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二章 再誕の殻
予兆
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初夏の空は、漆喰の天蓋のようだった。湿りけを帯びたぬるい風が、忌まわしい臭いを運んでくる。この湿気が何に由来するのか、連想させるに足る臭いだった。
「こいつはひどいね」
白毛と青鹿毛の犬人が、森のふちから平野を眺めている。白い牝のコボルトは鼻先を押さえ、せりあがってきた胃液を飲みくだした。
「……ガルー。俺は、どうすればよかった」
青鹿毛の方が、平原から目を離せずにこぼした。
「ハイン、あんたのせいじゃないさ……」
破れた竜の紋章の旗印が、茶色に侵食されていた。
川向こうの平原。そこでは半分ほど倒壊したものの、いまだ岩山の残骸が形を残している。首も流血もないドーファの骸。血潮のように散乱したガーネットの輝きだけが、死体と思わせる。
偉大なる岩人は、決して一柱で死ぬことはなかった。その一帯はまるで、神がふるいで命を選別したかのよう。まき散らされた無数の死体と、赤黒い血だまり。そればかりかハインたちの前には、枯れ草のように干からびた草人の遺骸もある。はるか彼方のドーファの骸との距離が、先の戦闘の苛烈さを物語る。
ハインは《遠見》で見ていた、見てしまった。その砕かれた尊厳を。
岩人の尖塔のような剣は、一太刀で百人を殺した。斬首や胴斬りになった者はまだ幸福だ。四肢のいずれかひとつのみを奪われ、生命がこぼれるに任せて死を迎えた者。近くには首からほとばしる鮮血と、舞い散る臓物。遠くには生きたまま挽肉になった同朋。彼らはそれらを見つめながら死んだ。
自らの末路を突きつけられながら、そこに至るまで長々と時間をかけて。
圧死した時、大地の形ひとつで彼らの運命は様々に変わった。頭皮をべろりと剥がれ、ひしゃげた兜の中に脳髄を押しだされた者。粉砕された白骨だけを残し、血肉をすべて大地に吸われたかのような死体。土踏まずで踏まれ、内から自らの肋骨に貫かれた者はまだマシな死に方だったのか。
まだ、まともだったのだろう――形があるのだから。骨を拾う者がいれば、名は知れずとも墓標は立つ。大多数の兵士たちは土や草、装束、そして隣の戦友たちと混ぜあわされ、牛糞のケーキがごとき瓦礫にされた。一足飛びに土となった者に、どんな墓標をくれてやればいい?
彼らは敵である前に、ひとりひとりが人間だった。故国に戻れば親が、兄弟が、子供たちがいた。彼らは否応なく徴兵されたか、家族を生き長らえさせるために命を売らざるをえなかった。きっと戻ると約束し、わずかな支度金と引き換えにこの地を踏んだ。
その対価が、牛の糞にも劣る汚泥にされることだったというのか。
ベルテンスカの者ばかりではない。あちこちに枯れ木のような遺骸が散乱している。それは人間の子供によく似た草人たち。その肌は風雨にさらされた流木のように色あせ、干した果実のようにしわだらけ。手も足も骨だけを残して乾燥し、はみでた小腸に至っては麻糸のよう。生前は青々とつややかだった青葉の鎧も、今は枯れ葉の束。青味を帯びた髪だけが縮まず、そこだけカビが生えたかのよう。
ドーファの草人は全滅した。主人の命に従い刀と弓をとり、運命をともにした。彼らの幼い姿が瞳にうつるたびに、ハインのうちに怒りが燃えた。
それは、自らを焼く煉獄の火。
小さなコボルトの男は、その場にくずおれた。
「くそっ……くそっ!」
大地を叩く。その手が草葉に切れるのも構わず。
「――なあ、ハインさあ」
ガルーは噛んでいた煙草を吐き捨て、足元の犬人に目を向ける。
「まあ、あんたとも短くない付きあいなわけよ。人生の大半を一緒に過ごしたんだから、ダンやウラの次にしゃべってるのはあんたなのさ」
ハインは顔をあげた。ガルーのまとめた髪が、白馬の尾のように風に揺れる。
「だから、形だけの姉だけど、曲りなりにも姉として聞いておきたいのさ」
――あんたは、誰の味方なんだい?
目の前が揺れる。重力を失う。
「それは……!」
ハインは即座に答えようとした。けれどそれを言葉にすることはできなかった。手の中で青草がちぎれてゆく。
それをためらいなく口にするには、あまりにも敵の死を悼みすぎていた。
「……わるい。そんな、あんたを追い詰めるつもりじゃないんだ。そこまで考えて皮肉いえるほど、あたしはかしこくない。たださ、あたしらコボルトはいつでも、強い者の味方なのさ。親がおっ死んだから好き放題やらかした。したら止水卿にとっちめられた。だからあたしらはここにいる。
――きっと、捕虜になったらヘラヘラ笑って、ベラベラ何でもしゃべるさ。
でもハイン、あんたは違うんだろ?」
犬人の男は、はっとその顔を仰ぎみた。コボルトの牝は、卑屈な笑みを浮かべていた。自分自身をせせら笑うような、淡く薄い笑みを。
「やっぱ、あんたはコボルトにゃなれないよ。ちょっぴり、ねたましいねえ」
「……すまない、ガルー」
差しだされた白い手をとり、ハインは立ちあがる。
ガルーはもう一度だけ敵陣の方角を見た。
「とりあえず、ドーファの首をとった勢いで攻めこむつもりはないみたいだね」
「ああ。こちらはドーファとその草人をすべて失ったが、あちらも壊滅的のはず。同盟軍をまるまる温存するこちらが有利、そう判断するだけの頭はあるらしい」
「よーし。あたしはこのまま子供たちと偵察を続けるよ。ハインは?」
「一旦、帰投する。何かあれば狼煙をあげてくれ」
ふたりは目配せすると、ガルーは森へ、ハインは川へ歩きだす。
「ああ、そうだ」
ガルーが振り返ると、ハインは舌を鳴らしながら指を振っていた。
「ベラベラ何でも喋る、はないだろ。おまえが一番の兄弟思いなんだから」
ガルーはふっ、と笑った。そして、ばーか、と軽くののしると、森の中に消えていく。自分もあの兄弟が嫌いではないのだな。そう思うと、ハインの胸が少し軽くなった。
ハインは本陣の方角、川へ向かって周囲を警戒しながら歩きだす。ふとその時、先ほどの草人の遺骸が目にはいる。
からからに乾いたその胸のなかで、何かがきらめいていた。
それは、八面体の黒曜石に似た石だった。その表面には血潮のように、赤いひび割れ模様が対称に入りこんでいる。ハインはそれに既視感を覚えたが、果たしてどこで見かけたものか、思い出せなかった。
それはどこか、胸騒ぎをおこさせる、禍々しさのある模様だった。
ハインは今後のことを考えて、頭を痛めながら本陣へ戻った。
ヴァルターはおそらく、敵陣に動きなしの知らせを好機ととるだろう。そしてすぐさま攻勢に出る恐れもある。ここは攻めるにせよ、残った草人と連携をとり、一度に叩き潰すに限る。だが、岩人が人間に不信感があるのと同様、人間も岩人を信用していない。
森を開墾し、鋼や貴金属といった“邪悪な純粋さ”を作る人間。かたや、神から信任を得た土地を繁栄させることを阻む“拓かれるべき森の古き門番”。
この溝は大きすぎる。
まして、敵も人間の国となれば、同盟を結べたのさえ奇跡に近い。フェルゼンが理解のある人物で助かったが、ヴァルターの機嫌を損ねずに説得するのは、さぞ骨の折れることだろう。彼は自らの利益――富や名誉にしか興味がない。友軍が増えれば、自分の分け前が減ると考える人間だ。
ハインはたまらず、煙草に火をつけた。
本陣に戻ると、大きな戦さの後だというのに、おだやかな空気が流れていた。
主戦力を失った直後だというのに、兵たちの間に笑顔が広がっている。
妙だな、と思った矢先。
「あっ、ハイン、おつかれさま! こっちこっち!」
人垣のなかから、飛びだす愛犬の姿があった。リタはハインの前でかがんだり跳びはねたりして、本陣の一角へ先導した。
そんなリタに、そんなに嬉しいことがあったのかとハインは思う。
リタについてゆくと、兵士たちの人だかりが見えてきた。
「うぁ、あ~!」
そこでは先だってハインが助けた幼い少女が、がつがつとスープを貪っていた。それを兵士たちは見守り、これも食え、と保存食を山積みにしている。その中にはダンもおり、少女が椀を空にする度によそいなおしている。その構図にハインはおおよその事情を察した。
そういえば、とハインはつぶやき、詠唱を始めた。リタはハインのそんな様子に感づき、慌ててその背を追う。近づいたハインは、いきなり右手を少女に向けた。
一瞬、ハインの手からかすかな空色の光がほとばしり、少女を包みこんだ。
少女はきょとんとしてハインを見る。ハインは「まあそうか」とひとりごちて、警戒を解いた。リタはほっと胸をなでおろす。
「ずいぶん痩せた子だと思っていた。元気そうで何よりだな」
ハインが声をかけると、兵士たちも豪快に笑ってこたえる。少女は食事にありつけたのが嬉しいのか、幸せそうだ。ぼさぼさの長い髪で表情はうかがえないが、にんまりと顔全体をまんまるにしているのは分かる。兵士たちも元はただの農奴、ほとんどの者が妻子持ちだ。故郷を離れはや一月、彼らにとってこのあどけない微笑みは喜びそのものだろう。
