60 / 60
番外編
真実は墓まで
しおりを挟む
「最近はどう?」
「もう毎日大変です」
「そうでしょうね」
「子供がいることがこんなに大変だとは思っていませんでした」
「自分たちで面倒見ようと思うとそうよね」
世話をする人間が自分たちしかいない一般家庭と違って王族は子供の世話係をつけることができる。
遊んだり勉強を見たり礼儀作法を教えたりと両親が関わる時間のほうが少なかったりするのだが、ユーフェミアは極力自分の手で育てたいと希望して二人を育ててきた。
テレンスに関しては勉強は何もわからないため教育係に任せたが、マリアの教育のほとんどはユーフェミアが行っている。
「トリスタンは元気?」
「ええ、それはもう相変わらず賑やかに過ごされています」
「よかった。先日の世界会議で息子が気になることを言っていたの」
「気になること?」
「そう。トリスタンの雰囲気が変わったんじゃないかって」
「そうでしょうか?」
トリスタンはいつも通りにしか見えないユーフェミアにとってその言葉は意外でしかなかった。
「何か心当たりある?」
「いいえ、全く」
わからないと答えたユーフェミアだが、表情がすぐに苦笑に変わる。
「陛下は二つの顔を持っていて、わたくしに見せる顔と世界会議で見せる顔は少し違うのかもしれません」
「まあ、誰しも顔の三つや四つ持ってるのよね」
「ですから、陛下の雰囲気が変わったというのも間違いではないと思います」
「トリスタンはね、レオンハルトでさえ厄介だって言ってたから」
「ふふっ、子供っぽいですからね」
あの戦鬼であるレオンハルトが危機感を持つような人間ではないとユーフェミアは笑うが、シュライアはその笑顔に微笑みながら首を振る。
「アステリアってすごい国よね。こんな世の中で唯一平和を保ってるんだから」
「世界はそんなに荒ぶっているのですか?」
「何かしら問題を抱えていたりするのよ」
「それはアステリアも同じですよ。小競り合いのようなことは起きているみたいですし」
「でも大事にはならないでしょう? 国民が不安がったり不満の声を上げたり暴動起こしたり……あー思い出して鬱になりそう」
思い出したくないクライアの暴動。
レオンハルトは身を引くだけで終わったが、そのあとが一番大変だったんだと思い出すだけでため息が出る。
「アステリアは小さな国ですから。戦争を仕掛けて手に入れても利益がないんだと思います」
「まあね、それはあるわ」
特別な物を生み出さないアステリアを手に入れたところで相手の国は無駄に金を使うだけだろうとアステリアに戦争を仕掛けない理由を想像する。
アステリアはそれほど大きな国ではない。そこを攻めたところで手に入る物は少ない。
だが、シュライアはそれだけではないと思っている。
「王って王妃が見ていない場所で何をやってるのかわからないわよね」
「そうですね」
「一国を背負うって楽じゃないって初めて知ったの。異常な重責が肩だけじゃなく全身にのしかかってくる。自分の発言一つで国が変わる。自分の考え一つで他国との関係が変わる。国民の生活も何もかも握っているのは自分だって思うと怖かったなー。今は息子が引き継いでくれて肩の荷が降りたけど、あれは支えがなきゃ無理だわ」
何も支えてやらなかったことで一人で背負わなければならなかったレオンハルトの苦しみがようやくわかった瞬間だった。
自分の支えが子供たちの笑顔であったように、レオンハルトもあの女の笑顔に支えを見つけたのだろうとようやく理解できた。
支え合おうとしない夫婦が上手くいくはずがない。不倫されたことだけに目くじらを立てて自分を顧みようとはしなかった。
不倫したことを正当化するまではいかないが、妻としての役割を果たさないことを申し訳なく思った瞬間もあった。
「じゃあもうお嫁さんを?」
「そう思ってるんだけど、それが難しいのよね。クライアに嫁に来たいって嫁に出したいって人が少なくて……」
