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3、騒がず、狼狽えず、おとなしく、されるがままに

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 イレーナが庭園の散歩から戻ると、侍女と使用人たちが出迎えた。

「それでは湯浴みをいたしましょう。今夜は特別高級な香油をご用意いたしております」


 侍女に言われて連れてこられた風呂場バスルームは甘い香りに満たされていた。
 浴槽バスタブには湯が張られており、ピンクの花びらがいくつも浮かんでいる。
 使用人たちがイレーナの手足を香油で揉みほぐしてくれる。
 そして侍女はイレーナの髪を梳いた。


「いい香りね」

 イレーナはかぐわしい花の香りを吸い込み、ほうっとため息をついた。
 公女といえどもこれほど高価な香油を使ったことがない。
 甘い香りだが少しつんとくる刺激もあり、なまめかしさを感じさせる。


「これは陛下が大変好まれている香りでございます。きっとお気に召していただけるでしょう」

 侍女のその言葉にイレーナはどきりとした。
 最後のお気に召していただけるというのは皇帝陛下に向けた言葉だ。
 つまり、この香りに包まれたイレーナを気に入ってもらえるという意味だろう。

 急に現実味を帯びてきて、イレーナは震えた。
 それを察した侍女が優しく声をかける。


「大丈夫ですよ。陛下はとてもお優しいですから」
「本当?」
「ええ。知りませんけど」
「……そう、よね」

 にっこりと笑う侍女にイレーナは顔を引きつらせる。
 侍女は笑顔で言う。


「私たちが知っていたらおかしいでしょう?」
「そ、それもそうね」

 イレーナは肩まで湯に浸かって、小さく身体を丸めた。


(ああっ……こわい、こわい……こわいよお)


 イレーナはまだ覚悟のできないまま、初夜を迎えることになった。
 湯浴みを終えるとさらりとした白の寝間着ナイトドレスを着用し、甘い香りの香水を身につける。
 侍女はイレーナの髪を綺麗に梳いて、わずかに化粧を施した。
 そして、準備が整ったところで侍女と使用人たちは全員そろって深くお辞儀をした。


「それではごゆるりとお休みくださいませ」

 それを聞いたイレーナは胸中で呟く。


(ゆっくり休むなんてできないんだけど!)


 それでも、遅くまで働いてくれた侍女たちに感謝の言葉を述べる。

「ええ、ありがとう。明日もよろしくね」
「かしこまりました。それでは失礼いたします」


 パタンと扉が閉まると、不気味なほどの静けさに包まれた。
 イレーナはしばらくぼうっとしていたが、やがて部屋を見わたして、それからベッドへ目をやった。
 大きな天蓋付きの広いベッドだ。
 5人くらい並んで寝そべられる広さがあると思った。


 「ど、どうしよう……」

 イレーナは急にどくどくと心臓が高鳴り、ベッドの前でうろうろした。


「だ、大丈夫。役割を果たせばいいだけのこと」

 しかし、イレーナは知らない。
 新婚初夜の男女が一体何をするのかを。


「いやいや、でも、お父さまもお母さまも民たちも動物たちもみーんな通る道だから、きっと大丈夫」

 イレーナは自分に言い聞かせるように声に出して言う。


「騒がず、狼狽えず、爪を立てず。おとなしく、されるがままに」


 母から伝えられたことである。
 何をされても抵抗してはいけない。



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