮が造る、我が体躯は――
落っこっちまう!
遮二無二、振るった腕は何かぐにゃりとしたものを強く打った。
気が付いてみると、そこは大空ではなくあたしの寝所で、それは翼ではなくあたしの腕で、打ち付けたのはあいつの鼻づらだった。
寝ぼけてしまったと気づいた頃合いに、太い指が億劫そうに腕をそっとのかした。外はまだ暗く、空は暗い水色だった。
「……ひどい寝相だね」
「あんたも相当だよ。おはよう、悪かったね」
隼一に目をやると、うとうととまだまどろんでいた。ふにゃふにゃな声がかすかにおやすみ、と返したきり、もう寝息しか聞こえなくなってしまう。
妙な夢を見たな、と頭の中の霧に惑わされながら思った。しかし、次には霧が晴れた。竜の夢――ふと急に、虫が何かを知らせているのでは、と不安になったのだ。そうなると気が立って、あいつのように寝直す気にもなれず、ひとり階下へ足を運ぶ。
ぎいぎいと耳障りな虫の音。畳を踏むと、ちゃぶ台の上に食べっぱなしの食器が並んでいるのに気づいた。ああ昨日も飯を食った後、あいつを食い散らかしちまったんだっけ。寝ぼけたあたしはそのままぼんやりと食器を重ねはじめ、次の瞬間、自分はこんなことをしに起きだしたわけではないことを思い出す。
赤く染まり始めた空は、山の天辺に霧をまとうのみで、雲ひとつない。当然、竜なんて浮かんでいやしない。頭の中が澄み渡るにつれ、考えが改まった。あれはおふくろの契約に縛られていて、出てくることはないはずだ。しかしもし、夢のようにどこかへ飛び去ってしまったとして、どんな問題が起こるだろうか。ここの土地は元々痩せていたと聞く。もう既に長い時間、あれの加護を受けているが、十分と言えるだろうか。食器を浸す水に触れ、その冷たさが現実を考えさせる。土地がやせて田畑が立ち行かなくなる、という可能性はありうるだろう。それに、あれを見守るのが遺されたあたしの責務だ。あれが一足飛びに地中から空へ高飛びする、ということ自体考えにくいけれど、一度調べに行った方がいいだろう。考えをまとめ、顔を上げた。
朝焼けは見事だった。まだまだ日中は暑いが、朝は涼しいものだ。もう日暮の声も聞かなくなった。考えに区切りをつけたところで、そういえばここのところずっと体にあった、月の火照りがなくなっていることに気づいた。早い。いつもならばたっぷり一週間は狂っていたはずだ。今回は何日だったか。思い出そうとするとけむに撒かれてしまう。けれど肌を重ねた夜を指折り数えてみれば――あいつと契りを交わしたのは、三日前だろう。
――思い出してしまうと、顔から火が出そうになる。
なんだったんだ、あの歯が浮くような台詞は。普段のあたしが口走れることじゃなかった。あれから昨晩までずっと、目が覚める度におねだりして、何度交わったのだろう。今となってはもう分からない。けれどそれが激しかったらしいことは、股間のひりつく痛みからも知れた。
ほう、と息を吐き、手のひらから雫を振り払う。
あんなに幸せな心地になれたのは、生まれて初めてだった。今でも思い出すと、胸の奥がじんわりと熱を持つ。決して悪くはなかった。それが、あたしの気持ちが本物なのだと、そっと背を押す。
それでも、けだもののように貪るとは、しょうがないやつだ。太ももや背中など、普段は気にもかけないところの筋肉が悲鳴を上げている。我がことながら苦笑いしてしまう。もう何日も、家事も畑も何にもせずに日を空けすぎた。すぐは身体がおっつかなくても、少しずつやらねば仕事はたまる一方だ。まずは朝飯でもこしらえようと納屋に入る。
仰天した。どっさりと収穫した覚えのない野菜がある上、籾の袋まである。思い起こせば、村の稲刈りまわりの寄り合いも始まっているのではないか。ぺち、と己の額を打つ。あたしが盛りの熱にやられている間、あいつがいろいろとこなしてくれていたんだろう。下男になれと言って連れ込んだものの、まさかここまでやってくれるとは。後で礼を言わなければ、と肝に銘じつつ、玉ねぎと白米を少し抱えて戻る。
裏口から台所に入ると、縁側に見慣れた白毛が座っていた。紙巻をくわえ、マッチを擦って煙を昇らせる。その臭いすら愛おしくなっている自分に気づき、ひとり照れ隠しににやけた。そして悪戯心がさせるまま、忍び足で背後に回り、その背に抱き付いた。
「わわっ、と。おはよう。誰かと思ったよ」
煙と同じく甘味とこくのある声に、何かたまらない気持ちになって首筋に手を回す。肩に顎を乗せ、挨拶を返した。
「座敷童とでも思ったかい」
「ははは、君みたく大柄なのはでいだらぼっちでしょ」
「なんだと、こいつ!」
笑いながら、ぐい、とヒゲを引っ張ってやると、たまらず隼一は降参する。二人して笑って、これが幸せなんだな、と噛みしめる。朝焼けに雲は真っ赤に燃え上がり、遠くで逝きそびれた日暮が鳴いていた。
ふとした拍子に、心の隅でちょっとした“もし”が声を上げ、遠い手の届かない過去が想起される。
「あたしの背が他の仔くらいだったら、もっとおしとやかな仔になったのかな」奴の手がそっとあたしの腕をなでた。
「もしそうだったら、あの炭坑で別れて、二度と会うことはなかったかもしれないよ」
奴の瞳が、あたしを温かく見ていた。思わず胸の内から“もし”が吐息となって飛び出し、顔がほころんだ。「そうかい」
「うん。まあ、君の情熱的なところに惹かれた節もあるんだけどさ。まさかここまでとは思いもしなかったよ」
言外にいつのことを言っているか悟り、急に恥ずかしくなった。耳がひた、と寝てしまい、上目遣いで謝る。
「――その、悪かったよ。いきなり、あんなふうに、さ」
「ううん。お互い、あれ以上まどろっこしくしていたら、傷つきあうばかりだったでしょ。ぼくは、嬉しかったよ」
あたしの口の中の言葉を遮り、まるで気にしていないというように和やかに言った。その裏表のない笑みに、あたしの笑顔が引き出される。喜びが行き場を失い、きつく、きつく抱きしめることしかできなかった。
「きみ、かわったね」
「そうかな。前のほうがよかったかい」
「今の方が、きっと愛らしいよ。ぼくは、好きだな」
「ううう……あんた、いつの間にあの優男みたいになったんだい」
「ぼくの方は前のがよかったかな」
くすりと冗談めかして言う様に耐えきれず、ぷい、とそっぽを向いた。なだめすかすように謝られ、甘えるように拗ねたふりをした。
そういえば、と思い出し、村の仕事を代わりにやってくれたお礼を伝えた。「すまないね、あたしがうつつを抜かしている間にさ」
そう口にし、唐突にあることに気づいて気恥ずかしくなった。
「あんたと深い仲になっちまってるの、もう知れ渡ってるかねえ」
あたしの代わりに稲刈りや脱穀に出るくらいだ、もうめおとと思われてるかもしれない。
「いまさらだね。ぼくの友達もどう言いふらしてることやら」
「金物屋の喜三郎かい」
あいつならやりかねないな、と息を吐く。自分の目が据わっていそうだと気づいたので、慌てて別の話題を振る。
「もうしばらくは起きてこないかと思ってたよ。寝直しそうな雰囲気だったじゃないか」
