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ファーストキス
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馬車の中、二人は無言だった。どうしても昨日のことを思い出してしまう。
アーサーはマリーが声をかけなければ間違いなくキスをしていた。自分が我慢をしていれば、祖父母になんと言えばいいと涙していた可哀相な少女の気持ちも考えず無意識にキスをしようとした本能を優先した動物と化していた自分が情けなく恥ずかしい。
心臓が抉られるほど辛い思いをしていた相手にキスをして無意識だったでは済まない。いくら求婚していたといえど、理由にはならない。思春期真っ盛りの十代の若者ではないのだから。
もし、あのままキスをしていたら自分は甥と同じ男になっていた。止めてもらったことに安堵はあるが、視線はどうしてもマリーの唇に集中する。
(いやいやいやいや、バカッ! 十七歳の唇を見つめるなんて変態だぞ!)
慌てて首を振って視線を外へとズラすも視界の端に不思議そうにこっちを見つめるマリーが映り、顔を向けるとやはり不思議そうな顔をしているため笑顔を向けてなんとか誤魔化した。
マリーはマリーで意識しないようにずっと外を見つめていた。
昨日は想像したこともないような事件が起き、婚約破棄と求婚が同日にあった。ネイトが紳士ではないことはわかっていたためネイトにフラれたことはどうでもよかった。帰ろうとした時にアーサーと会い、ネイトを叱ってくれ、送ってくれるだけのはずがまさかの求婚を受けた。
そして、キスされそうになった。キレイな顔が真剣な表情で近付いてきたのを思い出すだけで心臓が異常な音を立てて速く動く。外まで漏れてしまうのではないかと思うほど大きな音にそっと胸を押さえては考えている。
(どうして、アーサー様は私にキスをしようとしたのかしら……)
考えても考えても答えは出ない。答えはアーサーの中にしかないのだからマリーがどれほど考えようと答えが出ないのは当たり前なのだが、考え込んでしまう。
(アーサー様ほど恋愛経験が豊富な方にとってキスは特別なことじゃなくて、女性を慰める手段なのかしら……)
アーサー・アーチボルトの人気はマリーも知っている。ネイトもアーサーの人気はすごいと言っていた。顔良し、性格良し、スタイル良しとそれだけでも完璧なのに彼が持つ爵位は公爵ではなく〝大公〟だ。小国を統べる貴族。
アーサー・アーチボルトと結婚したいがために婚約しない令嬢もいるという噂があるほどアーサーの人気は高い。しかし、アーサーはパーティー好きではないためパーティーに顔を出すこと自体珍しいためダンスを踊った者やエスコートされたことがある令嬢は少ない。それこそ大公になってからは滅多に参加しないと聞く。
噂では『自国で女を囲って静かに暮らしている』と囁かれているのもあって、マリーはアーサーという男がよくわからなかった。
「アーサー様、いくつか質問してもよろしいでしょうか?」
「もちろんだよ。なんだい?」
(この爽やかな笑顔を向けてもらいたいと思っている令嬢が何人いるんだろう。こんな素敵な男性が自分のような小娘に求婚するのかな……?)
ジッと見つめたまま心の中で呟くマリーの心の中を読めるはずがないアーサーは笑顔のまま質問を待っている。
(可哀相と思って、私も数人いる恋人の一人にしてくれようとしてるのかな……)
結婚は好きな人としたい。誰もが望むことだが貴族である以上はそうもいかない。時には犠牲になることもある。犠牲になることのほうが多いかもしれない。だが、祖父母達はいつも『家のことは気にするな。お前が幸せになれる人と結婚しなさい』と言ってくれた。マリーもそれを望んでいたが、ネイトに求婚されたとき、浮かんだのは『おじいさまとおばあさまを喜ばせられる』ということ。これが犠牲だとしてもマリーは後悔はなかった。
長い年月を過ごす中でいつかきっとネイトを愛していると心からそう言える日がくる。そう覚悟を決めて結婚しようとしていた。不安はあっても覚悟をしていれば辛くはなかった。婚約破棄を受けたときも辛くはなかった。祖父母に申し訳ないという気持ちでいっぱいだっただけ。
それなのに今は違う。自分の他に数人の恋人がいて、自分もその一員になるかもしれないと思うと胸がズキッと痛んだ。
(あのままキスしていたら……)
ファーストキスはまだ。ネイトにも許さなかった。ベッドに押し倒されたこともあったが、場所がどこであろうと結婚してからがいいと思っていたため拒んでいた。
アーサーの顔が近付き、キスをされると思ったときも結局拒んだ。相手があのアーサー・アーチボルトであろうと受け入れられなかったのだ。
(キスって……)
頬へのキスは慣れている。毎日祖父母と交わしているから。だけど、唇にはまだしたことがない。素敵なものだと祖父母は語っていた。
『愛する者とのキスは特別だ。これが幸せだと実感できるほど幸福感に包まれる』
そう笑顔で語っていた祖父。それに笑顔で頷く祖母。憧れだった。
マリーが自分でも不思議なのはネイトにされそうになったときは胸を押して拒絶のように拒んだのに、アーサーのときは慌てて声をかけるだけだったこと。
(アーサー様にならされてもいいって思ったの? 婚約破棄された日に他の男性のキスを受けてもいいと思ったの?)
