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キスの思い出
しおりを挟む「マリー、平気かい?」
「はい」
アーチボルト邸を出発してからギルバートの店に着くまでは目も開けられないほど怖かったのに、今は不思議なほど怖くない。
流れる街並みはマリーが住む郊外によく似ている。もしかするとそれよりも田舎かもしれない風景は本当に世界一の富裕国なのだろうかと思ってしまうほど。
上質な生地や高価な宝石を飾っているショーケースは見当たらない。そういう店があるのかもわからないような街並み。住民達の家も特別どこかが大きいということもなく、ほとんどの家が大差ない外観と広さをしている。まるで建てられた家を与えられたような、そんな印象を受ける住宅街を通り抜けていく。
「ここだよ」
車が停まり、アーサーの手を取って降りると目の前に広がる光景にマリーは息をのんだ。
「展望台?」
「一応ね。ここが一番見晴らしが良いんだ。国のほとんどが見える」
空が黄昏に染まろうとしている中で見るアルキュミアはどこか寂しさを感じさせる。錬金術というものが存在し、時代の最先端を有し、世界一の金融国家であるとは思えない景色だが、その寂しさは絵画のようにも見えて美しかった。
住宅街を走るのは確かに車ばかりで馬車は一台だって走っていない。クルンストで育ったマリーには不思議でしかない光景。でもマリーは、この光景を好きだと思った。何時間でも見ていられそうだと。
「アルキュミアを走ってみて、どう感じた?」
「派手なお店がないって思いました」
「そうだね。派手は店は置かないようにしてるんだ」
あえて置いていない。アーサーの言い方はそう聞こえた。
「派手を好まない者もいる。もちろん地味を好まない者もいるけど、私は前者を優遇した」
「なぜですか?」
「派手を好まない物は派手というだけで嫌煙して店に入らなくなる。地味が嫌いな物はそうじゃない。地味とバカにしていても、そこが人気店であれば興味本位で入る。そして商品の質が良ければ買っていくんだ。だから派手な店は置かないと決めた」
「素敵なお考えだと思います」
「君がこの国を気に入ってくれると嬉しいんだけどね」
「私はこの景色が好きになりました」
アーサーもこの景色が好きだった。だからマリーに見せたかったし、好きになってほしかった。だから好きだと言ってもらえるのは嬉しい。
アーサーは自分がこんなに単純な人間だとは思っていなかった。一人の女性に恋をして、四六時中会いたくてたまらなくて、彼女が傍にいないとダメになりそうな感覚は今までの人生の中で感じたことは一度だってない。
相手は十七歳の少女。男爵令嬢。甥の元婚約者。自分でも信じられなかった。可哀相だと拾う野良猫や野良犬とは違う。でも同情ではない。
心が、彼女を欲した。脳が信号を出すより先に口が動いたのだ。恋愛一つまともにしてこなかった自分がこの歳になってこんなことを実感するとは思っていなかったが、アーサーはマリー・アーネットは間違いなく自分の運命の相手だと信じている。
「ギルバート様と仲良しなんですね」
「ああ、まあ……そうだね。そこそこの付き合いになるかな」
「ご結婚なさっているのですか?」
「いや、彼は一生結婚しないらしい。女性が好きでね、命が続く限り遊び尽すらしい」
貴族ならそういう生き方は許されない。結婚しなければみっともないと言われてしまうため無理矢理の政略結婚が多い。しかし、彼は貴族ではなく錬金術師。一人で店を構えて生活しているのだから誰に文句を言われるわけでもない。女好きというのも見送りのときの言葉で納得できる。
「じゃあ、アーサー様のほうが先に結婚してしまうんですね」
「え?」
どういう意味だろうとマリーを見て首を傾げるとマリーも同じように首を傾げて不思議そうな顔をする。
「アーサー様のほうがお若いのに先に結婚するという、意味で、言ったん、ですが……」
