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  一章 くさはらをゆく

戦端と邂逅

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 炊事の煙が途絶えたころ、ハインとリタは丘から仮設の兵舎に降りていった。みな、あらかた食事は終えており、和やかに談笑している。
兵の過半数は人間だ。総大将であるヴァルターに従う、オッペンハイムの民がその多くを占める。残りは他の諸侯の領民だが、みなベルテンスカに恨みのある土地のもの、ということは共通している。首を縦に振る諸侯からかき集めた結果こうなったのかもしれないが、悪いことではない。先の軍が頭を失って総崩れになったのは、傭兵がほとんどだったから、という点が挙げられる。
 戦う理由がカネか、祖国のためかという一点はなかなかに大きいものだ。
 だが実際には、少なくない人数が犬人コボルトで占められている。犬人は犬人で、人間は人間で集まっているのを見るに、また頭痛がしそうだとハインは耳をかいた。
 ここ数年、サーインフェルクの犬人は明らかに増えた。どうもエクセラードでなにかがあったらしく、結果としてサーインフェルクのような自由都市に犬人が流入しているという。彼自身もその解放犬フリードッグのようなものだが、気分は複雑だった。
「お、ハインじゃねえか。今さらメシか?」
 目ざとくハインを見つけたダンが、尻尾をふって近寄ってくる。
 リタも「おなかすいたー!」と快活に答える。
 ふと、ハインは思い出す――彼はこの三兄弟と、元は指南役として知りあった。だが分かったのは、自分には無理だということ。しかし、無駄ではなかった、と。
「ああ。まだあるか?」
 ダンが持ち前の人懐こい顔で、こたえようとした時だった。
「ああ、あ、ぅあ、あぁぁ――!」
 つんざく甲高い悲鳴。その場の人間はもちろん、コボルトまでもが一斉に顔をあげる。ダンがきょろきょろしているうちに、ハインは脇目も振らずに走りだす。
 ハインは気づいたのだ。
 ほどたかい丘から、人間の子供のようなものが転がってきていることに。
ご主人様マスター、あぶない!」
「わかっている!」
 でんぐり返り、声にならない声をもらしながら、それは転落しつつあった。幸いその斜面はなだらかなものだったが、その進路には割っていないまきの山があった。
 ハインを除き、誰もが見ていることしかできなかった。
「うあぁぁっ?」
 その時、斜面のでっぱりに弾きだされ、その体が宙を飛んだ。その先には、鋭い枝を付けたままの丸太の山。
「喋るな!」
 ハインは身を投げだして、その子供を空中で抱きとめた。
 間一髪だった。数度転がり、ふたりはどうにか止まった。
 真横から割り入ったおかげか、材木の山に激突する寸前で止まっていた。
「いつつ……腰が。大事ないか?」
「大丈夫か、はこっちのセリフだよ! ハインのばか!」
 慌てて駆けつけたリタとともに、腕のなかの子供を見る。
 それは少女だった。明るい茶髪は長く、腰上まであるが、フケだらけで絡まっている。背丈はハインと大差ないだろう。衣服はシュミーズ一枚で、汗染みや茶色い染みだらけ。おまけに大股を開いて目を回しているので、ただでさえ丈のあっていない服がはだけている。ハインは難しい顔をして、その裾を直してやった。
「女の子……? でも、どこから?」
 リタは丘の方を見る。けれど、そこにはナズルトーの険しい森しかない。
「……よかった。ケガはないようだ」
 おうい、とダンが駆け寄ってくる。
「なんだなんだ、またガキに情けをかけるのかよ」
「兵なんかと一緒にするな。おい、分かるか」
 軽く頬を張られて、我に返った少女は前髪のなかからハインを覗く。
「うぁ?」
「名前を言えるか? 住んでいた村は?」
「わぁあ……うぅ……」
 喃語なんごらしきものが漏れるが、ハインやダンの顔にうつむいてしまう。ハインがもういちど問うが、また言葉にならないうめき声がもれるばかり。十歳になるかならないか、といった歳だろう。リタは急に悟ったような顔になり、