クライアは戦争大国。そんな危ない場所に嫁に出したいと思う親が少ないことも理解できる。
「マリア、来ない? うちの子、親の顔が良いからイケメンにはなると思うのよ。もうその片鱗を見せ始めてるしね。背も高くなるはずよ」
「マリアはまだテレンスにベッタリなんです」
「テレンスのお嫁さんは?」
「まだ必要ないみたいですね。自分がまだ未熟なのに妻を迎えても苦労させるだけだと」
「完璧主義は苦労するわよー」
「誰に似たのか不思議で」
トリスタンもユーフェミアも完璧主義者ではない。
そこそこでいいと思っている。
テレンスは何事も完璧でなければ気が済まず、自分に課す責務が重すぎる。
親としてはもっと気を楽にしてほしいのだが、本人はそれができないと言う。
嫁に完璧を求める性格ではないが、嫁は完璧な夫の妻として生きることに息苦しさを感じるのではないかと心配してしまう。
自分も夫がしているからしなければならないという重責に駆られていたときがあった。それがとてつもなく息苦しくて辛かった。
「トリスタンが完璧主義者じゃなくてよかったと思う?」
「そうですね。彼はわたくしが辛くて泣きたいと思っていたとき、いつも先に泣いてくれたんです。もう王の仕事なんてしたくない、どうして僕がって。だからわたくしも一緒に泣けたんです。彼が完璧主義だったらきっと泣けませんでした」
「トリスタンって泣き虫なの?」
「彼はとても優しい人なのでわたくしの気持ちを汲み取って泣いてくれていたんだと思います」
「そういうことができるタイプだっけ?」
「ふふっ、彼はいろんな顔を持ってるんですよ」
「へえ~」
シュライアが面白そうにユーフェミアを見るのは夫について語るユーフェミアの顔が幸せそうだったから。
離婚したいと相談に来たのが最近のことのように思えるのに最近というには少し前のことになる。
自分は乗り越えられなかった問題をちゃんと乗り越えて幸せな今を手に入れていることに安堵していた。
「あなたも知らない顔を持ってると思う?」
「ええ」
即答には驚いた。
「どうしてそう思うの?」
その問いに即答はなかった。
どこか少し葛藤しているような表情を苦笑に含ませるユーフェミア。
「詳しいことは何も知らないんです。ただ、彼は昔から時々とても冷めた表情をしているときがあるんです」
「トリスタンが?」
「あ、わたくしに向けるわけではないんです。彼がわたくしの存在に気付いていないときの話です。わたくしの存在に気付くと途端に嬉しそうに笑ってくれるのですが……」
「想像つかないわ」
レオンハルトが言っていたのはそういうことだろうかと彼が昔呟いた言葉を思い出す。
「ヤバいことやってるとか?」
「ヤバい……」
「あ、こういう言葉はいけないのよね。最近クライアの若い子と話す機会が多くてつい」
慌てて口を押さえるシュライアに笑うが、すぐに笑みは苦笑へと変わっていく。
「苦しみは共に分け合いたいと思うのですが、彼はそういうことは一切共有してはくれないのです」
ユーフェミアとトリスタンの考えが違うのはシュライアにもわかる。
ユーフェミアは何もかもを共有して支え合うのが夫婦だと思っている。それが辛く悲しいことだろうとも。
妻への愛が異常なトリスタンはそうはしない。意外ではあるが、なんとなく想像はつく。
普段から言動が子供っぽいトリスタンは実際は年相応に落ち着いているのかもしれないと。
苦しみや悲しみを自分の中で処理することで冷めた顔をしているのかもしれないが、その顔を妻に見られたことがあると知ったらどんな顔をするのだろうと少し見てみたくなった。
「噂をすればあそこに」
ユーフェミアの視線を辿ると大柄の男を連れているトリスタンがいた。
その表情に彼のトレードマークである笑顔はない。
誰だっていつも笑顔で過ごしはしない。笑顔でないときだってあるだろう。
しかし、今見ているトリスタンの表情はどこか強ささえ感じさせるもので、シュライアは全身が粟立つのを感じた。
