58 / 60
番外編
はじまり4
しおりを挟む「二人きりだな、ユーフェミア」
「そうですね」
「城での生活には慣れたか?」
「少しだけ」
「実家が恋しかったりしないか?」
「大丈夫です」
淡々とした受け答えをするユーフェミアがそこら辺の甘やかされて生きてきた令嬢とは違った反応にトリスタンは満足していた。
王子という絶対的な権力を持っている相手を前にして媚び一つ見せない女性を気に入らない王子もいるだろうが、トリスタンはユーフェミアのこういう部分を気に入っている。
「僕たちが世界会議に参加するようになったら毎年各国へ行って新婚旅行気分が味わえるぞ」
「楽しみですね」
思ってもいないだろう返事だとわかる。作られた笑みもそう。
この結婚は恋愛結婚でも政略結婚でもない。トリスタンが望んだから叶えられる一方的なものであってユーフェミアの気持ちなど砂粒ほども考えられていないもの。
まだ十四歳のユーフェミアにとってこの結婚は最低なものでしかなく、自分の人生がこれからこんなワガママでバカな王子と共にあるのかと思うと辛くてたまらなかった。
「ユーフェミアは子供は何人欲しい?」
「殿下の欲しい数だけ」
「僕の希望じゃない、君の希望を聞いているんだ」
「……一人」
「そうか。じゃあ僕も一人でいい」
「世継ぎが必要でしょう?」
「女王が誕生したっていいさ。アステリアは平和なのだ。統治に性別は関係ない」
「そうですけど……」
意外な言葉にユーフェミアは少し戸惑っていた。
確かにアステリアは戦争もしない、事件もない平和な国。それはどんな名産品や希少な宝石が見つかる高山よりずっと世界に誇れるものだろう。
しかし、だからといって今まで男が統治してきたものを急に女に変えることなどできるのだろうかという不安がユーフェミアにはあった。
「僕たちの子供のことは僕たちが決める。誰が何を言おうと関係ない。反対する貴族たちには僕が言ってやるさ。僕の娘が女王になる頃にはお前たちは死んでいるだろう!口を出すな!とな」
「まあっ、それはちょっと過激すぎます」
「ハハハッ、そうか。では控えめに言っておくか」
「そうしてください」
クスッと小さく笑ってくれる、それだけでトリスタンは嬉しかった。
王子が結婚を申し込んで断れる人間はいない。断れば周りから何を言われるかわからないし、王子との結婚を断った家の令嬢を嫁にもらおうと思う者はほとんどいないだろう。
バカだ愚かだとあざ笑われる。その末路がわかっていて断る者はいない。
トリスタンもバカではない。自分の容姿が他国の王子と比べて劣っていることぐらいわかっている。特に同盟国の一つである隣国のクライアの王子レオンハルトと比べると落ち込んでしまうぐらい顔立ちに差がある。
もしこれがキラキラと背景が輝くほどイケメンで背も高い誰が見ても文句の付け所がない王子だったら国中の女がユーフェミアを羨んだことだろうが、実際はそうではない。
トリスタンは自分がなんと言われているのかを知っている。だから結婚を申し込んだときにユーフェミアが喜びどころかひどく困惑していたのも納得できた。
王子といえど肩書きだけで、皆が憧れるような王子の外見はしていない。
ユーフェミアも肩身が狭いだろうと申し訳ない気持ちさえあった。
何より、両親には内緒で調べさせたユーフェミアの周辺事情でわかった想い人の存在。
きっと自分には見せない笑顔を見せるのだろうと思い、羨ましさもあったが、それも年月が解決してくれると知らないフリをした。
それを大罪だと自覚しながらも諦められなかったのは自分がこれから抱えるだろう闇に光を与えてほしかったから。