「まさか、魔獣に育てられた子供、とか?」
「そんなわけないだろ。おしがこんな歳まで育つことも少ない。なにかひどい目に遭い、言葉を忘れてしまったんだろう」
 不意に地響きのように大きな腹の虫が鳴る。うぁ、と物欲しそうな顔があがる。
「なるほどな。メシの匂いにつられてきたのか」
「……ダン。この子に食事を食わせてやってくれるか」
「はぁ? おめえのカネじゃないんだぞ。後でどやされるのはオレなんだからな」
「俺の分をくれてやってくれ。それなら文句はないだろう」
 ダンはハインが有無を言わせない目をしているのをみて、いつもの病気だなとため息をつく。
「わーったわーった。一度きりだからな。ただし、おめえもちゃんと食え。お前は大事な虎の子なんだぞ」
「だって。よかったね!」
 リタがそううわずった声で話しかけると、少女はかくんと首を傾けた。そして分かっているようないないような、あいまいな笑みを浮かべる。そのだらしない表情に、ハインの難しい顔もふとゆるむ。リタはそわそわと足踏みするが、内心、そんなハインに、飛びあがりたいくらい嬉しかった。
 けれど、そのかすかな安らぎは、春の空のように一瞬でかげってしまう。
 どん、と呪文が炸裂するような音。地響き、めきめきと何かが折れる音。
 のどかな空気は切り裂かれ、ここが戦場だと思い出させる。
 一同は、空を見上げた。
 そこには、侵略者に憎悪を燃やす、ドーファの巨大な顔があった。
 その肉体は、居城である砦そのものが動きだしたかのよう。
 ただごとではない。全員が理解した。
「ダン、この子を頼む! リタ!」
「本部だね、りょうかいご主人様マスター!」
 リタはハインがまたがるか早いか、その辺の馬よりも速く駆けだす。
「チッ、またオレに子守させる気か! くそ、ほら、こっちだ!」
 ダンは悪態をつきながらも、少女の手を引いて歩きだす。少女はつんのめるも踏ん張ると、ハインの背中をちらと見た。
「あう……?」
 
 将軍のテント。そこが作戦本部だった。本部はひどく混乱しており、情報が錯綜さくそうしていた。その中でヴァルターは冷静に判断し、最小限の指示を飛ばしていた。
だが、ハインの姿をみつけると青筋を立てて怒鳴りはじめる。
「貴様、話はついたのではなかったのか! ドーファは一体なにを考えている!」
 森にほど近いこのテントからも、ドーファの城のような巨躯はみてとれる。
 ハインは困惑して、本部の隅でうつむいている草人アールヴに問いただす。
「スアイド、主君から何か伝令は?」
 けれど、スアイドは首を振るばかり。
「なにもありません。ですが、我らが主は雌雄を決するつもりのようです」
 ヴァルターは開いた口が塞がらず、呆れ果てた顔をしている。ハインがいう。
「詳しく、教えてくれ。俺達もできうる限りのことをしなくてはならない」
「あれが、我らが主の玉体なのです。砦そのものが、主なのです。岩が人は滅多にその玉体を動かすことはありません。――それは命を縮めてしまう行いなのです。同朋もほぼすべてが、我らが主の露払いに参じているように感じます。
 ああ、主よ、どうして……」
「それでは、捨て身の突貫ということか! まずいことになった。
 ヴァルター殿、我々も――」
「ならぬ」
 ハインが振り返ると、仏頂面のヴァルターがハインをにらみつけていた。その手はきつく握りしめられている。
「ここまでコケにされて追従するなぞ、私だけでなく同盟の名にまで泥を塗る。そも、我が民も納得すまい」
「では、第二次同盟軍はナズルトー戦役に参戦しながらも、指をくわえて趨勢を見ていただけ――そう後世にそしられてもいいというのですね」
 ヴァルターは言葉につまり、黙りこむ。
「閣下のお気持ちは理解します。私もすげなく追い返されたのですから。
 ですが、ここが今後の戦局を決定するでしょう。我々が参戦するのが掃討戦か、それとも防衛戦か、――撤退戦になるのかを」