「ああ、ぼくもそうしようとしてたんだけどね。朝一の汽車に乗らなきゃいけないことを思い出してさ」
「何だって!」
ぎょっとし、思わず飛びのいて奴の顔をまじまじと見る。
「きみ、今朝はしゃっきりしてるね。いや、何度かは伝えたつもりだったけど、やっぱり分かってなかったみたいだね。
実はね、こっちに任地を移動するにあたって、どうしても一度、帝都に戻らなくっちゃいけなくなってさ。長いと一ヶ月は戻って来れないかもしれない」
頭から何かが抜けていくような気がして、うつむいてしまう。あたしの下を離れて行って、帰ってこなかった男たちを思い出してしまったからだ。今回のそれとは全然違うはずなのに、何と言ったものか言葉が見つけられない。
あたしの当惑を見て取ったのか、彼はあたしの横に来て、肩をそっと抱いた。
「大丈夫、必ず戻って来るよ。そうだ、あれを置いていくよ」
そう言って彼が指さしたのは、部屋の隅に立てかけられた刀だ。立派な漆塗りの鞘に収まった、真新しい赤い柄糸と下げ緒の太刀。
「あれは親父の形見でね。ぼくの財産らしい財産といえばあれくらいなんだ。どうだい」
努めて笑おうとして、笑っているように口元を隠した。
「あんたが帰ってこなかったら、質に入れて食ってきゃいいわけかい。なるほど、悪い話じゃないさね」
「それは困るけど、ね」
そう苦笑いしてから、彼はいつもの温かくやさしい瞳で、あたしに微笑みかけた。気づいた。
「疑って悪かったね」
ばつが悪く、笑ってごまかそうとした。彼も笑ってくれた。
彼が荷造りをしている間に鯵を焼いて食わせ、余った時間で握り飯の弁当を持たせた。そして隣村のバス停まで送るつもりが、別れづらくなり、一緒にバスに乗り込んでしまった。
彼はあたしの見送りを無垢に喜んでくれ、自分の話をしてくれた。あの優男、大橋英治は今でもつながりのある唯一の友人で、幼馴染であるという。郷里を一緒に飛び出し、大志を抱いて帝都で軍人になったのだとか。
「昔は郷里に帰って所帯を持つということも考えていたけれど、やっぱりもっと早くに所帯を持つべきだったかもしれないね」
そう語る彼の顔は、あたしの顔ばかり見ている。気恥ずかしくなり、思わず顔をそむけてしまう。それにしても、彼の初恋の人はまだ故郷にいるのか。早とちりしていたけど、それならなおのこと嬉しくはある。彼は、あたしを選んでくれたのだ。
お返しに、あたしも自分の話をすることにした。おふくろがこの村のために犠牲になってくれたおかげで、この村で生活できていること。親父は戦争で身体を悪くしていて、十の時に亡くなったこと。昔から乱暴者で毛色もみなと違ったから、友達らしく付きあえた奴といえば華子と、後は一人いたかいないか、ということ。
だから、あたしと本当に籍を入れるつもりなら、お前も村八分になるかもしれない――ということ。
彼は熱心に聞いてくれていたが、最後の段になって首を傾げる。
「きみって、そこまで嫌われていたのかい。村一人の召霊術師だろ、もっと敬われているんじゃないかい」
「どうだか。あたしは爪弾き者だからね」
「そりゃあ、きみの気持ちの持ちようじゃないかな。きみが気難しいのは否定しないけど、ちょっと愛想よくすれば全然違ってくると思うんだけど」
愛想よく。少し前にも考えたことで、どきりとした。
「華子みたいににこにこ話せたら、ちょっとはみんな、あたしも村の一人として扱ってくれるのかな」
「ぼくはそう思うよ。きみ、根はとてもやさしい人だし」
他人に言われると、なんだかそんな気がしてくる。わずかばかり気持ちが軽くなった。それはそうと、奴の手をぎゅうときつく締めあげる。小さな悲鳴が出たところで、手を放す。
「気難しいとはなんだい」
「いや、はは……」
そして我に返り、またやっちまった、と小声で謝る。本当は分かっていたけれど、向きあうのは難しい。
そうこうしているうちに乗合バスは駅に着き、別れの時は近づいてくる。
一緒に構内に入り、長椅子で汽車を待つ時間は、ただ気もそぞろに奴の様子をうかがうことしかできなかった。
やがて汽車が滑り込んでくると、突然、彼はあたしの手を取った。
「そんなに不安なら、ぼくと一緒に帝都で暮らすかい」
子供に言い聞かせるように、見下ろして言う彼の表情は柔和で、そのさがを表しているようだった。
上気してしまい、口をぱくつかせ、ようやく言葉が出た。
「うん、って言ったらどうする気なんだい」
「その時は仕方ないね。上に頭を下げるよ。譴責処分か、ひどければ降等かもしれないけど」
そんなことはどうでもいいさ、と彼の目は言っていた。
「――馬鹿だね。そんなことをして、生活が立ち行かなくなったらどうする気だい。ほら、行った行った」
わざと邪険に追い払おうとした。けれど、真意はきっと筒抜けだっただろう。彼は帽子を脱いで、あたしの頭に乗せた。
「柿が熟す頃には帰ってくるよ。それまで、待っていてほしい」
彼の鳥打帽を胸に抱き、頷いた。口と鼻の中で変な味がした。
汽車がトンネルに呑みこまれ、見えなくなるまで手を振った。彼が帰ってこないなんてことはない、そう信じることはできても、どうしても胸が痛んだ。
ふらふらと駅前をうろつく。元に戻っただけのはずなのに、腕の一本でも持っていかれたかのような喪失感があった。次のバスまでは三時間。今日は歩いて帰る気もせず、かといって商店街を物色するような気もない。活気に満ちた通りの長椅子に腰かけ、さてどうしたものか、と空を見上げる。
空には薄くて丸い雲たちが、千々に空に満ちていた。鱗雲ともいうが、その大きさは見たこともない羊を連想させる。いっそ空の羊でも数えて昼寝してしまおうか、などと考えていた、その時だった。
「ねえ、あんた」
低く据えられているが、あたしほどは低くない声。ぼんやりとした表情で顔を上げると、茶虎の猫人がまあるい目で覗き込んでいた。
「ああ、やっぱり! 久しぶりね、早速知り合いに会えて助かるわ」
はて、猫人の知り合いなんていただろうか。一瞬、不愛想に頬を撫で、次の瞬間には立ち上がっていた。
「ひょっとして、向かいの露子かい!」
「さては忘れてたね。まあいいか、思ってたより元気そうじゃない」
思い出した。露子は、あたしの家から一番近い来栖家の長女で、尋常小学校の頃はよく華子と一緒に遊んでいた。小学校を卒業してから姿が見えなくなって、それっきりだったっけ。あの頃は親父が亡くなって友達も進学していなくなり、周りを鑑みる余裕などなかったから、気づきもしなかった。
「華子から聞いたよ、ずっと塞ぎ込んでるって。事情は知らないけど、酒でも飲んでぱーっと忘れなよ!」
「塞ぎ込んでるって、いつの話だい」
そう苦笑すると、きょとんとした顔で彼女はひげを開く。
「あれ、何だ、もう大丈夫なのかい。もう十年くらい暗ーく暮らしてるって聞いてたんだけど」
「ううーん、そうだったかもしれないねえ。そういうあんたも、今までどこで何してたのさ」
「お、聞きたいかい。そいじゃ、立ち話も何だし、その辺の喫茶でも入ろうよ」
「きっさ、って高い金で茶を飲ませる店かい。そんなのこの辺りにゃあるわけないさね」
そう返すと、彼女は出鼻を挫かれた顔でどっかと長椅子に腰かけた。