相手は元婚約者の伯父で自分より二回り以上も上の男性。会ったのは昨日が二度目。それなのに一瞬でもキスを迷った自分がいたことに絶望して両手で顔を押さえた。
(でも……キスってどんなものなのかしら……)
小説の中で交わされるキスはロマンチックなもの。愛し合う恋人達が愛を囁き合いながら交わしている。自分もいつかそんなロマンチックなキスをする日がくるのだろうか。愛する誰かと。
柔らかさはどんなものか。特別なキスとはどんなものか。
顔を覆っていた手はゆっくりと下へと下りて自分の唇に触れる。その動きを目で追うアーサー。
小説の中の表現では〝柔らかな唇〟とされているが、自分の唇はそんなに柔らかいとは思わない。他の人はもっと柔らかいのだろうかと気になり、ふにふにと指先で触る様子を笑顔で凝視するアーサーの喉がゴクリと鳴った。
「マリー」
「ッ!? はっいッ!」
優しい声にハッとして慌てて唇から手を離して膝の上で拳を作ったマリーの顔がアーサーに向く。どこか小刻みに震えているように見えるのは気のせいかと思いながらも見られていただろうかと恥ずかしくなった。
「聞きたいことがあると言ってたけど、聞きたいことはまとまったかな?」
「あ……」
自分から話題を振っておいて全く別のことに意識をとられていたとばつの悪い顔をして頭を下げるマリーは自分の拳を見つめながら恥ずかしさを逸らすことを考えた。ソファーの角に脛をぶつけたことや水をこぼして慌てた拍子に滑って転んで尻を強打したことなど。それから三秒数えて顔を上げて真剣な表情を作った。
「あの、キ……」
(キスしそうになった理由か!?)
無意識以外の言葉を考えようと必死に頭を働かせるアーサーも膝の上で拳を作る。
「キ……キ、あ……アルキュミア大公国は素晴らしい国ですよね!」
「あ、ああっ! アルキュミア大公国! 嬉しいよ! 小さな国だが、人が誇りなんだ! 良い人間ばかりだよ!」
「そうなんですね! 行ってみたいです!」
「喜んで迎えるよ!」
無駄に大きな声で会話する二人は笑顔だが内心焦りしかなかった。意識しすぎて頭から離れてくれない。そして、両者、言ってから気付いた。
(求婚されたのにアーサー様の国に行きたいなんて軽口すぎる!)
(求婚した相手に自国に迎えるなんて軽口すぎるだろ!)
焦る二人の会話を聞きながら上機嫌に笑っているのは御者をしている執事だけ。あのアーサー・アーチボルトが十七歳の少女相手にいっぱいいっぱいになっているのは雪で転んだ姿を見るより面白いと声を出さないまま肩を揺らして笑っている。
「到着しましたよ」
「よし、降りようか––––––うわっ!」
「そうですね––––––キャッ!」
馬車が停まり、執事が降りてドアを開けると二人は一斉に身体を前に動かしたためゴンッと額をぶつけた。二人揃って震えながら額を押さえる様にやれやれと首を振る執事はドアを閉めて少し待つことにした。
「だ、大丈夫、かい……?」
「す、すみません……私が動いてしまったから……」
本来、先に降りるのはアーサーで、それからマリーが降りるはず。それなのに焦ったマリーは自分で降りようとしてしまった。
「アーサー様、赤くなっていませんか?」
「いや、大丈夫だ。これぐらいなんともない。よくあることだから」
額をぶつけることが〝よくある〟というのはどういう状況なのだろうかと疑問が湧いたが、すぐにわかった。恋人が複数人いるのだから何かの拍子に額をぶつけるのだろう。例えばベッドに押し倒したときに勢いがつきすぎて、とか。自分の出した答えに納得したマリーは小さく三回頷いて自分の額を撫でた。
「降りましょうか」
「そうだね」
少し声色が変わったような気がしたが、アーサーはタイミング良く開けられたドアから先に出てマリーのために手を差し出した。
「ありがとうございます」
手を乗せてゆっくり降りると周りの光景に余計な考えは吹き飛んでしまった。
「わあ……すごい。人だらけ」
自分達の馬車の前にも後ろにも馬車が停まってあって、その先にも何台もの馬車が停まっている。開いた大門の向こう側に広がる賑やかなマーケット。既に満喫している者、これから向かう者。その誰もが楽しそうに笑っており、それを見ているだけでマリーはワクワクした感情で胸がいっぱいになった。
「首都のマーケットに来るのは初めて?」
「はい。ミドラドにもマーケットはあるんですけど、こんなに大きくないですから」
「じゃあ隅から隅まで見て回ろうか」
「はいっ」
郊外に住んでいるマリーにとって首都は憧れの場所。人が多く、活気に溢れている。ミドラドのマーケットは野菜やチーズや肉、牛やヤギのミルク、果物など食品が多く、服やアクセサリーなどの装飾品は売っていない。
貴族がマーケットで装飾品を買うなどありえないことだが、マリーはウインドウショッピングが好きだった。仕立て屋のウインドウに飾られている服や生地。帽子屋のウインドウに飾られている羽根付きの帽子や流行り廃りの激しいその瞬間だけの帽子。宝石屋のウインドウにある人目を引く美しいアクセサリーも全部大好きだった。
マジマジと眺めていると『アーネット男爵の孫が店の外から眺めていた』という話から始まり『ベンジャミン・アーネットはドケチで孫に何一つ買い与えない主義らしい』と噂が広まるため、いつも店の前をわざとゆっくり歩いて通るだけにしているのだが、今日は違う。ゆっくり見て回っていいのだと嬉しくなった。
小さな日傘をさしてアーサーが差し出してくれる腕に手を添えて大門をくぐり、人だかりへと入っていく。
「私はね、こういう場所を見て回るのが好きなんだ」
「アーサー様でもこういう場所に足をお運びになられるのですか?」
