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戻れない場所 -02
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「……これは」
「中身を整理してたら、見つけた。吹けるんだろ」
篠笛だった。赤い漆が塗られ、手の中で月光を反射している様が、妙に艶やかだ。美しい。もとは祭礼用のものかもしれない。
半年前、ナギに拾われた頃に交わした会話を思い出して、彼の顔を見遣る。ナギは、期待を込めた真剣な眼差しで、ユウリを見つめていた。
まるで吸い寄せられるように、ユウリは歌口に下唇を寄せた。歌口側を顎に当てて支えながら、音孔を押さえる。
息を吹きこむと、細く高い音が、一筋の紫煙のように、たなびいていった。幼少時の記憶に身を委ねながらゆっくりと指を運び、微かに流れる夜風に寄り添うように、穏やかな音を奏でた。ナギが双眸を閉じたのを横目で見届け、自分もそっと目を瞑る。
それは、恋仲にある二人が別離を嘆く、悲哀に満ちた曲だった。彼らは出逢いと別れを繰り返し、何度も繰り返して、嘆きはいつまでも続く。その嘆きをのせた、寂しげな旋律。
曲の中の二人の結末は、どのようなものだったか。無情な運命から解放されたのか、それとも、永久に結ばれないままだったろうか。
続きを思い出せず、指が止まった。ゆっくりと笛を下ろす。半ば放心した状態で目を開けた。音の余韻が身体に憑いている。気付けば、月がずいぶん高くなっていた。
月光に晒され、目の前のナギの顔がはっきりと見て取れた。
彼の勇猛さをそのまま表した凛々しい眉に、相手の本質まで見抜こうとする、真摯で迷いのない眼光。端正な目鼻立ち。逞しい首から下に続くのは、均整のとれた筋肉質の身体。
一月前に十七を迎えたナギの容貌は、もはや立派な青年のそれであり、まるで初めて会った男であるかのような錯覚を、ユウリに覚えさせた。その顔も視線も全てが、今はユウリの方に向けられていた。彼も頼りなげな表情で、ぼんやりとナギを見返す。
一瞬、非常に尊いものに触れたような、何かが喉の奥までせり上がるような感覚に襲われ、不意に泣きたくなった。
高揚の涙か、悲しみの涙か、よく分からないものが、ユウリの碧い瞳を薄く覆う。
「笛の音を聞いたのは、初めてだ」
先に沈黙を破ったのはナギだった。
「もしかしたら、どこかで耳にしたことくらいは、あったかもしれねえ。そういうのには目もくれずに、生きてきた」
僅かに視線を落とし、静かに言った。
「ただ、生きてきた」
その声の端が掠れていることに、ユウリは気付く。言葉の合間の吐息さえ、聞き洩らしたくないと思った。
「物心ついた時から一人で、盗んで、殺して、ただ生きてきた。死なないから、誰にも殺されないから、ただ生きてる。何のために死ぬのか、何のために生きるのか、考えたこともなかった。……まるで動物だな」
遠くでパチパチと焚火の爆ぜる音がし、ノブのはしゃぎ声が聞こえた。そちらを一瞥し、ナギは続ける。
「それでも、何か生きる甲斐みたいなのが欲しくなったんだろうな、弟分みたいなのを作って、旅をしたりなんかもした。けど、やっぱり分からなかった。このままよく分からねえまま生きて、邪魔なものは殺し続けて、そしてよく分からねえまま、いつか殺されて死ぬ。それだけの命だと思ってた」
それだけの命。
ナギの吐露する、昔の彼の姿を思うと、胸が引き絞られるように苦しくなった。
彼は、自分だ。他人から蔑ろにされ、自身でさえ自らの生命の軽重を測りかねて、そして無意味な人生だと見限っていた、半年前までの自分だ。
一切に対して何の期待も抱いていなかった、あの頃の。
「けど」
篠笛を掴んだまま膝に置いていたユウリの右手を、ナギはまるで壊れ物に対してそうするかのように、やんわりと握る。一拍の間を置いて、言った。
「また会いたいと思ったんだ、ユウリ、お前に」
一際熱のこもった声で紡がれる言葉。視線を逸らせない。
「朝、隣で目を覚まして、その度に、俺はお前に会える。ノブにからかわれて怒る顔も。ミンの縫い物の手伝いをしながらコロコロ笑ってる顔も。案外負けず嫌いな気性で、俺に挑んでくる姿も。お前は毎日、新しくなって、……俺にはそれが眩しく見える。それでまた俺は、明日のお前に会いたくなる。獣みたいだったこの人生に、初めて、生きる甲斐ができた」
ナギは言葉を飾らない。感じたままを、実直に伝える。
彼の自分に対する一途な思いを、胸の内で咀嚼するにつれ、ユウリは身体が熱くなってくるのを感じた。架空の物語や村の噂話などで耳にしたどんな口説き文句よりも、それは熱烈な言葉だったから。