 ハインは懇願するように、ご決断を、と言い添えた。ヴァルターは天を仰いだ。天蓋の一部がはためく隙間から、歩みゆく大山が垣間見える。
「……どのみち、あんなものと連携もなしに兵を動かせば、踏みつぶされるのがオチだ。なにか策があるのだな、コボルト」
 ハインはうなずき、たずねた。「ガルーは?」
「偵察部隊なら既に展開している」
「では、私が先行します。ガルーの報告を受けてから、閣下は本陣の防衛を。私はドーファ氏を補佐します。私ひとりが欠けても、大勢に影響はないでしょう」
 ヴァルターは鼻で笑う。
「よくそのような口をきいたものだな。貴様はこの軍唯一の魔術師だぞ」
 ハインは抗弁せず、しずかに次の言葉を待つ。ヴァルターはじっと、みずからの半分程度の背丈しかない犬人を見つめた。――早々に魔術師を失う危険を冒し、ウォーフナルタの大将を守るべきか。どう転んでも、敵軍は大打撃を被ることは間違いない。なら、当初の打算どおり、おいしいところをかっさらうのも可能かもしれない。思惑通りに進めば自分は――ウォーフナルタを壊滅の危機から恩讐を越えて救った英雄となる。もしこの犬を失えど、止水卿の首輪が外れてせいせいするだけ。なるほど、とヴァルターは胸の内でほくそ笑んだ。
「負傷することは許さん」
「ご高配、恐悦の至りにございます」
 ハインは右腕と片膝を折り、最大の礼を取った。続けて草人の使者が声を張る。
「わたしも同伴させてください。主の出陣に同伴しないなど、鉄面皮に過ぎます」
 ハインが目配せすると、ヴァルターは構わん、とぞんざいに返事した。
「俺からも頼む。ドーファ殿なしにこの戦役はなりたたない。
 リタ、久しぶりに二人乗りできるか」
「がんばる! いこう、スアイドさん!」
 
 初夏の陽光を切り裂いて、犬が草原を駆ける。その背にロングソードを背負う犬人と、竹の刀の草人。とうに前線の川は越えた。無数の鬨の声があがり、驟雨しゅううのように矢が飛びかう。けれど、そのひとつとしてハインには向けられない。
 リタがひとつ、大きく跳躍する。滞空している間に大地が大きく揺れる。地震ではない。歩みゆく大山、ドーファが蟻の子を踏みつぶす余波。いなごの大群のような矢の雨は、一矢とてドーファの皮膚を貫けない。その手にある尖塔のような剣が、大地を林ごと薙ぎはらう。哀れな敵軍は、前列から蜘蛛の子を散らすように撤退してゆく。ドーファの肩に立つ森賢者たちが呪文を唱えると、茨が地面をおおい、敗残兵たちをとらえる。そのひとりひとりを、目を覆った弓兵が射殺してゆく。
「ドーファさん……」
 リタはその一方的な虐殺から、目を背けた。はたから見れば、もはやドーファに敵などないようにすら思える。だが、ハインには違和感があった。スアイドの動転ぶりは取り残されたことだけが理由とは思えなかったし、そもそも、これほどの制圧力があるのならば、最初からあのように叩き潰していればよかったはずだ。
「スアイド殿。閣下には何か、弱点があるのですね」
 草人の少女は、ためらうように息を吐く。
 そして、風のにまぎれそうなかすかな声で、そっと答えた。
「我らが主は不老ではありますが、不死ではありません。確かにその外皮は矢を弾き、瞳ですら鋼の剣を折りましょう。ですが――もし仮にその核を砕かれれば、主とて真なる死を迎えるのです」
 なるほど、とハインはその大いなる姿を仰ぎみた。心臓か、頭か。いずれにせよ、急所を貫かれれば即死するのは人間と同じか。
「かつて、岩人の数は百を越していたとか。その泣所と殺し方を、知る者は確かにいるというわけですね」
「そのとおりです。しかし……ああ、我らが君よ。それほどの修羅の道になぜ――なぜわたしを連れていってくださらなかったのです!」
 幼い少女が君主を見上げ、懇願する。その背には二振りの刀がある。
 顔をあげれば、その君主の肩や頭に無数の草人がしがみついている。草人アールヴとはそういうものなのだろう。土なしに草が生きることはできない。