「見直したぜ、犬っころ。あんたは血も涙もない“黒犬”かと思ってたぜ」
名も知れぬ兵士が、ハインの肩をたたいて言う。
ハインはあいまいに相槌をうち、少女に「うまいか」と声をかけた。
「ああー!」
本能そのままの返答に、ハインも人並みに笑った。その顔がぎこちないことに気づいたのは、たった一匹だった。リタは、それがハインそのものではないことを悲しんだ。
「いい食いっぷりだなあ、確かにうちの仔犬そっくりだ」
「本当にな。まさしく仔犬だぜ」
誰が言い出したのか、少女は“仔犬”と呼ばれていた。名を言うことすらままならない、無害で無力な少女。仔犬か、とハインも口のなかでその名を反芻した。
「ほほえましいものですね、ハインどの」
ふと気づくと、隣にはアーレントが立っていた。赤い僧衣をなびかせて、柔和な笑みを浮かべている。ハインはその通りだと受け答えしたが、どこかその表情に違和感を覚えた。高貴な神職らしい、高潔な光がかげるような。
「なあハイン。こいつ、いつまで置いとく気だ。ここは戦場だぞ。
つうか、どんだけ食うんだこいつ。これじゃまるで――」
ダンがおたまで仔犬を指し示し、非難する。ハインは司祭から目を離し、改めて仔犬をみた。肌着一枚とまだ寒そうな格好で、それすら泥や垢でみすぼらしい。
こんな場所をうろついているところをみるに、戦いに巻きこまれて逃げだしてきたのだろうか。少なくとも、人間はウォーフナルタの民ではない。
「そうだな。戦火に巻きこむようなことはしたくない」
よし、とハインはかがむと、仔犬と目線をあわせてほほえんだ。
「きみ。どこから来たのか、言えるかい。お父さんやお母さんは?」
ハインの口調は、みなが知るそれではなかった。朗らかな、ひとなつこい言葉。周りの者は互いに顔を見あわせる。犬の顔ながら、十歳は若返ったように見える。リタは思わず目を背けてしまう。
「あぁう……うぅ……」
仔犬は顔を暗くし、何か言いたそうに口をぱくぱくさせる。だが、出てくるのは喃語だけ。ハインは仔犬と同じくらい悲しそうな顔をして、ごめん、とつぶやく。ハインは立ちあがる。こちらの言葉は理解しているようにみえるが、喋ることは困難なようだ。
「やはり知恵遅れというわけじゃないらしい。よほどつらい目にあったとみえる」
その時にはもう、ハインはいつもの陰鬱な渋面に戻っていた。
「ダン。里が分からない以上、今はこの少女を避難させる余裕がない。頼めるか」
「おいおいマジかよ。こちとら飯の煮炊きと兵の世話で手一杯だぜ。
第一、あの将軍になんて言うつもりだ」
ハインは眉間のしわを深めた。確かに、彼なら捨ておけと放言しかねない。
「それでしたら、私があずかりましょうか。将軍には私から――」
アーレントがそう言いかけた時、背後の人だかりが左右に割れるのがわかった。
ハインはぎょっとした。まさにその彼が何食わぬ顔で立っていたからだ。だが。
「それには及ばん。このヴァルター、高々小娘一人の糧食に吝嗇すると思うてか」
ハインは目の前の男を、別人ではないかと思わずまばたきした。
「みな、この仔犬を可愛がっているのだろう? なればそれも必要なこと」
ヴァルターは周囲を見渡し、視線を集めた。そして大きく息を吸いこみ、大声を張りあげる。
「よいか貴様ら! 我らは確かに、オッペンハイムを守るために馳せ参じたわけではない。だが見知らぬ土地でも、守るべきものは変わらずある。
侵略のため、このような少女の住まう村を蹂躙してきたベルテンスカを見よ。敵はもはや人にあらず、悪魔である。対する我らは、少女のために涙を流すことができる。それはすなわち、我らが血のかよった人間であることの証だ。
悪魔を屠ることができるのは人間だけ、そのことをゆめゆめ忘れるな!」
彼の領民である兵たちは、みなそれぞれが大きくうなずいて、口々にその名を称えた。演説を遠巻きに見ていた犬人も、話は分かっていないものの、分からないなりに感心した顔をしていた。
「ヴァルターさん、すごいね」
「ああ。俺は多少、見損なっていたらしい」
リタをなでながら、ハインはこたえた。ダンはどこか胡散臭そうにみていたが、ハインは素直に喜ばしく思っていた。動機はどうあれ、兵をまとめるカリスマがあるに越したことはない。
「では、しばらくこの子の面倒は私がみます。ダンどのもよろしいですね」
「ああ、助かるぜ。ウラに押しつけようかと思ってたところだしな」
荷物が減ったと言わんばかりに、ダンは卑しい笑いを浮かべる。アーレントはうなずいて仔犬に声をかけ、手を引いて立ち去る。
仔犬は無邪気に、ハインに手をふりつつ去っていく。
その時、うわさされたぶち模様のコボルトが走ってきた。
「伝令、でんれーい! ん、どうしたのダン」
「いやなんでも。それよか何だ?」
「ああそうだ、将軍様。フェルゼン・ランペール殿から、話をしたいとのことです」
呼ばれて振り返ったヴァルターは、にやりと笑う。
「思ったより遅かったな。此度は私もゆくとしよう。聞こえたか、犬」
ハインは口では承知したと言ったが、憂鬱そうに煙草に火をつける。
その背後に、小さな影が立った。
「わたしも――ゆきます」
その、川のせせらぎのようにかぼそい声は、不思議と通った。
そこには、主を失った草人――スアイドが、透徹した表情で立っていた。
森の奥深く、青味を帯びた雪の残る土地。ハインが訪れた朝方から、草人の砦は大きく様変わりしていた。その半分以上が欠けている。ハインは察した。
先導するスアイドの後ろには、ハインとヴァルターがいる。前と違い、援護射撃してくれるアーレントはいない。ハインは将軍の評価をあらためつつあったが、この対話で大きな決裂を生みはしないか、内心ひやひやしていた。
一日も経っていないのに、砦の中は全く見覚えがなかった。いや、おそらく違う場所へ足を踏みいれているのだろう。今度はそれほど長くは歩かなかった。
「やあ。一日に二度も会うとは、ハイン殿も悪運強い」
空間が開けると、なめらかでたおやかな声がハインにかけられた。その陶器のような肌の岩人は、今は雨の日のようにより暗く色づいてみえた。
「スアイドも、ご苦労だったな。だが、勘違いするでない。
ドーファはお前のことを気に入っていた」
透きとおるような顔は崩れない。それを見て、フェルゼンは言葉を切った。
対照的に、ヴァルターはいきなり口を開いた。
「ルテニア語を解するのは大いに結構。だが、私にはかける言葉はないのか。
それに貴殿も岩人ならば、正体は岩山のような巨体なのだろう? 会談したいと申し入れてくるのならば、真の姿で席につくのが礼儀ではないのか?」
ヴァルターが挑発的にいう。最後に回されたのが癪だったのだろう。ハインは冷や汗をかいた。
「ほう。淑女の生身を見たいとな。それがヴェスペン同盟の礼儀なのか?」
沈黙が流れる。ハインは何かとりなすべきか、とさらに油っぽい汗を流した。
けれどそれは、杞憂だった。
「ぷっ……はっはっは! これは失礼、この非礼は詫びよう」
「こちらもそうしよう。ヴェスペン同盟軍の総大将どの、名乗らせていただこう。私がドーファの後を継ぎ、指揮をとることになったフェルゼン・ランペールだ」
「私はヴァルター・サウル・オッペンハイムだ。よろしく頼む」
「ふむ。ではオッペンハイム殿と呼んで差し支えないだろうか」
「堅苦しいのは好かん。ヴァルターでよい」
にわかに和やかになり、ハインはほっとする。けれど内心、よく言う、と皮肉を転がしていた。事実、彼は礼を欠くとすぐ怒鳴るような男でもある。
「了解した。では貴殿もフェルゼンと呼ばれよ」
「よかろう。してフェルゼンよ、我々に何用かな」
分かりきった問い。奸悪な笑みにフェルゼンは小さく息を吐いた。
「もはや隠しだてする余裕もない。単刀直入に言おう。ドーファとその草人亡き今、私だけでウォーフナルタを防衛することは不可能だ。……ヴェスペン同盟軍、その力を拝借願いたい」
ヴァルターは意地の悪い笑みを深め、心底愉快そうに笑った。
「さて、な。我らは人間と犬人の寄せ集めにすぎん。赤の他人のいさかいに無理に首を突っこんでいるのだ、士気も良くはない。
それに、ドーファが道連れにした皇国軍も少なくはないはずだ」
その内容とは裏腹に、顔面は自信で満ちあふれている。
まったくタチの悪い男だ。ハインはうんざりとその顔を見ていた。
「確かに敵軍は潰走した。しかし、私の麾下にある草人は千もないのだ。幼体や蛹を除けば、六百がせいぜいだ」
ヴァルターは眉をあげ、「さなぎ?」と繰り返した。
ハインはスアイドを示し、耳打ちする。
「閣下。このような姿が成体ですが、その前には蛹や幼虫のような姿を取るとか」
「ドーファは蛹の促成羽化や、断種を命じていた。――今思えば、こうなることを予期していたのやもしれぬ」
そういうフェルゼンは、重く沈んだ目でスアイドをみた。