「あーそうかあ、ここはそんなだったなあ」
「バス、あと三時間は来ないよ。歩いて帰っかい」
「そうさなあ。話は道すがらでもできるし、そうしようか」
この夏は、古い知り合いや新しいのとよく出会う。そんなことを考えながら、露子と並び歩いて野道を行く。もう夏も終わりに差し掛かっていて、蝉の声など思い出したように聞かれるばかりだ。代わりに草の中の松虫などが鳴く声が聞こえてくる。それでも昇った太陽が、夏を忘れさせまいと厳しく照り付ける。
上品に化粧をした露子は、色とりどりのクロッシェを被り、丈の長いスカートをひらひらとさせていた。華子もずいぶん垢抜けたと思っていたが、彼女を見ていると自分が恥ずかしくなる。
彼女があっけらかんと語るには、小学校を卒業してからは関東の方で出稼ぎをしていたらしい。最初の半年こそ真面目に製糸場で働いていたようだが、長続きせずに帝都でカフェーの女給を転々としていたらしい。カフェーというと、男とべったりさせるいかがわしい店も少なからず聞く。
「そんな仕事で稼いだ金だって知ったら、親も許さないんじゃないかい」
「何をいまさら。もうとっくに絶縁されてるよ。おかげで仕送りせずによくなって、せいせいしてるさ」
思わずぎょっとするが、当の本人はけらけら笑っている。
「あんな楽しい仕事があるんだ、都会はいいぞお。男と遊んで金が貰えるんだよ。あんたも男受けする顔してんだから、やってみりゃいいのに」
乾いた笑いが返事でもなく出た。
「男をとっかえひっかえ、か。あたしにそんな火遊びできっかなあ」
独り言のような言葉に、彼女はあはは、と目を逸らす。
「冗談よ。あんたって竹を割ったような感じの割に、昔から色恋沙汰は下手くそだったよねえ。見ていてひやひやした覚えがあるわ」
彼女が縞柄の尾を持ちあげつつ語る言葉。それをどこかで聞いたように感じた。
「それで、あんたはどう。男でもできた顔してるけど」
えっ、と高い声が出た。足は気づくと止まっていて、鎌をかけられたと気づいた時には遅かった。
「あら、あんたが。無理に男作ろうとして、傷ついてた仔とは思えないねえ。聞かせてよ」
そうしてあたしは、請われるがままに恋愛相談をする羽目になった。恥ずかしい部分は伏せ、「大人しい軍人と恋仲になり、今まさに送ってきたところだ」ということを話すと、露子はにやにやと嬉しそうに笑う。
「へーえ、あんたの良さが分かる男がいたんだ。そりゃあ運が良かったね。そいつが帰ってきたなら本物さ」
「縁起でもないこと言うんじゃないよ!」
そう口をとがらせてから、自分が勘違いしていることに気づいた。
「帰ってこないとしたら、死んじまってるってか。あんた、経験少ないんだから騙されないようにね。兵隊さんじゃなくて将校様なんだろ。本当に婿入り同然にこんな田舎に来てくれるのかねえ」
考えもしなかったことだった。あいつとあたしとの関係は遊びで、口ではいいように言っておいて、帰ってこない――そうなるかもしれないことなんて、さっぱり頭になかった。
けれども、考えてみたところで、そこまで不安にはならなかった。
「あいつは、命があれば帰って来るさね。もし、帰ってこなかったとしても――生きてりゃいいよ。そんときはあたしも帝都に出てって、槍突きつけてふんじばってでも連れて帰るさ」
あいつはあたしのものだし、あたしはあいつのものだから。
露子はまぶしいものでも見たように目を細め、何か言おうとして、口を結んだ。代わりに、憧憬を感じさせる語気が立ち現れる。
「その時はうちも呼んでよ。帝都なら庭みたいなもんだからさ」
しばし、互いに笑いあった。彼女の目に温かみが灯るのを見て、遠い日々の感触を覚える。ふたつかみっつ、年上の彼女。子供の頃にはその小さな年の差がとても大きくて、姉のようだった。露子の瞳は鏡だ。そこに映るあたしは、妹だった。
「あんたはどうなんだい。こんな景気いい時期に帰ってきて、とうとう嫁に行く気になったのかい」
「冗談お言いよ。嫁になんか行ったら、三年で飽きちまうよ。どんなに激しい恋をしたって、結婚しちまったらすぐ冷めちまうものさ」
どきっとして、無意識に彼女の顔を見てしまう。笑っていた彼女は無表情になり、どうしたの、とたずねてくる。
あたしの愛もいつか冷めてしまうのだろうか。夢から覚めるように、いずれどちらかの気持ちが薄らいでしまうのだろうか。脳裏をかすめるそんな不安を、あたしは噛み殺した。「何でもないよ」
「そう、ならいいんだけど。
実はね、ここにでっかい軍の製鉄所ができる、って話を陸軍のお偉いさんから聞いてね。そういうことなら何かしら仕事もあるだろうって、ほとぼり冷ましも兼ねて帰ってきたのさ」
「その話って、ここの炭坑が閉鎖される前の、えらい昔の話じゃないのかい」
「詳しくは知らないけど、最近の話だよ。ま、ガセだったら冬になる前にまた出てくさ。それまで軒借りてもいいかな。うちんち、きっと敷居またがせてくれないだろうしさあ」
「うちのが帰って来るまでだったらね。その後は仲の良かった男連中にでも声かければ」
「あの狭い村でそれはちょっと、ねえ。そいや、あの呑兵衛はどうしてる」
「呑兵衛って、喜三郎かい。帝都で工廠の技師やってるって話だよ。最近、休み取って帰ってきてたんだけど、まだいるかねえ」
「ふうん。キサブの奴、相も変わらず酒だけが楽しみなんだろうね。まったく、冴えないくせに一丁前に帝都で働きやがって。もう所帯は持ってるんだろうね」
「あの男が、かい。んなわけあるかい。ありゃ女っ気のある男の振る舞いじゃないよ。気ままにふらふらしてんじゃないかい」
「そっかあ。まあ、冴えない男だしねえ」
彼女の顔が安堵に緩んだ気がした。あるいは、不満に膨れたような気も。その顔を見て、違和感を覚えた。
「あんた。なんであれが呑兵衛だって知ってるんだい。村を出てったのは十かそこらの時だったんじゃないのかい」
目が泳ぐのを見て、ふと、思考が短絡する。
「ひょっとして、喜三郎のことが気がかりなのかい」
そうたずねてみると、彼女は鼻で笑う。
「よしてよ。あんなうだつの上がらない男。あんたの将校様とは違うのさ。それに――一度振った相手を拾うほど、こちとら困っちゃいないしさあ」
「あれ、あいつ、あんたに声かけたことあるんだ」
意外に思えて声を高くすると、彼女の顔がにわかに遠くを見る。
「小学校の卒業式の後さ。色々理由はあったけど、まあ、親父の言いつけで村を出なきゃいけなかったしね」
おくびにも出さなかったが、何か隠していると感じた。けれど、それはあたしも同じだったし、深くは追及したくなかった。
「そうかい。まあ、人手が増えてありがたいさね。まだ村の稲刈りは残ってるし、脱穀なんてみんな手つかずだろうしね」
ぎょっとする露子の背を叩き、タダ飯食えると思うなよ、と笑う。これがあるから田舎は、とうんざりした顔をする彼女だったが、どこか郷愁を匂わせる目だった。
西の古道の門を開け、地上に脱する頃には、日が傾いていた。