「トリスタン!」
気がつけば声をかけて手を振っていた。
その場にいた全員が驚いた顔を見せる。
「ああ、シュライア来ていたのか。すまないが、まだ仕事が終わらないんだ。ユーフェミア、よくもてなしてやってくれ」
「はい、陛下」
「よかった。ここ数日とても忙しくてユーフェミアとの時間がなかなか作れなくて申し訳ないと思っていたんだ。シュライアが相手に来てくれたのなら安心だ」
「ねえ、トリスタン──ッ!?」
いつもなら自ら寄ってきてくれるのだが、今日は違う。
二人がティータイムを楽しんでいる庭に出てこようとせず、廊下の影の中にいる。
声はいつものトリスタンだが、雰囲気がどこか違う。それは近付いてみてわかった。
「シュライアすまない。僕はまだ仕事が残ってるんだ。妻と二人で君を存分にもてなしたいのだが、時間がなくてな」
「……いいのよ。女同士で話しているほうが気が楽だもの」
「そうだろうな。では、楽しんで帰ってくれ」
「ええ」
そのまま影の中を進んでいくトリスタンが姿を消すとユーフェミアがシュライアに寄って背中を撫でた。
大袈裟なほどビクッと跳ねたシュライアの肩にユーフェミアの手が離れる。
「いかがなさいました?」
「あ……いいえ、なんでもないの。トリスタンも忙しいことってあるのね」
「ふふっ、彼はよく仕事をする人ですよ」
トリスタンの前に大柄の男ブラッドリーが立ちはだかったことで傍に寄ることはできなかったが、わかってしまった。
あれは間違いなく血の匂い。
なぜ平和の象徴と呼ばれるアステリアの王から血の匂いがするのか。
そしてあの目。暗闇の中から向けられる瞳にゾッとした。
声色はあんなにもいつも通りなのに見たことのない瞳があった。
あれは本当にトリスタンなのか?
「あなたに抱きつきに来ないなんて珍しいわね」
「ブラッドリーがダメだと言うんだって先日も駄々をこねていました。一秒も無駄にはできないからって言うんだと」
そうではない。
今は近付けない理由がある。
トリスタンはきっとシュライアが血の匂いに気付いたことに気付いただろう。
だからこそあの瞳を向けたのだ。酷く冷たい瞳。
脅迫されたような恐怖を感じた。
レオンハルトに似た瞳だった。
「……トリスタンも大変ね」
「王は皆そうだと思います」
穏やかに笑うユーフェミアにシュライアはどこか気が抜けたように笑う。
この笑顔を守るために一人で全て背負うつもりなのだろう。いや、背負ってきたのだろうとシュライアは気付いた。
レオンハルトが言っていた意味もようやくわかった。
「今日はトリスタンを目一杯甘やかしてあげて」
「そうします」
「いつもそうしてるだろうけど」
「ふふっ」
トリスタンのやり方が正しいのかはシュライアにもわからない。
正解などないのかもしれない。
これがアステリアのやり方だというのであればそれに異議を唱える資格など誰も持ってはいない。
それはきっと王妃であるユーフェミアとてそうだろう。
全て王一人で背負ってきたことだからアステリアは誰にも真実を暴露されることなく世界に平和の象徴を保っている。
「いい男じゃない」
「え?」
「いいえ、いい男を見に行こうかなって言ったの。テレンスっていうイケメンをね」
「まだ勉強中ですよ」
「息抜きが必要。そういうの、若い頃から教えておかないとどっかの誰かさんみたいに馬鹿な選択するようになるわよ」
やれやれと首を振りながらも止めないユーフェミアもテレンスには息抜きが必要だと思っている。
勝手知ったるようにテレンスの部屋まで歩いていくシュライアのあとをユーフェミアも追いかけた。
「大丈夫でしょうか?」
反対側の廊下からシュライアを見ていたブラッドリーの心配にトリスタンはフッと笑う。
「彼女は頭の良い人間だからな」
「もしもということは考えられませんか?」
「ありえん。シュライアという女性はレオンハルトよりも賢く、その器は女王になれるほどだ。他国の問題に口を出すような愚か者ではないさ」