自分勝手で情けない自分が嫌いだったが、振り返っても飛び降りる崖しかない道を歩み始めた以上は逃れられない。だからユーフェミアという光が欲しかった。
全て自分のため。
幸せな結婚生活になるかはわからない。
だからこそ、こうして少しでも笑ってくれるのを見ると嬉しくて舞い上がりそうだった。
「ユーフェミア」
「はい」
「僕は君を必ず幸せにすると誓う。この世界の誰よりも君を幸せにする」
「……はい」
その笑顔も返事も偽りだとわかっている。そう答えるしかないから言っていることも。
でもそれでよかった。自分もほとんどが偽りでできていて、これからもずっと偽っていくのだから相手に誠実さは求めない。
ただ、どんな形であれ側にいてほしい。それだけが願いだった。
「結婚式の君のドレス姿が楽しみだ。きっと世界中が君の花嫁姿に釘付けになるだろう」
「大袈裟ですよ」
「大袈裟なものか!」
「昨日も父上と母上とそう話していたのだ! 君は聡明で美しい! その姿を見て気絶して倒れないようにと注意も受けた……」
注意という言葉に肩を落としてみせるトリスタンにユーフェミアが笑う。
「そんな人いないですよ」
「彼らは僕が気絶するんじゃないかって思っているのだ。確かに君は美しいし、ドレス姿は神をも魅了するほどだろうが気絶して倒れたりはしない。気絶しても立っているさ」
「ふふふっ、気絶はするんですね」
この笑顔があれば大丈夫。
いつかこの手が父親のようにどす黒い血で染まることがあっても戻ってこられる。そう確信があった。
「両親も楽しみにしているのだ」
「期待を裏切らないといいのですが……」
「裏切る? 君はおかしなことを言うな、ユーフェミア。君の美しさは神の保証付きだぞ。裏切るはずがないだろう」
「殿下は大袈裟すぎるんです」
「君のそういう謙虚な部分も美しさの一つだな。ま、当日わかるさ」
トリスタンの様子に効果音を付けるならルンルンというものだろう。
浮かれ舞い上がっている様子にユーフェミアは苦笑する。
もうすぐ結婚式。ユーフェミアの夫になれる。それだけがトリスタンの希望。
美しい花嫁姿を見て感涙する準備はできているが、上手くやれるか少し不安だった。きっと見惚れてしまう気がしているから。
早く正式な夫婦になりたいと胸躍らせているトリスタンの耳に騒々しいほどの足音が聞こえてきた。
「殿下! トリスタン殿下!」
ドアの前で大声を上げる騎士の声にトリスタンはユーフェミアと顔を見合わせた後、足早にドアを開けに向かう。
「ユーフェミアがいるのだ! 静かにしろ!」
「り、両陛下が!」
その言葉に嫌な予感が駆け抜ける。
蒼白になった騎士の顔、流れる異常な量の汗、全身で繰り返す呼吸──その様子を見れば子供でも異常事態が起きたのだとわかる。
「両陛下を乗せた馬車が崖下へと落下したとの報告がありました!」
「なん……だと……」
「突如馬が暴走。制御不能となり、橋を渡るはずがそのまま崖へと一直線に……!」
数時間前に二人は笑顔で城を出たばかり。
『たくさん土産物を持って帰ってくるわね』
『ユーフェミアと二人きりだからって焦るんじゃないぞ』
そう言って手を振った二人が今どうなっているのか想像もしたくなかった。
「殿下……」
不安げなユーフェミアの声にトリスタンは来るなと手で制して兵士を見つめる。
「両陛下の安否確認は済んでいるのか……?」
「馬車は粉砕。両陛下は……」
口にはできないことだ。
だが、それだけでわかる。粉砕した馬車の中で二人だけ奇跡的に生き残っている可能性はないだろうと。
心臓が大きくゆっくりと動くのを感じるのは初めてで、トリスタンは不思議な気持ちだった。
(こういうときは異常なほど速く動くものなのではないのか?)
