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I. The little, little wish
ある男の末路
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エッカルトは商人として成功した父と、柔和な母の間に生まれた。生家は肥沃で耕作しやすい平原を領地とし、その財は吹きだしつづける泉にたとえられた。
生後しばらく、口数少なく感情の多くを顔に出さない彼を、乳母ですら唖ではないかと疑っていた。
実際には静かに言葉を選び、誠実に人にあたり、草木のひとつひとつにすら天の主の御業があると信じて疑わない――そんな子供だった。エッカルトには八つも離れた兄、ヴァルターがおり、八つの頃には自分に家督が降りてくることはないと悟っていた。
エッカルトに残された道は多くなかった。ひとつは、家督を自らの手でつかむこと。だが、自分の手を汚してまで当主になることを望むほど、彼は真教を足蹴にはできなかった。それに、悪どくもカリスマ性のある兄のことを、エッカルトは嫌っていたわけではない。どちらかといえば、人混みに自ら分けいりたがる性分の兄を、尊敬すらしていた。
ゆえにエッカルトは、もうひとつの道を選択した。それは兄にもしものことがあった時の代替品として、家の穀潰しとして生きていく道だった。他に道がなかったといえば嘘になるが、彼にとっては盟主の人質として首都に住むも、婿になるも大差なかった。彼は芸術を愛した母と、家に出入りしていた司祭から多くを学び、詩歌と絵画に多くの風を感じていた。だから彼は、この頃から妻をとるまで、よほど吟遊詩人になって旅に出てしまおうかと悩んでいた。けれど良くいえば現実的、悪くいえば臆病な彼は、兄の庇護のうちにいることを望み、その仕事が円滑に回るように勤勉に働いた。そして病で父が倒れ、ヴァルターが領主となる頃には、彼は城に自らの工房を持ち、いくつもの宗教画を描くようになっていた。家令や司祭がむりやりひねりだす賛美の言葉から、自分が後世に名を残すほどの腕ではないことは薄々勘づいていた。けれど彼にとって、それは間違いなく自らから生まれでたものであり、表現できることそれ自体が素晴らしいことだった。
彼は、みずから自分であることを表すことに喜びを見いだしていた。彼はその頃に妻をめとり、一子を得たが、その時の喜びも筆を走らせるそれには勝らなかった。彼にとっては、絵画が嫡子であった。
しかしながら、家庭に恵まれ、妻子を一枚の肖像画に収めたその日が、彼にとって最も幸福なひとときだったのは――嘘ではなかった。
転機となったのは、ヴァルターがナズルトーの大戦役で戦死したことだった。オッペンハイムは戦役への出費で人も物も足りない危機的状況の中、領主をも失うという大きな痛手を受けた。エッカルトに選択肢はなかった。彼は領土を盟主に返納するほど恩知らずではなかったし、民の請願にそ知らぬ顔ができるほど面の皮も厚くなかった。
ただ、領主としての覚悟と能力が、致命的に足りなかった。
彼は神を信じ、神から借り受けた権利をどう扱うべきかを真に心得ていた。しかしながら悪辣さが足りなかった。兄のように目的のために小さな嘘をついたり、他の領主や司教の悪徳に目をつむり、しかるべき時に取引材料にしたりするようなことを許せなかった。必要な教育をおろそかにし、ただ芸術に耽溺してきたエッカルトは、他の領主にとっていいカモだった。
彼は昼も夜もなく働き、疲れはてた領民を鼓舞し、足りないものは借りて補い、どうにかオッペンハイムを立て直した。そしてかつての隆盛が戻ってきた頃、後には膨大な借金が残った。彼は苦渋の決断の末、自らの集めた芸術品をすべて売り払い、民にも節制を求めた。それでも足りなかった。
当たり前の末路だった。諸侯はもとより、彼からすべてをむしりとるつもりであったのだから。彼には最初から、金利を吟味するだけの猶予も余裕もなかった。
彼は選択を迫られた。十二代百年にわたるオッペンハイムを諸侯に譲り渡すか、借用書のすべてか一部を不当として武力行使に出るか。
エッカルトはどちらを選べども、結末は同じだと悟った。
不幸は続く。疲れた民草を流行り病が連れていき、彼の妻子をも天に召した。
彼は心から真教を信じていたから、それを受け継いだ領地を一代で切り崩した、自らの罪だととった。しかし、自分の罪業を確信したのは、葬儀を終えた後だった。
吟遊詩人は謳う。
我が子を手に、その一生を輝かせんことに生きがいを得る英雄を。
私は違う。
文と絵と歌こそが我が子であった。その証拠に、実の子を得た時にも、失った時にも何ら感慨を得なかった。その罪深さに震えた。
オッペンハイムの名は、自らの罪によって永遠に失われる。
彼は絶望した。
その時、彼のもとにひとりの男が現れた。
彼が礼拝堂で許しをこうていた深夜のことだった。
エクセラードの竜人を模した覆面で顔を隠した、ひとりの魔術師。その男は自らをドラコーンと名乗った。明らかに偽名であった。
ドラコーンは、問うた。
「貴殿にはふたつ、選びとるべき道がある。ひとつは、このまま滅びを受けいれる道。無血なる終焉も幸福だろう。
もう一つは、自らの手で滅びをはねのける道だ」
そんなことは不可能だ。エッカルトはいぶかしんだ。諸侯に陥れられ、疑心暗鬼に陥っていた彼は、ドラコーンも悪魔に違いないと考えた。
「可能だ。しかし、貴殿は不可逆的に変質することになる。貴殿の“真実”を切り拓き、本質が貴殿にとって代わる。真実は貴殿に力を与えるだろう。結末をも変えうる力だ」
エッカルトは高すぎる授業料と引き換えに、多くを学んでいた――この男が次に何かを求めることも。対価をたずねると、ドラコーンは静かに言った。
「魔術師に支払うべき対価を。それ以上を望みはせぬ」
その言葉に、生来から誠実だったエッカルトは揺らいだ。本当にこれは渡りに船で、神がつかわした最後のチャンスではないのか。
事実、もう後は神に祈るしかない状況であったのだ。
彼は懇願するようにたずねた。
「……それで、私の罪は贖えるのかね」
エッカルトの“真実”から出た言葉に、ドラコーンはローブの下で肩を揺らした。
「贖罪が欲しくば、教皇より購うがよい。だが、貴殿は自らの信ずる主より許しを得たいのだろう? ならば、手ずから贖うより他はないのではないか?」
ドラコーンの言葉は、自分自身と話しているようだった。
なにしろ、オッペンハイム領を買い叩こうとしている筆頭は、まさに大司教や枢機卿であったのだから。疲れはてたエッカルトは、この男を信頼に値すると思うことにした。この男を天よりの御使いだと。
ヴァルターであれば気づけたかもしれない。
ドラコーンが真に求めていた対価が、何であったのかを。
生後しばらく、口数少なく感情の多くを顔に出さない彼を、乳母ですら唖ではないかと疑っていた。
実際には静かに言葉を選び、誠実に人にあたり、草木のひとつひとつにすら天の主の御業があると信じて疑わない――そんな子供だった。エッカルトには八つも離れた兄、ヴァルターがおり、八つの頃には自分に家督が降りてくることはないと悟っていた。
エッカルトに残された道は多くなかった。ひとつは、家督を自らの手でつかむこと。だが、自分の手を汚してまで当主になることを望むほど、彼は真教を足蹴にはできなかった。それに、悪どくもカリスマ性のある兄のことを、エッカルトは嫌っていたわけではない。どちらかといえば、人混みに自ら分けいりたがる性分の兄を、尊敬すらしていた。
ゆえにエッカルトは、もうひとつの道を選択した。それは兄にもしものことがあった時の代替品として、家の穀潰しとして生きていく道だった。他に道がなかったといえば嘘になるが、彼にとっては盟主の人質として首都に住むも、婿になるも大差なかった。彼は芸術を愛した母と、家に出入りしていた司祭から多くを学び、詩歌と絵画に多くの風を感じていた。だから彼は、この頃から妻をとるまで、よほど吟遊詩人になって旅に出てしまおうかと悩んでいた。けれど良くいえば現実的、悪くいえば臆病な彼は、兄の庇護のうちにいることを望み、その仕事が円滑に回るように勤勉に働いた。そして病で父が倒れ、ヴァルターが領主となる頃には、彼は城に自らの工房を持ち、いくつもの宗教画を描くようになっていた。家令や司祭がむりやりひねりだす賛美の言葉から、自分が後世に名を残すほどの腕ではないことは薄々勘づいていた。けれど彼にとって、それは間違いなく自らから生まれでたものであり、表現できることそれ自体が素晴らしいことだった。
彼は、みずから自分であることを表すことに喜びを見いだしていた。彼はその頃に妻をめとり、一子を得たが、その時の喜びも筆を走らせるそれには勝らなかった。彼にとっては、絵画が嫡子であった。
しかしながら、家庭に恵まれ、妻子を一枚の肖像画に収めたその日が、彼にとって最も幸福なひとときだったのは――嘘ではなかった。
転機となったのは、ヴァルターがナズルトーの大戦役で戦死したことだった。オッペンハイムは戦役への出費で人も物も足りない危機的状況の中、領主をも失うという大きな痛手を受けた。エッカルトに選択肢はなかった。彼は領土を盟主に返納するほど恩知らずではなかったし、民の請願にそ知らぬ顔ができるほど面の皮も厚くなかった。
ただ、領主としての覚悟と能力が、致命的に足りなかった。
彼は神を信じ、神から借り受けた権利をどう扱うべきかを真に心得ていた。しかしながら悪辣さが足りなかった。兄のように目的のために小さな嘘をついたり、他の領主や司教の悪徳に目をつむり、しかるべき時に取引材料にしたりするようなことを許せなかった。必要な教育をおろそかにし、ただ芸術に耽溺してきたエッカルトは、他の領主にとっていいカモだった。
彼は昼も夜もなく働き、疲れはてた領民を鼓舞し、足りないものは借りて補い、どうにかオッペンハイムを立て直した。そしてかつての隆盛が戻ってきた頃、後には膨大な借金が残った。彼は苦渋の決断の末、自らの集めた芸術品をすべて売り払い、民にも節制を求めた。それでも足りなかった。
当たり前の末路だった。諸侯はもとより、彼からすべてをむしりとるつもりであったのだから。彼には最初から、金利を吟味するだけの猶予も余裕もなかった。
彼は選択を迫られた。十二代百年にわたるオッペンハイムを諸侯に譲り渡すか、借用書のすべてか一部を不当として武力行使に出るか。
エッカルトはどちらを選べども、結末は同じだと悟った。
不幸は続く。疲れた民草を流行り病が連れていき、彼の妻子をも天に召した。
彼は心から真教を信じていたから、それを受け継いだ領地を一代で切り崩した、自らの罪だととった。しかし、自分の罪業を確信したのは、葬儀を終えた後だった。
吟遊詩人は謳う。
我が子を手に、その一生を輝かせんことに生きがいを得る英雄を。
私は違う。
文と絵と歌こそが我が子であった。その証拠に、実の子を得た時にも、失った時にも何ら感慨を得なかった。その罪深さに震えた。
オッペンハイムの名は、自らの罪によって永遠に失われる。
彼は絶望した。
その時、彼のもとにひとりの男が現れた。
彼が礼拝堂で許しをこうていた深夜のことだった。
エクセラードの竜人を模した覆面で顔を隠した、ひとりの魔術師。その男は自らをドラコーンと名乗った。明らかに偽名であった。
ドラコーンは、問うた。
「貴殿にはふたつ、選びとるべき道がある。ひとつは、このまま滅びを受けいれる道。無血なる終焉も幸福だろう。
もう一つは、自らの手で滅びをはねのける道だ」
そんなことは不可能だ。エッカルトはいぶかしんだ。諸侯に陥れられ、疑心暗鬼に陥っていた彼は、ドラコーンも悪魔に違いないと考えた。
「可能だ。しかし、貴殿は不可逆的に変質することになる。貴殿の“真実”を切り拓き、本質が貴殿にとって代わる。真実は貴殿に力を与えるだろう。結末をも変えうる力だ」
エッカルトは高すぎる授業料と引き換えに、多くを学んでいた――この男が次に何かを求めることも。対価をたずねると、ドラコーンは静かに言った。
「魔術師に支払うべき対価を。それ以上を望みはせぬ」
その言葉に、生来から誠実だったエッカルトは揺らいだ。本当にこれは渡りに船で、神がつかわした最後のチャンスではないのか。
事実、もう後は神に祈るしかない状況であったのだ。
彼は懇願するようにたずねた。
「……それで、私の罪は贖えるのかね」
エッカルトの“真実”から出た言葉に、ドラコーンはローブの下で肩を揺らした。
「贖罪が欲しくば、教皇より購うがよい。だが、貴殿は自らの信ずる主より許しを得たいのだろう? ならば、手ずから贖うより他はないのではないか?」
ドラコーンの言葉は、自分自身と話しているようだった。
なにしろ、オッペンハイム領を買い叩こうとしている筆頭は、まさに大司教や枢機卿であったのだから。疲れはてたエッカルトは、この男を信頼に値すると思うことにした。この男を天よりの御使いだと。
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