大きく深呼吸し、伸びひとつ。水筒を傾けたが、猪口ひとつ分くらいの水しか出てこなかった。不満の息を吐き、近くの切株に腰かける。日の昇る時分から出張ってきたが、結果は芳しくなかった。どうしたものか、と肘をつく。
「はあはあ……。よかった、ちょうどだよ」
林の向こうから、猫人が走って来る。うちの新しい居候だ。息を切らせて駆けてくるとは、一体何があったのだろう。
しばし息を整えてから、露子は口を開いた。
「急に村長さんがさ、寄り合いを開くって。特に勝子、あんたには必ず出て貰いたいって言ってたから、慌てて来たんだよ」
「あたしに、かい」嫌な予感がした。けれども、名指しされて出ないわけにもいかない。彼女に礼を言って、早足で集会所へ向かう。
集会所に近づくと、それだけで人のざわめきが聞こえ、かなりの人がいることが分かった。あたしが中をのぞき込むと、既にほとんどの家から家主が出てきていた。入りづらく感じたが、露子に背中を叩かれ、渋々滑り込む。すると、奥の真ん中に座す年老いた犬人が手招きする。やはりか、と気が進まないまま、村長の右手に置かれた座布団に座り込む。ぎこちなく正座をして床板の目を見つめていると、頭数を数えていたらしい村長が、揃っとるな、と口火を切る。しわがれた声に、若い衆の雑談がにわかに静まり返る。
「突然、集まって貰ってすまなんだ。何せ、話が急でな」
村長もやや取り乱しているようで、懐から封筒を取り落しかける。一呼吸置いてから、続ける。
「単刀直入に言うとな、国が西の古道を買い上げたい、と言ってきおった。あこから採れる炭を使って、製鉄所を造るつもりらしい」
あいつの言っていた通りか。途端に集まっていた村人たちは、口々に騒ぎ始める。
竜がいるのではないか、噂は本当だったのか、なぜ今になって。
村長がすっと手を上げると、水を打ったように静まり返る。
「言いたいことは、よおう分かる。じゃが、わしらにゃ神事はとんと分からん。餅は餅屋、術師に意見を聞きとうてな」
村長の細い目が、あたしを見る。唾を飲み込んだ。
「閉山になってはや二十年余り。あれがお国の役に立てるのなら、みなの生活も潤う。しかし、ついこの間にも夜刀ノ神様が目覚めたんじゃろ。どうじゃろうか」
口をきゅっ、と結んだ。手を握りしめる。ありのままを話すしかないのだろうか。顔を上げると、村のみんながあたしを見ている。血の気が引く音が聞こえたが、その中に露子の顔を見つけ、真剣な眼差しに励まされている気がした。そうだ、もうあたしはひとりじゃないんだ。もうこうなったら、全て打ち明けるしかない。
最初の声は、枯れてろくに聞こえなかっただろう。半日埃っぽい炭坑を歩き回ったせいで痛む喉をおして、分かったことを話した。
昨日、竜の飛び去る気配を感じたこと。半日かけて古道の最奥まで行ってみたが、やはり夜刀ノ神の姿はなく、おふくろの施した封印は破かれていたこと。
この土地に流れていた夜刀ノ神の霊脈はじきに途絶え、少なくともこれまでのように二期作はできないこと。竜のいた期間が二十年と短く、このままではこの土地が元の痩せた土地に戻ってしまうかもしれないこと。
――そして、最後に。
「みな、本当に、すまない。おふくろの跡目を継いでこの土地を守ることだけが、あたしと片端の親父を養ってくれた、この村へできる唯一の恩返しだったのに。それすらもできずに、あたしは――」
節くれだった手が肩を叩く。顔を上げると、首を振る村長がいた。
「お前さんは知らんかもしれんな。ありゃあ土地を肥えさせる神でもなんでもねえ。ただの祟り神じゃ。あれを追っ払ってくれるよう流れの術師に頼んだが、あれも自ら出てゆけんようじゃった。結局、その術師との約束で、あれはこの土地を肥やし、眠ってくれることになった……その術師の命と引き換えにな。
――あれがいなくなる分にゃあ、わしらは困りゃあせん。元より田が貧しいのは承知の上じゃ。お前さんがちっこい頃はともかく、お前さんはもうそこらの男衆と変わらんほど稲を刈るし、術で何人も病を治してきたじゃろうが。
お前さんはもう養のうてもらう側やない、立派にやっとる」
じゃろう、と村長が声を投げかけると、多くの顔が頷いた。「せがれを助けてもろうたの、忘れとらんぞ」そう励ます声も聞こえた。自分が泣き出しそうになっていたのに今さら気づいて、慌てて羽織の裾で涙をふいた。
「みんな、おおきに」
そうぽろりと口にすると、村のみなは困ったように笑うか、珍しいものを見たように笑うかだった。子供の頃の自分をみんな知っているからだと気付いて、気恥ずかしい気持ちになる。
変わってはいなかったのだ。変わってしまったのは、恥を知ったのは――あたしだったのだ。
「とかく、あれが飛んでってしもうたなら、それはそれでええ。当分、炭は掘れそうなんやな」
首肯する。夜刀ノ神がなぜ、どうしていなくなったのかは分からないけれど、きっと帰ってくることはない。村長さんの話もあるが、何より、あたしとあれとの間にある、何か言葉にできないつながりがそう告げていた。村長はあたしの言葉に満足したようで、顔を綻ばせる。
「そりゃあ何よりじゃ。開山した頃はここも活気立つと、みな喜んでおったのに、ほんの一月二月で閉山じゃ。あの時のみなの落ち込みようといったらなあ」
西の古道を官営炭山にしてもらうという話は、ほぼ話し合うこともなくみんな賛成だった。あたしよりも少し年のいった人はみな、あの時あったらしい好景気を覚えているからだろう。その話の続きを村長が語るには、炭山の近くに製鉄所を建て、陸軍工廠として運営する計画らしい。
「詳しくは、工廠長として赴任して来はる将校さん次第やな」
そして村長が返事しておくと総括し、各自解散となった。あんなに身構えていたのに、こんな結果に終わるとは思ってもみなかった。同年代の連中が去り際に「あねさん変わったね」とからかってくる。「男ができたからだろ」とも。
「はっ、あんたらと違っていい男さ」
挑発し返すようにそう言ってやると、「あねさんはそうでなくちゃな」と嬉しそうだ。「早速尻に敷いて逃げられんなよ」と要らぬ口をきいた奴に「お前から岩の下敷きにしてやろうか」と脅かした。みながげらげらと笑う。
――悪くなかった。
薄暗い闇の中で腕を広げ、長いこと凝り固まっていた筋肉をほぐす。否、それは腕ではなかった。体が覚えているに任せ、大きく空を掻く。
風を切って大地を離れ、上昇してゆく。まるで海を泳ぐようだ。まだ入道雲もない空が視界に満ち、ぐんぐんと薄雲が近づき、手が届きそうになる。やがて雲だったもやを抜け、眼下に雲海が広がった。それは、遠き日に村はずれの断崖から臨んだ蒼海よりもはるかに雄大で、そしてただ静かにたゆたっていた。
黄金色の朝陽が昇る。緑銅色の鱗の色を、長い月日の間にもう輝かなくなったそれをようやく知った。そして何より、朝陽を掲げる雲の海が、ただただ美しかった。忙しなく羽ばたくのをやめ、滑空する。びゅうびゅうと裂けゆく風が心地よかった。空はこんなにも広く、そして外はこれほどまでに変わらず壮麗であってくれたのか。
もう長らく忘れていた。自分が何者であったのか。そう、自分はこうあるべきだったに違いない。我が血潮が造る、我が体躯は――
落っこっちまう!