「もちろんだよ。人が集まる場所には良くも悪くも何かがある。悪いことは値段や文句による喧嘩。それから窃盗。良いことは人の働き方やその人が持つ技術が知れること。だからアルキュミアでもよくマーケットには足を運ぶんだよ」
マリーの中でアーサーの印象が少し変わった。悪い印象を持ったことがなく、最初からずっと〝良い人〟ではあったが、それが〝尊敬〟に変わった。
単純ではあるものの、一国の主である大公がわざわざ市民が集まるマーケットに顔を出して下々の働き方や技術を見るなどマリーは想像したこともなかった。国のどこが、国の何が、を褒めるのではなく一番に人を褒めたアーサーが君主であるアルキュミアを本当に見てみたくなった。
「可愛いリボン」
「リボンが好きなのかい?」
「大好きなんです。リボンはいつもおばあさまが作ってくれるので買ったことはないのですが、どれも可愛いですね」
令嬢達は派手な格好は許されていないため頭にかぶるボンネットやヘッドピースにレースや花、リボンを飾ってオシャレをする。個性が出るその装飾は下品もあれば品もあり、マリーの控えめなボンネットはカサンドラお手製なのだとよくわかる。
「どれが一番好き?」
「このシルクシフォンのリボンが好きです」
マリーが指さしたリボンはホワイトパールのシルクシフォンの生地に上からゴールドの薔薇のレースが重ねてある物で、男の目から見ても美しかった。
「私もこれが一番好きだな」
「ふふっ、一緒ですね」
「買うかい? プレゼントするよ」
アーサーの申し出に首を振るマリー。
「おばあさまが作ってくださったリボンがたくさんありますから」
それは遠慮ではなく本音なのだとわかった。マリーがかぶっているボンネットについているリボンは目の前に並ぶリボンに見劣りしないほどしっかりとして美しい物であり、マリーはそれに満足しているのだろう。納得したように頷いたアーサーはムリに買い与えることはせず、納得したように頷いた。
「どうしてマーケットでアクセサリーを売るのでしょうか?」
リボンと同じように並べられて売られている光景は不思議でしかなく、購入者の邪魔にならないよう少し離れた場所で足を止めてアーサーを見上げるマリーの問いかけにアーサーが微笑む。
「昔は、宝石は特別な物で王族達だけが身につけられる富の証だったんだ。それが次第に貴族達も装備を許されるようになり、流行りという概念ができた。それは令嬢達のほうが詳しいかな」
「はい」
流行というのは厄介なもので、一年ももたない。春に大流行していたネックレスを夏のパーティーでもつけていたら笑われたという話はよくある。ドレスもアクセサリーも一度着たら二度は着ない。それは富の証であり、貴族としてのプライドでもあった。
「マーケットに並んでいるのはその流行が過ぎた物ばかりなんだよ。貴族の流行と一般市民の流行は別物だから彼女達には関係ないんだ。売れない物を抱えているより売って儲けを出したほうがいい」
「なるほど」
どんな物が売っているのかと近付いて見てみると確かに見覚えのあるデザインばかり。流行遅れのデザインと言えど、マーケットに並ぶには少し高く、一般市民の中でも特に裕福な物だけが買える値段がつけられている。それでも結構な数の女性達が集まって購入を口にしていた。
「そこのお嬢様、これなんていかがですか? 可愛いでしょう」
「そうですね」
「鳩かい?」
「ええ、そうなんですよ。どうです? 婚約者の方にプレゼントなん……て……? ア、アアアア……アーサー様!?」
アーサーの顔を見た店主の言葉で一斉に振り向いた令嬢達が声を上げる。マリーと同じように貴族令嬢達も訪れていたのか、アーサーの顔を知る者達は甲高い声を上げて目をハートにしながら周りに群がり始めた。
「ちょっと邪魔よ! どいて!」
「キャッ!」
アーサーを囲む輪に入ろうとする令嬢の一人が立ち尽くしていたマリーを突き飛ばした。ヨロめいたマリーの手から傘が離れ、転がっていく。慌てて追いかけていくマリーをアーサーが追いかけようとするも令嬢達がガッチリとガードしているせいで身動きが取れない。
「アンタのかい?」
「すみません。ありがとうございます」
タイミング悪く風が吹いたこともあってコロコロと上手に転がる傘は中央にある噴水の傍に立っていた男性の足に当たったことでようやく止まった。それを拾い上げて渡してくれた男性にお礼を言って受け取るも傘は握られたまま。
「あ、あの……」
なぜ離してくれないのかがわからず、戸惑うマリーの顔を男がまじまじと覗き込む。不躾に顔を近付ける男に嫌悪感を抱くマリーは傘を離してその場から離れようとしたが、腕を掴まれてしまう。
何が目的なのかわからず恐怖に駆られるマリーが踏ん張って手を振り解こうとするもマリーの力では男の力を振り払えない。
「アンタ、可愛い顔してるな。名前は?」
マリーは答えなかった。答えてはいけない気がしたから。
男が放つ不気味な雰囲気に肌はぞわりと粟立つ。
「離してくださいっ」
「なんだよ。お前も向こうでバカ騒ぎする女共に混ざるつもりってか?」
「離してっ!」
酒臭い。よく見ると足元には酒瓶が数本転がっていて、男の顔は鼻まで赤くなっている。ズタボロの布のような服を身にまとい、酒浸りのように酒臭い人間を見るのは初めてで怖くなったマリーは小刻みに震えながら声を上げた。
「うおおおおおおおおっ!?」
突如、男の手が離れ、男はそのままバランスを崩したように後ろへと傾いて噴水の中に落ちた。バシャーンッと噴き上げる水しぶきは大きな身体に包み込まれたことでかからなかった。
