遊び人公爵令息に婚約破棄された男爵令嬢は恋愛初心者の大公様に嫁いで溺愛される

永江寧々

文字の大きさ
上 下
7 / 34

素晴らしい朝

しおりを挟む
 アーサーはいつも執事に起こされて目を覚ます。
 夜遅くまで公務にかかり、屋敷に戻ってからも書類に目を通しているせいでベッドに潜るのはいつも明け方近くが多かった。だから朝が苦手で、一人で起きられず、ベッドの中でもぞついている主人に対して「四十二歳にもなって一人で起きられない男のもとに嫁に行こうなどと誰も思いませんぞ」と口うるさく言い続ける。
 夜遅くまで仕事をしているのだから仕方ないと言い訳するが、アーサーは昔から朝が苦手で一人では起きられない子供だった。大人になってもそれは変わらず、元々アーチボルト家に仕えていた執事はアーサーが家を出る際に心配だからと一緒についてきた。
 やれやれと毎朝かぶりを振って呆れ顔を見せるのだが、今日は違った。

「……イイ匂いだ」

 執事の声はなく、食欲をそそる匂いに腹の虫が目覚まし代わりに反応し、ゆっくり目を覚ました。いつもなら執事に揺さぶられようと毛布を剥がれようと幼虫のようにもぞもぞと動いて起きるのを渋るのだが、今日の身体は不思議なほど軽く、まぶたも重くない。

「そういえば……泊まったんだったな」

 視界に映るのは見慣れた自分の殺風景な寝室ではなく、手縫いのカバーがつけられた飾り枕や風景画が飾られてある暖かみある部屋。
 ベッドから下りて改めて部屋を見回すと、一人掛けのゆったりと座れる大きめのソファーが二つ並び、ソファーの間に小さめの円状のガラステーブルが置いてある。すぐ傍にはバルコニーに続く両開きのガラス戸があり、そこを開ければカサンドラが手入れしているのであろう色とりどりの花が咲き誇る花壇と三人掛けのソファーが見えた。
 男爵であろうと貴族は貴族。しかし、アーネット邸には使用人が一人もいない。美しい花壇を造り上げる庭師も、客にワインや紅茶を用意するためのメイドも、食事を用意するシェフもいなかった。昨夜は全てカサンドラがもてなしてくれた。

「貴族らしくない生活だ」

 屋敷こそ男爵家らしい構えだが、暮らしぶりはそうじゃない。贅沢は望まず、三人で必要最低限の暮らしをしているのがわかる。

「呼びに来てくれるまで待っているのがマナーかもしれないが、我慢できない」

 胃を少し刺激するだけだった匂いは次第に大きく刺激するものへと変わり、何を作っているのか確認せずにいられないとアーサーはドアノブを握って廊下に出ようとして固まった。
 まだ朝なのだからガウンのまま出るのは何もおかしなことではない。だがそれは自宅だから許されることなのであって、他人の家でガウンのまま出るのは失礼にあたるだろうか?と考えると部屋から出るのを躊躇ってしまう。
 求婚した男が彼女の実家で礼儀を欠くわけにはいかない。孫を預けて大丈夫だろうかと不安にさせるなどあってはならないことだ。
 だが、昨日話をしてなんとなく理解したベンジャミンの性格を考えると、ガウンのまま出ていくのが正解な気もしていて、アーサーは迷っていた。

「ええい、ままよ!」

 呪文を唱えるように口にしながら廊下へ出ると、イイ匂いは屋敷中に広がっていた。それを胸いっぱいに鼻から吸い込んで口から吐きだす。
 廊下には窓拭きをしている使用人の姿もなく、階段か覗き込んだ一階にもやはり使用人の姿はない。三人が談笑している声と食器を用意している音が聞こえてくる。

「おおっ、アーサー様! お目覚めですか」
「のんきに遅くまで寝てしまってすまない。何か手伝うことはあるだろうか?」

 階段を下りる音に気付いたベンジャミンがアーサーの姿を見て笑顔で声をかける。この笑顔だけで朝が素晴らしいものになった気分になる。

「何をおっしゃいます。賓客に手伝いをさせるなど罰が当たります。そんなことよりマリー、アーサー様がお目覚めだよ。ご挨拶なさい」
「カサンドラを手伝っているのならわざわざ呼ばずともだいじょ──」

