鎌倉古民家カフェ「かおりぎ」

水川サキ

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1巻

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 朝と晩や休日の横浜駅は人と人がぶつかりそうなほど混雑しているが、昼間は少し余裕がある。とは言え、人は多い。東と西で出口があり、双方から一気に人が流れ込んでくるが、慣れた人々はぶつかることなくスムーズにすれ違う。
 夏芽も慣れた足取りで改札へ向かうが、自然と早足になってしまう。それは以前の通勤ラッシュの感覚が抜けきれていないからだろう。
 夏芽はちょうど到着した電車に乗り込んで座席に腰を下ろした。
 車内はがらんとしていた。
 ついこの前までぎゅうぎゅうの満員電車に押し潰されそうになりながら通勤していた毎日が嘘のように感じられた。それでも、そのとき自分は社会人として立派に社会に貢献している、などという気持ちがあったことはたしかだ。
 今ではどこか後ろめたさを感じながら、ゆったりと電車に揺られている。 
 夏芽はトートバッグからスケッチブックを取り出してぱらぱらとめくった。
 あれから何枚か描いてみたものの、思い通りに描けたのは最初の一枚だけだった。
 描いたというよりは、衝動的な思いをぶつけたというほうが正しいのかもしれない。
 スケッチブックを静かにバッグにしまい、あとは窓の外の景色を眺めて過ごした。
 夏芽は観光客と思われる人たち数人と一緒に電車を降りた。
 男女のふたり組や女性の集団が、スマホを手に持ち景色や自分たちを撮影している。大きなカメラを持った外国人観光客の姿も見られた。
 楽しげな風景に、夏芽の胸中は複雑である。
 夏芽は観光客とは別の方向へ歩く。
 緩やかな坂道をのぼると、緑の風景が広がっていく。
 ひそやかな景色に鳥のさえずりが心地よく響く。
 その店の前に来ると、たった一度しか訪れていないのに、とてもなつかしく感じられた。
 この前と変わらない場所、そして少し変化のある庭。
 金木犀の花は散っていた。
 店内は平日の午後なのににぎやかで、ほとんど女性客だった。

「いらっしゃいませ」

 客と話し中だった中年の女性店員が顔を上げて、笑顔で迎えてくれた。
 すると、話していたテーブルの客たちが夏芽を見て声を上げた。

「あら、この前の子じゃない?」
「まあ本当。美人だから覚えてるわあ」

 前回、帰り際に店ですれ違った初老の婦人たちであることを思い出す。
 夏芽は軽くお辞儀をして、女性店員に傘を差し出す。

「このあいだ、この店の方にお借りしたものを返しに来ました」

 店員は傘を受けとりながら、にっこりと微笑ほほえむ。

「まあ、そうですか。どうぞ、よかったら裏へまわってみてください。そこにいると思いますから」
「裏……?」

 夏芽は言われるがまま、店の裏庭へと足を向けた。
 そこは小さな菜園のようになっていて、老齢の男性がひとり、腰を屈めて雑草を取り除いていた。
 一歩足を出したときに、がさりと音を立てて枯れ葉を踏みつけてしまったせいで、老人はこちらを振り向いた。

「お客さんですか?」

 と訊ねられて、思わず背筋を伸ばして名前を告げる。

「山川夏芽です。はじめまして」

 すると、老人はにこやかな表情で立ち上がった。
 身長は夏芽よりやや低いが、すらりとした体形は稔と雰囲気が似ている。

「そうか。君は仁志ひとしくんの娘さんか。私は矢那森誠司。君のことは覚えているよ」
「え?」
「とは言え、最後に会ったのは君が五歳の頃だ。綺麗な娘さんになったね」
「え……いいえ」

 夏芽は照れくさいような気持ちで目をそらす。

「どうぞ、こちらへ。少し話していかないか?」

 アイアン製のガーデンチェアに促されて、夏芽は静かに腰を下ろした。
 誠司は一度裏口から店内へ戻り、しばらくすると両手に湯呑ゆのみを持って出てきた。

「さあ、どうぞ」
「ありがとうございます」

 受けとると、湯気とともにふわっと強い香りが鼻をくすぐった。

「金木犀ですね」
「散る前に摘み取ったのさ。本当は蕾の状態がもっとも香りがいいのだがね」

 夏芽は「いただきます」と言って湯呑みに口をつける。
 ひと口飲むと烏龍茶の味と金木犀の香りで満たされた。
 明るい陽光が木の葉のあいだからこぼれるように降り注ぐ。
 澄んだ空気と甘い香り、そしてほんのり苦みのある味が、身体に溶け込むように流れていく。
 夏芽はふっと緊張がほぐれるのを感じて、ほっとため息をついた。