遮二無二、振るった腕は何かぐにゃりとしたものを強く打った。
気が付いてみると、そこは大空ではなくあたしの寝所で、それは翼ではなくあたしの腕で、打ち付けたのはあいつの鼻づらだった。
寝ぼけてしまったと気づいた頃合いに、太い指が億劫そうに腕をそっとのかした。外はまだ暗く、空は暗い水色だった。
「……ひどい寝相だね」
「あんたも相当だよ。おはよう、悪かったね」
隼一に目をやると、うとうととまだまどろんでいた。ふにゃふにゃな声がかすかにおやすみ、と返したきり、もう寝息しか聞こえなくなってしまう。
妙な夢を見たな、と頭の中の霧に惑わされながら思った。しかし、次には霧が晴れた。竜の夢――ふと急に、虫が何かを知らせているのでは、と不安になったのだ。そうなると気が立って、あいつのように寝直す気にもなれず、ひとり階下へ足を運ぶ。
ぎいぎいと耳障りな虫の音。畳を踏むと、ちゃぶ台の上に食べっぱなしの食器が並んでいるのに気づいた。ああ昨日も飯を食った後、あいつを食い散らかしちまったんだっけ。寝ぼけたあたしはそのままぼんやりと食器を重ねはじめ、次の瞬間、自分はこんなことをしに起きだしたわけではないことを思い出す。
赤く染まり始めた空は、山の天辺に霧をまとうのみで、雲ひとつない。当然、竜なんて浮かんでいやしない。頭の中が澄み渡るにつれ、考えが改まった。あれはおふくろの契約に縛られていて、出てくることはないはずだ。しかしもし、夢のようにどこかへ飛び去ってしまったとして、どんな問題が起こるだろうか。ここの土地は元々痩せていたと聞く。もう既に長い時間、あれの加護を受けているが、十分と言えるだろうか。食器を浸す水に触れ、その冷たさが現実を考えさせる。土地がやせて田畑が立ち行かなくなる、という可能性はありうるだろう。それに、あれを見守るのが遺されたあたしの責務だ。あれが一足飛びに地中から空へ高飛びする、ということ自体考えにくいけれど、一度調べに行った方がいいだろう。考えをまとめ、顔を上げた。
朝焼けは見事だった。まだまだ日中は暑いが、朝は涼しいものだ。もう日暮の声も聞かなくなった。考えに区切りをつけたところで、そういえばここのところずっと体にあった、月の火照りがなくなっていることに気づいた。早い。いつもならばたっぷり一週間は狂っていたはずだ。今回は何日だったか。思い出そうとするとけむに撒かれてしまう。けれど肌を重ねた夜を指折り数えてみれば――あいつと契りを交わしたのは、三日前だろう。
――思い出してしまうと、顔から火が出そうになる。
なんだったんだ、あの歯が浮くような台詞は。普段のあたしが口走れることじゃなかった。あれから昨晩までずっと、目が覚める度におねだりして、何度交わったのだろう。今となってはもう分からない。けれどそれが激しかったらしいことは、股間のひりつく痛みからも知れた。
ほう、と息を吐き、手のひらから雫を振り払う。
あんなに幸せな心地になれたのは、生まれて初めてだった。今でも思い出すと、胸の奥がじんわりと熱を持つ。決して悪くはなかった。それが、あたしの気持ちが本物なのだと、そっと背を押す。
それでも、けだもののように貪るとは、しょうがないやつだ。太ももや背中など、普段は気にもかけないところの筋肉が悲鳴を上げている。我がことながら苦笑いしてしまう。もう何日も、家事も畑も何にもせずに日を空けすぎた。すぐは身体がおっつかなくても、少しずつやらねば仕事はたまる一方だ。まずは朝飯でもこしらえようと納屋に入る。
仰天した。どっさりと収穫した覚えのない野菜がある上、籾の袋まである。思い起こせば、村の稲刈りまわりの寄り合いも始まっているのではないか。ぺち、と己の額を打つ。あたしが盛りの熱にやられている間、あいつがいろいろとこなしてくれていたんだろう。下男になれと言って連れ込んだものの、まさかここまでやってくれるとは。後で礼を言わなければ、と肝に銘じつつ、玉ねぎと白米を少し抱えて戻る。
裏口から台所に入ると、縁側に見慣れた白毛が座っていた。紙巻をくわえ、マッチを擦って煙を昇らせる。その臭いすら愛おしくなっている自分に気づき、ひとり照れ隠しににやけた。そして悪戯心がさせるまま、忍び足で背後に回り、その背に抱き付いた。
「わわっ、と。おはよう。誰かと思ったよ」
煙と同じく甘味とこくのある声に、何かたまらない気持ちになって首筋に手を回す。肩に顎を乗せ、挨拶を返した。
「座敷童とでも思ったかい」
「ははは、君みたく大柄なのはでいだらぼっちでしょ」
「なんだと、こいつ!」
笑いながら、ぐい、とヒゲを引っ張ってやると、たまらず隼一は降参する。二人して笑って、これが幸せなんだな、と噛みしめる。朝焼けに雲は真っ赤に燃え上がり、遠くで逝きそびれた日暮が鳴いていた。
ふとした拍子に、心の隅でちょっとした“もし”が声を上げ、遠い手の届かない過去が想起される。
「あたしの背が他の仔くらいだったら、もっとおしとやかな仔になったのかな」奴の手がそっとあたしの腕をなでた。
「もしそうだったら、あの炭坑で別れて、二度と会うことはなかったかもしれないよ」
奴の瞳が、あたしを温かく見ていた。思わず胸の内から“もし”が吐息となって飛び出し、顔がほころんだ。「そうかい」
「うん。まあ、君の情熱的なところに惹かれた節もあるんだけどさ。まさかここまでとは思いもしなかったよ」
言外にいつのことを言っているか悟り、急に恥ずかしくなった。耳がひた、と寝てしまい、上目遣いで謝る。
「――その、悪かったよ。いきなり、あんなふうに、さ」
「ううん。お互い、あれ以上まどろっこしくしていたら、傷つきあうばかりだったでしょ。ぼくは、嬉しかったよ」
あたしの口の中の言葉を遮り、まるで気にしていないというように和やかに言った。その裏表のない笑みに、あたしの笑顔が引き出される。喜びが行き場を失い、きつく、きつく抱きしめることしかできなかった。
「きみ、かわったね」
「そうかな。前のほうがよかったかい」
「今の方が、きっと愛らしいよ。ぼくは、好きだな」
「ううう……あんた、いつの間にあの優男みたいになったんだい」
「ぼくの方は前のがよかったかな」
くすりと冗談めかして言う様に耐えきれず、ぷい、とそっぽを向いた。なだめすかすように謝られ、甘えるように拗ねたふりをした。
そういえば、と思い出し、村の仕事を代わりにやってくれたお礼を伝えた。「すまないね、あたしがうつつを抜かしている間にさ」
そう口にし、唐突にあることに気づいて気恥ずかしくなった。
「あんたと深い仲になっちまってるの、もう知れ渡ってるかねえ」
あたしの代わりに稲刈りや脱穀に出るくらいだ、もうめおとと思われてるかもしれない。
「いまさらだね。ぼくの友達もどう言いふらしてることやら」
「金物屋の喜三郎かい」
あいつならやりかねないな、と息を吐く。自分の目が据わっていそうだと気づいたので、慌てて別の話題を振る。