「昼間から酒を飲むのは勝手だが、人を巻き込むな。そこで少し頭を冷やせ」
アーサーの匂い。アーサーの声。アーサーの温もり。全てがマリーを安心させてくれる。背中に回される長い腕がマリーが強く抱きしめ守ってくれていた。
「な、なんだお前! 何しやがる! ふざけんじゃ……ッ!?」
全身ずぶ濡れで立ち上がった男が酔いか憤慨か、顔を真っ赤にしながら立ち上がり、地面に置いていた酒瓶を逆さに握るもそれを振り上げることはできなかった。
アーサーの後ろにいる女性陣の目が夜の森に潜む獣のようにギラついていることに気付き、一ミリでもその腕をそのまま上げようものなら何をされるかわからないと恐怖に怯え、真っ青な顔で慌てて逃げ出した。
「大丈夫だったかい?」
「大丈夫です」
笑顔を見せるが、マリーの身体は小刻みに震えている。平気なはずがない。生まれて初めて男の恐怖を知ったのだ。女の自分では振りほどけないほど強い力を男は持っている。それを知っただけでもマリーには相当な恐怖だったはず。
「アーサー様、大丈夫でしたか?」
「お怪我はございませんこと?」
「素敵でしたわ。令嬢を守るお姿と勇姿、わたくし感動しましたの」
男が去ると再び砂糖に群がる蟻のようにぞろぞろと寄ってくる令嬢達が頬を染めてアーサーを褒め始める。指先でさりげなくアーサーの腕に触れる令嬢もいた。アーサーはそれを無視してその場でマリーを抱きあげる。
「すまないが、向こうへ行ってくれ」
冷たい言い方にポカンと口を開けた令嬢達を背に、アーサーは馬車まで戻っていく。一人の紳士が令嬢を抱きあげて歩く姿は絵になっているが、それ故に注目の的となっていた。
そのまま馬車へと戻ればハンネスに氷を用意するように伝え、ドアを閉めた。
「赤くなっているな……」
すぐに手袋を脱がせたアーサーはマリーの白い手首が男に掴まれたせいで赤くなっているのを見てギリッと歯を鳴らす。
(令嬢達に囲まれたとき、すぐにマリーの手を引いてその場を離れるべきだった)
厄介なことになるとわかっていたのにそうしなかったのは〝女性に恥をかかせるな〟という父親の教えがあったから。
『未来を担う子を宿し産んでくれる女性は国の宝だ。だから女性は宝物を扱うように扱え。自分が恥をかいても相手には恥をかかせるな』
そう教わってきたから迷ってしまったのだ。その迷いがマリーを他の男に触れさせることになった。自分が許せないと唇を噛みしめるアーサーの手をマリーがギュッと握る。
顔を上げたアーサーの目に映ったのは微笑むマリーの顔。
「どうか、ご自分をお責めになるのはおやめください」
「私が君の傍を離れなかったら君はあんな男に絡まれることなどなかったのに……」
「助けに来てくださったじゃありませんか」
「そんなのは当たり前だ!」
急に大声を張ったアーサーに驚くマリーを見て「すまない」と呟いて髪を乱すように頭を掻くアーサーは余裕がなかった。
危険な目に遭ったわけではない。絡まれていただけ。それでもあれは必要のない恐怖であることは間違いない。一生知らずにいてほしかった恐怖。男は力が強く、怖い生き物だと知ってほしくなかった。
赤くなった手首を癒すように何度も優しく撫でるアーサーの取り繕った姿とはまた別の顔が見れたような気がしたマリーはその大きな手を見つめて目を細める。
「男の力は女性を怖がらせるためにあるんじゃない。女性を守るためにあるんだ。それなのに彼のように間違った使い方をする者もいる。だが、どうか信じてほしい。そんな男ばかりじゃない。女性を守るために使う者がほとんどだ」
「わかっています」
傷ができたわけじゃない。血が流れたわけじゃない。ただ掴まれていた部分が赤くなっただけ。それなのにこんなにも必死に言葉を伝えてくる彼も同類だと疑えるわけがないのだ。
マリーの手の甲に額を押し当てるアーサーにすぐ言葉を返したマリーの声にアーサーが顔を上げた。
「抱きしめてくださったアーサー様の力とあの人の力は全くの別物ですから」
マリーの言葉はアーサーの救いになった。恋人ではなくとも外へ連れ出した以上、守らなければならなかった。ベンジャミンに守ると約束したのだ。それなのに自分は他の女性への対応にいっぱいいっぱいになってマリーを危険な目に遭わせてしまった。
その後悔を拭うように優しい声で笑顔を向けてくれるマリーにアーサーの胸がいっぱいになる。
「マ……」
曲げていた上半身を起こして片手を伸ばそうとしたとき、ドアをノックする音が聞こえた。
「ご主人様、氷をお持ちしました」
「あ、ああ、すまない。ありがとう」
「他にご入用の物はございますか?」
「いや、ない」
ドアを開けてハンカチに巻かれた氷が入った袋を受け取ればドアが閉まったのだが、さっき言おうとした言葉は出てこない。感情に任せて動くのはやめようと決めたアーサーはまた同じことを繰り返しそうになった自分の愚かさに唇を噛みしめた。
手首にそっと氷嚢を乗せるとマリーの腕がピクッと反応する。
「冷たいかい?」
「少し。でも、こんなことまでしていただかなくても……」
「私が嫌なんだ。君の手に、いつまでもあの男が無礼を働いた痕跡が残っているのが嫌なんだ」
アーサーの言葉がマリーの胸をじんわりと温かくする。ネイトと会っているときにはなかったものだ。
(どうして……)
自分は魅力がある女ではないと思っている。他の令嬢と比べて背も低く、似合うドレスも少ない。イブニングドレスを着ても色気は出ず、ドレスを着ることも苦手。セリーヌと比べると提灯と釣鐘。同じ物を着ていても美しさは似ても似つかない。だからネイトもセリーヌを選んだ。
それなのにアーサーはこんなにも大切にしてくれる。
「唇が……」