「そういえば、父から体調が思わしくないと聞いていました。もう大丈夫なのですか?」
「ああ、持病でね。一時的に悪化してしまったが、今は回復した」
「そうですか」
「庭が心配でおちおち寝てもいられなくてね」

 そう言ってにやっと笑う誠司を見て、夏芽も顔をほころばせる。

「とても丁寧にお手入れされていますね」
「孫が優秀なんでね。助かっている」
「稔くんですね。このあいだお会いしました」

 稔のことを思い出すと、安心感とともにどことなく別の感情がつきまとう。

「もう任せてもいいと思うのだが、あの子にこの家を背負わせるのはかわいそうだ。若い子はもっと広い世界へ出たほうがいい。この店もそろそろ潮時かな」

 夏芽は少し驚いて、誠司を見た。

「お店をやめるのですか?」
「私もそろそろ隠居する歳だ。常連さんには申し訳ないがね」
「そうですか」

 夏芽はそう言ったきり、黙った。
 店内から客の談笑する声が聞こえる。
 この場所を失ったら、困るのは夏芽だけではないだろう。無性に逃げ出したくなるときに、こんな場所があったなら、心を休めてもう少し、頑張ってみようかなという気分になる。

「私は……」

 そう言いかけた次の瞬間、言葉をさえぎられてしまった。

「夏芽さん!」

 夏芽は驚いて思わず「稔くん」とその名を呼んでいた。
 すると誠司がゆっくりと立ち上がり、夏芽に笑顔を向けた。

「あとは若い者同士で」

 そう言うと、誠司は稔にも笑顔を向けて、店の中へ戻っていった。
 たったふたりで残されて、何を話せばいいのか、夏芽は妙に緊張して、まともに稔の顔を見ることができなくなった。
 視線をそらしたその先に、薙刀香需なぎなたこうじゅの紫がゆらゆらと風に揺れて独特の香りをいていた。
 あんな中途半端なことになって気まずいのもあるけれど、ちゃんとお礼を言わなきゃと思い、夏芽は自分をふるたせてまっすぐ彼に目を向けた。

「あ……えっと、傘を、ありがとう。返すのが遅くなって、ごめんなさい」

 声がわずかに震えて風の音に交じった。
 しかし、稔はしっかり聞きとってくれたのか、夏芽をまっすぐに見つめて返答した。

「いいえ。お役に立てて……何より、です……」

 その稔も声がだんだん小さくなり、少し頬を赤らめながら夏芽から視線をずらした。
 あたりがしんと静まり返る。
 ただ、からすの声が遠くでする。
 稔の背後に広がる空は青から明るい紫へと変化していく頃だった。雲の表面に黄金の色がつき、時間を見なくとも夕暮れへ近づいていることを感じさせる。
 からりとした風と草木の匂いを吸い込むと、不思議となつかしさを覚えた。
 夏芽はふっと軽く息を吐き、稔に笑顔を向けた。

「この前は驚かせてしまってごめんなさい」

 謝ると稔はすぐに視線を夏芽のほうに向けて、軽く首を横に振った。

「来てくださって、すごく、嬉しかったです」

 稔は照れくさそうに頭をかきながらあまり夏芽と目を合わせられないようだった。その様子を見ると夏芽も妙に気恥ずかしくなり、どう話題を広げていいか悩んだ。
 店員と客という関係だったあの日は、稔はあれほど饒舌じょうぜつに語っていたというのに、夏芽だとわかると会話すらままならないようだった。
 風がさらりと夏芽の髪を撫でるように吹き抜けた。
 夏芽は頬に触れる髪の毛を指先ですうっと耳にかけて、それからしっかりと稔に向き合った。

「あの、私……ちゃんと、言っておかなきゃいけないことがあるの」
「はい、なんですか?」

 稔は少し不安げな表情になった。
 夏芽はある種の覚悟をして、いったん心を落ち着かせるように息を吐くと、しっかりした声で伝えた。

「私は今、仕事を探しているところで貯金もあまりないの。それに、女としての魅力もあるとは思えないから、このお見合いはなかったことにしてほし……」

 稔が驚いた顔で「えっ?」と声を上げたので、途中で遮られてしまった。
 稔は呆気にとられた表情で夏芽をまっすぐに見つめてく。

「お見合いってなんですか?」

 今度は夏芽が「えっ?」と言う番だった。
 狐につままれたような気分とは、こういうときに言うのだろうか。
 夏芽は言葉を失って、少々混乱した。たしかに父はお見合いだと言ったはずだ。稔が相手だとも言った。それなのに、肝心の相手がそれを知らないとはどういうことなのか。
 しかし、稔は本当に何も知らないようで、夏芽に重ねて訊ねた。