「もうしばらくは起きてこないかと思ってたよ。寝直しそうな雰囲気だったじゃないか」
「ああ、ぼくもそうしようとしてたんだけどね。朝一の汽車に乗らなきゃいけないことを思い出してさ」
「何だって!」
ぎょっとし、思わず飛びのいて奴の顔をまじまじと見る。
「きみ、今朝はしゃっきりしてるね。いや、何度かは伝えたつもりだったけど、やっぱり分かってなかったみたいだね。
実はね、こっちに任地を移動するにあたって、どうしても一度、帝都に戻らなくっちゃいけなくなってさ。長いと一ヶ月は戻って来れないかもしれない」
頭から何かが抜けていくような気がして、うつむいてしまう。あたしの下を離れて行って、帰ってこなかった男たちを思い出してしまったからだ。今回のそれとは全然違うはずなのに、何と言ったものか言葉が見つけられない。
あたしの当惑を見て取ったのか、彼はあたしの横に来て、肩をそっと抱いた。
「大丈夫、必ず戻って来るよ。そうだ、あれを置いていくよ」
そう言って彼が指さしたのは、部屋の隅に立てかけられた刀だ。立派な漆塗りの鞘に収まった、真新しい赤い柄糸と下げ緒の太刀。
「あれは親父の形見でね。ぼくの財産らしい財産といえばあれくらいなんだ。どうだい」
努めて笑おうとして、笑っているように口元を隠した。
「あんたが帰ってこなかったら、質に入れて食ってきゃいいわけかい。なるほど、悪い話じゃないさね」
「それは困るけど、ね」
そう苦笑いしてから、彼はいつもの温かくやさしい瞳で、あたしに微笑みかけた。気づいた。
「疑って悪かったね」
ばつが悪く、笑ってごまかそうとした。彼も笑ってくれた。
彼が荷造りをしている間に鯵を焼いて食わせ、余った時間で握り飯の弁当を持たせた。そして隣村のバス停まで送るつもりが、別れづらくなり、一緒にバスに乗り込んでしまった。
彼はあたしの見送りを無垢に喜んでくれ、自分の話をしてくれた。あの優男、大橋英治は今でもつながりのある唯一の友人で、幼馴染であるという。郷里を一緒に飛び出し、大志を抱いて帝都で軍人になったのだとか。
「昔は郷里に帰って所帯を持つということも考えていたけれど、やっぱりもっと早くに所帯を持つべきだったかもしれないね」
そう語る彼の顔は、あたしの顔ばかり見ている。気恥ずかしくなり、思わず顔をそむけてしまう。それにしても、彼の初恋の人はまだ故郷にいるのか。早とちりしていたけど、それならなおのこと嬉しくはある。彼は、あたしを選んでくれたのだ。
お返しに、あたしも自分の話をすることにした。おふくろがこの村のために犠牲になってくれたおかげで、この村で生活できていること。親父は戦争で身体を悪くしていて、十の時に亡くなったこと。昔から乱暴者で毛色もみなと違ったから、友達らしく付きあえた奴といえば華子と、後は一人いたかいないか、ということ。
だから、あたしと本当に籍を入れるつもりなら、お前も村八分になるかもしれない――ということ。
彼は熱心に聞いてくれていたが、最後の段になって首を傾げる。
「きみって、そこまで嫌われていたのかい。村一人の召霊術師だろ、もっと敬われているんじゃないかい」
「どうだか。あたしは爪弾き者だからね」
「そりゃあ、きみの気持ちの持ちようじゃないかな。きみが気難しいのは否定しないけど、ちょっと愛想よくすれば全然違ってくると思うんだけど」
愛想よく。少し前にも考えたことで、どきりとした。
「華子みたいににこにこ話せたら、ちょっとはみんな、あたしも村の一人として扱ってくれるのかな」
「ぼくはそう思うよ。きみ、根はとてもやさしい人だし」
他人に言われると、なんだかそんな気がしてくる。わずかばかり気持ちが軽くなった。それはそうと、奴の手をぎゅうときつく締めあげる。小さな悲鳴が出たところで、手を放す。
「気難しいとはなんだい」
「いや、はは……」
そして我に返り、またやっちまった、と小声で謝る。本当は分かっていたけれど、向きあうのは難しい。
そうこうしているうちに乗合バスは駅に着き、別れの時は近づいてくる。
一緒に構内に入り、長椅子で汽車を待つ時間は、ただ気もそぞろに奴の様子をうかがうことしかできなかった。
やがて汽車が滑り込んでくると、突然、彼はあたしの手を取った。
「そんなに不安なら、ぼくと一緒に帝都で暮らすかい」
子供に言い聞かせるように、見下ろして言う彼の表情は柔和で、そのさがを表しているようだった。
上気してしまい、口をぱくつかせ、ようやく言葉が出た。
「うん、って言ったらどうする気なんだい」
「その時は仕方ないね。上に頭を下げるよ。譴責処分か、ひどければ降等かもしれないけど」
そんなことはどうでもいいさ、と彼の目は言っていた。
「――馬鹿だね。そんなことをして、生活が立ち行かなくなったらどうする気だい。ほら、行った行った」
わざと邪険に追い払おうとした。けれど、真意はきっと筒抜けだっただろう。彼は帽子を脱いで、あたしの頭に乗せた。
「柿が熟す頃には帰ってくるよ。それまで、待っていてほしい」
彼の鳥打帽を胸に抱き、頷いた。口と鼻の中で変な味がした。
汽車がトンネルに呑みこまれ、見えなくなるまで手を振った。彼が帰ってこないなんてことはない、そう信じることはできても、どうしても胸が痛んだ。
ふらふらと駅前をうろつく。元に戻っただけのはずなのに、腕の一本でも持っていかれたかのような喪失感があった。次のバスまでは三時間。今日は歩いて帰る気もせず、かといって商店街を物色するような気もない。活気に満ちた通りの長椅子に腰かけ、さてどうしたものか、と空を見上げる。
空には薄くて丸い雲たちが、千々に空に満ちていた。鱗雲ともいうが、その大きさは見たこともない羊を連想させる。いっそ空の羊でも数えて昼寝してしまおうか、などと考えていた、その時だった。
「ねえ、あんた」
低く据えられているが、あたしほどは低くない声。ぼんやりとした表情で顔を上げると、茶虎の猫人がまあるい目で覗き込んでいた。
「ああ、やっぱり! 久しぶりね、早速知り合いに会えて助かるわ」
はて、猫人の知り合いなんていただろうか。一瞬、不愛想に頬を撫で、次の瞬間には立ち上がっていた。
「ひょっとして、向かいの露子かい!」
「さては忘れてたね。まあいいか、思ってたより元気そうじゃない」
思い出した。露子は、あたしの家から一番近い来栖家の長女で、尋常小学校の頃はよく華子と一緒に遊んでいた。小学校を卒業してから姿が見えなくなって、それっきりだったっけ。あの頃は親父が亡くなって友達も進学していなくなり、周りを鑑みる余裕などなかったから、気づきもしなかった。
「華子から聞いたよ、ずっと塞ぎ込んでるって。事情は知らないけど、酒でも飲んでぱーっと忘れなよ!」
「塞ぎ込んでるって、いつの話だい」
そう苦笑すると、きょとんとした顔で彼女はひげを開く。
