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妻か昔馴染みか

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「ほら、マリー戻ってきたから席に戻れ」

 アーサーの向かいに座っていたはずのリタがいつの間にかアーサーの隣に座っていた。隙間もないほど近くに座ってアーサーの太ももに手を置いている。
 昔馴染みといえど、人の夫。あまりにも非常識だとマリーは驚きに足が動かなかった。
 それを離させて軽く肩を押すアーサーはマリーに手を伸ばした。

「おかえり、マリー。ベンジャミン、なんだって?」

 穏やかな笑顔で迎えてくれるアーサーにマリーは必死に笑みを浮かべようとするも唇が震えて上手く笑えないし、手も伸ばせない。
 戻れと言われたのにまだアーサーの横を自分の居場所のように陣取って座っているリタがクスッと笑うのが目に入った。

「マリー?」

 いつもなら手を握ってくれる相手が手を伸ばすどころか反応さえしないことを心配したアーサーが立ち上がってマリーの傍に寄り、屈んで顔を覗き込む。

「何か悪い知らせかい?」

 動揺しているようにも見えるマリーに電話の内容が良くなかったのではないかと眉を寄せるアーサーの顔を見つめて苦笑する。
 優しい人。でもその優しさがマリーは今初めて辛いと思った。
 アーサーが誰にでも優しいことは知っているし、二人は若い頃からの知り合い。リタに至ってはアーサーへの未練があるのもわかっている。
 移動しているのがリタだけであることからアーサーが誘ったのではなくリタが勝手にそこに座ったのだろうことも理解しているつもりなのに、心臓が規則正しく動いてくれない。心臓だけでなく、手首や他の部位まで痛みがあるように感じる。
 ベンジャミンの声を聞いて落ち着いたはずが、今は電話に出る前より悪い感覚に陥っていた。

「いえ、解放月が終わる前にアルキュミアを訪れて買い物をしようと思っているとの報告でした」
「そうか! どうせなら最終日に来てもらいたいな!」
「花火のことを伝えたらそうすると言っていました」
「もてなしの品を用意しておかないと」
「喜びます」

 なんとか笑顔を作った。声が震えないように、声色が落ちてしまわないように気をつけて――

「あら、花火が上がるの? 素敵ね。私も見ようかしら」

 マリーの肩がビクッと跳ねる。それだけは絶対にしてほしくないことだ。だが、マリーは言えない。相手はアルキュミアに来てくれたゲスト。夫に近付くから嫌だと断ることなどできるはずがない。

「カーライル公爵が心配するだろう」
「大丈夫よ。私がいなきゃどうせ愛人のとこに行くんだから」
「愛人がいるのか」
「そうよ。でも所詮は愛人だから。正妻は私。権力だけは持っておかないとね。愛より権力。女には絶対のものよ」

 今のマリーはリタの発言の一つ一つが気に食わなく思える。
 同じ男爵家出身ではあるが、マリーは権力が欲しいと思ったことは一度もない。
 男爵だと見下されたこともあったが、特に気にすることはなかった。男爵なのは変えられないし、男爵令嬢であることを不満にも思わなかった。
 結婚の話になるとベンジャミンはいつも『貴族の世界では爵位が全てだが、結婚相手は爵位ではなくお前を心から愛してくれるかどうかで選びなさい。爵位で選べば必ず苦労する』と言っていたのもあって、マリーは結婚相手は男爵でもいいとさえ思っていたほど。
 それがたまたま公爵令息であるネイトに見初められて結婚することになったのだが、それが破談となって更に上の大公の妻となることになった。
 大公妃となれど権力を持てたとは思わない。爵位が全てである貴族の世界でマリーは爵位ではなく年功序列を感じた。
 それは出会ったほとんどの者がアーサーと歳の近かったせいもあるのかもしれないが、マリーはリタの考えに苛立ちを感じていた。
 アーサーにこうして近付くのも権力が狙いなのではないかと思ってしまうから。

「お前は昔から権力と金だと言ってきたな。願いが叶ってよかったじゃないか」
「本当はあなたと結婚したかったのよ、アーサー。全て手にしてるあなたと結婚できたらどんなによかったか」

 冗談めかして言ってはいるが、本心なのだろうとマリーはいつの間にか笑顔が消えた顔をリタに向ける。

「やだ、気分害した? そんなに睨まないで。私は結婚してるし、今更アーサーとどうこうなろうとか思ってないから。だからそんな怒った顔で睨まなくても大丈夫よ」
「睨んでなんて……」

 睨んでいないと言いながらも焦って顔を逸らしてしまえば睨んでいたと言っているようなもので、マリーはやってしまったと目を閉じる。

「からかうな」
「ごめんなさい。だって可愛いんだもの。嫉妬してるのかなぁって」
「くだらないことを」

 どこまでが口だけなのだろう。いつまで優位に立っているつもりで話し続けるのだろう。
 マリーの頭の中は『うるさい』の言葉が渦巻いて、いつ溢れ出すかもわからない状態だった。

「フィリップ様よりお電話が入っているそうです」
「フィリップか……少し待っていてくれるかい?」

 使用人が伝えに来たのをハンネスが聞いてアーサーに伝える。
 かけ直すと言える相手ではないらしく、立ち上がったアーサーはマリーの頭頂部に口付けて出ていった。
 二人きりになった部屋はしばらく静まり返っていたが、お菓子が運ばれて来たのを合図に口を開く。