この感覚には覚えがある。
罪人を裁くことに恐怖を感じなくなった日、トリスタンの心臓はこんな風にゆっくりと大きく動いていた。
もうすぐ心臓が止まってしまうかのようにゆっくりとした鼓動。
(これが報いだとでもいうのか……)
正規の手続きを踏んで裁くのではなく、秘密裏に裁くことを神が許していないのだとすれば二人が受けた死は罰かとトリスタンは自問する。
【全てはアステリアのため】
それを大義名分にして剣を振い、罪人を裁く王とそれを知りながら見て見ぬふりをする王妃に下された天罰なのだとしたら──トリスタンは拳を握る。
「僕はどうすればいいのだ?」
「それは……」
崖下の確認には行けない。上から見させるのも違う。騎士も必死に考えるが、まずは報告をと焦ってここまで走ってきた。
意外と冷静に見えるトリスタンに騎士は少し驚きながらも立ち上がり
「全ての確認が終えるまで待機願います!」
勢いよく頭を下げる騎士に「わかった」とだけ返事をしてドアを閉めたトリスタンがそのまま背を預ける。
「殿下……」
今にも泣き出しそうな顔で寄ってくるユーフェミアを見てトリスタンは震えた手を伸ばす。
抱きつくように抱きしめるユーフェミアの体温にトリスタンは涙が流れる。
「……父上が……母上が……!」
「殿下、大丈夫です。私がいますから。殿下……!」
「なぜ二人が! どうして二人が!」
突如訪れたアステリアの太陽の死に国中が涙した。
葬儀の日、アステリアは黒一色に染まり、そこらじゅうから聞こえる嗚咽は丸一日止むことはなかった。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! どうしてだ! もうすぐ結婚式なのだぞ! 父上と母上がいないのにどうやって結婚式をするというのだ! 僕は王になんてなれない! 無理だ!」
墓の前で座り込んで子供のように手足をバタつかせるトリスタンを見ながら全員が同じ不安を抱えていた。
この王子に王が務まるはずがない。アステリアはおしまいだと。
「殿下……殿下がアステリアを守っていかなければならないのです」
「ユーフェミア……僕には無理だ。だって父上は素晴らしい王だった。僕は父上のようにはなれない……!」
「わたくしが支えますから。一緒に頑張りましょう」
「どう頑張れと言うのだ!? 僕に何をしろと言うのだ! 僕はまだ十五歳だぞ! 僕はまだなにも教わっていないのに!」
ボロボロと溢れる涙を手の甲で拭いながら大声を上げるトリスタンの傍に膝をついたユーフェミアが周りに立っていた関係者たちに首を振って下がるようお願いすると皆が困ったようにため息を履きながら去っていく。
急に両親を亡くした人間が冷静でいられるはずがない。
まだたったの十五歳。王になるには早すぎる。
トリスタンはいつも『勉強は嫌いだ!』『剣術も必要ない!』『ユーフェミア、出かけよう!』と楽しいことだけをして生きていたため王になれないと思うのも当然だとユーフェミアは眉を下げた。
「……ユーフェミア、一人にしてくれないか……」
暫く経った頃、膝枕をしてもらっていてトリスタンが起き上がって口にした言葉にユーフェミアは迷いながらも静かに頷いた。
「向こうにおります」
「部屋に帰っていてくれ……君の身体が冷えてしまう」
「それは殿下も同じです」
「僕は平気だ。バカは風邪ひかないと言うだろう」
静かな声にどこか寂しさを感じながらユーフェミアはゆっくりとその場を後にした。
ユーフェミアの足音が聞こえなくなってから二人の名前が刻印された墓と向かい合うトリスタン。
「……いつか訪れるだろう終わりとはこのことか、父上」
トリスタンが技門を呈するたびに父親はいつも『いつか必ず終わりが来る。それは今日か明日か、それとも一年後か五十年後かはわからない。だからお前はいつその日が来てもいいように覚悟をしておかなければならない』と言っていた。
勝手に寿命の話だと思っていたが、父親はどういう形かはわからないがこういう日が来ると覚悟していたのだろう。
それが世界会議に出かける日だとは思っていなかったかもしれないが、納得しているような気がしていた。
「母上を巻き込んだこと、後悔しているか?」
母親の手は白く、何色にも汚れてはいなかった。
見て見ぬ振りをするのも大罪だと言っていた母親は王妃としてできることをと貧困街や孤児院の救済に力を入れていた心優しい清き人。
王の暗殺だけではなく王妃も共に消した理由はなんだったのか、十五歳のトリスタンには想像もつかない。
「知ろうと知らなかろうと結果は変わらないかもしれない。でも僕は父上とは違う道を歩む。バカだと言われようとも極端だと言われようとも構わない。僕は僕なりのやり方でアステリアの王になる」
父親は道化を演じながらも聡明さを欠くことはなかった。それは本人が持つ気品のせいでもあったのだろう。積極的に他国と交流し、世界会議に出席しては賓客を招くこともあった。
それは父親が信頼に足る相手ということで、招かれてやってくる人間が親そうにしている姿を見るのは嬉しくもあった。
だが、トリスタンはそれを真似ようとは思わない。
誰が何を考えているのかわからないと今回のことで思い知った。
誰がなんの目的でやったのかはわからない。世界会議に出席する者が雇った何者かが? それとも自国の裏切り者?