「あれ、何だ、もう大丈夫なのかい。もう十年くらい暗ーく暮らしてるって聞いてたんだけど」
「ううーん、そうだったかもしれないねえ。そういうあんたも、今までどこで何してたのさ」
「お、聞きたいかい。そいじゃ、立ち話も何だし、その辺の喫茶でも入ろうよ」
「きっさ、って高い金で茶を飲ませる店かい。そんなのこの辺りにゃあるわけないさね」
そう返すと、彼女は出鼻を挫かれた顔でどっかと長椅子に腰かけた。
「あーそうかあ、ここはそんなだったなあ」
「バス、あと三時間は来ないよ。歩いて帰っかい」
「そうさなあ。話は道すがらでもできるし、そうしようか」
この夏は、古い知り合いや新しいのとよく出会う。そんなことを考えながら、露子と並び歩いて野道を行く。もう夏も終わりに差し掛かっていて、蝉の声など思い出したように聞かれるばかりだ。代わりに草の中の松虫などが鳴く声が聞こえてくる。それでも昇った太陽が、夏を忘れさせまいと厳しく照り付ける。
上品に化粧をした露子は、色とりどりのクロッシェを被り、丈の長いスカートをひらひらとさせていた。華子もずいぶん垢抜けたと思っていたが、彼女を見ていると自分が恥ずかしくなる。
彼女があっけらかんと語るには、小学校を卒業してからは関東の方で出稼ぎをしていたらしい。最初の半年こそ真面目に製糸場で働いていたようだが、長続きせずに帝都でカフェーの女給を転々としていたらしい。カフェーというと、男とべったりさせるいかがわしい店も少なからず聞く。
「そんな仕事で稼いだ金だって知ったら、親も許さないんじゃないかい」
「何をいまさら。もうとっくに絶縁されてるよ。おかげで仕送りせずによくなって、せいせいしてるさ」
思わずぎょっとするが、当の本人はけらけら笑っている。
「あんな楽しい仕事があるんだ、都会はいいぞお。男と遊んで金が貰えるんだよ。あんたも男受けする顔してんだから、やってみりゃいいのに」
乾いた笑いが返事でもなく出た。
「男をとっかえひっかえ、か。あたしにそんな火遊びできっかなあ」
独り言のような言葉に、彼女はあはは、と目を逸らす。
「冗談よ。あんたって竹を割ったような感じの割に、昔から色恋沙汰は下手くそだったよねえ。見ていてひやひやした覚えがあるわ」
彼女が縞柄の尾を持ちあげつつ語る言葉。それをどこかで聞いたように感じた。
「それで、あんたはどう。男でもできた顔してるけど」
えっ、と高い声が出た。足は気づくと止まっていて、鎌をかけられたと気づいた時には遅かった。
「あら、あんたが。無理に男作ろうとして、傷ついてた仔とは思えないねえ。聞かせてよ」
そうしてあたしは、請われるがままに恋愛相談をする羽目になった。恥ずかしい部分は伏せ、「大人しい軍人と恋仲になり、今まさに送ってきたところだ」ということを話すと、露子はにやにやと嬉しそうに笑う。
「へーえ、あんたの良さが分かる男がいたんだ。そりゃあ運が良かったね。そいつが帰ってきたなら本物さ」
「縁起でもないこと言うんじゃないよ!」
そう口をとがらせてから、自分が勘違いしていることに気づいた。
「帰ってこないとしたら、死んじまってるってか。あんた、経験少ないんだから騙されないようにね。兵隊さんじゃなくて将校様なんだろ。本当に婿入り同然にこんな田舎に来てくれるのかねえ」
考えもしなかったことだった。あいつとあたしとの関係は遊びで、口ではいいように言っておいて、帰ってこない――そうなるかもしれないことなんて、さっぱり頭になかった。
けれども、考えてみたところで、そこまで不安にはならなかった。
「あいつは、命があれば帰って来るさね。もし、帰ってこなかったとしても――生きてりゃいいよ。そんときはあたしも帝都に出てって、槍突きつけてふんじばってでも連れて帰るさ」
あいつはあたしのものだし、あたしはあいつのものだから。
露子はまぶしいものでも見たように目を細め、何か言おうとして、口を結んだ。代わりに、憧憬を感じさせる語気が立ち現れる。
「その時はうちも呼んでよ。帝都なら庭みたいなもんだからさ」
しばし、互いに笑いあった。彼女の目に温かみが灯るのを見て、遠い日々の感触を覚える。ふたつかみっつ、年上の彼女。子供の頃にはその小さな年の差がとても大きくて、姉のようだった。露子の瞳は鏡だ。そこに映るあたしは、妹だった。
「あんたはどうなんだい。こんな景気いい時期に帰ってきて、とうとう嫁に行く気になったのかい」
「冗談お言いよ。嫁になんか行ったら、三年で飽きちまうよ。どんなに激しい恋をしたって、結婚しちまったらすぐ冷めちまうものさ」
どきっとして、無意識に彼女の顔を見てしまう。笑っていた彼女は無表情になり、どうしたの、とたずねてくる。
あたしの愛もいつか冷めてしまうのだろうか。夢から覚めるように、いずれどちらかの気持ちが薄らいでしまうのだろうか。脳裏をかすめるそんな不安を、あたしは噛み殺した。「何でもないよ」
「そう、ならいいんだけど。
実はね、ここにでっかい軍の製鉄所ができる、って話を陸軍のお偉いさんから聞いてね。そういうことなら何かしら仕事もあるだろうって、ほとぼり冷ましも兼ねて帰ってきたのさ」
「その話って、ここの炭坑が閉鎖される前の、えらい昔の話じゃないのかい」
「詳しくは知らないけど、最近の話だよ。ま、ガセだったら冬になる前にまた出てくさ。それまで軒借りてもいいかな。うちんち、きっと敷居またがせてくれないだろうしさあ」
「うちのが帰って来るまでだったらね。その後は仲の良かった男連中にでも声かければ」
「あの狭い村でそれはちょっと、ねえ。そいや、あの呑兵衛はどうしてる」
「呑兵衛って、喜三郎かい。帝都で工廠の技師やってるって話だよ。最近、休み取って帰ってきてたんだけど、まだいるかねえ」
「ふうん。キサブの奴、相も変わらず酒だけが楽しみなんだろうね。まったく、冴えないくせに一丁前に帝都で働きやがって。もう所帯は持ってるんだろうね」
「あの男が、かい。んなわけあるかい。ありゃ女っ気のある男の振る舞いじゃないよ。気ままにふらふらしてんじゃないかい」
「そっかあ。まあ、冴えない男だしねえ」
彼女の顔が安堵に緩んだ気がした。あるいは、不満に膨れたような気も。その顔を見て、違和感を覚えた。
「あんた。なんであれが呑兵衛だって知ってるんだい。村を出てったのは十かそこらの時だったんじゃないのかい」
目が泳ぐのを見て、ふと、思考が短絡する。
「ひょっとして、喜三郎のことが気がかりなのかい」
そうたずねてみると、彼女は鼻で笑う。
「よしてよ。あんなうだつの上がらない男。あんたの将校様とは違うのさ。それに――一度振った相手を拾うほど、こちとら困っちゃいないしさあ」
「あれ、あいつ、あんたに声かけたことあるんだ」
意外に思えて声を高くすると、彼女の顔がにわかに遠くを見る。
「小学校の卒業式の後さ。色々理由はあったけど、まあ、親父の言いつけで村を出なきゃいけなかったしね」