「そうですか」
「彼女がいなくなればユーフェミアが悲しむ。僕はもう彼女の涙だけは見たくない」
確かにあのとき、シュライアは感じ取っていただろう。
だが、その後、震えを見せていなかったことからパニックに陥って余計なことを言うことはないだろうと確信があった。
クライアもレオンハルトではなくシュライアが女王となって率いていれば混乱に陥ることはなかったはずだと何度思ったことか。
ユーフェミアが最も信頼を置いている相手を不用意にどうこうするつもりはなく、ブラッドリーの心配を一蹴する。
「大切なのはユーフェミアが笑っていることだ」
トリスタンが望むたった一つのこと。
それが全てだと言いきるトリスタンにブラッドリーは静かに頭を下げた。
「もう毎日大変です」
「そうでしょうね」
「子供がいることがこんなに大変だとは思っていませんでした」
「自分たちで面倒見ようと思うとそうよね」
世話をする人間が自分たちしかいない一般家庭と違って王族は子供の世話係をつけることができる。
遊んだり勉強を見たり礼儀作法を教えたりと両親が関わる時間のほうが少なかったりするのだが、ユーフェミアは極力自分の手で育てたいと希望して二人を育ててきた。
テレンスに関しては勉強は何もわからないため教育係に任せたが、マリアの教育のほとんどはユーフェミアが行っている。
「トリスタンは元気?」
「ええ、それはもう相変わらず賑やかに過ごされています」
「よかった。先日の世界会議で息子が気になることを言っていたの」
「気になること?」
「そう。トリスタンの雰囲気が変わったんじゃないかって」
「そうでしょうか?」
トリスタンはいつも通りにしか見えないユーフェミアにとってその言葉は意外でしかなかった。
「何か心当たりある?」
「いいえ、全く」
わからないと答えたユーフェミアだが、表情がすぐに苦笑に変わる。
「陛下は二つの顔を持っていて、わたくしに見せる顔と世界会議で見せる顔は少し違うのかもしれません」
「まあ、誰しも顔の三つや四つ持ってるのよね」
「ですから、陛下の雰囲気が変わったというのも間違いではないと思います」
「トリスタンはね、レオンハルトでさえ厄介だって言ってたから」
「ふふっ、子供っぽいですからね」
あの戦鬼であるレオンハルトが危機感を持つような人間ではないとユーフェミアは笑うが、シュライアはその笑顔に微笑みながら首を振る。
「アステリアってすごい国よね。こんな世の中で唯一平和を保ってるんだから」
「世界はそんなに荒ぶっているのですか?」
「何かしら問題を抱えていたりするのよ」
「それはアステリアも同じですよ。小競り合いのようなことは起きているみたいですし」
「でも大事にはならないでしょう? 国民が不安がったり不満の声を上げたり暴動起こしたり……あー思い出して鬱になりそう」
思い出したくないクライアの暴動。
レオンハルトは身を引くだけで終わったが、そのあとが一番大変だったんだと思い出すだけでため息が出る。
「アステリアは小さな国ですから。戦争を仕掛けて手に入れても利益がないんだと思います」
「まあね、それはあるわ」
特別な物を生み出さないアステリアを手に入れたところで相手の国は無駄に金を使うだけだろうとアステリアに戦争を仕掛けない理由を想像する。
アステリアはそれほど大きな国ではない。そこを攻めたところで手に入る物は少ない。
だが、シュライアはそれだけではないと思っている。
「王って王妃が見ていない場所で何をやってるのかわからないわよね」
「そうですね」
「一国を背負うって楽じゃないって初めて知ったの。異常な重責が肩だけじゃなく全身にのしかかってくる。自分の発言一つで国が変わる。自分の考え一つで他国との関係が変わる。国民の生活も何もかも握っているのは自分だって思うと怖かったなー。今は息子が引き継いでくれて肩の荷が降りたけど、あれは支えがなきゃ無理だわ」