馬は死に、両親も死に、証言できるのは護衛騎士だけ。
突如走りだした護衛騎士にも理由はわからない。どうすることもできない以上、無駄に足掻くことは無意味でしかない。
「ユーフェミアがいれば僕は大丈夫だ、母上。戻ってこられる」
もう補助ではなく父親が抱えていたアステリアの闇を全て抱えなければならなくなった今、トリスタンはそこにいるだろう母親に声をかける。まるで自分に言い聞かせるように。
心を殺す覚悟はある。数年かけて準備もしてきた。不安はない。
一方的に得た光は小さくとも、その光があれば戻ってこられる。
「あなたたちが愛した国も民も全て僕が守る。どうか安心してくれ」
冷たい墓にキスをしてトリスタンはゆっくりと立ち上がった。
ポツポツと降り始めた雨が瞬く間に土砂降りへと変わる。
「殿下!」
玄関で待っていたユーフェミアが心配そうな顔で寄ってくる姿にヘラっと笑う。
光があれば大丈夫──
そう信じながらユーフェミアを抱きしめた。
「そうですね」
「城での生活には慣れたか?」
「少しだけ」
「実家が恋しかったりしないか?」
「大丈夫です」
淡々とした受け答えをするユーフェミアがそこら辺の甘やかされて生きてきた令嬢とは違った反応にトリスタンは満足していた。
王子という絶対的な権力を持っている相手を前にして媚び一つ見せない女性を気に入らない王子もいるだろうが、トリスタンはユーフェミアのこういう部分を気に入っている。
「僕たちが世界会議に参加するようになったら毎年各国へ行って新婚旅行気分が味わえるぞ」
「楽しみですね」
思ってもいないだろう返事だとわかる。作られた笑みもそう。
この結婚は恋愛結婚でも政略結婚でもない。トリスタンが望んだから叶えられる一方的なものであってユーフェミアの気持ちなど砂粒ほども考えられていないもの。
まだ十四歳のユーフェミアにとってこの結婚は最低なものでしかなく、自分の人生がこれからこんなワガママでバカな王子と共にあるのかと思うと辛くてたまらなかった。
「ユーフェミアは子供は何人欲しい?」
「殿下の欲しい数だけ」
「僕の希望じゃない、君の希望を聞いているんだ」
「……一人」
「そうか。じゃあ僕も一人でいい」
「世継ぎが必要でしょう?」
「女王が誕生したっていいさ。アステリアは平和なのだ。統治に性別は関係ない」
「そうですけど……」
意外な言葉にユーフェミアは少し戸惑っていた。
確かにアステリアは戦争もしない、事件もない平和な国。それはどんな名産品や希少な宝石が見つかる高山よりずっと世界に誇れるものだろう。
しかし、だからといって今まで男が統治してきたものを急に女に変えることなどできるのだろうかという不安がユーフェミアにはあった。
「僕たちの子供のことは僕たちが決める。誰が何を言おうと関係ない。反対する貴族たちには僕が言ってやるさ。僕の娘が女王になる頃にはお前たちは死んでいるだろう!口を出すな!とな」
「まあっ、それはちょっと過激すぎます」
「ハハハッ、そうか。では控えめに言っておくか」
「そうしてください」
クスッと小さく笑ってくれる、それだけでトリスタンは嬉しかった。
王子が結婚を申し込んで断れる人間はいない。断れば周りから何を言われるかわからないし、王子との結婚を断った家の令嬢を嫁にもらおうと思う者はほとんどいないだろう。
バカだ愚かだとあざ笑われる。その末路がわかっていて断る者はいない。
トリスタンもバカではない。自分の容姿が他国の王子と比べて劣っていることぐらいわかっている。特に同盟国の一つである隣国のクライアの王子レオンハルトと比べると落ち込んでしまうぐらい顔立ちに差がある。
もしこれがキラキラと背景が輝くほどイケメンで背も高い誰が見ても文句の付け所がない王子だったら国中の女がユーフェミアを羨んだことだろうが、実際はそうではない。
トリスタンは自分がなんと言われているのかを知っている。だから結婚を申し込んだときにユーフェミアが喜びどころかひどく困惑していたのも納得できた。
王子といえど肩書きだけで、皆が憧れるような王子の外見はしていない。
ユーフェミアも肩身が狭いだろうと申し訳ない気持ちさえあった。