「……あ、と」
何か返そうにも、情けなく震えた声しか出てこない。声だけではない、全身が細かく震えているのを、ユウリはようやく自覚した。大きすぎる歓喜に、身体が慄いているのだ。
左手をぺたりと頬に当ててみると、自分の顔とは思えぬほどの熱を持っていた。何を娘のような反応をしているんだ、ナギだってそういう意味で言っているわけではないかもしれないのに……様々な考えが頭の中を慌ただしく巡る。
ユウリの反応がよほど面白かったのか、ナギは「ぶはっ」と噴き出すと、優しい――ユウリが思わず見惚れるほどに、ひどく優しい顔で笑い、包帯を巻いた右手を持ち上げて、ユウリの左手ごと、真っ赤な頬を包んだ。
「……けどな、あの時、もう二度と、会えなくなると思った」
あの時。人買い業者の荷馬車を襲い、戦闘になった際、用心棒の巨漢の男にユウリが狙われ、太刀を振り下ろされた時。
二人の男を相手にしていたはずのナギは、瞬時に駆けつけて、ユウリを庇ってくれた。
「生まれて初めて、怖いと思った。絶対に失いたくない。だから俺は何度でも、お前を助ける。異論は聞かねえ。……鬱陶しいか、こういうのは」
少しだけ不安そうに問われ、ユウリははっきりと首を横に振る。両手にナギの温もりを感じながら、「う、うれしい」と、ぽつりと零した。気恥ずかしさに、目を伏せる。
「誰かにひ、必要とされるの、はじめてだ」
か細い声で、何とかそれだけ告げることができた。聞こえただろうか。ちらりとナギの方を、視線だけで見上げる。彼は柔らかく微笑み、「そうか」と安堵するように言った。良かった、聞こえていた。ユウリは続ける。
「でも、俺も怖い。その、ナギが、いなくなるのは……だから俺も」
強くなるから。自分だけでなく、ナギも守れるように。
そう連なるはずだった言葉を、ユウリはひゅっと呑み込む。腰を上げ、上体をこちらに傾けたナギに、抱き寄せられていたから。
身体をほとんど密着させない、まるで大鳥の両翼にふわりと抱き締められるような、軽い抱擁ではあった。けれど、間近で聞こえるナギの息遣い、肌の放つ熱、微かな汗の匂い、触れた耳の形。
頭上には満月。
気付けば、その広い背中に両腕を回していた。身体と身体との隙間が、徐々に埋まっていく。
いつしか、遠くの焚火の音も聞こえなくなっていた。やがて叢雲が月を隠し、墨を流したような暗がりが四辺を支配するまで、二人はいつまでも、抱き合っていた。
「中身を整理してたら、見つけた。吹けるんだろ」
篠笛だった。赤い漆が塗られ、手の中で月光を反射している様が、妙に艶やかだ。美しい。もとは祭礼用のものかもしれない。
半年前、ナギに拾われた頃に交わした会話を思い出して、彼の顔を見遣る。ナギは、期待を込めた真剣な眼差しで、ユウリを見つめていた。
まるで吸い寄せられるように、ユウリは歌口に下唇を寄せた。歌口側を顎に当てて支えながら、音孔を押さえる。
息を吹きこむと、細く高い音が、一筋の紫煙のように、たなびいていった。幼少時の記憶に身を委ねながらゆっくりと指を運び、微かに流れる夜風に寄り添うように、穏やかな音を奏でた。ナギが双眸を閉じたのを横目で見届け、自分もそっと目を瞑る。
それは、恋仲にある二人が別離を嘆く、悲哀に満ちた曲だった。彼らは出逢いと別れを繰り返し、何度も繰り返して、嘆きはいつまでも続く。その嘆きをのせた、寂しげな旋律。
曲の中の二人の結末は、どのようなものだったか。無情な運命から解放されたのか、それとも、永久に結ばれないままだったろうか。
続きを思い出せず、指が止まった。ゆっくりと笛を下ろす。半ば放心した状態で目を開けた。音の余韻が身体に憑いている。気付けば、月がずいぶん高くなっていた。
月光に晒され、目の前のナギの顔がはっきりと見て取れた。
彼の勇猛さをそのまま表した凛々しい眉に、相手の本質まで見抜こうとする、真摯で迷いのない眼光。端正な目鼻立ち。逞しい首から下に続くのは、均整のとれた筋肉質の身体。
一月前に十七を迎えたナギの容貌は、もはや立派な青年のそれであり、まるで初めて会った男であるかのような錯覚を、ユウリに覚えさせた。その顔も視線も全てが、今はユウリの方に向けられていた。彼も頼りなげな表情で、ぼんやりとナギを見返す。
一瞬、非常に尊いものに触れたような、何かが喉の奥までせり上がるような感覚に襲われ、不意に泣きたくなった。
高揚の涙か、悲しみの涙か、よく分からないものが、ユウリの碧い瞳を薄く覆う。
「笛の音を聞いたのは、初めてだ」
先に沈黙を破ったのはナギだった。
「もしかしたら、どこかで耳にしたことくらいは、あったかもしれねえ。そういうのには目もくれずに、生きてきた」