彼女がいること、そのものが耐えがたいかのように。
「話を戻そう。皇国軍が壊滅したとはいえ、元の兵力差は大きい。このまま完全な勝利を収めようと考えるなら、どうしても貴殿らの力が欲しいのだ」
このとおりだ、と座したまま、フェルゼンは頭を下げた。ハインはひとりなら、すぐにでもその頭をあげてもらっただろう。けれど、ここにはヴァルターがいる。ドーファに軽くあしらわれたことを、まだ根に持っているのだろうか。
そう考えていたハインは、驚くことになる。
「……失礼した。虫の居所が悪かったらしい。このまま性悪だと思われては困る、顔をあげられよ」
あげた顔は、呆気にとられていた。
「我ら、ヴェスペン同盟もベルテンスカの横暴を許すことはできない。敵の敵は味方という。ここはともに戦わねばならぬ局面とみた。こちらからもあらためて、共同戦線の発足を願いたい」
フェルゼンは本来の深い慈愛のにじむ顔に戻り、ヴァルターの差しだした手をとった。呆然としたのはハインだ。いくらなんでも、これがあのヴァルターか、と思わずにはいられない。
だがそのまま、そこからの会談はとんとん拍子に進んだ。互いの情報――兵力、兵站、練度などを共有し、そこから人間と犬人、草人の特徴を加味した配置を話しあった。そして可能な限り、速やかに掃討戦を行うと決めた。だが、その日取りで意見は衝突した。最低でも七日は合同で訓練すべきだ、と主張するフェルゼンに、ヴァルターはそんな余裕はないと突っぱねた。
「こればかりは私も我が将軍に賛成です。時間を与えてしまっては、地力のある敵が有利になる一方です」
ハインがそう助言すると、フェルゼンも考えを改めた。しかし互いに不信感がある間柄、すぐさま背中を預けあうことなど不可能。せめて三日、相互理解を図ることにはヴァルターも合意せざるをえなかった。そしてその翌日、朝駆けを敢行する。作戦はそう定まった。
最善ではないが、不可能ではない。ハインはそう、自らに言い聞かせた。互いに大きな痛手を受けた今しか、向こうに侵略を考え直させることはできない。もしこの侵略が成功すれば、今度こそベルテンスカを止めることは叶わなくなる。
「ふむ、ではこれでよしとしよう。前線の指揮を私が執ることに異存はないな?」
「ああ。指揮官が多くてよいことはひとつもない。ただし――ひとつ条件がある」
ヴァルターは相手を値踏みするように、相手の顔を見つめた。
「私の草人たちの指揮についてだが。
貴殿の指揮下にスアイドを入れ、スアイドから行ってもらいたい」
なにい、とヴァルターは隣に立つ少女をにらんだ。スアイドは静かにその目を見つめ返したきり。ヴァルターはぶつぶつと文句をいうが、妥当かと飲み下した。
「構わないな、スアイド」
「承知いたします」
「……大丈夫なのか?」
ハインは思わずスアイドに声をかけた。先の戦闘においても、かなりの動揺を受けていた。スアイドを幼子と思っていたハインは、指揮権を持つにふさわしい人物なのか疑問だった。今は妙に落ち着いていることも、不安に拍車をかける。
「――介添人が離れたのだな、スアイド。……いや。目が覚めたというべきか」
「はい。わたしがなすべきことは、すべてわかっています」
その答えに納得したのはフェルゼンだけだ。ヴァルターも「おい、こやつは正気なのだな?」とハインに耳打ちする。
「安ぜられるな。スアイドは一人前の草人となった。最後のドーファの草人として必ずや立派に戦ってくれるだろう」
ハインがどこか釈然としないままうなずくと、ヴァルターもまあよい、と了解した。それはスアイドが役立たずであれば、排除する言い訳もたつか――という納得ではあったが。
会談は淀みなく終わった。ヴァルターは満足して席を立つや、足早に立ち去る。
「そうだ。ハイン殿」
去り際、フェルゼンに引きとめられ、ハインはふりむいた。
「これで終わりだとよいが、ドーファならそうは思うまい。何か番狂わせがあると思っていたほうがよい。特に、アイヒマンに代わって現れた“黄銅の騎士”をどうにかせねばならぬ」
ハインは沈黙で肯定した。
「はっきりいおう。雑兵はスアイドがどうにかできよう。だが“黄銅の騎士”を倒せるとすれば、貴殿をおいて他にいまい。貴殿がカギだ」
ハインは言葉を探した。とても勝ち目がないと感じたことをどう述べればよい。
そう――尋常の方法では歯牙にもかけられまい。
「心得ました。命を賭して、かの首を討ちとりましょう」
後ろから、ヴァルターの不機嫌な声が聞こえる。フェルゼンはハインの決意を察し、目を伏せる。ハインは背を向けて立ち去ろうとした。
その時、彼は思い出した。フェルゼンの周囲、ちらりと見える八面体を見て。
翌日から人間や犬人、草人とのぎこちない共同生活は始まった。
フェルゼンの草人たちは、自分たちの二倍の背丈をもつ人間を、冷たい奇異の目で見ていた。人間もいざ並んで見てみると、草人の小ささと生意気さ――成人である彼らにとっては、対等に口を利いているだけなのだが――に苦々しく罵る者も少なくなかった。犬人は犬人で、ふんふんとその臭いをあからさまに嗅いでまわり、すぐに媚びへつらう必要のない相手と思ったらしい。犬人たちは草人と仲良くしようとした。つまり、人間にへこへこした方が得だぞ、とささやいて回り――それは彼らなりの親切心だったのだが――大いに草人の誇りを傷つけた。
そんな有様だったので、ハインは初日の朝から胃に穴があきそうだった。
ヴァルターは涼しい顔だったが、ハインが訊くと「元より期待していない」、とこれまた涼しい回答だった。
とにかく、種族間の融和が急務となった。浮き彫りになった軋轢を埋めるには、色々方法がある。ただ、三日しかないというのが致命的だった。
まずハインは、合同訓練を行った。ともに走り、矢を射かけ、剣を手に突撃する。まず、草人たちは犬人が自分たちよりも足が早いことに驚いた。体格の差を加味すれば大差ないが、犬人を誇りのホの字もない連中だと思っていた草人たちは、それなりに面食らった様子だった。また、走る距離が長くなると、真っ先に草人が疲れ果て、次に犬人、最後まで走り抜いたのは人間だった。そのことを不思議に思ったのは、他でもない人間たちだった。目立った長所がなく、何かにつけて器用貧乏と言われる人間だが、人間には持久力という最大の長所がある。まずはそのことを自覚してくれただけでも、成果はあったとハインは安心した。
次の射撃では、誰もが思っていた通りの腕前を草人が見せてくれた。ハインの配下も噂には聞いていたようだが、目の当たりにすると驚嘆の声は尽きなかった。ヴェスペンにおいて矢は数を打ち、雨あられと降らせることに意味があるものだ。ところが草人にとっては違う。一矢で一人を殺すものなのだ。人間には点にしか見えない的でも、そしてそれが動き回っていても、草人たちは確実に命中させる。それを敵に回したらと恐怖するもの、味方で心強いと思うもの。主に犬人が前者、人間が後者だった。
最後の突撃訓練では役割がはっきりした。犬人は足の速さを活かして切りこみ、草人は一糸乱れぬ連携をみせ、人間は確実に重い一撃を繰りだせる。
言葉にせずとも、それぞれの特色を兵たちはまずまず理解した。
そうこうするうちに日が天頂に上ったため、飯炊きがはじまった。ダン率いる兵站部隊が大量のスープを作るや、人間と犬人は群がるように食事をはじめる。ハインは昼下がりまで休息を命じ、観察に徹した。
犬人はろくに噛まずにパンやスープをかきこむ。人間の兵たちもそれぞれのペースで食事をする。草人たちはそれを、首を傾げながら見ていた。時折、一緒に食わないか、とパンやスープを草人に差しだす者がいる。だが彼らは固辞するか、パンのみを少量口にするだけだった。
草人は彼らの言葉で事情を説明するが、当然全く通じない。リタが気を利かせ、あちこちで通訳するのを又聞きするには、「今日はいい天気だからおなかいっぱいなんだ」とかなんとか。そのほかには、スープに肉が入っていることが禁忌であるらしい。兵士たちは不思議そうに聞き流すか、子供じみた言い訳だととった。
けれどそれは、おそらく事実なのだろうとハインは思った。
食事が終わると、彼らは間にリタを挟んで雑談したり、野の草で遊んだりする程度には打ち解けていた。ルテニア語や竜語、草本語が入り乱れるさなかに身をおくと、各種族の傾向がよくわかった。犬人は享楽的で刹那的、大騒ぎすることを好む。そして強いものにへつらう一方で、弱いものになれなれしい。草人は、みなおしなべて寡黙で個性にとぼしい。そればかりか、戦闘時の荒々しさからすれば考えられないほど、おっとりと無為な時間を楽しんでいる。人間はというと、そのどちらにもあわせられており、犬人よりはいくぶんか知的な遊びに興じてもいる。
午後もほぼ同じ訓練を行ったが、あまり進展はみられなかった。敵対から黙認程度の態度の軟化はみられたが、わだかまりはなかなかとれない。ハインがどうしたものかと首を巡らせているうちに、太陽は赤く、影は長くなってしまう。