何より、両親には内緒で調べさせたユーフェミアの周辺事情でわかった想い人の存在。
きっと自分には見せない笑顔を見せるのだろうと思い、羨ましさもあったが、それも年月が解決してくれると知らないフリをした。
それを大罪だと自覚しながらも諦められなかったのは自分がこれから抱えるだろう闇に光を与えてほしかったから。
自分勝手で情けない自分が嫌いだったが、振り返っても飛び降りる崖しかない道を歩み始めた以上は逃れられない。だからユーフェミアという光が欲しかった。
全て自分のため。
幸せな結婚生活になるかはわからない。
だからこそ、こうして少しでも笑ってくれるのを見ると嬉しくて舞い上がりそうだった。
「ユーフェミア」
「はい」
「僕は君を必ず幸せにすると誓う。この世界の誰よりも君を幸せにする」
「……はい」
その笑顔も返事も偽りだとわかっている。そう答えるしかないから言っていることも。
でもそれでよかった。自分もほとんどが偽りでできていて、これからもずっと偽っていくのだから相手に誠実さは求めない。
ただ、どんな形であれ側にいてほしい。それだけが願いだった。
「結婚式の君のドレス姿が楽しみだ。きっと世界中が君の花嫁姿に釘付けになるだろう」
「大袈裟ですよ」
「大袈裟なものか!」
「昨日も父上と母上とそう話していたのだ! 君は聡明で美しい! その姿を見て気絶して倒れないようにと注意も受けた……」
注意という言葉に肩を落としてみせるトリスタンにユーフェミアが笑う。
「そんな人いないですよ」
「彼らは僕が気絶するんじゃないかって思っているのだ。確かに君は美しいし、ドレス姿は神をも魅了するほどだろうが気絶して倒れたりはしない。気絶しても立っているさ」
「ふふふっ、気絶はするんですね」
この笑顔があれば大丈夫。
いつかこの手が父親のようにどす黒い血で染まることがあっても戻ってこられる。そう確信があった。
「両親も楽しみにしているのだ」
「期待を裏切らないといいのですが……」
「裏切る? 君はおかしなことを言うな、ユーフェミア。君の美しさは神の保証付きだぞ。裏切るはずがないだろう」
「殿下は大袈裟すぎるんです」
「君のそういう謙虚な部分も美しさの一つだな。ま、当日わかるさ」
トリスタンの様子に効果音を付けるならルンルンというものだろう。
浮かれ舞い上がっている様子にユーフェミアは苦笑する。
もうすぐ結婚式。ユーフェミアの夫になれる。それだけがトリスタンの希望。
美しい花嫁姿を見て感涙する準備はできているが、上手くやれるか少し不安だった。きっと見惚れてしまう気がしているから。
早く正式な夫婦になりたいと胸躍らせているトリスタンの耳に騒々しいほどの足音が聞こえてきた。
「殿下! トリスタン殿下!」
ドアの前で大声を上げる騎士の声にトリスタンはユーフェミアと顔を見合わせた後、足早にドアを開けに向かう。
「ユーフェミアがいるのだ! 静かにしろ!」
「り、両陛下が!」
その言葉に嫌な予感が駆け抜ける。
蒼白になった騎士の顔、流れる異常な量の汗、全身で繰り返す呼吸──その様子を見れば子供でも異常事態が起きたのだとわかる。
「両陛下を乗せた馬車が崖下へと落下したとの報告がありました!」
「なん……だと……」
「突如馬が暴走。制御不能となり、橋を渡るはずがそのまま崖へと一直線に……!」
数時間前に二人は笑顔で城を出たばかり。
『たくさん土産物を持って帰ってくるわね』
『ユーフェミアと二人きりだからって焦るんじゃないぞ』
そう言って手を振った二人が今どうなっているのか想像もしたくなかった。
「殿下……」
不安げなユーフェミアの声にトリスタンは来るなと手で制して兵士を見つめる。
「両陛下の安否確認は済んでいるのか……?」
「馬車は粉砕。両陛下は……」
口にはできないことだ。
だが、それだけでわかる。粉砕した馬車の中で二人だけ奇跡的に生き残っている可能性はないだろうと。
心臓が大きくゆっくりと動くのを感じるのは初めてで、トリスタンは不思議な気持ちだった。
(こういうときは異常なほど速く動くものなのではないのか?)