「お見合いって……誰の、ですか?」

 もしかしたら、何か誤解があったのかもしれない。
 この話を持ち出してしまったことを、夏芽はひたすら後悔した。
 ただ、ただ、恥ずかしい。

「ごめんなさい。聞かなかったことにして」

 これ以上稔の顔を見ることができず、夏芽は顔をそむけて一歩、二歩、彼から離れた。すると、すぐに稔が近づいてきた。

「あの、僕が夏芽さんに会いたいって言ったんです!」

 夏芽が驚いて振り向くと、稔と視線がばっちり合った。日の光の当たり具合なのか、稔の瞳はとてもきらきらして見える。

「えっ、どういうこと?」

 夏芽が訊ねると、稔はまた頬を赤く染めて視線をよそへ向けた。

「実は、僕は夏芽さんのファンなんです」

 稔はそう言って、真っ赤な顔を夏芽に向けた。
 それでも、口調はしっかりとしている。

「前に絵本を出版されましたよね? そのときに、祖父から夏芽さんのことを知っていると聞いて、つい会ってみたいと言ってしまったんです。それを、誤解されてしまって、ご迷惑をおかけしたなら、申し訳ありません」

 稔は言い切ったあと、すぐに深く頭を下げた。
 夏芽は胸の奥がじんと痛み、安堵と物寂しさの入り交じる複雑な気持ちになった。
 稔が会いたいと言ったことが、どのようにしてお見合いの話になってしまったのか、それは夏芽にはわからない。だが、あの父のことだから舞い上がって勘違いをしたのかもしれないと思った。
 腰を折ったままの稔に、夏芽は静かに声をかける。

「頭を上げて。あなたは何も悪くないよ。それに、私はそんなふうに言ってもらえるほどの実力はないの。世間からそんなに評価もされていないし、絵を描く機会ももうなくて……」

 稔は頭を上げると、今度は真剣な眼差しを夏芽に向けた。

「他の誰がどう評価しようと、僕はあなたの絵が大好きです」

 夏芽は驚いて絶句ぜっくした。目を見開いて、じっとこちらを見つめる稔の表情に釘付けになる。
 稔は少し表情を緩めて、困惑したような照れくさそうな顔で少し目をそらしながら言った。

「僕はあの絵本のイラストを見たときにすごくなつかしくて温かく感じました。きっと自然が好きで、あらゆる彩り豊かなものを受け入れて、それを素のままに表現できる人なんだなあって思いました。綺麗な絵とか、かっこいい絵とか、そういうのがいいと言う人もいますが、僕は夏芽さんの絵が好きです」

 稔は最後の言葉の部分はしっかりと夏芽に目を向けて言った。

「そんなふうに、言ってくれる人、初めて……」

 と夏芽はぼそりと言った。
 もしかしたら、おじいさんの知り合いだから、おだてているのかなと、偏屈な感情が覗いてみたりしたものの、素直に受けとると嬉しくて、夏芽は心の底から救われたような気持ちになった。

「ありがとう、すごく嬉しい」

 そう言うと、稔は照れくさそうに頭をかいた。
 夏芽はトートバッグの中からスケッチブックを取り出した。ぱらぱらとめくって、一番新しいページを開く。

「もうずっと描けなかったんだけど、ここに来て君と出会って、この庭を見て、その日の夜に無性に描きたくなったんだ」

 夏芽は自分が描いた想像上の【かおりぎ】の庭を、稔に向けて見せた。

「久しぶりだったから、少し腕がなまっているんだけど」

 夏芽は苦笑しながらそんな言い訳を口にする。
 しかし、絵を見た稔は「わっ」と感嘆の声をもらした。

「あの、近くで見てもいいですか?」
「いいよ」

 夏芽が了承すると、稔はじりじりと遠慮えんりょがちに近づいて、スケッチブックに目を落とした。
 稔は驚いたような表情で固まっていたが、それでも夏芽の描いた絵をじっと見つめた。まるでその世界に吸い込まれてしまいそうなくらい、彼は危うげで切なげな瞳をしていた。夏芽にはそう見えた。
 稔がいつまでも見ているので、夏芽はなんだか恥ずかしくなってきた。それほど夢中になれるほどの画力とは、到底思えないからだ。

