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憧れの女性

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 どうしてこうなってしまったのだろう。
 何度考えても解決しない問題にマリーは考えることさえ辞めてしまいたかった。
 考えることをやめてしまえば今まで通り接することができる。朝起きておはようを言ってからキスをすることも、行ってらっしゃいを言ってキスをすることも、おかえりなさい、おやすみなさいも……
 だが、マリーは考えることをやめられない。わかっているのにやめられないのだ。勝手に浮かんできてしまう。

「マリー、少しいいかしら?」
「あ、はい!」

 ため息が聞こえていなかっただろうかと慌ててドアを開けるとカサンドラが立っていた。

「観光は? もう終わったの?」
「男だけで話があるんだって」
「きっとおばあさまに香水を買ってるんだわ」
「いらないって言ってるのに」
「ふふっ、贈りたいのよ」

 ベンジャミンは意外にも強引なところがあって、どうしても自分が贈りたい物はカサンドラがいらないと言っても贈るようにしている。迷惑だと言ってもベンジャミンはカサンドラの性格をわかっているから笑顔で『まあいいから』と言うだけ。いらないと言いながらもカサンドラは必ず使うとわかっているのだ。
 今日購入する香水もきっとカサンドラによく合う物だろう。そしてカサンドラはきっとそれを使用する。それを嗅いでベンジャミンは満足する──想像に難くない。

「入ってもいい?」
「ええ、もちろん」

 ドアを大きく開けて中へ招き入れるとソファーに座るよう促した。

「今日は花火が上がるの。楽しみね」

 花火が上がる前ぐらいアーサーと一緒に壇上へ上がって解放月の終了を宣告して花火を待つ。それまでマリーは自由時間。
 今日は使用人たちも忙しいため話し相手がいない部屋に一人でいると考えすぎてしまうためカサンドラが来てくれたことに安堵していた。

「クッキー食べる? 先日、とても美味しいクッキー缶をいただいたの。おばあさまのクッキーには負けるけど、美味しいから食べてみて」
「アーサー様と何かあった?」

 クッキー缶をテーブルに置いた時に問われた内容にマリーは一瞬、身体をこわばらせた。

「どうして?」
「ギクシャクしてたもの」
「……わかるの?」
「砂を吐きたくなるほどの雰囲気を見てきたもの。今日はそんな雰囲気なくて驚いたわ。ここに来る馬車の中で、今日も二人のあの雰囲気を目の当たりにするのかって笑ってたのに着いたら二人どこか違和感があって驚いた」
「おじいさまも気付いてる?」
「でしょうね」

 アーサーはいつも通り笑っていたし、自分も笑えていたはず。でも二人の前でキスを遠慮しなかったアーサーがそれをしなかったのは二人にとって違和感だったのだろう。
 苦笑するマリーは向かいのソファーに腰掛けてゆっくりとため息を吐き出した。

「私が悪いの」
「何があったの?」

 話すべきか戸惑ったが、マリーはリタのことを説明した。リタという女性がいること。距離の詰め方が異常なこと。きっとアーサーにまだ未練があると思っていること。そして──

「彼女が言ったの……」

 カサンドラはマリーの言葉を待った。

「彼ってキス好きでしょ? 私が仕込んであげたの。彼ったらすぐにハマっちゃって一日に何十回もしてきたわ。あなたにもそうなのかしら? だとしたらごめんなさいね。まあ、ファーストキスが最高だったらキスも好きになるわよねって……」

 思い出すだけで胸がモヤついて吐きそうだった。アーサーにもハンネスにも聞こえないよう耳打ちしたリタの性格の悪さはよくわかっている。自分がファーストキスの相手だと自慢したかったのだろう。みっともないと思うが、マリーはそれに上手く言葉を返せなかった。それがまた悔しさを甦らせる。

「それがずっと魚の小骨みたいに引っかかってるの」
「それは彼女がファーストキスの相手だったってことがショックだったから? それとも彼がキス好きなのは彼女が理由だったってことがショックなの?」
「……わからない。ただ……アーサー様とキスをしようとすると彼女の顔が浮かんでくるの。それで私が拒んだの……」