何も支えてやらなかったことで一人で背負わなければならなかったレオンハルトの苦しみがようやくわかった瞬間だった。
自分の支えが子供たちの笑顔であったように、レオンハルトもあの女の笑顔に支えを見つけたのだろうとようやく理解できた。
支え合おうとしない夫婦が上手くいくはずがない。不倫されたことだけに目くじらを立てて自分を顧みようとはしなかった。
不倫したことを正当化するまではいかないが、妻としての役割を果たさないことを申し訳なく思った瞬間もあった。
「じゃあもうお嫁さんを?」
「そう思ってるんだけど、それが難しいのよね。クライアに嫁に来たいって嫁に出したいって人が少なくて……」
クライアは戦争大国。そんな危ない場所に嫁に出したいと思う親が少ないことも理解できる。
「マリア、来ない? うちの子、親の顔が良いからイケメンにはなると思うのよ。もうその片鱗を見せ始めてるしね。背も高くなるはずよ」
「マリアはまだテレンスにベッタリなんです」
「テレンスのお嫁さんは?」
「まだ必要ないみたいですね。自分がまだ未熟なのに妻を迎えても苦労させるだけだと」
「完璧主義は苦労するわよー」
「誰に似たのか不思議で」
トリスタンもユーフェミアも完璧主義者ではない。
そこそこでいいと思っている。
テレンスは何事も完璧でなければ気が済まず、自分に課す責務が重すぎる。
親としてはもっと気を楽にしてほしいのだが、本人はそれができないと言う。
嫁に完璧を求める性格ではないが、嫁は完璧な夫の妻として生きることに息苦しさを感じるのではないかと心配してしまう。
自分も夫がしているからしなければならないという重責に駆られていたときがあった。それがとてつもなく息苦しくて辛かった。
「トリスタンが完璧主義者じゃなくてよかったと思う?」
「そうですね。彼はわたくしが辛くて泣きたいと思っていたとき、いつも先に泣いてくれたんです。もう王の仕事なんてしたくない、どうして僕がって。だからわたくしも一緒に泣けたんです。彼が完璧主義だったらきっと泣けませんでした」
「トリスタンって泣き虫なの?」
「彼はとても優しい人なのでわたくしの気持ちを汲み取って泣いてくれていたんだと思います」
「そういうことができるタイプだっけ?」
「ふふっ、彼はいろんな顔を持ってるんですよ」
「へえ~」
シュライアが面白そうにユーフェミアを見るのは夫について語るユーフェミアの顔が幸せそうだったから。
離婚したいと相談に来たのが最近のことのように思えるのに最近というには少し前のことになる。
自分は乗り越えられなかった問題をちゃんと乗り越えて幸せな今を手に入れていることに安堵していた。
「あなたも知らない顔を持ってると思う?」
「ええ」
即答には驚いた。
「どうしてそう思うの?」
その問いに即答はなかった。
どこか少し葛藤しているような表情を苦笑に含ませるユーフェミア。
「詳しいことは何も知らないんです。ただ、彼は昔から時々とても冷めた表情をしているときがあるんです」
「トリスタンが?」
「あ、わたくしに向けるわけではないんです。彼がわたくしの存在に気付いていないときの話です。わたくしの存在に気付くと途端に嬉しそうに笑ってくれるのですが……」
「想像つかないわ」
レオンハルトが言っていたのはそういうことだろうかと彼が昔呟いた言葉を思い出す。
「ヤバいことやってるとか?」
「ヤバい……」
「あ、こういう言葉はいけないのよね。最近クライアの若い子と話す機会が多くてつい」
慌てて口を押さえるシュライアに笑うが、すぐに笑みは苦笑へと変わっていく。
「苦しみは共に分け合いたいと思うのですが、彼はそういうことは一切共有してはくれないのです」
ユーフェミアとトリスタンの考えが違うのはシュライアにもわかる。
ユーフェミアは何もかもを共有して支え合うのが夫婦だと思っている。それが辛く悲しいことだろうとも。
妻への愛が異常なトリスタンはそうはしない。意外ではあるが、なんとなく想像はつく。