 ただ。我が身よりも主君が尊い――そんな利他的な思考をこんな小さな少女が持っていることに、ハインは胸を痛めた。その心痛は経絡パスを通じリタにもわかる。柳の枝のように軽い少女とはいえ、ふたり分の荷重に四肢が痛む。けれど、もっと苦しいものがリタにはあった。言葉にしないその悲しみはハインにも通じている。
 早く、戦さを終わらせねば。
 自らの葛藤を脇に寄せ、ハインは決意を新たに敵陣を眺めた。
 その時、なんでもない人影が目にとまった。そう、何の変哲もない人物なのだ。
 ――他ならぬ、ハイン以外には。彼は我が目を疑い、言葉を失う。
「あいつは――!」
 リタもハインの視野を覗いた。そこにいたのは何の変哲もない人間の青年だ。わざとらしいたくさんのナイフが目を引く。立ち位置は指揮官らしいが、どうも威厳がない。衣装でかろうじて貴族にみえる程度だ。
 リタはそんな凡庸な姿に、懐かしさを覚えた。
「リタ、後はスアイド殿の指示で動け」
 そういうや、ハインは手綱をスアイドに持たせ、その背に立ちあがる。
「え、ええっ! ちょ、ちょっと、ハイン!」
 ほんの一瞬の詠唱と、爪で引っ掻くような儀式動作。次の瞬間には荷重が半分以下になり、リタはすっ飛びそうになった。
 
 天地が入れ替わり、遠く点のようだったその男の前に、ハインは現れた。
 自分自身の目測地点への召喚が成功するや、ハインは銀の剣を振り抜いた。
「う、うわわっ!」
 周章しながらも、男は瞬時に短剣を抜き、ハインの剣撃を弾いた。
「こんなところで何をしている、
 ハインが問う。ハイヌルフと呼ばれた男はその顔を見、げっ、と更に狼狽した。それも束の間、ハイヌルフはもう片方のダガーも抜き、不敵に笑った。
「そりゃあこっちのセリフだぜ、
 今、いいトコなんだ。ジャマしないでくれるか」
「トビアス――そういう名なんだな、は」 
 その、あまりにも見慣れすぎた姿。
 その前に立つと、ハインは鏡の前に立った気分になる。
 兵が異変に気づいた。こちらへ向かってくる。背後を敵兵、前方をハイヌルフ。このままでは挟撃になる。ハインは相手に一太刀くれて牽制し、呪文を詠唱する。ざっと二十人。無力化するには幻術しかない。ハイヌルフと呼んだ男がダガーを振りかぶるが、それよりもハインの詠唱の方が早い。魔力を織り、ハインは最後の構成要素をポーチから取りだそうとした。
 が、手は空を切る。
「はっ?」
 慌ててポーチのなかを見るが、目的の獣毛は影も形もない。隣にオルゼリドの毛があるのみだ。ハインにはすぐに犯人の目星がついた。だが、
「よそ見してんじゃあねえよっ!」
「くっ!」
 ダガーを間一髪でかわす。ハインはソードブレイカーを抜き、至近の間合いへ左から切りこむ。相手は機敏に回避するが、その方向は狙いどおり。
 ハインは回りこみ、挟撃状態から脱した。そして、ポーチから取りだしておいた蜘蛛の死骸を投げた。
 二言三言の呪文で、辺りに白いものが爆散する。大山が迫るなか、将を守ろうと殺到した敵兵。彼らを包んだのは蜘蛛の糸。粘る糸にとらわれ悲鳴をあげる。
 なんとか窮地を脱したが、一歩間違えればと思うとぞっとした。
「よくもやってくれたな」
 ハインは、目の前の自分と対峙する。
「おまえはあの時の犬人だな。返すべきものを返してもらおうか――と言いたいところだが、先に答えてもらおう。ベルテンスカは岩人の殺し方を知っているな?」
 ハインに剣を突きつけられても、その男は笑っていた。
「さあて、どうかな? 案外、このまま壊走するかもだせ」
「喋るなら今のうちだ!」
 ハインは最小の動きで剣を振りかぶった。だが、違和感。
 遅い。剣が到達しない。
 命の危機に瀕すると、時間が遅くなるという。
 最初はそれかと思い、視線を敵からずらした。
 風に吹かれてゆれる草の葉は、木の葉は。そのままの速さだった。
「おれを舐めてたな? もうてめえは、おれの手のひらの上だってのによお」
 その男のこめかみで、七つ角の痣が蒼く光っていた。
 竜の刻印ドラゴンマークをみとめ、ハインの瞳孔が開く。
 ハインの何倍もの速度で、ダガーがゆうゆうと喉を掻きにやってくる――!