 カサンドラは二人の雰囲気がいつもと違う理由に納得がいったのか、何度か頷いてみせる。

「アーサー様は女性にモテるし、キスなんてたくさんしてきたと思う。そんなの当たり前だし、嫉妬することでもないわ。嫉妬するほうがおかしいもの。……でも……」
「でも?」

 カサンドラの優しい促しにマリーはじわりと涙を滲ませる。自分の意思を無視して震える唇を噛むが震えは止まらない。

「彼の一番の思い出が彼女だってことが嫌だって思ってしまうの……。彼が妻に選んでくれたのは私だし、彼女は選ばれなかった。そう考えても嫌な感情が湧き出てきて……彼とキスができないのっ」

 溢れる涙を隠すように両手で顔を覆って泣くマリーの隣へ移動したカサンドラは両手を伸ばしてマリーを抱きしめる。
 マリーにとっては初恋で、唇も身体も人生も全て捧げる相手。それはまだマリーが十七歳だからで、これが二十代であればキスの一つや二つ経験していたかもしれない。
 婚約者を見つけたい貴族令嬢にとって手垢はあってはならないもの。娘が嫁に行くことは家の繁栄や存続に繋がることから社交界には監視役として親が同伴することがほとんど。
 しかし、子供たちは監視の目を盗んで好みの男とキスをする。会場を抜け出して馬車の中で行為に至る者もいる。それがバレてしまえば娘が嫁に行ける相手はかなり限られてくる。
 マリーはそういうのが一つもなかった。婚約者のネイトとでさえキスはしなかったのだ。
 十七歳で結婚する相手が見つかり、その相手はまさかの四十二歳。どんな過去があってもおかしくない。
 アーサーとしかキスをしたことがないマリーにとってアーサーのキスが上手いかどうかはわからないし、上手いのだろうかと考えたことすらない。しかし、慣れているとは思った。
 マリーが知らないキスをたくさん知っていたし、歯がぶつかるということも一度もない。ハンネスが『歯がぶつかって唇を切らないように気をつけてください』とアーサーに言っていたが、そんなことはなかったためキスの仕方を知っているのだと思った。自分はキスをする時に鼻で呼吸することさえ知らなかったのだから。

「過去は変えられないから辛いわね」

 マリーはあまり泣かない子だった。野良犬や野良猫が馬車に轢かれているのを見たり小説を読んで泣くことはあったが、悔しいことがあっても泣くことはなかった。自分の感情で泣くのは申し訳ないと思っている時。婚約破棄を受けてウエディングドレス姿を見せられないと泣いたのさえ久しぶりに見る姿だった。
 リタという女と過去に何か関係があってもおかしな話ではない。アーサーは大人の男。既に四十年以上、自分の人生を歩んでいる男に過去がないほうが不思議だろう。
 しかし、過去があるとわかっていても傷ついてしまう現実があって、マリーは今それに直面していた。

「でもそういう経験がたくさんあって、今の彼が出来上がっているのよ」
「わかってるけどっ……あの人の言葉が消えてくれないの……」

 リタが教えたキスを自分にしていると考えるのはアーサーに失礼だ。経験があるからできるキスなのに、マリーは自分の歪んだ感情が嫌でたまらない。

「でもこれはね、あなたが乗り越えるしかないのよ」

 過去は変えられない。リタとキスをした過去をなかったことにはできないし、アーサーのキスがリタに仕込まれたものというのもマリーが気にしないようにするしかない。
 いつまでも避けてはいられない。まだ結婚したばかりの新婚夫婦が昔馴染みの女の企みによってギクシャクし続けることは望ましいことではないのだからとカサンドラはマリーの頬を包んで顔を上げさせる。