普段から言動が子供っぽいトリスタンは実際は年相応に落ち着いているのかもしれないと。
苦しみや悲しみを自分の中で処理することで冷めた顔をしているのかもしれないが、その顔を妻に見られたことがあると知ったらどんな顔をするのだろうと少し見てみたくなった。
「噂をすればあそこに」
ユーフェミアの視線を辿ると大柄の男を連れているトリスタンがいた。
その表情に彼のトレードマークである笑顔はない。
誰だっていつも笑顔で過ごしはしない。笑顔でないときだってあるだろう。
しかし、今見ているトリスタンの表情はどこか強ささえ感じさせるもので、シュライアは全身が粟立つのを感じた。
「トリスタン!」
気がつけば声をかけて手を振っていた。
その場にいた全員が驚いた顔を見せる。
「ああ、シュライア来ていたのか。すまないが、まだ仕事が終わらないんだ。ユーフェミア、よくもてなしてやってくれ」
「はい、陛下」
「よかった。ここ数日とても忙しくてユーフェミアとの時間がなかなか作れなくて申し訳ないと思っていたんだ。シュライアが相手に来てくれたのなら安心だ」
「ねえ、トリスタン──ッ!?」
いつもなら自ら寄ってきてくれるのだが、今日は違う。
二人がティータイムを楽しんでいる庭に出てこようとせず、廊下の影の中にいる。
声はいつものトリスタンだが、雰囲気がどこか違う。それは近付いてみてわかった。
「シュライアすまない。僕はまだ仕事が残ってるんだ。妻と二人で君を存分にもてなしたいのだが、時間がなくてな」
「……いいのよ。女同士で話しているほうが気が楽だもの」
「そうだろうな。では、楽しんで帰ってくれ」
「ええ」
そのまま影の中を進んでいくトリスタンが姿を消すとユーフェミアがシュライアに寄って背中を撫でた。
大袈裟なほどビクッと跳ねたシュライアの肩にユーフェミアの手が離れる。
「いかがなさいました?」
「あ……いいえ、なんでもないの。トリスタンも忙しいことってあるのね」
「ふふっ、彼はよく仕事をする人ですよ」
トリスタンの前に大柄の男ブラッドリーが立ちはだかったことで傍に寄ることはできなかったが、わかってしまった。
あれは間違いなく血の匂い。
なぜ平和の象徴と呼ばれるアステリアの王から血の匂いがするのか。
そしてあの目。暗闇の中から向けられる瞳にゾッとした。
声色はあんなにもいつも通りなのに見たことのない瞳があった。
あれは本当にトリスタンなのか?
「あなたに抱きつきに来ないなんて珍しいわね」
「ブラッドリーがダメだと言うんだって先日も駄々をこねていました。一秒も無駄にはできないからって言うんだと」
そうではない。
今は近付けない理由がある。
トリスタンはきっとシュライアが血の匂いに気付いたことに気付いただろう。
だからこそあの瞳を向けたのだ。酷く冷たい瞳。
脅迫されたような恐怖を感じた。
レオンハルトに似た瞳だった。
「……トリスタンも大変ね」
「王は皆そうだと思います」
穏やかに笑うユーフェミアにシュライアはどこか気が抜けたように笑う。
この笑顔を守るために一人で全て背負うつもりなのだろう。いや、背負ってきたのだろうとシュライアは気付いた。
レオンハルトが言っていた意味もようやくわかった。
「今日はトリスタンを目一杯甘やかしてあげて」
「そうします」
「いつもそうしてるだろうけど」
「ふふっ」
トリスタンのやり方が正しいのかはシュライアにもわからない。
正解などないのかもしれない。
これがアステリアのやり方だというのであればそれに異議を唱える資格など誰も持ってはいない。
それはきっと王妃であるユーフェミアとてそうだろう。
全て王一人で背負ってきたことだからアステリアは誰にも真実を暴露されることなく世界に平和の象徴を保っている。
「いい男じゃない」
「え?」
「いいえ、いい男を見に行こうかなって言ったの。テレンスっていうイケメンをね」
「まだ勉強中ですよ」