この感覚には覚えがある。
罪人を裁くことに恐怖を感じなくなった日、トリスタンの心臓はこんな風にゆっくりと大きく動いていた。
もうすぐ心臓が止まってしまうかのようにゆっくりとした鼓動。
(これが報いだとでもいうのか……)
正規の手続きを踏んで裁くのではなく、秘密裏に裁くことを神が許していないのだとすれば二人が受けた死は罰かとトリスタンは自問する。
【全てはアステリアのため】
それを大義名分にして剣を振い、罪人を裁く王とそれを知りながら見て見ぬふりをする王妃に下された天罰なのだとしたら──トリスタンは拳を握る。
「僕はどうすればいいのだ?」
「それは……」
崖下の確認には行けない。上から見させるのも違う。騎士も必死に考えるが、まずは報告をと焦ってここまで走ってきた。
意外と冷静に見えるトリスタンに騎士は少し驚きながらも立ち上がり
「全ての確認が終えるまで待機願います!」
勢いよく頭を下げる騎士に「わかった」とだけ返事をしてドアを閉めたトリスタンがそのまま背を預ける。
「殿下……」
今にも泣き出しそうな顔で寄ってくるユーフェミアを見てトリスタンは震えた手を伸ばす。
抱きつくように抱きしめるユーフェミアの体温にトリスタンは涙が流れる。
「……父上が……母上が……!」
「殿下、大丈夫です。私がいますから。殿下……!」
「なぜ二人が! どうして二人が!」
突如訪れたアステリアの太陽の死に国中が涙した。
葬儀の日、アステリアは黒一色に染まり、そこらじゅうから聞こえる嗚咽は丸一日止むことはなかった。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! どうしてだ! もうすぐ結婚式なのだぞ! 父上と母上がいないのにどうやって結婚式をするというのだ! 僕は王になんてなれない! 無理だ!」
墓の前で座り込んで子供のように手足をバタつかせるトリスタンを見ながら全員が同じ不安を抱えていた。
この王子に王が務まるはずがない。アステリアはおしまいだと。
「殿下……殿下がアステリアを守っていかなければならないのです」
「ユーフェミア……僕には無理だ。だって父上は素晴らしい王だった。僕は父上のようにはなれない……!」
「わたくしが支えますから。一緒に頑張りましょう」
「どう頑張れと言うのだ!? 僕に何をしろと言うのだ! 僕はまだ十五歳だぞ! 僕はまだなにも教わっていないのに!」
ボロボロと溢れる涙を手の甲で拭いながら大声を上げるトリスタンの傍に膝をついたユーフェミアが周りに立っていた関係者たちに首を振って下がるようお願いすると皆が困ったようにため息を履きながら去っていく。
急に両親を亡くした人間が冷静でいられるはずがない。
まだたったの十五歳。王になるには早すぎる。
トリスタンはいつも『勉強は嫌いだ!』『剣術も必要ない!』『ユーフェミア、出かけよう!』と楽しいことだけをして生きていたため王になれないと思うのも当然だとユーフェミアは眉を下げた。
「……ユーフェミア、一人にしてくれないか……」
暫く経った頃、膝枕をしてもらっていてトリスタンが起き上がって口にした言葉にユーフェミアは迷いながらも静かに頷いた。
「向こうにおります」
「部屋に帰っていてくれ……君の身体が冷えてしまう」
「それは殿下も同じです」
「僕は平気だ。バカは風邪ひかないと言うだろう」
静かな声にどこか寂しさを感じながらユーフェミアはゆっくりとその場を後にした。
ユーフェミアの足音が聞こえなくなってから二人の名前が刻印された墓と向かい合うトリスタン。
「……いつか訪れるだろう終わりとはこのことか、父上」
トリスタンが技門を呈するたびに父親はいつも『いつか必ず終わりが来る。それは今日か明日か、それとも一年後か五十年後かはわからない。だからお前はいつその日が来てもいいように覚悟をしておかなければならない』と言っていた。
勝手に寿命の話だと思っていたが、父親はどういう形かはわからないがこういう日が来ると覚悟していたのだろう。
それが世界会議に出かける日だとは思っていなかったかもしれないが、納得しているような気がしていた。
「母上を巻き込んだこと、後悔しているか?」
母親の手は白く、何色にも汚れてはいなかった。
見て見ぬ振りをするのも大罪だと言っていた母親は王妃としてできることをと貧困街や孤児院の救済に力を入れていた心優しい清き人。
王の暗殺だけではなく王妃も共に消した理由はなんだったのか、十五歳のトリスタンには想像もつかない。
「知ろうと知らなかろうと結果は変わらないかもしれない。でも僕は父上とは違う道を歩む。バカだと言われようとも極端だと言われようとも構わない。僕は僕なりのやり方でアステリアの王になる」
父親は道化を演じながらも聡明さを欠くことはなかった。それは本人が持つ気品のせいでもあったのだろう。積極的に他国と交流し、世界会議に出席しては賓客を招くこともあった。
それは父親が信頼に足る相手ということで、招かれてやってくる人間が親そうにしている姿を見るのは嬉しくもあった。
だが、トリスタンはそれを真似ようとは思わない。
誰が何を考えているのかわからないと今回のことで思い知った。
誰がなんの目的でやったのかはわからない。世界会議に出席する者が雇った何者かが? それとも自国の裏切り者?