「調子に乗るな、ハイヌルフ」
 甲高い、金属音。
 ハインの時が周囲と合一する。いきなり飛びだしてきた篭手が、それを弾いた。回転して地面に突き刺さる、ハインの短剣。防護がなければ、それはハイヌルフの右胸に突き刺さっていた。ハインは既に、その短剣を後ろ手に投げていたのだ。
 ハイヌルフは自らの油断を悟り、愕然した。
「貴様は……!」
 ハインは目の前に現れた巨躯に、全身の毛を逆立てた。
 ふたりの間に割って入ったのは、黄金色に輝く鎧の男だった。
「止水卿の犬か。神聖なる皇国軍の前に、よく姿を晒せたものだ」
 その三人の邂逅は、ほんの一時ひとときだった。天には意志あるかのように矢風が舞い、岩人の足元では血煙がつややかな草原を汚す。そんな戦場いくさばのなかで、犬人と人間、そして顔すら知れぬ騎士は視線をかわした。
 わかたれていた運命が、今、再びここに出会った。
「黄銅の……! しゃしゃり出てくるんじゃ――がふッ」
 人間の男の言葉は、反吐に紛れて消える。黄銅の騎士が蹴りとばしたのだ。
「でしゃばり屋は貴様だ。その肉体、死なば誰の責になると思っている」
「“首刈り将軍”というのは貴様か!」
 ハインは目の前の輝く騎士を見上げる。子供のような背丈のハインに比べれば、二ツはあろうかという黄銅の騎士は巨人にも等しい。黄銅は不意に動きを止め、品定めをするかのように、しばしその姿をみつめた。
「そう呼ぶ者もある。“黄銅の騎士”と呼ばれる方が多いが」
 続く返事は言葉にあらず。真白銀ミスライアの光の軌跡が、迷いなく鎧の継ぎ目を突く。
 重く、鋭い音。衝撃。はじき返したのは、黒い大剣だった。
 ハインは背筋が凍り、一歩、後退した。
 それは、常夜の国の闇に似ていた。さんさんと照る陽光を露も返さず、影が凝り固まったとしか思えぬもの。その鎧は燦然さんぜんと輝いていながら、その剣は真逆。
 一筋の光も反射しない、影が刀身の形をしているとしか表せない、漆黒の剣。
 そして、本人の技量も冴えたもの。巨躯にふさわしい怪力と、尋常ならざる剣の鋭さ。ハインは相手を改めて見据え、武者震いした。
「貴様が大将とみる。その首貰い受けるぞ」
「残念だが、貴殿に構っている暇はない。――私も貴殿と同じ考えなのでな」
「なッ――!」
 ハインが悟る前に、黄銅の騎士は大地を蹴って跳躍する――否、違う。投石機に弾かれたように、弧を描いて飛翔している。その背には一対の輝く翼があった。
竜人ドラコ……? 馬鹿な、竜人が人間に与するものか!」
 黄銅の騎士は漆黒の剣を構え、風を切ってドーファに接近する。
 岩人はその柘榴石のような瞳で、巨岩の瞳で刃向ける者を睥睨へいげいする。
「“黄銅”とは汝だな。今になって参ずるとは、アイヒマンが討たれて焦ったか」
 黒曜石の矢が一斉に放たれる。森賢者ドルイドが一糸乱れず詠唱する。《空歩きエア・ラダー》をかけられた草人の群れが突撃する。黒い竹の刀を両手に掲げ、不敬なる竜人を誅するために。だが黄銅の騎士は翼をたたみ、回転して矢を弾き飛ばす。無数の矢でも、傷ひとつ付けることあたわない。
 輝く騎士が、翼を開く。闇が疾走した。
 あまたの草人の血が、霧雨となる。
 その剣は隼よりも速く、黒竹の刃よりも鋭い。岩すら断つという、ただ一太刀のためだけに削りあげられた草人の刀よりも。
 ハインはその一瞬の剣の業におののいた。持てる才の半分を秘術に注いできた、自分には到底到達できぬ域。黄銅と呼ばれる聖騎士パラディンがいるという噂は聞いていた。だが、あの剣は何だ。どれだけの天賦の才と努力があれば、あそこまで自らを研ぎすますことができる? それに努力ばかりではない――
 何がそこまで、自分をひとつの刃にせんと駆り立てる?
