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26、正妃アンジェの胸のうち
しおりを挟む会議終了後、参加者たちのイレーナに対する印象は大きく変わっていた。
「イレーナ妃はなかなか聡明な方だな」
「貧乏公女と噂だからどれほどみすぼらしいのか確認するつもりだったが、大変失礼なことをした」
「よくある王女の傲慢さがまったくないところもいい」
それぞれがイレーナについて語る中、ひとり憤慨する男がいた。
「くそっ! くそっ、くそっ、くそおーっ!!!」
スベイリー侯爵が足でダンッダンッと床を踏みつけながら叫んでいた。
その背後にはアンジェが黙って立っている。
「なんだ? あの妃は。生意気に意見などしおって!」
侯爵はイレーナの話題を口にする者たちを遠目で睨みながら、自身の口髭を触り、ぶつぶつと愚痴をこぼす。
アンジェはそんな父の姿を冷静に真顔で見つめる。
「まったくです。よそから来た人質に過ぎない小国の姫が偉そうに帝国の内政に口を出すとは、虫唾が走りますな」
侯爵と同じ貴族派の者たちも口をそろえて文句を言う。
「だが、我々にはアンジェさまがおりますので、あの妃もこれ以上は出しゃばりませんよ」
伯爵家や子爵家の者たちはスベイリー侯爵の機嫌を取ろうとした。
スベイリー侯爵は口髭を指でくるくるさせながら、ふんっと鼻を鳴らす。
「まあ、よい。アンジェがいる限り我々がもっとも皇帝に近しい人間であることは確かだ。だが、ひとつ懸念はある」
侯爵は背後にいるアンジェへと顔を向けた。
「アンジェ、陛下のお子はまだなのか?」
するとアンジェは笑顔で答えた。
「こればかりは授かりものですから」
侯爵は娘を睨みながら、ちっと舌打ちした。
「早急に子を身籠るのだ。決してあの妃に先を越されてはならんぞ」
「努力いたしますわ」
にこにこするアンジェに対し、侯爵は怪訝な表情をしている。
アンジェは嫁いで1年も経つのに皇帝との子をまだ身籠らないことに、侯爵は苛立ちを感じていた。
もしや子の出来ない身体なのでは、と思って医師に見てもらったが、どこも問題はないという。
皇帝の血を引いた孫が出来ればより権力を得ることができる。
だが突然の側妃の登場によってスベイリー侯爵は焦っていた。
「あちらが先に身籠りでもしたら……」
スベイリー侯爵の表情はまるで悪魔に憑りつかれたようにおぞましい顔をしていた。
アンジェはそんな父を、ただ冷めた目で見つめるだけだった。
侯爵令嬢として生まれたアンジェは幼い頃から皇帝ヴァルクと顔見知りだった。
いずれ皇帝に嫁ぐ身として、幼少より妃教育を受けた。
親の決めた道を歩くのが当たり前だと教えられてきたので、そのことに疑問を抱くこともなく育った。
しかし『ある出来事』により考えが変わってしまった。
やがて成長し、正妃として迎えられたアンジェは、皇帝との初夜でこう言った。
「わたくし、陛下と夜伽をするつもりはございません」
アンジェは頑なにヴァルクを拒絶した。
彼もそんなアンジェに無理強いをしなかった。
こうして、アンジェは自ら形だけの妃となったのである。
ヴァルクもアンジェがスベイリー侯爵の娘であることに警戒をしていた。
お互いに近いところにいながら深い溝があり、決して心を通い合わせることはない。
だが、アンジェはきちんと『皇帝の妻』としての自覚を持ち、他の者の前では威厳を保っている。
ヴァルクも他の者の前ではアンジェに気さくに話しかけている。
周囲は皇帝と正妃は仲睦まじいと思い込んでいた。
しかしそれは、ふたりの演技にすぎない。
「まさか、イレーナ妃が政務にまで口出しされるとは思いませんでしたね。あれはアンジェさまの役割なのに皇帝陛下も何をお考えなのでしょう?」
アンジェが部屋に戻って着替えていると、侍女が困惑の表情でそう言った。
だが、アンジェは黙ったままグレーの目立たない衣服を被る。
「側妃の役割はお子を産むことだけですのに、出しゃばりにもほどがありますわ」
アンジェはすっぽりとフードを被ると、はみ出した金髪を中に入れる。
「あなた、少しおしゃべりが多いわよ」
「えっ……申しわけございません!」
アンジェは静かに忠告すると、侍女は慌てて頭を下げた。
「アンジェさまのお立場のことを思うと、私は悔しくて……」
「いいのよ。少しうるさいだけだもの」
アンジェはどこか遠くを真顔で見つめる。
「もうやめましょ。陰口はみっともないわよ。わたくしは彼女を恨むつもりはないわ」
「アンジェさま、なんてお優しい!」
侍女は感動している。
アンジェは静かな笑みを浮かべる。
彼女は決して心の内を、たとえ親しい侍女にも話さない。
(わたくしの立場を奪われたとしても、恨みや憎しみなどないわ。ただ、あの子の笑顔を見ると……)
最後はぼそりと口に出す。
「イライラするわね」
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