僅かに視線を落とし、静かに言った。
「ただ、生きてきた」
その声の端が掠れていることに、ユウリは気付く。言葉の合間の吐息さえ、聞き洩らしたくないと思った。
「物心ついた時から一人で、盗んで、殺して、ただ生きてきた。死なないから、誰にも殺されないから、ただ生きてる。何のために死ぬのか、何のために生きるのか、考えたこともなかった。……まるで動物だな」
遠くでパチパチと焚火の爆ぜる音がし、ノブのはしゃぎ声が聞こえた。そちらを一瞥し、ナギは続ける。
「それでも、何か生きる甲斐みたいなのが欲しくなったんだろうな、弟分みたいなのを作って、旅をしたりなんかもした。けど、やっぱり分からなかった。このままよく分からねえまま生きて、邪魔なものは殺し続けて、そしてよく分からねえまま、いつか殺されて死ぬ。それだけの命だと思ってた」
それだけの命。
ナギの吐露する、昔の彼の姿を思うと、胸が引き絞られるように苦しくなった。
彼は、自分だ。他人から蔑ろにされ、自身でさえ自らの生命の軽重を測りかねて、そして無意味な人生だと見限っていた、半年前までの自分だ。
一切に対して何の期待も抱いていなかった、あの頃の。
「けど」
篠笛を掴んだまま膝に置いていたユウリの右手を、ナギはまるで壊れ物に対してそうするかのように、やんわりと握る。一拍の間を置いて、言った。
「また会いたいと思ったんだ、ユウリ、お前に」
一際熱のこもった声で紡がれる言葉。視線を逸らせない。
「朝、隣で目を覚まして、その度に、俺はお前に会える。ノブにからかわれて怒る顔も。ミンの縫い物の手伝いをしながらコロコロ笑ってる顔も。案外負けず嫌いな気性で、俺に挑んでくる姿も。お前は毎日、新しくなって、……俺にはそれが眩しく見える。それでまた俺は、明日のお前に会いたくなる。獣みたいだったこの人生に、初めて、生きる甲斐ができた」
ナギは言葉を飾らない。感じたままを、実直に伝える。
彼の自分に対する一途な思いを、胸の内で咀嚼するにつれ、ユウリは身体が熱くなってくるのを感じた。架空の物語や村の噂話などで耳にしたどんな口説き文句よりも、それは熱烈な言葉だったから。
「……あ、と」
何か返そうにも、情けなく震えた声しか出てこない。声だけではない、全身が細かく震えているのを、ユウリはようやく自覚した。大きすぎる歓喜に、身体が慄いているのだ。
左手をぺたりと頬に当ててみると、自分の顔とは思えぬほどの熱を持っていた。何を娘のような反応をしているんだ、ナギだってそういう意味で言っているわけではないかもしれないのに……様々な考えが頭の中を慌ただしく巡る。
ユウリの反応がよほど面白かったのか、ナギは「ぶはっ」と噴き出すと、優しい――ユウリが思わず見惚れるほどに、ひどく優しい顔で笑い、包帯を巻いた右手を持ち上げて、ユウリの左手ごと、真っ赤な頬を包んだ。
「……けどな、あの時、もう二度と、会えなくなると思った」
あの時。人買い業者の荷馬車を襲い、戦闘になった際、用心棒の巨漢の男にユウリが狙われ、太刀を振り下ろされた時。
二人の男を相手にしていたはずのナギは、瞬時に駆けつけて、ユウリを庇ってくれた。
「生まれて初めて、怖いと思った。絶対に失いたくない。だから俺は何度でも、お前を助ける。異論は聞かねえ。……鬱陶しいか、こういうのは」
少しだけ不安そうに問われ、ユウリははっきりと首を横に振る。両手にナギの温もりを感じながら、「う、うれしい」と、ぽつりと零した。気恥ずかしさに、目を伏せる。
「誰かにひ、必要とされるの、はじめてだ」
か細い声で、何とかそれだけ告げることができた。聞こえただろうか。ちらりとナギの方を、視線だけで見上げる。彼は柔らかく微笑み、「そうか」と安堵するように言った。良かった、聞こえていた。ユウリは続ける。
「でも、俺も怖い。その、ナギが、いなくなるのは……だから俺も」
強くなるから。自分だけでなく、ナギも守れるように。
そう連なるはずだった言葉を、ユウリはひゅっと呑み込む。腰を上げ、上体をこちらに傾けたナギに、抱き寄せられていたから。
身体をほとんど密着させない、まるで大鳥の両翼にふわりと抱き締められるような、軽い抱擁ではあった。けれど、間近で聞こえるナギの息遣い、肌の放つ熱、微かな汗の匂い、触れた耳の形。
頭上には満月。
気付けば、その広い背中に両腕を回していた。身体と身体との隙間が、徐々に埋まっていく。
いつしか、遠くの焚火の音も聞こえなくなっていた。やがて叢雲が月を隠し、墨を流したような暗がりが四辺を支配するまで、二人はいつまでも、抱き合っていた。
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