ランプひとつのテント。
ハインはほかの兄弟にまぎれ、地図とにらめっこしていた。
敵陣にはまるで動きがない。こちらの動向を見ればすぐにでも力押ししてくることは明白なのに、不気味だ。
リタにはそのまま、兵士たちの間をぬって駆けまわり、おしゃべりさせている。夕陽が沈めばみな眠るだろうが、それまではリタが必要だ。最初は喋る犬と誰も彼もぎょっとしていたが、ほんの数日でたいていの者はかわいがるようになった。そこに関していえば、人間や犬人も、草人も同じだった。通訳を必要としているというのが大きいだろうが、やはりリタの天真爛漫な性格は強いのだろう。
けれど、こんなことで融和は図れるのだろうか――。不安がぬぐえず、ハインはため息をついた。その声に、ぶち模様のウラが顔をあげる。
「どうしたの、ハイン」
犬の顔をもつ犬人のなかでも目立つ、仔犬のような童顔が首をかしげている。
「ウラ。今日の軍規違反はどれだけあった」
「えっと――」
喧嘩が三件、罵倒からそうなりかけたものが八件。しめて懲罰者十八名。半分は草人絡みで、残りは人間と犬人の間で。
「人間と犬人の軍ならこんなものでしょ。
草人が増えたんだし、二千近い軍としてみたら少ないよ」
ハインは押し黙った。ウラのいうことも分かる。ただ、これは過去の軋轢がまだあることの証拠でもある。
犬人と人間も、仲がいいわけではない。犬人はそもそも規則を守るのが苦手だ。腹が減れば目の前のものを食うし、発情期に統制をとるのは不可能。逆を言えば飯をやりさえすればかなり従順なのだが、頭数にはなっても頭脳労働はできない。そのうえ元は奉仕種族なので、犬人同士でまとまって竜語でひそひそするのだ。おつむが足りないと偏見をもっている連中には、不愉快この上ないことだろう。たとえそれが、さっき食ったイチジクがうまかった、程度の話であっても。
それに、そこまで的外れな偏見でもない。事実、ハインの義兄弟たちはこれでも止水卿の指輪をはめ、その加護を受けている。加護でもなければ、頭目は酷な仕事だっただろう。彼らに比べれば、普通の犬人の出来はかたるにおよばない。そんな者たちがいきなり街になだれこみ、発情期には親子や兄弟でさえつがう。そしてネズミのように増える。彼らを徴兵しているのは、何も頭数が足りぬだけが理由ではない。生活を圧迫された人間の心境は、推して知るべきだ。
とはいえ、犬人にも人並みの心はある。何しろ今は自分がその身なのだ。本能のままにふるまった結果、針のむしろとなった経験はハインにもある。誰のせいにもできない過失は、簡単に人を壊すことができると身をもって知っている。
犬人は先が分からないが、目の前に現れた責任は理解できるのだ。
「犬人も人間も、草人も。たったひとときでいい、一致団結して戦えれば――」
「できるわきゃねえだろ。どいつも毛皮を剥がれた連中だ。表面上でもなかよしこよしを演じれりゃ御の字だろ」
木炭で計算をしていたダンが憎々しげにいう。ハインは反射的に言い返そうとしたが、飲みこんだ。“毛皮を剥がれた者”、それが犬人の包み隠さぬ本音だ。
「ウラ、おまえもそう思うか」
話題を振られて、ウラはどもった。
「ぼ、ぼくは……。ぼくも、草人は青臭いし、なんだか不気味だなって、思う。
岩人のためなら簡単に死ぬのもおかしいし、それが何人かじゃなくて、みんながみんなだなんて。ぼくの息子たちも気味悪がってる」
ハインは否定できなかった。草人には人間らしさがなさすぎる。人の形をした泥人形だと言われれば、まだその方が納得できるだろう。なにか、大きな出来事が必要だ。草人も犬人も、同じ口を利くものだと納得できるような物事が。
「いるかい、ハイン」
テントの向こうから、馴染みのある犬人の声が聞こえた。ガルーか、とハインが答えると、月毛のコボルトがすだれをかきあげて入ってきた。
「お前を探してたから、連れてきてやったよ」
その後ろから顔を出したのは、スアイドだ。
「どうかしたのか?」
「お伝えしなければならないことがあるのです。明日は私達が“月花祭”を執り行う日にあたります。そちらの風習で言えば、収穫祭のようなものです。ですが、より重要なものでしょう」
「おいおいおい、明後日には総攻撃をしかけるんだぞ。そんな時間はねぇだろ!」
ダンが呆れて墨筆を投げるが、スアイドの表情は変わらない。
他方、ハインは顔面のしわをいっぺんに引き伸ばした。
「それは――我々が参列してもいいものか?」
「ヴァルター殿も同じことを問います。本来なら私達と主以外は見てはならないものですが、主がよいとおっしゃっています」
「……ということは、こっちの将軍もフェルゼン殿も、ぜひそうせよと?」
スアイドがうなずくと、ハインの顔に血色が戻ってきた。まだ望みはある。
「では、伝達します。月花祭は明日、日が沈むころから始まります。私達は昼から準備で半分の人員を向かわせます」
「承知した。祭りに際して特別な礼儀などあれば、俺から兵たちに知らせよう」
「それでは追って、別の者に連絡させます」
スアイドはそういうや、手短に会釈して退席した。
「祭りか。何年ぶりだろうな」
ハインがそういうのを、ダンは横目ににらんだ。
すると、黙っていたガルーがため息をつく。
「……ダン。あんたさあ、いつになったら偵察隊に戻ってくるんだい」
ダンは目を見開き、鼻づらにしわをいくつも刻んで立ちあがった。
「ガルー、てめえ……」
「あんたが抜けたせいで、あたしが貧乏クジを引いたんだよ。あたしみたいな、真っ白な犬人がね。あたしじゃ威力偵察なんてできない。あたしもあたしの子も、意気地なしだからねえ」
でも、あんたはもっと腰抜けになっちまったんじゃあないかい。
ダンは妹の襟首をつかみ、うなり声をあげて威嚇した。
「てめえに何が分かる……!」
「おい、よせ!」ハインとウラは立ちあがり、ダンを引きはがす。
「分かるさ。同腹の五人兄弟なんだからね」
ガルーの言葉に、ダンは顔から色を失った。ウラの顔にもさっと影がさす。
ガルーの表情は、青ざめた月よりもぼやけていた。
「ロンもパテンも、泣いて許しをこい、しゃべれることは何でもしゃべった――こちらの作戦も、軍備も。しゃべりすぎて嘘を疑われ、拷問のはてに狂い死んだ。あんたも、そうやって死にたいのかい?」
ダンは耳を伏せ、尾を股に巻きこみ、地面を見つめていた。肉球がべとべとだ。そんなダンから、ガルーは離れていった。
出てゆくガルーに、ウラは非難の声をあげる。
「それなら、そうなるのは――真っ先にそうなるのはぼくだ! 末っ子に甘えてここまで来たぼくが、ぼくは――」
ガルーは歩を止め、うつむいて黙りこむ。
「そのあたりにしておけ。それは済んだことだ。部下を抱えるおまえたちが、よりにもよって今、蒸し返すべきことじゃない」
ハインの言葉にこたえるものはない。
月毛のコボルトは、まんまるに太った月を背に、闇夜にかえってゆく。
「こいつはひどいね」
白毛と青鹿毛の犬人が、森のふちから平野を眺めている。白い牝のコボルトは鼻先を押さえ、せりあがってきた胃液を飲みくだした。
「……ガルー。俺は、どうすればよかった」
青鹿毛の方が、平原から目を離せずにこぼした。
「ハイン、あんたのせいじゃないさ……」
破れた竜の紋章の旗印が、茶色に侵食されていた。
川向こうの平原。そこでは半分ほど倒壊したものの、いまだ岩山の残骸が形を残している。首も流血もないドーファの骸。血潮のように散乱したガーネットの輝きだけが、死体と思わせる。
偉大なる岩人は、決して一柱で死ぬことはなかった。その一帯はまるで、神がふるいで命を選別したかのよう。まき散らされた無数の死体と、赤黒い血だまり。そればかりかハインたちの前には、枯れ草のように干からびた草人の遺骸もある。はるか彼方のドーファの骸との距離が、先の戦闘の苛烈さを物語る。
ハインは《遠見》で見ていた、見てしまった。その砕かれた尊厳を。
岩人の尖塔のような剣は、一太刀で百人を殺した。斬首や胴斬りになった者はまだ幸福だ。四肢のいずれかひとつのみを奪われ、生命がこぼれるに任せて死を迎えた者。近くには首からほとばしる鮮血と、舞い散る臓物。遠くには生きたまま挽肉になった同朋。彼らはそれらを見つめながら死んだ。
自らの末路を突きつけられながら、そこに至るまで長々と時間をかけて。
圧死した時、大地の形ひとつで彼らの運命は様々に変わった。頭皮をべろりと剥がれ、ひしゃげた兜の中に脳髄を押しだされた者。粉砕された白骨だけを残し、血肉をすべて大地に吸われたかのような死体。土踏まずで踏まれ、内から自らの肋骨に貫かれた者はまだマシな死に方だったのか。
まだ、まともだったのだろう――形があるのだから。骨を拾う者がいれば、名は知れずとも墓標は立つ。大多数の兵士たちは土や草、装束、そして隣の戦友たちと混ぜあわされ、牛糞のケーキがごとき瓦礫にされた。一足飛びに土となった者に、どんな墓標をくれてやればいい?