馬は死に、両親も死に、証言できるのは護衛騎士だけ。
突如走りだした護衛騎士にも理由はわからない。どうすることもできない以上、無駄に足掻くことは無意味でしかない。
「ユーフェミアがいれば僕は大丈夫だ、母上。戻ってこられる」
もう補助ではなく父親が抱えていたアステリアの闇を全て抱えなければならなくなった今、トリスタンはそこにいるだろう母親に声をかける。まるで自分に言い聞かせるように。
心を殺す覚悟はある。数年かけて準備もしてきた。不安はない。
一方的に得た光は小さくとも、その光があれば戻ってこられる。
「あなたたちが愛した国も民も全て僕が守る。どうか安心してくれ」
冷たい墓にキスをしてトリスタンはゆっくりと立ち上がった。
ポツポツと降り始めた雨が瞬く間に土砂降りへと変わる。
「殿下!」
玄関で待っていたユーフェミアが心配そうな顔で寄ってくる姿にヘラっと笑う。
光があれば大丈夫──
そう信じながらユーフェミアを抱きしめた。
78
お気に入りに追加
1,329
あなたにおすすめの小説
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
あなたが選んだのは私ではありませんでした 裏切られた私、ひっそり姿を消します
矢野りと
恋愛
旧題:贖罪〜あなたが選んだのは私ではありませんでした〜
言葉にして結婚を約束していたわけではないけれど、そうなると思っていた。
お互いに気持ちは同じだと信じていたから。
それなのに恋人は別れの言葉を私に告げてくる。
『すまない、別れて欲しい。これからは俺がサーシャを守っていこうと思っているんだ…』
サーシャとは、彼の亡くなった同僚騎士の婚約者だった人。
愛している人から捨てられる形となった私は、誰にも告げずに彼らの前から姿を消すことを選んだ。

【完結】さよならのかわりに
たろ
恋愛
大好きな婚約者に最後のプレゼントを用意した。それは婚約解消すること。
だからわたしは悪女になります。
彼を自由にさせてあげたかった。
彼には愛する人と幸せになって欲しかった。
わたくしのことなど忘れて欲しかった。
だってわたくしはもうすぐ死ぬのだから。
さよならのかわりに……

嘘をありがとう
七辻ゆゆ
恋愛
「まあ、なんて図々しいのでしょう」
おっとりとしていたはずの妻は、辛辣に言った。
「要するにあなた、貴族でいるために政略結婚はする。けれど女とは別れられない、ということですのね?」
妻は言う。女と別れなくてもいい、仕事と嘘をついて会いに行ってもいい。けれど。
「必ず私のところに帰ってきて、子どもをつくり、よい夫、よい父として振る舞いなさい。神に嘘をついたのだから、覚悟を決めて、その嘘を突き通しなさいませ」
とまどいの花嫁は、夫から逃げられない
椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ
初夜、夫は愛人の家へと行った。
戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。
「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」
と言い置いて。
やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に
彼女は強い違和感を感じる。
夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り
突然彼女を溺愛し始めたからだ
______________________
✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定)
✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです
✴︎なろうさんにも投稿しています
私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ

〖完結〗その子は私の子ではありません。どうぞ、平民の愛人とお幸せに。
藍川みいな
恋愛
愛する人と結婚した…はずだった……
結婚式を終えて帰る途中、見知らぬ男達に襲われた。
ジュラン様を庇い、顔に傷痕が残ってしまった私を、彼は醜いと言い放った。それだけではなく、彼の子を身篭った愛人を連れて来て、彼女が産む子を私達の子として育てると言い出した。
愛していた彼の本性を知った私は、復讐する決意をする。決してあなたの思い通りになんてさせない。
*設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
*全16話で完結になります。
*番外編、追加しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる