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44、正妃アンジェの事情
しおりを挟む「おいっ! これは一体どういうことだ? 完全にあの側妃にやられっぱなしではないか!」
ガシャーンッとグラスが壁にぶつかり粉々に割れた。
床には葡萄酒のシミがじわじわと広がっている。
スベイリー侯爵が激怒し、周囲に怒鳴りつけていた。
「黙っていればあの側妃は陛下のそばで好き放題やっているではないか!」
侯爵の侍従は深く頭を下げたまま動かない。
その様子を遠目で見ているのは娘のアンジェだ。
特に驚くことも怯むこともなく、冷静に父を見据えている。
「おい、アンジェ!」
「はい、お父さま」
「お前は一体何をやっているのだ? 陛下はほとんどお前のところへ通っていないと聞くではないか」
「陛下はご多忙でございますので」
「だが、側妃のところへは通っているのだぞ」
「……そうですか」
抑揚のない返事をするアンジェにイラついたのか、侯爵はつかつかと彼女に近寄って平手打ちした。
パアアアァァンッと激しい音がして周囲が「うわっ」と悲鳴じみた声を上げる。
アンジェは叩かれたまま、微動だにしない。
その様子も気に入らないのか、侯爵は怒鳴りつけた。
「この出来損ないが! 私生児のお前を引き取って教育まで受けさせてやったのだぞ! 恩を忘れたのか?」
アンジェはゆっくりと侯爵へ目を向けた。
アンジェは侯爵の遊び相手とのあいだに出来た子だった。
侯爵には息子しかいなかったので、アンジェを引き取って令嬢教育を受けさせたのだ。
将来、皇帝の妻にして、己の野望を果たすために。
アンジェはもちろんこのことを理解している。
ここで父の役に立たなければ生きている意味などない。
「忘れてなどおりません。機会をうかがっているのでございます」
アンジェは感情を表に出さず、平静を保ちながら淡々と答えた。
侯爵はアンジェを睨みながら舌打ちする。
「そのセリフもいい加減に聞き飽きたぞ。お前がのろのろしているからこちらから手を打ってやることにした」
彼はそう言って、壁際に控えていた黒のローブ姿の男に目で合図した。
すると男は懐から小さな透明の容器を取り出し、侯爵に手渡した。
その中には光沢のある赤紫の色の液体が入っている。
侯爵はそれを手に取り、にやりと笑うとアンジェに差し出した。
「やるべきことはわかっているな? アンジェ」
アンジェは表情を曇らせて赤紫の容器を見つめた。
「おい、説明しろ」
侯爵が命令すると、黒ローブ姿の男が口を開いた。
「紅茶に1滴でおよそ半日後に眩暈や痺れなどの症状を起こします。2滴で下痢や発熱を発症します。そして……」
「まどろっこしいな。もっと効果のあるやり方を言え!」
「はい。5滴で絶命します」
アンジェの表情が強張った。
今まで叩いても怒鳴ってもまったく反応のなかったアンジェがわずかに狼狽えている。
それを見た侯爵はにんまり笑った。
「アンジェ、わしの教えを口に出して言ってみろ」
「美しい宮殿にいる害虫は1匹残らず駆除しなければなりません」
「そうだとも。お前にとっての害虫は、わかっているな?」
「もちろんでございます」
黒ローブ姿の男がアンジェに真顔で淡々と説明をする。
「使用後は火をつけて燃やしてください。この容器は特殊な材質で跡形もなく消え、証拠隠滅ができます」
アンジェは真顔で薬の容器を見つめる。
侯爵は念を押すように言いつける。
「お前の命はわしの手にある。失敗は許されんぞ」
「承知しております」
アンジェは冷たく返事をした。
*
「アンジェさま、あの妃とお茶会だなんて、わざわざそんなことしなくてもよろしいですのに」
アンジェがイレーナとの茶会を決めると侍女は不服そうな顔をした。
「あんな妃に気を使うことないですよ。目立ちたがりで立場をわきまえない本当にいやらしい人間だわ。どうせ陛下に色目を使って迫っているに決まっています」
ぶつぶつと文句を言う侍女の言葉をアンジェは無視した。
そして、鏡台の棚にひっそりと隠しておいた赤紫の透明容器をじっと見つめる。
「一度痛い目に遭えばいいんだわ。二度と陛下にお近づきになれないように」
愚痴の止まらない侍女に、アンジェは冷静に話しかける。
「ねえ、あなた」
「は、はい。何でしょう?」
「わたくしの命令を必ず聞くと約束できるかしら?」
侍女はぱあっと明るい表情になる。
「もちろんでございます。私はアンジェさまの命令は絶対だと思っておりますから!」
アンジェはにっこりと穏やかな笑みを浮かべる。
「そう? よかったわ。必ず私の命令に従ってね」
「はい。承知いたしました!」
そして、アンジェはイレーナとの茶会を開く。
ちょうど、皇帝が遠方へ視察へ行く時期を狙って。
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