彼らは敵である前に、ひとりひとりが人間だった。故国に戻れば親が、兄弟が、子供たちがいた。彼らは否応なく徴兵されたか、家族を生き長らえさせるために命を売らざるをえなかった。きっと戻ると約束し、わずかな支度金と引き換えにこの地を踏んだ。
その対価が、牛の糞にも劣る汚泥にされることだったというのか。
ベルテンスカの者ばかりではない。あちこちに枯れ木のような遺骸が散乱している。それは人間の子供によく似た草人たち。その肌は風雨にさらされた流木のように色あせ、干した果実のようにしわだらけ。手も足も骨だけを残して乾燥し、はみでた小腸に至っては麻糸のよう。生前は青々とつややかだった青葉の鎧も、今は枯れ葉の束。青味を帯びた髪だけが縮まず、そこだけカビが生えたかのよう。
ドーファの草人は全滅した。主人の命に従い刀と弓をとり、運命をともにした。彼らの幼い姿が瞳にうつるたびに、ハインのうちに怒りが燃えた。
それは、自らを焼く煉獄の火。
小さなコボルトの男は、その場にくずおれた。
「くそっ……くそっ!」
大地を叩く。その手が草葉に切れるのも構わず。
「――なあ、ハインさあ」
ガルーは噛んでいた煙草を吐き捨て、足元の犬人に目を向ける。
「まあ、あんたとも短くない付きあいなわけよ。人生の大半を一緒に過ごしたんだから、ダンやウラの次にしゃべってるのはあんたなのさ」
ハインは顔をあげた。ガルーのまとめた髪が、白馬の尾のように風に揺れる。
「だから、形だけの姉だけど、曲りなりにも姉として聞いておきたいのさ」
――あんたは、誰の味方なんだい?
目の前が揺れる。重力を失う。
「それは……!」
ハインは即座に答えようとした。けれどそれを言葉にすることはできなかった。手の中で青草がちぎれてゆく。
それをためらいなく口にするには、あまりにも敵の死を悼みすぎていた。
「……わるい。そんな、あんたを追い詰めるつもりじゃないんだ。そこまで考えて皮肉いえるほど、あたしはかしこくない。たださ、あたしらコボルトはいつでも、強い者の味方なのさ。親がおっ死んだから好き放題やらかした。したら止水卿にとっちめられた。だからあたしらはここにいる。
――きっと、捕虜になったらヘラヘラ笑って、ベラベラ何でもしゃべるさ。
でもハイン、あんたは違うんだろ?」
犬人の男は、はっとその顔を仰ぎみた。コボルトの牝は、卑屈な笑みを浮かべていた。自分自身をせせら笑うような、淡く薄い笑みを。
「やっぱ、あんたはコボルトにゃなれないよ。ちょっぴり、ねたましいねえ」
「……すまない、ガルー」
差しだされた白い手をとり、ハインは立ちあがる。
ガルーはもう一度だけ敵陣の方角を見た。
「とりあえず、ドーファの首をとった勢いで攻めこむつもりはないみたいだね」
「ああ。こちらはドーファとその草人をすべて失ったが、あちらも壊滅的のはず。同盟軍をまるまる温存するこちらが有利、そう判断するだけの頭はあるらしい」
「よーし。あたしはこのまま子供たちと偵察を続けるよ。ハインは?」
「一旦、帰投する。何かあれば狼煙をあげてくれ」
ふたりは目配せすると、ガルーは森へ、ハインは川へ歩きだす。
「ああ、そうだ」
ガルーが振り返ると、ハインは舌を鳴らしながら指を振っていた。
「ベラベラ何でも喋る、はないだろ。おまえが一番の兄弟思いなんだから」
ガルーはふっ、と笑った。そして、ばーか、と軽くののしると、森の中に消えていく。自分もあの兄弟が嫌いではないのだな。そう思うと、ハインの胸が少し軽くなった。
ハインは本陣の方角、川へ向かって周囲を警戒しながら歩きだす。ふとその時、先ほどの草人の遺骸が目にはいる。
からからに乾いたその胸のなかで、何かがきらめいていた。
それは、八面体の黒曜石に似た石だった。その表面には血潮のように、赤いひび割れ模様が対称に入りこんでいる。ハインはそれに既視感を覚えたが、果たしてどこで見かけたものか、思い出せなかった。
それはどこか、胸騒ぎをおこさせる、禍々しさのある模様だった。
ハインは今後のことを考えて、頭を痛めながら本陣へ戻った。
ヴァルターはおそらく、敵陣に動きなしの知らせを好機ととるだろう。そしてすぐさま攻勢に出る恐れもある。ここは攻めるにせよ、残った草人と連携をとり、一度に叩き潰すに限る。だが、岩人が人間に不信感があるのと同様、人間も岩人を信用していない。
森を開墾し、鋼や貴金属といった“邪悪な純粋さ”を作る人間。かたや、神から信任を得た土地を繁栄させることを阻む“拓かれるべき森の古き門番”。
この溝は大きすぎる。
まして、敵も人間の国となれば、同盟を結べたのさえ奇跡に近い。フェルゼンが理解のある人物で助かったが、ヴァルターの機嫌を損ねずに説得するのは、さぞ骨の折れることだろう。彼は自らの利益――富や名誉にしか興味がない。友軍が増えれば、自分の分け前が減ると考える人間だ。
ハインはたまらず、煙草に火をつけた。
本陣に戻ると、大きな戦さの後だというのに、おだやかな空気が流れていた。
主戦力を失った直後だというのに、兵たちの間に笑顔が広がっている。
妙だな、と思った矢先。
「あっ、ハイン、おつかれさま! こっちこっち!」
人垣のなかから、飛びだす愛犬の姿があった。リタはハインの前でかがんだり跳びはねたりして、本陣の一角へ先導した。
そんなリタに、そんなに嬉しいことがあったのかとハインは思う。
リタについてゆくと、兵士たちの人だかりが見えてきた。
「うぁ、あ~!」
そこでは先だってハインが助けた幼い少女が、がつがつとスープを貪っていた。それを兵士たちは見守り、これも食え、と保存食を山積みにしている。その中にはダンもおり、少女が椀を空にする度によそいなおしている。その構図にハインはおおよその事情を察した。
そういえば、とハインはつぶやき、詠唱を始めた。リタはハインのそんな様子に感づき、慌ててその背を追う。近づいたハインは、いきなり右手を少女に向けた。
一瞬、ハインの手からかすかな空色の光がほとばしり、少女を包みこんだ。
少女はきょとんとしてハインを見る。ハインは「まあそうか」とひとりごちて、警戒を解いた。リタはほっと胸をなでおろす。
「ずいぶん痩せた子だと思っていた。元気そうで何よりだな」
ハインが声をかけると、兵士たちも豪快に笑ってこたえる。少女は食事にありつけたのが嬉しいのか、幸せそうだ。ぼさぼさの長い髪で表情はうかがえないが、にんまりと顔全体をまんまるにしているのは分かる。兵士たちも元はただの農奴、ほとんどの者が妻子持ちだ。故郷を離れはや一月、彼らにとってこのあどけない微笑みは喜びそのものだろう。
「見直したぜ、犬っころ。あんたは血も涙もない“黒犬”かと思ってたぜ」
名も知れぬ兵士が、ハインの肩をたたいて言う。
ハインはあいまいに相槌をうち、少女に「うまいか」と声をかけた。
「ああー!」
本能そのままの返答に、ハインも人並みに笑った。その顔がぎこちないことに気づいたのは、たった一匹だった。リタは、それがハインそのものではないことを悲しんだ。
「いい食いっぷりだなあ、確かにうちの仔犬そっくりだ」
「本当にな。まさしく仔犬だぜ」
誰が言い出したのか、少女は“仔犬”と呼ばれていた。名を言うことすらままならない、無害で無力な少女。仔犬か、とハインも口のなかでその名を反芻した。
「ほほえましいものですね、ハインどの」
ふと気づくと、隣にはアーレントが立っていた。赤い僧衣をなびかせて、柔和な笑みを浮かべている。ハインはその通りだと受け答えしたが、どこかその表情に違和感を覚えた。高貴な神職らしい、高潔な光がかげるような。
「なあハイン。こいつ、いつまで置いとく気だ。ここは戦場だぞ。
つうか、どんだけ食うんだこいつ。これじゃまるで――」
ダンがおたまで仔犬を指し示し、非難する。ハインは司祭から目を離し、改めて仔犬をみた。肌着一枚とまだ寒そうな格好で、それすら泥や垢でみすぼらしい。