そう口にしたマリーがアーサーの顔に手を伸ばす。細い指がアーサーの唇に触れ
「切れてしまいますよ」
唇を噛みしめるほど何を考えているのだろう。彼が後悔することなどないもないのに大波のような後悔に襲われている様子を放っておけなかった。
アーサーは唇を噛むのをやめ、その唇をなぞるようにマリーが指を這わせる。その手を掴み、少し後ろに引いたのを合図にするかのようにマリーは引き寄せられるまま身を寄せ、唇を重ねた。
アーサーの指が顎の下で結んでいるボンネットのリボンを解き、シートに落ちる。
柔らかな唇。小説の中では男性が女性の唇を柔らかいと言う表現がほとんどだったが、アーサーの唇もそう囁きたくなるほど柔らかかった。
手を掴まれているのは同じなのに恐怖はない。むしろその手の大きさと温もりに安心する。離さないと言うように背中に回された手が密着するほど強く抱きしめていることで身体を離すことができない状況をマリーも望んでいたかのように空いている手をそっと首に回すと掴まれている手が解放され、その手も首に回してマリー自らアーサーに密着する。
結婚もしていないのにこんなことが許されるはずがないとか、昨日婚約破棄されたばかりなのにとか、今はそんな言い訳はどうでもよかった。
互いが互いを心から愛しいと思い、互いを欲して求め合い、その欲望に本能で従っている。それしかなかった。
「ア、サー……」
「マリー」
啄むようなキスを交わす合間にマリーが名前を呼ぶとアーサーも熱のこもった声でマリーの名を呼ぶ。
だが、その甘い雰囲気に、甘すぎる雰囲気に酔ったようにガクンッとマリーの上半身が後ろへ傾いた。
「マリー!?」
「はええ……」
落ちないように支えて顔を覗きこむとマリーは真っ赤な顔で目を回していた。グルグルと回る目と茹でダコのように赤い顔に蒸気を放つ頭。
十七歳のマリーには大人すぎるキスだった。
二人が家に着いた頃にはすっかり辺りは暗く、アーネット邸も門に灯りがついていた。
「降りられるかい?」
「は、はい」
目を回してからずっと横になっていたマリーは目を覚ましたといえど心臓はまだ速いままで、アーサーの顔が見れないでいる。差し出される手を取って馬車から降りると家の玄関が開いて二人が出てきた。
朝見送ってもらったのにまるで何日も離れていたかのように感じるほど二人の姿を見て嬉しくなったマリーは小走りで駆け寄っていく。
「ただいま、おじいさま、おばあさま」
「おかえり、アップルパイ」
「おかえりなさい、マリー」
ベンジャミンが愛称で呼ぶとマリーは嬉しそうに笑って頷き、頬にキスをする。カサンドラにも同様に。それをアーサーが微笑ましく見守っているとベンジャミンが片足を引きながら寄ってくる。
「孫はご迷惑おかけしませんでしたか?」
「私の不注意で彼女が酔っ払いに絡まれてしまいました。申し訳ありません」
申し訳ないと頭を下げるアーサーにベンジャミンは怒るどころか笑い声を上げた。眉を寄せられ不機嫌な顔で罵倒される覚悟もあったアーサーにとって大笑いは想像の片隅にさえなかったことで、驚きに顔を上げるとベンジャミンは本気で大笑いしている。
「マーケットに行けば酔っ払いがいるのは当然のことです。絡まれたのは運が悪かった。それだけです」
「ですが––––––」
「孫はどこか怪我を?」
「いえ」
「なら問題ない」
「私が––––––」
自分の不注意とは言ったが、何をしていたのかまでは伝えていないため伝えておこうと口を開いたアーサーにベンジャミンは首を振る。
「問題ない。それだけですよ、アーサー様」
孫が怪我をして震えながら帰ってきたならベンジャミンは激怒して断罪の覚悟で罵倒していただろう。だが、孫に怪我はなく、笑顔で帰ってきた。それだけでよかった。
ベンジャミンにとってアーサーは信頼に足る人物。何があって酔っ払いに絡まれることになったのかなど問題にはしない。
「さ、どうぞ。中へ」
「ああ、いえ、今日はこれで失礼します」
「おや、用事ですか?」
不思議そうに見るベンジャミンに苦笑しながら頷くアーサーにベンジャミンは頷き、笑顔を見せる。
「ではまた、帰国される前にお立ち寄りください。カサンドラのアップルパイは最高なんですよ」
「是非」
物分かりが良い相手は助かる。男爵が大公を引き留めて時間を割かせるなどあってはならないが、残念なことに身分を弁えない貴族はまだ多い。
明日、明後日ではなく帰国前に少しだけというベンジャミンの願いを聞き入れないわけもなく、快諾した。
「マリー、これを君に」
「え?」
執事が台からラッピングされた箱を二つと花束を取ってアーサーに渡し、アーサーはそれを持ってマリーの傍まで寄っていく。
「今日は付き合ってくれてありがとう。少しでも君の心が癒えていたら嬉しい」
「あ……」
今日出かけたのはアーサーが気分転換のために連れ出してくれたから。マリーの頭の中も心の中も既にアーサー・アーチボルトでいっぱいになっていて忘れていた。
それぐらい、今日は特別な日だった。
「いつの間に……」
「秘密」
ウインクするアーサーにクスッと笑うと両手を伸ばして全て受け取る。バラの花束はわかるが、他の二つはなんだろう。期待に胸躍らせるマリーはそれらを抱きしめて満面の笑みを浮かべる。
その表情を見ているだけで三人は嬉しくなった。
「じゃあね、マリー。おやすみ。良い夢を」
チュッとリップ音を立てて額に口付けたアーサーに三人が驚くもアーサーだけが爽やかな笑顔で馬車へと戻っていく。
「では、失礼します」
門を通り、馬車の前で一礼してから馬車に乗り込み颯爽と去っていくアーサーに最初はポカンとしていたベンジャミンがまた大笑いし始めた。