違っただろうかと疑問を頬に書いているマリーの発言にアーサーは思わず吹き出した。口を押さえて笑い声を上げるのだけは堪えたが、肩が震えて止まらない。痙攣しているように震えて笑うアーサーはついにしゃがみこんで笑い続ける。
「アーサー様? 私、何かおかしなことを言いましたか?」
「ふふっ……はっ、あはははははっ! はははっ、すまない。おかしなことじゃないけど、私にはおかしかっただけだよ」
やはりわからないと首を傾げるマリーの手を握って手の甲へ口付けた後、ゆっくり立ち上がって深呼吸をする。まだ余韻が残っているせいで笑いそうになってしまうが、なんとか堪えてマリーを見下ろし
「彼はまだ三十七歳だよ。私より五つ下なんだ」
「ええっ!?」
大袈裟すぎる反応に堪えていた笑いがまたぶり返して笑ってしまうアーサー。
「で、でも!」
「くくっ……わかるよ。彼はどう見ても四十代だよね。会った人は皆そう言うんだ。もともと老け顔というのもあるけど、ヒゲを伸ばしてるから余計に老けて見えるのかもしれない。一応そうやって言ってるんだけど、ヒゲで女性の肌をくすぐるのが好きらしくて聞く耳持たずだよ」
本人の前で言わなくてよかったと心底安堵したマリーは涙を滲ませて笑っているアーサーを見上げて手を伸ばす。
「どうしたんだい?」
手を握って頬に当ててくれる優しい笑顔の男と自分は自分は結婚するのだと思うと胸が甘く締めつけられる。
「アーサー様はお若く見えますね」
「皆にそう言われるよ。四十代なんて嘘つくな!って怒る人もいる。理不尽だよね。こう見えて四十二歳です」
どこから見ても四十二歳には見えない。四十二歳に見ろというほうがムリだと言える。それだけアーサー・アーチボルトは童顔で美しい。
これが中年太りで腹が出ていたりでもすれば少しは違って見えたのかもしれないが、アーサーは顔だけではなくスタイルも良い。
髪の一本からつま先まで美しいという表現が小説で使われているのを見たことはあるものの、それがまさか現実世界で使うことがあるとは思っていなかった。
まさに〝神に愛された男〟なのだとマリーは自分で表現して納得する。
「ギルバートに何歳に見えるかって聞かれたら三十七歳って言ってあげて」
「はい」
アーサーはまだ〝お兄さん〟と呼べる外見だが、ギルバートはどこから見ても〝おじさん〟だっただけに気をつけようと頷くも、アーサーがそう言うということはギルバートは年齢を気にしているのかもしれない。そう思うと可愛くてマリーも笑ってしまう。
「マリーの笑顔は可愛いね」
「……突然褒めるのは……ダメです」
唐突な褒め言葉に固まったマリーはそのままゆっくり下を向いてもごもごと口ごもる。ハッキリ口にされるのはどうにも恥ずかしい。手紙にはたくさん書いてあったが、目の前に立って本人から直接言われるのでは当たり前だが比べものにならない。
好きな人に会えただけでも嬉しいのに、可愛いと言われると更に嬉しくなる。そしてそれをどう受け止めていいかわからなくなる。
小説ならお礼を言って微笑んでいたが、マリーにそんな余裕はない。
「好きだよ」
アーサーの告白にマリーはまた固まった。
(笑顔が? それとも私個人のこと? 個人なら私もって返せるけど、笑顔が好きって言われているのに私もって返すのはおかしいし……)
返事に失敗したくない。せっかく三泊、アルキュミアに泊まってアーサーと過ごせるのに変な空気になるわけにはいかない。変な返事をしたとこでアーサーは変な空気を作ったりしないとわかっていても嫌だった。
グルグルと回る選択肢を決められず固まっているマリーの手を引き寄せて腕の中にマリーを閉じ込めたアーサーは胸元にあるマリーの頭をそっと撫でる。
「私は意外と欲張りみたいなんだ」
「そうなんですか?」
「今日だけで君に何度キスをしたかな? 五回はしてるかな」
唇だけではなく手首にしたり手の甲にしたりした物もキスと含めるなら間違いなく五回はしている。