「どうやって乗り越えればいい?」
「そうねぇ……んー……この唇に何十人の女性が吸い付いていたとしても今は私の物だって思うのはどう?」
「何十人も吸い付いたの?」
「そう思うと楽じゃない? 何十人が吸い付いたけど、手に入れられなかったの。でも私は手に入れられたって」

 カサンドラの言葉にマリーはまだ涙は止まっていないものの目を瞬かせている。
 カサンドラからのアドバイスとしては予想もしていなかった言葉。

「お、おばあさまでもそんなことを考えるの?」
「あら、私は聖人じゃないのよ? どす黒い感情ぐらいたくさん持ってるわ」
「どす黒い感情?」
「愛する夫をバカにする貴族たちを道路に並べてまとめて馬車で轢く想像もよくするし、花壇に植える想像もするわ」
「それ……は……」

 予想外すぎてマリーの涙が止まった。
 カサンドラはいつだって穏やかで優しくて、何があっても前を向いている強い女性というイメージだった。
 誰かを口汚く罵ったこともないし、ヒステリーを起こしたこともない。
 そんなカサンドラの口から出た想像になんと言えばいいのかわからず固まるマリーにカサンドラが笑う。

「おじいさまはおばあさまがそうやって思ってること知ってるの?」
「もちろん。だからベンはあまり貴族と親しくしなかったの」
「おばあさまのため?」
「私を暴れさせないため」

 カサンドラが暴れるというのは想像ができない。きっと本当に暴れはしないのだろうが、ベンジャミンはカサンドラにそんな感情を持たせることもしたくはなかったのだろうとマリーは思った。

「どうしておじいさまに言ったの? その……それって、すごく、嫌な感情でしょ? 人を轢くとか……」

 マリーはそこまで考えたことがない。リタを道路に寝かせて車で轢くと想像の中でもしたことがないし、もし想像したとしてもアーサーには絶対に言えない。でもカサンドラはベンジャミンに伝えていると言う。それが不思議だった。

「私がそういう感情を持つ人間だってことを知ってもらいたかったからよ」
「え……嫌な感情を持ってることは知られたくないって思わなかったの?」
「言ったでしょ? 私は聖人じゃないって。嫌な感情ぐらいたくさん持ってるの。でもそれを口にしないでいるのはどうかなって色々考えたのよ」
「色々?」
「勘違いされても困るってことが一番大きかったかしら。優しいとか穏やかとか、そういう褒め言葉はたくさんもらうんだけど、そうじゃないって。私だって嫌な感情はたくさん持つし、きっとベンジャミンが怒った時よりずっとひどい感情を持つこともあるのになーって思うと言った方が楽かもしれないと思ったの」
「初めて言った時、おじいさまはなんて?」

 マリーの頬を濡らす涙を取り出したハンカチで拭いてやりながらカサンドラはニッコリ笑う。

「笑ってたわ。それも咳きこむほどの大笑い」

 思い出すとおかしかったのか、カサンドラもクスクスと笑い出した。

「それでいい。思ったことはジャンジャン言ってくれ。悪い言葉も良い言葉もなんでも聞きたいんだ。愛する女の感情ならどんなものであろうと全部受け止める。そうでなきゃ夫婦じゃないだろってね」
「……でもそれってすごく怖いことよね」
「そうね。でも自分から言ったことだから後には引けないし、今更取り繕うつもりもなかったのよね。私はこういう人間だからって開き直っちゃった」
「おじいさまを庭に植えるって言葉は……」
「本心よ」

 いつも冗談だと思っていたことは実は冗談ではなくて本心だったのだと知ったマリーは眉を下げながらも笑い出した。

「私もおばあさまみたいになりたいな。アーサー様になんでも言えるようになりたいし、アーサー様の言葉をなんでも受け止められるようになりたい」
「じゃあ自分が悪いと思う時間はもう終わりにしなさい」

 優しい声色にマリーは頷いた。
 本当のことを言うのは本当は怖い。変えられない過去のことを気にしてキスを避けていたなんて言えば軽蔑されるかもしれない。でも、言わずに一生このままではいられないのだと自分に言い聞かせた。
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