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I. The little, little wish

月光の声

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 柱に寄りかかり、ルオッサは荒く息を吐いていた。
 発作が近かった。朝夕と二度も抑えたために、いつまでか定かではない。
 ルオッサはいっそのこと、手綱を手放して楽になってしまおうか、とも思った。だが、今だけは駄目だ。エッカルトはハインだけでかなう相手ではないだろう。その時のために自分はいつでも動ける駒でなくてはならない。
 ――そう、頭ではわかっている。けれど、少女は欲望を解き放ちたくてたまらなかった。それを遅らせているのは、ひとえにのちの愉悦を損なわないためだった。
 全身の皮膚の下で、何かがひしめき、うごめいている。その正体を少女は知っている。それがいずれ、自分をどう変えてしまうのかも。それがざわめくたび、全身を業火に舐められるような痛みにさいなまれるとしても――否、だからこそ、少女はそれを拒絶しなくなっていた。
 ルオッサは、もはや“それ”に依存していた。
 
 ハインと別れてから、ルオッサはドラウフゲンガーの館を簡単にあらためた。ほとんどすべての部屋が、彼女が最後に見た時のままだった。臭いも痕跡もない。ルオッサの知る限り、館の地下には簡単な牢しかない。子供とはいえ百人以上の人間が収まるわけがない。
 だが、竜の刻印ドラゴンマークは不可能を可能にする――そう止水卿は推測していた。これまでの事件でも、奇跡や神罰としか考えようのない事象が、刻印者の手によってなされていたからだ。だとすれば、何が起こってもおかしくはない。
 念のためルオッサは、本命である牢にハインが向かうように誘導し、自身は他の可能性を潰してまわった。使える限りの手段をもって呪文やそれに類する痕跡を探し、伏兵や他の危険要素がないかを調べた。
 結果はことごとくハズレ。呪文の痕跡もなければ、人がいた痕跡すらなかった。
 だが、それはなのだ。
 別館には、ふたりの人間が住んでいる。耄碌もうろくした老爺ろうやと、それに負けないくらい年老いた召使いの老婆。召使いは今でも日課である迎賓館の手入れをしている。その痕跡がまるでない――正確には、迎賓館と別館を繋ぐ廊下の途中で、すっぱりとなくなっている。
 生物は生きるだけで大気中の魔力をかき乱す。その痕跡がないということは、少なくとも一ヶ月は生物が出入りしていないことになる。迎賓館の埃の積もり方は、週に一回は手入れされていることを示している。もし、この魔力痕跡を呪文でかき消すと、今度はその呪文を唱えた痕跡がどこかに残ってしまう。
 つまり、呪文以外の手段で、何かが秘匿されている。
 そして、それがどこかといえば、もう地下牢しか可能性はなかった。
 ルオッサは自分を抱きしめて、毛一本にいたるまでさいなむ苦痛に耐えた。もし自分がハインについてゆけば、凄惨なことになっただろう。それも悪くはないが、今ではない。もっと信頼を勝ち得てからでなければ、旨味に欠ける。青い実を収穫するのは、せっかちな愚者だけでいい。だからルオッサは、エッカルトをハインに任せた。
 ああ、でも。
 ルオッサは思った。
 
 今晩だけは、殺さずにいるには惜しい名月だった。
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