こんな場所をうろついているところをみるに、戦いに巻きこまれて逃げだしてきたのだろうか。少なくとも、人間はウォーフナルタの民ではない。
「そうだな。戦火に巻きこむようなことはしたくない」
よし、とハインはかがむと、仔犬と目線をあわせてほほえんだ。
「きみ。どこから来たのか、言えるかい。お父さんやお母さんは?」
ハインの口調は、みなが知るそれではなかった。朗らかな、ひとなつこい言葉。周りの者は互いに顔を見あわせる。犬の顔ながら、十歳は若返ったように見える。リタは思わず目を背けてしまう。
「あぁう……うぅ……」
仔犬は顔を暗くし、何か言いたそうに口をぱくぱくさせる。だが、出てくるのは喃語だけ。ハインは仔犬と同じくらい悲しそうな顔をして、ごめん、とつぶやく。ハインは立ちあがる。こちらの言葉は理解しているようにみえるが、喋ることは困難なようだ。
「やはり知恵遅れというわけじゃないらしい。よほどつらい目にあったとみえる」
その時にはもう、ハインはいつもの陰鬱な渋面に戻っていた。
「ダン。里が分からない以上、今はこの少女を避難させる余裕がない。頼めるか」
「おいおいマジかよ。こちとら飯の煮炊きと兵の世話で手一杯だぜ。
第一、あの将軍になんて言うつもりだ」
ハインは眉間のしわを深めた。確かに、彼なら捨ておけと放言しかねない。
「それでしたら、私があずかりましょうか。将軍には私から――」
アーレントがそう言いかけた時、背後の人だかりが左右に割れるのがわかった。
ハインはぎょっとした。まさにその彼が何食わぬ顔で立っていたからだ。だが。
「それには及ばん。このヴァルター、高々小娘一人の糧食に吝嗇すると思うてか」
ハインは目の前の男を、別人ではないかと思わずまばたきした。
「みな、この仔犬を可愛がっているのだろう? なればそれも必要なこと」
ヴァルターは周囲を見渡し、視線を集めた。そして大きく息を吸いこみ、大声を張りあげる。
「よいか貴様ら! 我らは確かに、オッペンハイムを守るために馳せ参じたわけではない。だが見知らぬ土地でも、守るべきものは変わらずある。
侵略のため、このような少女の住まう村を蹂躙してきたベルテンスカを見よ。敵はもはや人にあらず、悪魔である。対する我らは、少女のために涙を流すことができる。それはすなわち、我らが血のかよった人間であることの証だ。
悪魔を屠ることができるのは人間だけ、そのことをゆめゆめ忘れるな!」
彼の領民である兵たちは、みなそれぞれが大きくうなずいて、口々にその名を称えた。演説を遠巻きに見ていた犬人も、話は分かっていないものの、分からないなりに感心した顔をしていた。
「ヴァルターさん、すごいね」
「ああ。俺は多少、見損なっていたらしい」
リタをなでながら、ハインはこたえた。ダンはどこか胡散臭そうにみていたが、ハインは素直に喜ばしく思っていた。動機はどうあれ、兵をまとめるカリスマがあるに越したことはない。
「では、しばらくこの子の面倒は私がみます。ダンどのもよろしいですね」
「ああ、助かるぜ。ウラに押しつけようかと思ってたところだしな」
荷物が減ったと言わんばかりに、ダンは卑しい笑いを浮かべる。アーレントはうなずいて仔犬に声をかけ、手を引いて立ち去る。
仔犬は無邪気に、ハインに手をふりつつ去っていく。
その時、うわさされたぶち模様のコボルトが走ってきた。
「伝令、でんれーい! ん、どうしたのダン」
「いやなんでも。それよか何だ?」
「ああそうだ、将軍様。フェルゼン・ランペール殿から、話をしたいとのことです」
呼ばれて振り返ったヴァルターは、にやりと笑う。
「思ったより遅かったな。此度は私もゆくとしよう。聞こえたか、犬」
ハインは口では承知したと言ったが、憂鬱そうに煙草に火をつける。
その背後に、小さな影が立った。
「わたしも――ゆきます」
その、川のせせらぎのようにかぼそい声は、不思議と通った。
そこには、主を失った草人――スアイドが、透徹した表情で立っていた。
森の奥深く、青味を帯びた雪の残る土地。ハインが訪れた朝方から、草人の砦は大きく様変わりしていた。その半分以上が欠けている。ハインは察した。
先導するスアイドの後ろには、ハインとヴァルターがいる。前と違い、援護射撃してくれるアーレントはいない。ハインは将軍の評価をあらためつつあったが、この対話で大きな決裂を生みはしないか、内心ひやひやしていた。
一日も経っていないのに、砦の中は全く見覚えがなかった。いや、おそらく違う場所へ足を踏みいれているのだろう。今度はそれほど長くは歩かなかった。
「やあ。一日に二度も会うとは、ハイン殿も悪運強い」
空間が開けると、なめらかでたおやかな声がハインにかけられた。その陶器のような肌の岩人は、今は雨の日のようにより暗く色づいてみえた。
「スアイドも、ご苦労だったな。だが、勘違いするでない。
ドーファはお前のことを気に入っていた」
透きとおるような顔は崩れない。それを見て、フェルゼンは言葉を切った。
対照的に、ヴァルターはいきなり口を開いた。
「ルテニア語を解するのは大いに結構。だが、私にはかける言葉はないのか。
それに貴殿も岩人ならば、正体は岩山のような巨体なのだろう? 会談したいと申し入れてくるのならば、真の姿で席につくのが礼儀ではないのか?」
ヴァルターが挑発的にいう。最後に回されたのが癪だったのだろう。ハインは冷や汗をかいた。
「ほう。淑女の生身を見たいとな。それがヴェスペン同盟の礼儀なのか?」
沈黙が流れる。ハインは何かとりなすべきか、とさらに油っぽい汗を流した。
けれどそれは、杞憂だった。
「ぷっ……はっはっは! これは失礼、この非礼は詫びよう」
「こちらもそうしよう。ヴェスペン同盟軍の総大将どの、名乗らせていただこう。私がドーファの後を継ぎ、指揮をとることになったフェルゼン・ランペールだ」
「私はヴァルター・サウル・オッペンハイムだ。よろしく頼む」
「ふむ。ではオッペンハイム殿と呼んで差し支えないだろうか」
「堅苦しいのは好かん。ヴァルターでよい」
にわかに和やかになり、ハインはほっとする。けれど内心、よく言う、と皮肉を転がしていた。事実、彼は礼を欠くとすぐ怒鳴るような男でもある。
「了解した。では貴殿もフェルゼンと呼ばれよ」
「よかろう。してフェルゼンよ、我々に何用かな」
分かりきった問い。奸悪な笑みにフェルゼンは小さく息を吐いた。
「もはや隠しだてする余裕もない。単刀直入に言おう。ドーファとその草人亡き今、私だけでウォーフナルタを防衛することは不可能だ。……ヴェスペン同盟軍、その力を拝借願いたい」
ヴァルターは意地の悪い笑みを深め、心底愉快そうに笑った。
「さて、な。我らは人間と犬人の寄せ集めにすぎん。赤の他人のいさかいに無理に首を突っこんでいるのだ、士気も良くはない。
それに、ドーファが道連れにした皇国軍も少なくはないはずだ」
その内容とは裏腹に、顔面は自信で満ちあふれている。
まったくタチの悪い男だ。ハインはうんざりとその顔を見ていた。
「確かに敵軍は潰走した。しかし、私の麾下にある草人は千もないのだ。幼体や蛹を除けば、六百がせいぜいだ」
ヴァルターは眉をあげ、「さなぎ?」と繰り返した。
ハインはスアイドを示し、耳打ちする。
「閣下。このような姿が成体ですが、その前には蛹や幼虫のような姿を取るとか」
「ドーファは蛹の促成羽化や、断種を命じていた。――今思えば、こうなることを予期していたのやもしれぬ」
そういうフェルゼンは、重く沈んだ目でスアイドをみた。
彼女がいること、そのものが耐えがたいかのように。
「話を戻そう。皇国軍が壊滅したとはいえ、元の兵力差は大きい。このまま完全な勝利を収めようと考えるなら、どうしても貴殿らの力が欲しいのだ」