「息抜きが必要。そういうの、若い頃から教えておかないとどっかの誰かさんみたいに馬鹿な選択するようになるわよ」
やれやれと首を振りながらも止めないユーフェミアもテレンスには息抜きが必要だと思っている。
勝手知ったるようにテレンスの部屋まで歩いていくシュライアのあとをユーフェミアも追いかけた。
「大丈夫でしょうか?」
反対側の廊下からシュライアを見ていたブラッドリーの心配にトリスタンはフッと笑う。
「彼女は頭の良い人間だからな」
「もしもということは考えられませんか?」
「ありえん。シュライアという女性はレオンハルトよりも賢く、その器は女王になれるほどだ。他国の問題に口を出すような愚か者ではないさ」
「そうですか」
「彼女がいなくなればユーフェミアが悲しむ。僕はもう彼女の涙だけは見たくない」
確かにあのとき、シュライアは感じ取っていただろう。
だが、その後、震えを見せていなかったことからパニックに陥って余計なことを言うことはないだろうと確信があった。
クライアもレオンハルトではなくシュライアが女王となって率いていれば混乱に陥ることはなかったはずだと何度思ったことか。
ユーフェミアが最も信頼を置いている相手を不用意にどうこうするつもりはなく、ブラッドリーの心配を一蹴する。
「大切なのはユーフェミアが笑っていることだ」
トリスタンが望むたった一つのこと。
それが全てだと言いきるトリスタンにブラッドリーは静かに頭を下げた。
217
お気に入りに追加
1,329
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(126件)
あなたにおすすめの小説
だから聖女はいなくなった
澤谷弥(さわたに わたる)
ファンタジー
「聖女ラティアーナよ。君との婚約を破棄することをここに宣言する」
レオンクル王国の王太子であるキンバリーが婚約破棄を告げた相手は聖女ラティアーナである。
彼女はその婚約破棄を黙って受け入れた。さらに彼女は、新たにキンバリーと婚約したアイニスに聖女の証である首飾りを手渡すと姿を消した。
だが、ラティアーナがいなくなってから彼女のありがたみに気づいたキンバリーだが、すでにその姿はどこにもない。
キンバリーの弟であるサディアスが、兄のためにもラティアーナを探し始める。だが、彼女を探していくうちに、なぜ彼女がキンバリーとの婚約破棄を受け入れ、聖女という地位を退いたのかの理由を知る――。
※7万字程度の中編です。
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。

【完結】結婚前から愛人を囲う男の種などいりません!
つくも茄子
ファンタジー
伯爵令嬢のフアナは、結婚式の一ヶ月前に婚約者の恋人から「私達愛し合っているから婚約を破棄しろ」と怒鳴り込まれた。この赤毛の女性は誰?え?婚約者のジョアンの恋人?初耳です。ジョアンとは従兄妹同士の幼馴染。ジョアンの父親である侯爵はフアナの伯父でもあった。怒り心頭の伯父。されどフアナは夫に愛人がいても一向に構わない。というよりも、結婚一ヶ月前に破棄など常識に考えて無理である。無事に結婚は済ませたものの、夫は新妻を蔑ろにする。何か勘違いしているようですが、伯爵家の世継ぎは私から生まれた子供がなるんですよ?父親?別に書類上の夫である必要はありません。そんな、フアナに最高の「種」がやってきた。
他サイトにも公開中。
もう私、好きなようにさせていただきますね? 〜とりあえず、元婚約者はコテンパン〜
野菜ばたけ@既刊5冊📚好評発売中!
ファンタジー
「婚約破棄ですね、はいどうぞ」
婚約者から、婚約破棄を言い渡されたので、そういう対応を致しました。
もう面倒だし、食い下がる事も辞めたのですが、まぁ家族が許してくれたから全ては大団円ですね。
……え? いまさら何ですか? 殿下。
そんな虫のいいお話に、まさか私が「はい分かりました」と頷くとは思っていませんよね?