 すぐに顔を合わすのだから呼ばなくていいと言おうとするアーサーの耳にパタパタと小さな足音が聞こえてくる。それだけなのに一瞬で緊張が走るのは、昨日のキス未遂事件のせい。

「おはようございます、アーサー様。昨日は送っていただいたのになんのおもてなしもしないまま眠ってしまって、申し訳ございませんでした」
「おはよう、マリー。昨日は辛い日だったんだ。私が送らせてくれと頼んだのだから、もてなすことなど考えなくていい。君がすべきことは休むことだったんだよ」

 白いフリルのエプロン姿で現れ、塗れた手をエプロンで拭いてから頭を下げて謝るマリーの真面目さにアーサーは微笑んだあと、かぶりを振る。

「昨夜は情けないところをたくさんお見せしてお恥ずかしい限りです」
「情けないところなどなかったよ。君の優しい心に感動したぐらいだ」

 アーサーはマリーが泣き疲れて眠ってくれたことに少し安堵していた。

「もし、マリーさえ良ければ、朝食を終えたら買い物に出かけないかい?」
「え、あ、えっと……ア、アーサー様と、二人で、ですか?」

 きっとマリーは祖父母の前で空元気を見せるだろう。そして、それを見抜いている祖父母はきっと更に心配してしまう。そうなれば互いにいらぬ気を遣い続けて疲れてしまうような気がして、少しでも自分が力になれるのであればと思って誘ったのだが、マリーが緊張からか赤い顔をされるとアーサーは妙に恥ずかしくなってしまった。
 馬車の中でキスはしていない。あくまでも未遂。マリーの声で意識を戻したときに見たマリーの顔と唇が今も鮮明に残っていて、それを意識しすぎることで赤くなってしまう。マリーも同じだ。馬車の中で二人きりになることで今よりも強く思い出してしまうだろうことが恥ずかしい。
 アーサー・アーチボルト、四十二歳独身。彼は色々とこじらせている。
 自分の立場を考えれば断れないのはわかっている。対等にはなれない身分。アーサー・アーチボルトに誘いを受けて断る人間などいない。それはアーサーもわかっている。だから、答えを聞く前に一つお願いをした。

「も、もちろんマリーが気分じゃないなら無理にとは言わない。私に気を遣っての返事はやめておくれ」

 自分の気遣いを押し付けにして独りよがりにはしたくない。もし、マリーが部屋で一人で過ごしたいのならそれでいい。

「ア、アーサー様とお出かけして、許されるのでしょうか……」

 どちらの意味だろうかとアーサーは少し考える。
 それは『婚約破棄を受けたのは昨夜。一日も立たずに他の男と出歩いていいのだろうか』ということなのか、それとも『男爵令嬢である自分がアーサー・アーチボルトと出かけるなど身分違いではないだろうか?』ということなのか。
 どっちにしろ許される許されないの話ではない。結婚どころか婚約者さえいなくなったマリーがどこで誰と出歩こうと自由。マリーを縛るものは何もないのだから。

「マリーはどうしたい? マリーの気持ちを聞かせて?」

 大事なのはマリーの気持ちだ。アーサーはマリーの気持ちに従うと決めている。
 膝に手をついて目線を合わせたアーサーと視線を合わせてから後ろを振り返ってベンジャミンとカサンドラを見る。二人は頷きも首振りもしなかった。自分たちが頷けば『行っておいで』と言っていることになり、マリーがそれに従うのはわかっているから二人はマリーが振り返ると同時にそそくさとキッチンへと逃げるように入っていった。
 助け船がなくなった今、マリーが見るのはアーサーの瞳だけ。吸い込まれそうなほど美しい紫の瞳を見てから右に視線を移し、もう一度その紫を見ては今度は左に視線を移動させる。
 嘘はきっと見抜かれる。だからマリーは自分の心に従うことにした。
しおりを挟む
感想 25

あなたにおすすめの小説

完結)余りもの同士、仲よくしましょう

オリハルコン陸
恋愛
婚約者に振られた。 「運命の人」に出会ってしまったのだと。 正式な書状により婚約は解消された…。 婚約者に振られた女が、同じく婚約者に振られた男と婚約して幸せになるお話。 ◇ ◇ ◇ (ほとんど本編に出てこない)登場人物名 ミシュリア(ミシュ): 主人公 ジェイソン・オーキッド(ジェイ): 主人公の新しい婚約者