このとおりだ、と座したまま、フェルゼンは頭を下げた。ハインはひとりなら、すぐにでもその頭をあげてもらっただろう。けれど、ここにはヴァルターがいる。ドーファに軽くあしらわれたことを、まだ根に持っているのだろうか。
そう考えていたハインは、驚くことになる。
「……失礼した。虫の居所が悪かったらしい。このまま性悪だと思われては困る、顔をあげられよ」
あげた顔は、呆気にとられていた。
「我ら、ヴェスペン同盟もベルテンスカの横暴を許すことはできない。敵の敵は味方という。ここはともに戦わねばならぬ局面とみた。こちらからもあらためて、共同戦線の発足を願いたい」
フェルゼンは本来の深い慈愛のにじむ顔に戻り、ヴァルターの差しだした手をとった。呆然としたのはハインだ。いくらなんでも、これがあのヴァルターか、と思わずにはいられない。
だがそのまま、そこからの会談はとんとん拍子に進んだ。互いの情報――兵力、兵站、練度などを共有し、そこから人間と犬人、草人の特徴を加味した配置を話しあった。そして可能な限り、速やかに掃討戦を行うと決めた。だが、その日取りで意見は衝突した。最低でも七日は合同で訓練すべきだ、と主張するフェルゼンに、ヴァルターはそんな余裕はないと突っぱねた。
「こればかりは私も我が将軍に賛成です。時間を与えてしまっては、地力のある敵が有利になる一方です」
ハインがそう助言すると、フェルゼンも考えを改めた。しかし互いに不信感がある間柄、すぐさま背中を預けあうことなど不可能。せめて三日、相互理解を図ることにはヴァルターも合意せざるをえなかった。そしてその翌日、朝駆けを敢行する。作戦はそう定まった。
最善ではないが、不可能ではない。ハインはそう、自らに言い聞かせた。互いに大きな痛手を受けた今しか、向こうに侵略を考え直させることはできない。もしこの侵略が成功すれば、今度こそベルテンスカを止めることは叶わなくなる。
「ふむ、ではこれでよしとしよう。前線の指揮を私が執ることに異存はないな?」
「ああ。指揮官が多くてよいことはひとつもない。ただし――ひとつ条件がある」
ヴァルターは相手を値踏みするように、相手の顔を見つめた。
「私の草人たちの指揮についてだが。
貴殿の指揮下にスアイドを入れ、スアイドから行ってもらいたい」
なにい、とヴァルターは隣に立つ少女をにらんだ。スアイドは静かにその目を見つめ返したきり。ヴァルターはぶつぶつと文句をいうが、妥当かと飲み下した。
「構わないな、スアイド」
「承知いたします」
「……大丈夫なのか?」
ハインは思わずスアイドに声をかけた。先の戦闘においても、かなりの動揺を受けていた。スアイドを幼子と思っていたハインは、指揮権を持つにふさわしい人物なのか疑問だった。今は妙に落ち着いていることも、不安に拍車をかける。
「――介添人が離れたのだな、スアイド。……いや。目が覚めたというべきか」
「はい。わたしがなすべきことは、すべてわかっています」
その答えに納得したのはフェルゼンだけだ。ヴァルターも「おい、こやつは正気なのだな?」とハインに耳打ちする。
「安ぜられるな。スアイドは一人前の草人となった。最後のドーファの草人として必ずや立派に戦ってくれるだろう」
ハインがどこか釈然としないままうなずくと、ヴァルターもまあよい、と了解した。それはスアイドが役立たずであれば、排除する言い訳もたつか――という納得ではあったが。
会談は淀みなく終わった。ヴァルターは満足して席を立つや、足早に立ち去る。
「そうだ。ハイン殿」
去り際、フェルゼンに引きとめられ、ハインはふりむいた。
「これで終わりだとよいが、ドーファならそうは思うまい。何か番狂わせがあると思っていたほうがよい。特に、アイヒマンに代わって現れた“黄銅の騎士”をどうにかせねばならぬ」
ハインは沈黙で肯定した。
「はっきりいおう。雑兵はスアイドがどうにかできよう。だが“黄銅の騎士”を倒せるとすれば、貴殿をおいて他にいまい。貴殿がカギだ」
ハインは言葉を探した。とても勝ち目がないと感じたことをどう述べればよい。
そう――尋常の方法では歯牙にもかけられまい。
「心得ました。命を賭して、かの首を討ちとりましょう」
後ろから、ヴァルターの不機嫌な声が聞こえる。フェルゼンはハインの決意を察し、目を伏せる。ハインは背を向けて立ち去ろうとした。
その時、彼は思い出した。フェルゼンの周囲、ちらりと見える八面体を見て。
翌日から人間や犬人、草人とのぎこちない共同生活は始まった。
フェルゼンの草人たちは、自分たちの二倍の背丈をもつ人間を、冷たい奇異の目で見ていた。人間もいざ並んで見てみると、草人の小ささと生意気さ――成人である彼らにとっては、対等に口を利いているだけなのだが――に苦々しく罵る者も少なくなかった。犬人は犬人で、ふんふんとその臭いをあからさまに嗅いでまわり、すぐに媚びへつらう必要のない相手と思ったらしい。犬人たちは草人と仲良くしようとした。つまり、人間にへこへこした方が得だぞ、とささやいて回り――それは彼らなりの親切心だったのだが――大いに草人の誇りを傷つけた。
そんな有様だったので、ハインは初日の朝から胃に穴があきそうだった。
ヴァルターは涼しい顔だったが、ハインが訊くと「元より期待していない」、とこれまた涼しい回答だった。
とにかく、種族間の融和が急務となった。浮き彫りになった軋轢を埋めるには、色々方法がある。ただ、三日しかないというのが致命的だった。
まずハインは、合同訓練を行った。ともに走り、矢を射かけ、剣を手に突撃する。まず、草人たちは犬人が自分たちよりも足が早いことに驚いた。体格の差を加味すれば大差ないが、犬人を誇りのホの字もない連中だと思っていた草人たちは、それなりに面食らった様子だった。また、走る距離が長くなると、真っ先に草人が疲れ果て、次に犬人、最後まで走り抜いたのは人間だった。そのことを不思議に思ったのは、他でもない人間たちだった。目立った長所がなく、何かにつけて器用貧乏と言われる人間だが、人間には持久力という最大の長所がある。まずはそのことを自覚してくれただけでも、成果はあったとハインは安心した。
次の射撃では、誰もが思っていた通りの腕前を草人が見せてくれた。ハインの配下も噂には聞いていたようだが、目の当たりにすると驚嘆の声は尽きなかった。ヴェスペンにおいて矢は数を打ち、雨あられと降らせることに意味があるものだ。ところが草人にとっては違う。一矢で一人を殺すものなのだ。人間には点にしか見えない的でも、そしてそれが動き回っていても、草人たちは確実に命中させる。それを敵に回したらと恐怖するもの、味方で心強いと思うもの。主に犬人が前者、人間が後者だった。
最後の突撃訓練では役割がはっきりした。犬人は足の速さを活かして切りこみ、草人は一糸乱れぬ連携をみせ、人間は確実に重い一撃を繰りだせる。
言葉にせずとも、それぞれの特色を兵たちはまずまず理解した。
そうこうするうちに日が天頂に上ったため、飯炊きがはじまった。ダン率いる兵站部隊が大量のスープを作るや、人間と犬人は群がるように食事をはじめる。ハインは昼下がりまで休息を命じ、観察に徹した。
犬人はろくに噛まずにパンやスープをかきこむ。人間の兵たちもそれぞれのペースで食事をする。草人たちはそれを、首を傾げながら見ていた。時折、一緒に食わないか、とパンやスープを草人に差しだす者がいる。だが彼らは固辞するか、パンのみを少量口にするだけだった。
草人は彼らの言葉で事情を説明するが、当然全く通じない。リタが気を利かせ、あちこちで通訳するのを又聞きするには、「今日はいい天気だからおなかいっぱいなんだ」とかなんとか。そのほかには、スープに肉が入っていることが禁忌であるらしい。兵士たちは不思議そうに聞き流すか、子供じみた言い訳だととった。