「でも全然足りないんだ。ずっと君に触れていたいって思ってる。外ではダメだってわかってるのに抑えが利かない。本当は外なんて案内せずに君と二人きりで過ごしたいって……考えてしまうんだよ」
案内しておきながら案内せずに部屋で過ごしたいなんて最低なことを言っている自覚はある。それでも自分はそれだけ相手を恋しがり求めているのだと伝えておきたかった。触れたくてたまらなくなるほど好きだということを。
それは抱きしめられたときからマリーにはじゅうぶんに伝わっている。マリーの顔はちょうどアーサーの胸元にあって、抱きしめられたことで耳が胸に当たっているせいでアーサーの心臓の音がハッキリ聞こえていた。普通より速い心臓の音がアーサーの今の気持ちを表しているのだと嬉しかった。
「ギルバートの店では無理矢理してしまってすまない。反省しているし後悔もしている」
「ふふっ」
謝っているのに笑い声が聞こえてきたことに少し身体を離して見下ろすとマリーの笑顔がアーサーに向けられる。
「強引ではありましたけど、無理矢理ではなかったですよ」
「軽蔑しなかったかい?」
「求めてほしい人に求められているのに軽蔑なんてありえないです」
ネイトのときはダメだった。ネイトも婚約者だったのにネイトのキスは受け入れられなかった。それでも結婚する相手だからと初夜までに気持ちの整理をつけようと思っていた。
「ネイト様には初夜までキスはしないって言ってたのに……」
「それは私を喜ばせようとして言ってるのかい?」
「え?」
グイッと腰を強く抱き寄せられる形になると胸を反らす形となり、自然と顔は上を向く。アーサーの顔が近付いてきて一瞬だけ唇が触れるも顔は離れない。
「私には許してくれたということだろう?」
「わ、私、自分が矛盾してるってことが言いたくて……」
「私は嬉しいよ。おかげで君とこうして何度でもキスができるんだから」
色気ある笑みに吸い込まれるように唇が重なる。啄むようなキスが一回、二回、三回と回数を増やしていき、マリーを蕩けさせていく。
全身が甘く痺れる感覚に未だ慣れはしないものの、マリーは抵抗しない。背を丸めて唇を重ねるアーサーの首に腕を回して応える。自分だって嬉しいんだと伝えるように唇を押し付けるとキスは深いものへと変わっていく。
「一番好きな場所で一番好きな人とキスができたのは嬉しいな」
アーサーはいつだって余裕を見せる。唇が離れた後も照れたりしない。それが少し悔しいが、相手は大人なのだから当たり前だと受け入れている。
そんなことで悔しがるより相手が嬉しいと言ってくれていることを喜ぼうと微笑むマリーは、助手席に乗りながら乱れた呼吸を必死に整えていた。
「明日もアルキュミア自慢の場所を案内するよ」
「お部屋で二人きりで過ごさないんですか? キャッ!」
「す、すまない!」
思ってもいなかったマリーの返答にアクセル全開にしてしまったことで悲鳴を上げたマリーが落ちないように慌てて腕でガードしながら謝るアーサーは耳を疑っていた。
二人きりで過ごすシチュエーションが既にマリーの中にはあるのかと。二人きりで過ごすのがどういう意味なのかわかっているのかと。
聞きたいけど聞けない。聞けるはずがない。ギルバートも勘付いていたようにきっとマリーはそこまで知らない。
(結婚までは我慢。裏切らない)
自分の中の騎士に頑張ってもらうしかないと覚悟を決めてアーサーは笑顔を作る。
「結婚する前に案内しておきたいんだ。マリーが安心して来れるようにね」
退屈な言い訳だと自分を嘲笑いたくなる。嘘ではないが、完全な本心でもない。汚い欲望を抱えた汚い大人だ。
これはアーサーの戦いでもある。
「素敵な場所に連れて行くから、明日はもっと楽しんでもらえるといいな」
「楽しみです」
アーサーの戦いも知らず、マリーは純粋な笑顔で頷いてアーチボルト邸までの夜のドライブを楽しんだ。
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