「あの……稔くん」

 夏芽が声をかけると、彼は我に返ったように頭を上げた。

「すごいですね……どう言えばいいのか、いい言葉が見つからないんですけど」

 稔は頬を赤らめながら、それでも夏芽にしっかりと目を向けて、笑顔で言った。

「綺麗です。とても」

 稔の顔は夕日の色に染まり、きらきらと輝いて見えた。
 そのまぶしさのせいなのか、それとも綺麗だという言葉のせいなのか、夏芽はさらに恥ずかしくなった。
 勘違いをしてはいけない。稔はあくまで自分の絵を好きでいてくれるのだから。
 夏芽は胸の内で何度かそう言い聞かせた。
 庭全体が徐々に同じ色に染まり出す。木々も草花も稔もぜんぶ、まばゆい景色に様変わりした。空から地上までのすべてが、黄金色の世界である。
 夏芽が描いた景色は、現実に存在していた。

「よかった。なんとなく、こんなふうに見えるかなって思ったんだけど」

 夏芽は謙遜して言ったつもりだったが。

「夏芽さんの絵と一緒ですね」

 稔は正反対の表現を口にした。
 現実の景色のほうが夏芽の絵にそっくりだというような表現。
 稔にとってはたったひと言。それが、夏芽には身にみるほど嬉しかった。それこそ、胸の奥がじんとして、涙がにじむくらいに。

「ありがとう」

 と夏芽は微笑んで言った。
 すると、稔は何かを思い出したように表情を変えて言った。

「僕は祖父から夏芽さんの絵本を見せてもらって、それでファンになったのですが、実はもっと熱狂的なファンがいらしたんですよ」

 夏芽は驚いて目を丸くした。
 まさか、他にも自分の絵を気に入ってくれている人がいるなんて。

「稔くんの家族の人? それともお友達かな」

 夏芽はあまり深く考えず、気軽に訊ねてみた。
 そうしたら、思いもよらない返答があった。

「夏芽さんのお父さまです」

 夏芽は一瞬、耳を疑った。稔の言った言葉を頭の中で繰り返す。
 父が、夏芽のファン。それも熱狂的な……
 考えてみても信じられないので首を傾げて苦笑した。

「嘘……だって、そんなはず……」

 あれほど夏芽のイラストの道を反対して、夢を追いかけるのをやめろと言ったくせに。夏芽のやりたいことを否定していたくせに。

「本当ですよ。夏芽さんのお父さまがたくさん絵本を抱えて、知り合いの方々に配っていたみたいです。祖父から聞いた話ですが、すごく嬉しそうにしながら、娘が描いたものだって伝えていたようです」

 稔が嘘をついているようには見えない。それどころか、素直な笑顔でそう言ってくれるのだ。信じがたいことではあるが、稔の表情を見ると、胸の奥にすとんと落ちる気がした。
 あの父が、そんなふうに喜んでくれていたなんて。

めてくれたことなんて、一度もないのに……」

 胸が熱くなり、言葉に詰まる。

「きっと、照れくさかったんですよ」

 稔に満面の笑みでそう言われて、夏芽は急激に目頭が熱くなった。
 あふれそうになる涙をこらえながら空を仰ぐと、金色から瑠璃るり色に変化していくところだった。
 あたりが薄暗くなってくると、外壁に取り付けられている小さな照明が点灯した。暖かいオレンジ色の光がこの庭と稔の顔を照らしている。
【かおりぎ】の庭が夜になる。
 月が出ればここはもっと幻想的な空間になるだろうと夏芽は想像した。
 そうしたら、どんな絵を描くことができるだろう。
 今夜は満月である。そのときの庭の風景を、見てみたいと思った。
 店の中から女性店員が出てきて、稔に挨拶をした。どうやら勤務時間が終わったようで、稔に仕事を引き継いでいた。
 女性店員は夏芽と目が合うとにこやかに会釈えしゃくをした。
 夏芽も彼女に会釈をした。それからスケッチブックをバッグに収めていると、稔から声をかけられた。

「夏芽さん、よかったらお茶でも飲んでいきませんか?」

 夏芽が目を向けると、稔は少し目をそらして、また照れくさそうにしながら言った。

「もう少し、夏芽さんとお話がしてみたいです」

 それは好きな作家だからということなのか、それとも別の意味で言っているのだろうか。夏芽には判断できない。
 それでも、今は、夏芽も同じ気持ちだった。

「うん。私も、もっと稔くんと話したいと思っていたの」

 稔は少しぎこちない笑顔を向け、小さくうなずいた。それから彼は店の扉を開けて「どうぞ」と夏芽を招いた。

「ありがとう」

 店の中はじわっと暖かくて、草木と花と薬と、それからこうばしい珈琲の匂いがした。


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