けれどそれは、おそらく事実なのだろうとハインは思った。
食事が終わると、彼らは間にリタを挟んで雑談したり、野の草で遊んだりする程度には打ち解けていた。ルテニア語や竜語、草本語が入り乱れるさなかに身をおくと、各種族の傾向がよくわかった。犬人は享楽的で刹那的、大騒ぎすることを好む。そして強いものにへつらう一方で、弱いものになれなれしい。草人は、みなおしなべて寡黙で個性にとぼしい。そればかりか、戦闘時の荒々しさからすれば考えられないほど、おっとりと無為な時間を楽しんでいる。人間はというと、そのどちらにもあわせられており、犬人よりはいくぶんか知的な遊びに興じてもいる。
午後もほぼ同じ訓練を行ったが、あまり進展はみられなかった。敵対から黙認程度の態度の軟化はみられたが、わだかまりはなかなかとれない。ハインがどうしたものかと首を巡らせているうちに、太陽は赤く、影は長くなってしまう。
ランプひとつのテント。
ハインはほかの兄弟にまぎれ、地図とにらめっこしていた。
敵陣にはまるで動きがない。こちらの動向を見ればすぐにでも力押ししてくることは明白なのに、不気味だ。
リタにはそのまま、兵士たちの間をぬって駆けまわり、おしゃべりさせている。夕陽が沈めばみな眠るだろうが、それまではリタが必要だ。最初は喋る犬と誰も彼もぎょっとしていたが、ほんの数日でたいていの者はかわいがるようになった。そこに関していえば、人間や犬人も、草人も同じだった。通訳を必要としているというのが大きいだろうが、やはりリタの天真爛漫な性格は強いのだろう。
けれど、こんなことで融和は図れるのだろうか――。不安がぬぐえず、ハインはため息をついた。その声に、ぶち模様のウラが顔をあげる。
「どうしたの、ハイン」
犬の顔をもつ犬人のなかでも目立つ、仔犬のような童顔が首をかしげている。
「ウラ。今日の軍規違反はどれだけあった」
「えっと――」
喧嘩が三件、罵倒からそうなりかけたものが八件。しめて懲罰者十八名。半分は草人絡みで、残りは人間と犬人の間で。
「人間と犬人の軍ならこんなものでしょ。
草人が増えたんだし、二千近い軍としてみたら少ないよ」
ハインは押し黙った。ウラのいうことも分かる。ただ、これは過去の軋轢がまだあることの証拠でもある。
犬人と人間も、仲がいいわけではない。犬人はそもそも規則を守るのが苦手だ。腹が減れば目の前のものを食うし、発情期に統制をとるのは不可能。逆を言えば飯をやりさえすればかなり従順なのだが、頭数にはなっても頭脳労働はできない。そのうえ元は奉仕種族なので、犬人同士でまとまって竜語でひそひそするのだ。おつむが足りないと偏見をもっている連中には、不愉快この上ないことだろう。たとえそれが、さっき食ったイチジクがうまかった、程度の話であっても。
それに、そこまで的外れな偏見でもない。事実、ハインの義兄弟たちはこれでも止水卿の指輪をはめ、その加護を受けている。加護でもなければ、頭目は酷な仕事だっただろう。彼らに比べれば、普通の犬人の出来はかたるにおよばない。そんな者たちがいきなり街になだれこみ、発情期には親子や兄弟でさえつがう。そしてネズミのように増える。彼らを徴兵しているのは、何も頭数が足りぬだけが理由ではない。生活を圧迫された人間の心境は、推して知るべきだ。
とはいえ、犬人にも人並みの心はある。何しろ今は自分がその身なのだ。本能のままにふるまった結果、針のむしろとなった経験はハインにもある。誰のせいにもできない過失は、簡単に人を壊すことができると身をもって知っている。
犬人は先が分からないが、目の前に現れた責任は理解できるのだ。
「犬人も人間も、草人も。たったひとときでいい、一致団結して戦えれば――」
「できるわきゃねえだろ。どいつも毛皮を剥がれた連中だ。表面上でもなかよしこよしを演じれりゃ御の字だろ」
木炭で計算をしていたダンが憎々しげにいう。ハインは反射的に言い返そうとしたが、飲みこんだ。“毛皮を剥がれた者”、それが犬人の包み隠さぬ本音だ。
「ウラ、おまえもそう思うか」
話題を振られて、ウラはどもった。
「ぼ、ぼくは……。ぼくも、草人は青臭いし、なんだか不気味だなって、思う。
岩人のためなら簡単に死ぬのもおかしいし、それが何人かじゃなくて、みんながみんなだなんて。ぼくの息子たちも気味悪がってる」
ハインは否定できなかった。草人には人間らしさがなさすぎる。人の形をした泥人形だと言われれば、まだその方が納得できるだろう。なにか、大きな出来事が必要だ。草人も犬人も、同じ口を利くものだと納得できるような物事が。
「いるかい、ハイン」
テントの向こうから、馴染みのある犬人の声が聞こえた。ガルーか、とハインが答えると、月毛のコボルトがすだれをかきあげて入ってきた。
「お前を探してたから、連れてきてやったよ」
その後ろから顔を出したのは、スアイドだ。
「どうかしたのか?」
「お伝えしなければならないことがあるのです。明日は私達が“月花祭”を執り行う日にあたります。そちらの風習で言えば、収穫祭のようなものです。ですが、より重要なものでしょう」
「おいおいおい、明後日には総攻撃をしかけるんだぞ。そんな時間はねぇだろ!」
ダンが呆れて墨筆を投げるが、スアイドの表情は変わらない。
他方、ハインは顔面のしわをいっぺんに引き伸ばした。
「それは――我々が参列してもいいものか?」
「ヴァルター殿も同じことを問います。本来なら私達と主以外は見てはならないものですが、主がよいとおっしゃっています」
「……ということは、こっちの将軍もフェルゼン殿も、ぜひそうせよと?」
スアイドがうなずくと、ハインの顔に血色が戻ってきた。まだ望みはある。
「では、伝達します。月花祭は明日、日が沈むころから始まります。私達は昼から準備で半分の人員を向かわせます」
「承知した。祭りに際して特別な礼儀などあれば、俺から兵たちに知らせよう」
「それでは追って、別の者に連絡させます」
スアイドはそういうや、手短に会釈して退席した。
「祭りか。何年ぶりだろうな」
ハインがそういうのを、ダンは横目ににらんだ。
すると、黙っていたガルーがため息をつく。
「……ダン。あんたさあ、いつになったら偵察隊に戻ってくるんだい」
ダンは目を見開き、鼻づらにしわをいくつも刻んで立ちあがった。
「ガルー、てめえ……」
「あんたが抜けたせいで、あたしが貧乏クジを引いたんだよ。あたしみたいな、真っ白な犬人がね。あたしじゃ威力偵察なんてできない。あたしもあたしの子も、意気地なしだからねえ」
でも、あんたはもっと腰抜けになっちまったんじゃあないかい。
ダンは妹の襟首をつかみ、うなり声をあげて威嚇した。
「てめえに何が分かる……!」
「おい、よせ!」ハインとウラは立ちあがり、ダンを引きはがす。
「分かるさ。同腹の五人兄弟なんだからね」
ガルーの言葉に、ダンは顔から色を失った。ウラの顔にもさっと影がさす。
ガルーの表情は、青ざめた月よりもぼやけていた。
「ロンもパテンも、泣いて許しをこい、しゃべれることは何でもしゃべった――こちらの作戦も、軍備も。しゃべりすぎて嘘を疑われ、拷問のはてに狂い死んだ。あんたも、そうやって死にたいのかい?」
ダンは耳を伏せ、尾を股に巻きこみ、地面を見つめていた。肉球がべとべとだ。そんなダンから、ガルーは離れていった。
出てゆくガルーに、ウラは非難の声をあげる。
「それなら、そうなるのは――真っ先にそうなるのはぼくだ! 末っ子に甘えてここまで来たぼくが、ぼくは――」
ガルーは歩を止め、うつむいて黙りこむ。
「そのあたりにしておけ。それは済んだことだ。部下を抱えるおまえたちが、よりにもよって今、蒸し返すべきことじゃない」
ハインの言葉にこたえるものはない。
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