「彼って素敵よね」

 返事をする前にマリーは一度静かに深呼吸した。心を乱してはいけない。乱せば相手の思うツボになりそうで、心を落ち着かせてから笑顔を作った。

「そうですね」

 短い返事は震えていない。

「自分にはもったいないと思わない?」
「思います」
「彼からプロポーズしたんだって?」
「そうなんです」
「よく断らなかったわね」

 リタはこう言いたいのだろう。“図々しい“と。この一ヶ月でもう慣れた言葉だ。今更そんな言われ方をしたところでマリーは傷つかない。

「断る理由がありませんから」
「自分にはもったいないと思ったのに?」
「愛する人から愛あるプロポーズをされて断る人がいますか?」
「その若さじゃ愛が何かも知らないでしょ」
「歳を食えば愛がわかるというわけではないと思います」
「若いってことはそれだけ人生経験が貧弱だっていうのよ」
「リタ様は豊富そうですよね、色々と」
「どういう意味かしら?」
「四十年も生きていれば当然、というだけです。深い意味はありません」

 リタはマリーの言い方に悪意を感じた。マリーが強調した『四十年“も“』というのは自分の若さを自慢し、こっちを馬鹿にしているのだと。
 自分は若さを見下しに利用するのに利用されると腹が立つらしく、笑顔のマリーとは反対にリタの表情が歪んでいく。

「アーサーがロリコンだったなんて本当にショックだわ」
「ロリコンだと決めつければ自分が選ばれなかった言い訳になりますしね」
「……さっきからあなた……何様のつもり?」

 自分が子供だと馬鹿にされるのはいい。事実、マリーはまだ十七歳の子供。大公妃として上手くやれる自信だってまだない。だからその点を突かれれば反論はできないが、アーサーを馬鹿にされるのだけは我慢ならなかった。
 睨みつけてくるリタを睨み返さず、マリーは笑顔を見せ続ける。

「どうせ身体で誘ったんでしょ。若さといえばそれぐらいしかないものね。アーサーもその貧相な身体のどこがよかったんだか」
「彼が身体で誘われるような男だと思っているのですね」
「だってあなた、普通なんだもの。美人でもなければ可愛くもない。背も低いし胸もない。利発さも感じられないしね。アーサーは賢い男なのに不思議だわ」
「彼は賢いからあなたを選ばなかったんでしょうね」

 手に取ったクッキーがリタの手の中で砕けた。
 ワナワナと震えるリタの拳が震える様子にハンネスがマリーの傍に足音を立てずに寄っていく。

「随分と口達者だこと。ご両親はさぞ良い教育を受けさせたんでしょうね」
「そうですね。昔馴染みであろうと妻帯者に胸を押しつけるような恥知らずにはなるなと教わりました」
「ッ! 生意気な娘ね!」

 手の中で握りつぶした粉々のクッキーをマリーの顔めがけて投げたのだが、ハンネスがマリーの顔の前にハンカチを広げたことでドレスに落ちるだけで終わった。

「ハンネス!」

 リタの怒声にハンネスが首を振る。

「いくらリタ様であろうとマリー様に無礼を働けばアーサー様は黙っておられませんよ」

 悔しげに顔を歪めるリタは立ち上がってドアへと向かう。
 帰るのだと察してハンネスがドアを開けに向かうも振り返ってマリーに近付いた。
 何をするつもりかとハンネスが戻ろうとするのをマリーが手で止めるとリタが耳に唇を寄せて何か囁いた。
 その瞬間、マリーの目が軽く見開かれたがマリーは何も言わなかった。

「じゃ、帰るわね。アーサーにもよろしく伝えておいて」

 急に機嫌が良くなったリタはハンネスに投げキスをして帰っていった。

「マリー様、大丈夫ですか?」
「ええ……大丈夫です」

 優勢だったのはマリーだったはず。それが耳打ちされた瞬間に逆転された。
 ドアの側にいたハンネスにはその内容まで聞き取ることができず、知っているのはマリーとリタだけ。
 一点を見つめている様子を大丈夫と言うのなら大丈夫なのだろうが、ハンネスの常識ではこれを大丈夫とは言わない。

「疲れました」

 急に笑顔を見せるマリーにハンネスは眉を下げるが、何があったのか話せと強制することはできず、部屋まで送ろうと一緒に歩きだす。

「紅茶でもお持ちしましょうか?」
「いいえ、大丈夫です」
「何かございましたらすぐにお呼びください」
「はい」

 二人の家まで送った後、ドアが閉まると同時にハンネスは静かに長い息を吐き出した。
 マリーがあれほど言い返せることには驚いたが、リタがあそこまでマリーにくってかかることにも驚いた。
 未だ諦め切れないのだろう未練が女々しく感じられ、それを十七歳の少女に真正面からぶつける腐った性根が理解できない。
 若い頃からアーサーに恋していたリタが選ばれなかったのに未だ納得していないように感じた。
 自分には魅力がある。それは数多の男を手玉に取ってきた経験からの自信だろう。公爵夫人の地位を手に入れ、四十代にしては輝く美しさを持つリタは今も自分の容姿に自信があり、経験もしてきたことからアーサーにもう一度アタックしようと決めて来たのかもしれない。十七歳との結婚は望んだものではなく政略結婚かもしれないと一縷《いちる》の望みを胸に。
 だが実際はそうではなく、この結婚はアーサーが望んだものだった。これが美少女であればリタは納得しただろう。若くて美しい女には勝てない。しかしマリーは誰もが見惚れるほどの美貌もなく、スタイルがイイわけでもない。自分の方がずっとイイ女だと思ったに違いない。
 だからこそ、リタは誰もが欲しているアーサーの愛を当たり前のように受けているマリーが気に食わなかった。
 容易に想像がつくリタの言動に屋敷へ戻りながら思い切りため息を吐くハンネス。

「老人にいつまで小言を言わせるのか……」

 ため息しか出ないと首を振るハンネスはリタに警戒心を抱いていないアーサーにも問題があると入れ違いになる前にと足速にアーサーのいる部屋に向かった。
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