「本当に愉快な方だ!」
大公でありながら傲慢さは微塵も感じられず、男爵である自分達にさえ敬語を使ってくれる男は世界中探し回ってもアーサー・アーチボルトただ一人だろう。
そんな男が孫をもらってくれればどんなに良いだろう。孫が彼を愛し、彼が孫を愛してくれれば思い残すことはない。あとの余生は愛する妻と二人で静かに暮らし、迎えが来るのを待つだけ。
急かすつもりは毛頭ないが、顔を赤らめて抱えたプレゼントに顔を埋める孫を見ていると、そんな日も遠くないような気がしていた。
アーサーはマリーが声をかけなければ間違いなくキスをしていた。自分が我慢をしていれば、祖父母になんと言えばいいと涙していた可哀相な少女の気持ちも考えず無意識にキスをしようとした本能を優先した動物と化していた自分が情けなく恥ずかしい。
心臓が抉られるほど辛い思いをしていた相手にキスをして無意識だったでは済まない。いくら求婚していたといえど、理由にはならない。思春期真っ盛りの十代の若者ではないのだから。
もし、あのままキスをしていたら自分は甥と同じ男になっていた。止めてもらったことに安堵はあるが、視線はどうしてもマリーの唇に集中する。
(いやいやいやいや、バカッ! 十七歳の唇を見つめるなんて変態だぞ!)
慌てて首を振って視線を外へとズラすも視界の端に不思議そうにこっちを見つめるマリーが映り、顔を向けるとやはり不思議そうな顔をしているため笑顔を向けてなんとか誤魔化した。
マリーはマリーで意識しないようにずっと外を見つめていた。
昨日は想像したこともないような事件が起き、婚約破棄と求婚が同日にあった。ネイトが紳士ではないことはわかっていたためネイトにフラれたことはどうでもよかった。帰ろうとした時にアーサーと会い、ネイトを叱ってくれ、送ってくれるだけのはずがまさかの求婚を受けた。
そして、キスされそうになった。キレイな顔が真剣な表情で近付いてきたのを思い出すだけで心臓が異常な音を立てて速く動く。外まで漏れてしまうのではないかと思うほど大きな音にそっと胸を押さえては考えている。
(どうして、アーサー様は私にキスをしようとしたのかしら……)
考えても考えても答えは出ない。答えはアーサーの中にしかないのだからマリーがどれほど考えようと答えが出ないのは当たり前なのだが、考え込んでしまう。
(アーサー様ほど恋愛経験が豊富な方にとってキスは特別なことじゃなくて、女性を慰める手段なのかしら……)
アーサー・アーチボルトの人気はマリーも知っている。ネイトもアーサーの人気はすごいと言っていた。顔良し、性格良し、スタイル良しとそれだけでも完璧なのに彼が持つ爵位は公爵ではなく〝大公〟だ。小国を統べる貴族。
アーサー・アーチボルトと結婚したいがために婚約しない令嬢もいるという噂があるほどアーサーの人気は高い。しかし、アーサーはパーティー好きではないためパーティーに顔を出すこと自体珍しいためダンスを踊った者やエスコートされたことがある令嬢は少ない。それこそ大公になってからは滅多に参加しないと聞く。
噂では『自国で女を囲って静かに暮らしている』と囁かれているのもあって、マリーはアーサーという男がよくわからなかった。
「アーサー様、いくつか質問してもよろしいでしょうか?」
「もちろんだよ。なんだい?」
(この爽やかな笑顔を向けてもらいたいと思っている令嬢が何人いるんだろう。こんな素敵な男性が自分のような小娘に求婚するのかな……?)
ジッと見つめたまま心の中で呟くマリーの心の中を読めるはずがないアーサーは笑顔のまま質問を待っている。
(可哀相と思って、私も数人いる恋人の一人にしてくれようとしてるのかな……)
結婚は好きな人としたい。誰もが望むことだが貴族である以上はそうもいかない。時には犠牲になることもある。犠牲になることのほうが多いかもしれない。だが、祖父母達はいつも『家のことは気にするな。お前が幸せになれる人と結婚しなさい』と言ってくれた。マリーもそれを望んでいたが、ネイトに求婚されたとき、浮かんだのは『おじいさまとおばあさまを喜ばせられる』ということ。これが犠牲だとしてもマリーは後悔はなかった。
長い年月を過ごす中でいつかきっとネイトを愛していると心からそう言える日がくる。そう覚悟を決めて結婚しようとしていた。不安はあっても覚悟をしていれば辛くはなかった。婚約破棄を受けたときも辛くはなかった。祖父母に申し訳ないという気持ちでいっぱいだっただけ。
それなのに今は違う。自分の他に数人の恋人がいて、自分もその一員になるかもしれないと思うと胸がズキッと痛んだ。
(あのままキスしていたら……)
ファーストキスはまだ。ネイトにも許さなかった。ベッドに押し倒されたこともあったが、場所がどこであろうと結婚してからがいいと思っていたため拒んでいた。
アーサーの顔が近付き、キスをされると思ったときも結局拒んだ。相手があのアーサー・アーチボルトであろうと受け入れられなかったのだ。
(キスって……)
頬へのキスは慣れている。毎日祖父母と交わしているから。だけど、唇にはまだしたことがない。素敵なものだと祖父母は語っていた。
『愛する者とのキスは特別だ。これが幸せだと実感できるほど幸福感に包まれる』
そう笑顔で語っていた祖父。それに笑顔で頷く祖母。憧れだった。
マリーが自分でも不思議なのはネイトにされそうになったときは胸を押して拒絶のように拒んだのに、アーサーのときは慌てて声をかけるだけだったこと。
(アーサー様にならされてもいいって思ったの? 婚約破棄された日に他の男性のキスを受けてもいいと思ったの?)