 ハインの眼前に、いくつもの遺骸が落下する。袈裟斬けさぎりにされ両断された少女。目を見開いた少年の首。硬直して刀を握ったままの腕。
 遅れて、血の雨が草原の穂を濡らす。
 ああ――。ハインは思った。
 まるで、玻璃ガラスのようだ、と。黒曜石よりも鋭利で、脆い。
 なんとはかなく、刹那を生きているのか、と。
 胸を切るような感傷とは裏腹に、その手は既に次の呪文を唱えている。落ちた矢筒から拾った矢に《形なき弓ローンチ・ボルト》をかける。数十の矢が魔力に包まれておぼろげに発光し、ハインの手の前に整列、静止する。
「悪いが、おまえの好きにはさせられない」
 
 草人を乗せたリタは、ドーファを見上げきれない距離まで接近していた。
「ダメだよ、スアイドさん! これ以上近づけない!」
 ドーファの一歩一歩が大地震となり、すぐ目の前では敵兵が逃げ惑っている。頭上では得体のしれない飛行物が、庭木を剪定するように草人を切り払い続けている。スアイドはリタの首にしがみついて、目を潤ませている。
「なぜ、わたしはここにいるのでしょう。同朋が命を賭しているさなか、なぜ刀を構えることもなく地を這っているのでしょう」
「スアイドさん……」
 どさり、と音がする。リタは立ち止まって耳を立て、首を巡らす。
 近くに傷ついた草人が倒れているのに気づき、スアイドに知らせる。
「ああっ!」
 スアイドはリタから降りて駆けだす。リタも並足で追従する。
 その草人は、片脚と片腕を失っていた。赤い血が大地に染みこんでゆく。
 スアイドは何か言おうとして、言える言葉などないことに気づいた。
 敗れた草人は、そんなスアイドを見据えた。
「何をしているのです……我らが主を、守るのです」
 残った腕をあげ、スアイドの腕をつかむ。
「ですが、わたしは主に呼ばれず……」
 その草人の少年は、ふと納得したように口を開いた。
「なるほど。成長の遅い者がいると思っていましたが、そういうことなのですね」
 リタは口を使って背嚢から布を取り出し、前足で器用に赤黒く濡れた足を縛る。
「しゃべっちゃダメ!」
「あなたは我らの意思とともにある必要はない、いや、あってはならないのです! あなたの意志は、本物なのです。どうか、その意志を果たしてください――!」
 残った腕が、力なく落ちる。
「あ……」リタの瞳が、ぬけがらとなった瞳に落ちる。
 脇を見ると、スアイドも同じだった。
「わたしの意志? わたしも、お守りしてよいのですか? 主を、大切な君を?」
「あたりまえだよ! 大切なものを守りたいと思うなんて、誰だってそう!」
 リタの言葉に、スアイドは空っぽの笑みを顔に添える。
「あなたも、大切なものがあるのですね」
 乗騎犬はふふ、と笑う。「まあね」
「決めました。主の命はありませんが、わたしは主を守ります」
「そうこなくっちゃ! でも、あんなとこまでどうやっ――あわわわ!」
 はるか頭上の空中戦を仰ぎみていたリタは、唐突に地団駄を踏みはじめる。
 その足は大地を踏むことなく、わずかに浮いている。
「《空歩きエア・ラダー》? まさか!」
 パスを感じる方角、敵陣から飛びたったハインが猛然と宙を走るのが見えた。その周りを取り囲むようにいくつもの矢が追従しており、ハインの指差すほうへ、連続して発射される。
「ご主人! やったあ! 今ならいけるよ、スアイドさん!」
 スアイドはうなづくが早いか、その背に乗って刀を抜いた。しっかりと手綱が握られているのを確認してから、リタは見えない階段を昇りはじめた。
 空はひどいありさまだった。草人の戦士は迫りくる騎士に傷ひとつつけられず、時間稼ぎしかできていない――あれだけの勇士を相手に時間を稼げていることを褒め称えるべきなのか。百や二百ではない草人の戦士と、それと同じ数の弓兵を相手に、竜の翼の騎士は圧倒していた。あげた首級は数えきれないというのに、その剣には一点のかげりもない。
 あの剣はハインのよりも格上の魔剣だ。それも、生半可なものじゃない。リタは思う。そんな業物と対峙することは、確かに怖い。ああ、でも。
 ご主人様がそれと戦うことが――その時、隣に自分がいないことが、何よりも恐ろしい。