もう私の、使い潰されるだけの生活からは解放されたのです。
だって私はもう貴方の婚約者ではありませんから。
これはそうやって、自らが得た自由の為に戦う令嬢の物語。
※本作はそれぞれ違うタイプのざまぁをお届けする、『野菜の夏休みざまぁ』作品、4作の内の1作です。
他作品は検索画面で『野菜の夏休みざまぁ』と打つとヒット致します。

嘘をありがとう
七辻ゆゆ
恋愛
「まあ、なんて図々しいのでしょう」
おっとりとしていたはずの妻は、辛辣に言った。
「要するにあなた、貴族でいるために政略結婚はする。けれど女とは別れられない、ということですのね?」
妻は言う。女と別れなくてもいい、仕事と嘘をついて会いに行ってもいい。けれど。
「必ず私のところに帰ってきて、子どもをつくり、よい夫、よい父として振る舞いなさい。神に嘘をついたのだから、覚悟を決めて、その嘘を突き通しなさいませ」

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。
鶯埜 餡
恋愛
ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。
しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが


【完結】旦那様は、妻の私よりも平民の愛人を大事にしたいようです
よどら文鳥
恋愛
貴族のことを全く理解していない旦那様は、愛人を紹介してきました。
どうやら愛人を第二夫人に招き入れたいそうです。
ですが、この国では一夫多妻制があるとはいえ、それは十分に養っていける環境下にある上、貴族同士でしか認められません。
旦那様は貴族とはいえ現状無職ですし、愛人は平民のようです。
現状を整理すると、旦那様と愛人は不倫行為をしているというわけです。
貴族の人間が不倫行為などすれば、この国での処罰は極刑の可能性もあります。
それすら理解せずに堂々と……。
仕方がありません。
旦那様の気持ちはすでに愛人の方に夢中ですし、その願い叶えられるように私も協力致しましょう。
ただし、平和的に叶えられるかは別です。
政略結婚なので、周りのことも考えると離婚は簡単にできません。ならばこれくらいの抵抗は……させていただきますよ?
ですが、周囲からの協力がありまして、離婚に持っていくこともできそうですね。
折角ですので離婚する前に、愛人と旦那様が私たちの作戦に追い詰められているところもじっくりとこの目で見ておこうかと思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
本の虫様
トリスタンの息子のテレンスのことでしょうか?
はじまりは全てトリスタンの過去の物語となっていますので、トリスタンの名前で間違いございません。
読み返しはしているのですが、見落としなどあるかもしれません。他にもし名前の間違いなどございましたら知らせていただけますと幸いです^^
エリスローズが面白いのでこっちも読んでみました。
結婚して長い、だけどまだまだ若い国王夫妻のおはなしが非常にしみじみとさせられました。
ところで時代…というが、技術背景は現代なのでしょうか…
ミサイルで頭がぽーん、としてしまいまして。
ずっと描写から近代風かなあ、と思ってたのですがそこでまあ。最低1930年台技術が欲しいよな、と頭が示してしまって。
無論あの国のことを示してるとは思いますし、たぶん主人公達の舞台となる国の状況も…だとは思いますが…
そうするとパレードが頭の中でロールスロイスになってしまいまして。
基本はどのくらいの時代の雰囲気なのでしょう?
こちらにも感想ありがとうございます!励みになります。
夫婦でありながら立場を考えすぎた故に、話し合いが足りなかった故に起きた問題の中で考える時間を与えられた夫婦のお話でした。
お読みいただきありがとうございます。
ミサイルの起源としては1232年ぐらいからそれらしき物があったらしく、ヨーロッパでもミサイル自体は1804年に開発され、1806年には既に戦争で使われていたので近代というわけでもないのです。
当方の頭の中での時代背景としては1800年代後半〜1900年代前半を頭に置いているのですが、そこら辺はロールスロイスではなく馬車で想像していただけますと幸いです^^
16話
「略…国民達を非難させるさ」
非難してどうするよ(爆笑)
ご指摘ありがとうございます!
非難してないで避難させろー(笑)