相手は元婚約者の伯父で自分より二回り以上も上の男性。会ったのは昨日が二度目。それなのに一瞬でもキスを迷った自分がいたことに絶望して両手で顔を押さえた。
(でも……キスってどんなものなのかしら……)
小説の中で交わされるキスはロマンチックなもの。愛し合う恋人達が愛を囁き合いながら交わしている。自分もいつかそんなロマンチックなキスをする日がくるのだろうか。愛する誰かと。
柔らかさはどんなものか。特別なキスとはどんなものか。
顔を覆っていた手はゆっくりと下へと下りて自分の唇に触れる。その動きを目で追うアーサー。
小説の中の表現では〝柔らかな唇〟とされているが、自分の唇はそんなに柔らかいとは思わない。他の人はもっと柔らかいのだろうかと気になり、ふにふにと指先で触る様子を笑顔で凝視するアーサーの喉がゴクリと鳴った。
「マリー」
「ッ!? はっいッ!」
優しい声にハッとして慌てて唇から手を離して膝の上で拳を作ったマリーの顔がアーサーに向く。どこか小刻みに震えているように見えるのは気のせいかと思いながらも見られていただろうかと恥ずかしくなった。
「聞きたいことがあると言ってたけど、聞きたいことはまとまったかな?」
「あ……」
自分から話題を振っておいて全く別のことに意識をとられていたとばつの悪い顔をして頭を下げるマリーは自分の拳を見つめながら恥ずかしさを逸らすことを考えた。ソファーの角に脛をぶつけたことや水をこぼして慌てた拍子に滑って転んで尻を強打したことなど。それから三秒数えて顔を上げて真剣な表情を作った。
「あの、キ……」
(キスしそうになった理由か!?)
無意識以外の言葉を考えようと必死に頭を働かせるアーサーも膝の上で拳を作る。
「キ……キ、あ……アルキュミア大公国は素晴らしい国ですよね!」
「あ、ああっ! アルキュミア大公国! 嬉しいよ! 小さな国だが、人が誇りなんだ! 良い人間ばかりだよ!」
「そうなんですね! 行ってみたいです!」
「喜んで迎えるよ!」
無駄に大きな声で会話する二人は笑顔だが内心焦りしかなかった。意識しすぎて頭から離れてくれない。そして、両者、言ってから気付いた。
(求婚されたのにアーサー様の国に行きたいなんて軽口すぎる!)
(求婚した相手に自国に迎えるなんて軽口すぎるだろ!)
焦る二人の会話を聞きながら上機嫌に笑っているのは御者をしている執事だけ。あのアーサー・アーチボルトが十七歳の少女相手にいっぱいいっぱいになっているのは雪で転んだ姿を見るより面白いと声を出さないまま肩を揺らして笑っている。
「到着しましたよ」
「よし、降りようか––––––うわっ!」
「そうですね––––––キャッ!」
馬車が停まり、執事が降りてドアを開けると二人は一斉に身体を前に動かしたためゴンッと額をぶつけた。二人揃って震えながら額を押さえる様にやれやれと首を振る執事はドアを閉めて少し待つことにした。
「だ、大丈夫、かい……?」
「す、すみません……私が動いてしまったから……」
本来、先に降りるのはアーサーで、それからマリーが降りるはず。それなのに焦ったマリーは自分で降りようとしてしまった。
「アーサー様、赤くなっていませんか?」
「いや、大丈夫だ。これぐらいなんともない。よくあることだから」
額をぶつけることが〝よくある〟というのはどういう状況なのだろうかと疑問が湧いたが、すぐにわかった。恋人が複数人いるのだから何かの拍子に額をぶつけるのだろう。例えばベッドに押し倒したときに勢いがつきすぎて、とか。自分の出した答えに納得したマリーは小さく三回頷いて自分の額を撫でた。
「降りましょうか」
「そうだね」
少し声色が変わったような気がしたが、アーサーはタイミング良く開けられたドアから先に出てマリーのために手を差し出した。
「ありがとうございます」
手を乗せてゆっくり降りると周りの光景に余計な考えは吹き飛んでしまった。
「わあ……すごい。人だらけ」
自分達の馬車の前にも後ろにも馬車が停まってあって、その先にも何台もの馬車が停まっている。開いた大門の向こう側に広がる賑やかなマーケット。既に満喫している者、これから向かう者。その誰もが楽しそうに笑っており、それを見ているだけでマリーはワクワクした感情で胸がいっぱいになった。
「首都のマーケットに来るのは初めて?」
「はい。ミドラドにもマーケットはあるんですけど、こんなに大きくないですから」
「じゃあ隅から隅まで見て回ろうか」
「はいっ」
郊外に住んでいるマリーにとって首都は憧れの場所。人が多く、活気に溢れている。ミドラドのマーケットは野菜やチーズや肉、牛やヤギのミルク、果物など食品が多く、服やアクセサリーなどの装飾品は売っていない。
貴族がマーケットで装飾品を買うなどありえないことだが、マリーはウインドウショッピングが好きだった。仕立て屋のウインドウに飾られている服や生地。帽子屋のウインドウに飾られている羽根付きの帽子や流行り廃りの激しいその瞬間だけの帽子。宝石屋のウインドウにある人目を引く美しいアクセサリーも全部大好きだった。