 だから、リタにはわかる。スアイドという草人のこころ――ともにあることの心強さ、ともにいたいという、ただそれだけの願いが。
 ハインは機動力におおきく水をあけられながら、可能なかぎり矢を連射する。偏差射撃をしているのに多くはかすりもせず、命中するのは鎧で弾けるものだけ。もうすぐだ。狙いをつける手は止めず、右手で柄を握り、距離を詰める。
 草人の増援がやんだ。リタがドーファの肩に目をやると、もうそこには弓兵と森賢者しか残っていない。
 早く、はやくたどりつかなくては――そう思った矢先だった。
「えっ、ちょ、ちょっと!」
 ドーファの手が、大きく空を薙ぐ。黄銅の騎士は急降下し、黄金の軌跡が残る。草人の何人かが巻きこまれ、彼方へ弾き飛ばされる。危なかったのはリタだ。
 余波の突風に吹き飛ばされ、きりもみしながらもなんとか踏みとどまる。
 黄銅の騎士は地上を見下ろす。地上ではまた虐殺が起こる。その足に踏まれた者はすりつぶされ、亡骸の区別もつかないだろう。森賢者の追撃はなくなったが、まだ蹂躙が続く。黄銅の騎士は大きく旋回した。
 兵が尽きるが早いか、決着をつけるが早いか。
 草人の戦士はそのほとんどが地に落ちた。ドーファがつかみかかったために、その胸の守りが薄くなっている。弓兵が異変を察知して宙に身を投じ始めるが、間に合わない。
 黄金の風が、急加速する。
「させるか!」
 ハインが全力疾走から剣を振りかぶり、その進路に立ち塞がる。
「邪魔だ」
 かちり、と騎士の兜が開く。その顔の下半分が露出するが、輝いて見えない。
 
 ハインの全身から、冷や汗があふれでた。
 その口から吐きかけられたのは、黒紫色こくししょくの火炎。ハインは思わず呪文を停止し、自由落下してその進路を譲ってしまう。その禍々しい炎は歴戦のハインをして、反射的に回避をさせるほどの恐怖を感じさせた。
 ハインを退けた黄銅の騎士は、そのまま加速する。
「突貫するか。蛮勇よな」
「笑止!」
 ドーファの巨大な手のひらが、正面からつかみにかかる。
 対する騎士は剣を掲げ、大空を裂く。その漆黒の剣が、黒く輝く。
 轟音が、岩石の爆砕する音が響き渡る。
 ドーファの手が砕ける。背中が内から崩れ、その拳ほどの大穴が口を開けた。
 その内から、紅玉の欠片と何人もの草人の残骸とともに、黄銅の騎士は現れた。その身を血にまみれさせて。
「そっ、そんな――!」
 リタは言葉を失い、背中をかえりみた。だがスアイドの瞳にはまだ闘志がある。
「敵ながら見事、と言わざるを得ん。だがそうくれば後はいかようにもなろうぞ」
 旋回しようとした騎士に、ドーファの砕けた裏拳が直撃した。
 平原のただなかに土砂を巻きあげ、黄金の光線がめりこむ。
「だ、大丈夫なの? あの赤い岩が急所じゃないの?」
「大丈夫です、今はまだ。核のひとつが砕かれたに過ぎません」
 スアイドが手綱を引く。その向きから、リタはすべてを理解した。
 地面が爆発する。土砂を撒き散らしながら、一直線に飛来する。
 その鎧は凹み歪んではいたものの、輝きには一片の曇りもない。
 常闇の剣を構え、まっすぐにドーファの頭部に向かう。放たれた矢のように。
 リタは、黄銅の騎士の前方、その高高度に登りつめていた。
「いーい、スアイドさん!」
「承知!」
 目測からリタは瞬時にその距離を算出し、肉球から見えない足場を手放した。呪文の加護を失い、リタは頭から重力に引かれ、落下する。
「いちにの、さん!」
「うあぁぁぁッ!」
 黄銅の騎士は頭上に気づくが、遅い。
 一瞬の、会敵。
 スアイドの刀は、黄銅の騎士の背中を翼ごと切り裂く。
 だが。
 鎧を断ったものの、その翼は手応えなくすり抜けた。その脇腹には漆黒の剣が添えられていた。刀はその剣にぶつかる衝撃に耐えきれず、真二つに折れ飛んだ。
 リタは再び足で見えない足場をつかみ、落下の勢いを殺しながら踵を返す。
「そ、そんな……岩をも断つ我らの刀が、完全に入ったのに!」
「ううん、これでいいの!」
 黄銅の騎士はわずかに下降し回転するが、はばたいて体勢を立て直す。
 反転する視界から周囲を見回し――
「かかったな」
「なに――!」
 黄銅の騎士が違和感を察知した時には、既に触れられていた。