城伯令嬢は守りたい

夜桜
恋愛
 公爵のルークに婚約破棄された城伯令嬢フィセルは、城塞を守る為の仕事に専念する。その一ヶ月後に婚約破棄の撤回をするルーク。怪しんだフィセルは、ルークの思惑を何とかして探る。すると、意外な事実が判明した。

公爵令嬢の誕生日

夜桜
恋愛
 公爵令嬢アムールは、誕生日に宮中伯のアレクに呼び出された。彼のお屋敷に向かうと信じられないサプライズが待ち受けていた――。

【完結】リクエストにお答えして、今から『悪役令嬢』です。

野菜ばたけ@既刊5冊📚好評発売中!
恋愛
「断罪……? いいえ、ただの事実確認ですよ。」 *** ただ求められるままに生きてきた私は、ある日王子との婚約解消と極刑を突きつけられる。 しかし王子から「お前は『悪』だ」と言われ、周りから冷たい視線に晒されて、私は気づいてしまったのだ。 ――あぁ、今私に求められているのは『悪役』なのだ、と。  今まで溜まっていた鬱憤も、ずっとしてきた我慢も。  それら全てを吐き出して私は今、「彼らが望む『悪役』」へと変貌する。  これは従順だった公爵令嬢が一転、異色の『悪役』として王族達を相手取り、様々な真実を紐解き果たす。  そんな復讐と解放と恋の物語。 ◇ ◆ ◇ ※カクヨムではさっぱり断罪版を、アルファポリスでは恋愛色強めで書いています。  さっぱり断罪が好み、または読み比べたいという方は、カクヨムへお越しください。  カクヨムへのリンクは画面下部に貼ってあります。 ※カクヨム版が『カクヨムWeb小説短編賞2020』中間選考作品に選ばれました。  選考結果如何では、こちらの作品を削除する可能性もありますので悪しからず。 ※表紙絵はフリー素材を拝借しました。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

噂の悪女が妻になりました

はくまいキャベツ
恋愛
ミラ・イヴァンチスカ。 国王の右腕と言われている宰相を父に持つ彼女は見目麗しく気品溢れる容姿とは裏腹に、父の権力を良い事に贅沢を好み、自分と同等かそれ以上の人間としか付き合わないプライドの塊の様な女だという。 その名前は国中に知れ渡っており、田舎の貧乏貴族ローガン・ウィリアムズの耳にも届いていた。そんな彼に一通の手紙が届く。その手紙にはあの噂の悪女、ミラ・イヴァンチスカとの婚姻を勧める内容が書かれていた。

【完結】アラサー喪女が転生したら悪役令嬢だった件。断罪からはじまる悪役令嬢は、回避不能なヤンデレ様に溺愛を確約されても困ります!

美杉。祝、サレ妻コミカライズ化
恋愛
『ルド様……あなたが愛した人は私ですか? それともこの体のアーシエなのですか?』  そんな風に簡単に聞くことが出来たら、どれだけ良かっただろう。  目が覚めた瞬間、私は今置かれた現状に絶望した。  なにせ牢屋に繋がれた金髪縦ロールの令嬢になっていたのだから。  元々は社畜で喪女。挙句にオタクで、恋をすることもないままの死亡エンドだったようで、この世界に転生をしてきてしあったらしい。  ただまったく転生前のこの令嬢の記憶がなく、ただ状況から断罪シーンと私は推測した。  いきなり生き返って死亡エンドはないでしょう。さすがにこれは神様恨みますとばかりに、私はその場で断罪を行おうとする王太子ルドと対峙する。  なんとしても回避したい。そう思い行動をした私は、なぜか回避するどころか王太子であるルドとのヤンデレルートに突入してしまう。  このままヤンデレルートでの死亡エンドなんて絶対に嫌だ。なんとしても、ヤンデレルートを溺愛ルートへ移行させようと模索する。  悪役令嬢は誰なのか。私は誰なのか。  ルドの溺愛が加速するごとに、彼の愛する人が本当は誰なのかと、だんだん苦しくなっていく――

【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす

まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。  彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。  しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。  彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。  他掌編七作品収録。 ※無断転載を禁止します。 ※朗読動画の無断配信も禁止します 「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」  某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。 【収録作品】 ①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」 ②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」 ③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」 ④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」 ⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」 ⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」 ⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」 ⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」

処理中です...