おくびにも出さなかったが、何か隠していると感じた。けれど、それはあたしも同じだったし、深くは追及したくなかった。
「そうかい。まあ、人手が増えてありがたいさね。まだ村の稲刈りは残ってるし、脱穀なんてみんな手つかずだろうしね」
ぎょっとする露子の背を叩き、タダ飯食えると思うなよ、と笑う。これがあるから田舎は、とうんざりした顔をする彼女だったが、どこか郷愁を匂わせる目だった。
西の古道の門を開け、地上に脱する頃には、日が傾いていた。
大きく深呼吸し、伸びひとつ。水筒を傾けたが、猪口ひとつ分くらいの水しか出てこなかった。不満の息を吐き、近くの切株に腰かける。日の昇る時分から出張ってきたが、結果は芳しくなかった。どうしたものか、と肘をつく。
「はあはあ……。よかった、ちょうどだよ」
林の向こうから、猫人が走って来る。うちの新しい居候だ。息を切らせて駆けてくるとは、一体何があったのだろう。
しばし息を整えてから、露子は口を開いた。
「急に村長さんがさ、寄り合いを開くって。特に勝子、あんたには必ず出て貰いたいって言ってたから、慌てて来たんだよ」
「あたしに、かい」嫌な予感がした。けれども、名指しされて出ないわけにもいかない。彼女に礼を言って、早足で集会所へ向かう。
集会所に近づくと、それだけで人のざわめきが聞こえ、かなりの人がいることが分かった。あたしが中をのぞき込むと、既にほとんどの家から家主が出てきていた。入りづらく感じたが、露子に背中を叩かれ、渋々滑り込む。すると、奥の真ん中に座す年老いた犬人が手招きする。やはりか、と気が進まないまま、村長の右手に置かれた座布団に座り込む。ぎこちなく正座をして床板の目を見つめていると、頭数を数えていたらしい村長が、揃っとるな、と口火を切る。しわがれた声に、若い衆の雑談がにわかに静まり返る。
「突然、集まって貰ってすまなんだ。何せ、話が急でな」
村長もやや取り乱しているようで、懐から封筒を取り落しかける。一呼吸置いてから、続ける。
「単刀直入に言うとな、国が西の古道を買い上げたい、と言ってきおった。あこから採れる炭を使って、製鉄所を造るつもりらしい」
あいつの言っていた通りか。途端に集まっていた村人たちは、口々に騒ぎ始める。
竜がいるのではないか、噂は本当だったのか、なぜ今になって。
村長がすっと手を上げると、水を打ったように静まり返る。
「言いたいことは、よおう分かる。じゃが、わしらにゃ神事はとんと分からん。餅は餅屋、術師に意見を聞きとうてな」
村長の細い目が、あたしを見る。唾を飲み込んだ。
「閉山になってはや二十年余り。あれがお国の役に立てるのなら、みなの生活も潤う。しかし、ついこの間にも夜刀ノ神様が目覚めたんじゃろ。どうじゃろうか」
口をきゅっ、と結んだ。手を握りしめる。ありのままを話すしかないのだろうか。顔を上げると、村のみんながあたしを見ている。血の気が引く音が聞こえたが、その中に露子の顔を見つけ、真剣な眼差しに励まされている気がした。そうだ、もうあたしはひとりじゃないんだ。もうこうなったら、全て打ち明けるしかない。
最初の声は、枯れてろくに聞こえなかっただろう。半日埃っぽい炭坑を歩き回ったせいで痛む喉をおして、分かったことを話した。
昨日、竜の飛び去る気配を感じたこと。半日かけて古道の最奥まで行ってみたが、やはり夜刀ノ神の姿はなく、おふくろの施した封印は破かれていたこと。
この土地に流れていた夜刀ノ神の霊脈はじきに途絶え、少なくともこれまでのように二期作はできないこと。竜のいた期間が二十年と短く、このままではこの土地が元の痩せた土地に戻ってしまうかもしれないこと。
――そして、最後に。
「みな、本当に、すまない。おふくろの跡目を継いでこの土地を守ることだけが、あたしと片端の親父を養ってくれた、この村へできる唯一の恩返しだったのに。それすらもできずに、あたしは――」
節くれだった手が肩を叩く。顔を上げると、首を振る村長がいた。
「お前さんは知らんかもしれんな。ありゃあ土地を肥えさせる神でもなんでもねえ。ただの祟り神じゃ。あれを追っ払ってくれるよう流れの術師に頼んだが、あれも自ら出てゆけんようじゃった。結局、その術師との約束で、あれはこの土地を肥やし、眠ってくれることになった……その術師の命と引き換えにな。
――あれがいなくなる分にゃあ、わしらは困りゃあせん。元より田が貧しいのは承知の上じゃ。お前さんがちっこい頃はともかく、お前さんはもうそこらの男衆と変わらんほど稲を刈るし、術で何人も病を治してきたじゃろうが。
お前さんはもう養のうてもらう側やない、立派にやっとる」
じゃろう、と村長が声を投げかけると、多くの顔が頷いた。「せがれを助けてもろうたの、忘れとらんぞ」そう励ます声も聞こえた。自分が泣き出しそうになっていたのに今さら気づいて、慌てて羽織の裾で涙をふいた。
「みんな、おおきに」
そうぽろりと口にすると、村のみなは困ったように笑うか、珍しいものを見たように笑うかだった。子供の頃の自分をみんな知っているからだと気付いて、気恥ずかしい気持ちになる。
変わってはいなかったのだ。変わってしまったのは、恥を知ったのは――あたしだったのだ。
「とかく、あれが飛んでってしもうたなら、それはそれでええ。当分、炭は掘れそうなんやな」
首肯する。夜刀ノ神がなぜ、どうしていなくなったのかは分からないけれど、きっと帰ってくることはない。村長さんの話もあるが、何より、あたしとあれとの間にある、何か言葉にできないつながりがそう告げていた。村長はあたしの言葉に満足したようで、顔を綻ばせる。
「そりゃあ何よりじゃ。開山した頃はここも活気立つと、みな喜んでおったのに、ほんの一月二月で閉山じゃ。あの時のみなの落ち込みようといったらなあ」
西の古道を官営炭山にしてもらうという話は、ほぼ話し合うこともなくみんな賛成だった。あたしよりも少し年のいった人はみな、あの時あったらしい好景気を覚えているからだろう。その話の続きを村長が語るには、炭山の近くに製鉄所を建て、陸軍工廠として運営する計画らしい。
「詳しくは、工廠長として赴任して来はる将校さん次第やな」
そして村長が返事しておくと総括し、各自解散となった。あんなに身構えていたのに、こんな結果に終わるとは思ってもみなかった。同年代の連中が去り際に「あねさん変わったね」とからかってくる。「男ができたからだろ」とも。
「はっ、あんたらと違っていい男さ」
挑発し返すようにそう言ってやると、「あねさんはそうでなくちゃな」と嬉しそうだ。「早速尻に敷いて逃げられんなよ」と要らぬ口をきいた奴に「お前から岩の下敷きにしてやろうか」と脅かした。みながげらげらと笑う。
――悪くなかった。
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