 かすかに大気が揺れる。透明な何かが、騎士の進路上に立っていた。
 次の瞬間には、浮力を失って落下を始めていた。
 《解呪の手ディスペル・タッチ》。触れたものにかかった呪文や疑似呪文を、無色の魔力に分解する呪文。竜人ドラコの翼は、必要におうじて魔力で編まれる実体のないものだ。解呪された翼は、即座に霧散し大気にとけていく。
「間一髪、といったところか」
《不可視》で姿を消したまま、ハインは声を風に紛れさせる。
いな
 ハインは我が目を疑った。
 黄銅の騎士の背中で、壊れかけの鎧が砕ける。
 何かが音を立て、鎧を内から破って現れる。
 ――それは、一対の翼だった。
 鱗と獣毛に覆われた、皮膜をもつ翼。血の通う、実体のある翼。
「馬鹿な! 竜人は翼を失って久しい……!」
 その翼を何度も何度も羽ばたかせ、今までよりも鋭く加速し、上昇してゆく。
ご主人様マスター!」
 リタがハインの近くに駆け寄ってくる。
 その声に我を取り戻し、ハインはスアイドとともにその背にまたがった。
 最後の弓兵たちが矢を射つつ、短刀を手に群がる。無残に斬り捨てられ、四肢や半身を失っても、草人たちは果敢に組みつく。そして翼をかかんと匕首あいくちを振るう。
 だが、その体を一回転させるだけで、ほとんどは振り払われ、蚊のように落ちてゆく。わずか数人が臓物を垂らしながら、勇猛にもその首にしがみつく。
 しかし無慈悲にも、彼らすらも黒炎の吐息にまかれ、火の玉となって落下する。着地する時には、何も残らなかった。
「なんてことを……!」
 スアイドはなすすべなく、同朋の負け戦を見ていた。
 黄銅の騎士の漆黒の剣が、槍のように掲げられる。対するドーファは、いよいよもってその巨大な岩の剣を向ける。
「我が剣の錆となるを誉れとせよ!」
「そっ首、貰い受ける!」
「ご主人!」「やっている!」
 リタの足では届かない。ハインは指先から魔力の塊を連射する。
 だが、《魔力矢》は敵をかすめるものの、命中しない。先ほどの矢よりも悪い。魔力の流れが読めるとでもいうのか!
 漆黒の剣と、巨大な岩の剣が衝突する。
 ドーファの剣が大きすぎるがために、ひどくゆっくりに見える。
「我が君――!」
 金属の悲鳴は、一瞬だった。けれど、スアイドには永劫にも等しい刹那だった。
 岩の剣に亀裂が走る。
 ドーファの頭部が、まるで手品のように吹っ飛ぶ。
 紅玉の大岩、その破片が入り混じった爆風。その中から黄銅の騎士は現れた。
 岩の巨剣はようやっと、死を自覚したように崩落する。
 剣に続き、その岩の肉体にもヒビが入る。
 二度と、その口が物を言うことはなかった。
 一瞬の静けさの後、勝鬨の声が猛々しくあがった。その声は惨殺されるばかりだった兵たちの士気を最高潮まで引きあげ、かろうじて生き残った草人の生きる気力を奪う。
「うそ……!」
「あ、あ、主よ、我らが――」
 スアイドは狂乱し、空中にいることも忘れて飛び出しそうになった。ハインは無言でその首に触れる。動作のみの弱い呪文ながら、動転した精神では耐えられなかった。かくん、とスアイドは深い眠りに落ち、犬人の腕のなかに収まった。
「リタ。撤退する。すまないが、本陣まで頼む」
 リタは顔を歪ませて、いやいやするように首をふる。その視線の先、逃げられるはずの草人たちが主人の骸にしがみつき、運命をともにしようとしている。
「まって! まだ助かる人がいるかもしれない――」
「早くドーファ殿の崩御を知らせねばならないんだ! ……分かってくれ、リタ」
 リタは聡明な犬だった。だから口をつぐみ、粛々と歩を進めはじめた。
 ――わかっていた。彼はあれほどの巨体なのだ、その死は知らせるまでもなく、どこからでも見えよう。だが、今この時、草人の救助にゆくということは、敵からすれば掃討戦の標的がのこのこ現れるということだ。今は危険をおかす時でなく、態勢を立て直さなければならない時だった。
 それに、万が一にも遭遇することは避けたかった。
 たとえ一騎討ちに持ちこめたとしても、到底かなう相手ではない。
 ――あの、黄銅の騎士という男は。
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