マジマジと眺めていると『アーネット男爵の孫が店の外から眺めていた』という話から始まり『ベンジャミン・アーネットはドケチで孫に何一つ買い与えない主義らしい』と噂が広まるため、いつも店の前をわざとゆっくり歩いて通るだけにしているのだが、今日は違う。ゆっくり見て回っていいのだと嬉しくなった。
小さな日傘をさしてアーサーが差し出してくれる腕に手を添えて大門をくぐり、人だかりへと入っていく。
「私はね、こういう場所を見て回るのが好きなんだ」
「アーサー様でもこういう場所に足をお運びになられるのですか?」
「もちろんだよ。人が集まる場所には良くも悪くも何かがある。悪いことは値段や文句による喧嘩。それから窃盗。良いことは人の働き方やその人が持つ技術が知れること。だからアルキュミアでもよくマーケットには足を運ぶんだよ」
マリーの中でアーサーの印象が少し変わった。悪い印象を持ったことがなく、最初からずっと〝良い人〟ではあったが、それが〝尊敬〟に変わった。
単純ではあるものの、一国の主である大公がわざわざ市民が集まるマーケットに顔を出して下々の働き方や技術を見るなどマリーは想像したこともなかった。国のどこが、国の何が、を褒めるのではなく一番に人を褒めたアーサーが君主であるアルキュミアを本当に見てみたくなった。
「可愛いリボン」
「リボンが好きなのかい?」
「大好きなんです。リボンはいつもおばあさまが作ってくれるので買ったことはないのですが、どれも可愛いですね」
令嬢達は派手な格好は許されていないため頭にかぶるボンネットやヘッドピースにレースや花、リボンを飾ってオシャレをする。個性が出るその装飾は下品もあれば品もあり、マリーの控えめなボンネットはカサンドラお手製なのだとよくわかる。
「どれが一番好き?」
「このシルクシフォンのリボンが好きです」
マリーが指さしたリボンはホワイトパールのシルクシフォンの生地に上からゴールドの薔薇のレースが重ねてある物で、男の目から見ても美しかった。
「私もこれが一番好きだな」
「ふふっ、一緒ですね」
「買うかい? プレゼントするよ」
アーサーの申し出に首を振るマリー。
「おばあさまが作ってくださったリボンがたくさんありますから」
それは遠慮ではなく本音なのだとわかった。マリーがかぶっているボンネットについているリボンは目の前に並ぶリボンに見劣りしないほどしっかりとして美しい物であり、マリーはそれに満足しているのだろう。納得したように頷いたアーサーはムリに買い与えることはせず、納得したように頷いた。
「どうしてマーケットでアクセサリーを売るのでしょうか?」
リボンと同じように並べられて売られている光景は不思議でしかなく、購入者の邪魔にならないよう少し離れた場所で足を止めてアーサーを見上げるマリーの問いかけにアーサーが微笑む。
「昔は、宝石は特別な物で王族達だけが身につけられる富の証だったんだ。それが次第に貴族達も装備を許されるようになり、流行りという概念ができた。それは令嬢達のほうが詳しいかな」
「はい」
流行というのは厄介なもので、一年ももたない。春に大流行していたネックレスを夏のパーティーでもつけていたら笑われたという話はよくある。ドレスもアクセサリーも一度着たら二度は着ない。それは富の証であり、貴族としてのプライドでもあった。
「マーケットに並んでいるのはその流行が過ぎた物ばかりなんだよ。貴族の流行と一般市民の流行は別物だから彼女達には関係ないんだ。売れない物を抱えているより売って儲けを出したほうがいい」
「なるほど」
どんな物が売っているのかと近付いて見てみると確かに見覚えのあるデザインばかり。流行遅れのデザインと言えど、マーケットに並ぶには少し高く、一般市民の中でも特に裕福な物だけが買える値段がつけられている。それでも結構な数の女性達が集まって購入を口にしていた。
「そこのお嬢様、これなんていかがですか? 可愛いでしょう」
「そうですね」
「鳩かい?」
「ええ、そうなんですよ。どうです? 婚約者の方にプレゼントなん……て……? ア、アアアア……アーサー様!?」
アーサーの顔を見た店主の言葉で一斉に振り向いた令嬢達が声を上げる。マリーと同じように貴族令嬢達も訪れていたのか、アーサーの顔を知る者達は甲高い声を上げて目をハートにしながら周りに群がり始めた。
「ちょっと邪魔よ! どいて!」
「キャッ!」
アーサーを囲む輪に入ろうとする令嬢の一人が立ち尽くしていたマリーを突き飛ばした。ヨロめいたマリーの手から傘が離れ、転がっていく。慌てて追いかけていくマリーをアーサーが追いかけようとするも令嬢達がガッチリとガードしているせいで身動きが取れない。
「アンタのかい?」
「すみません。ありがとうございます」
タイミング悪く風が吹いたこともあってコロコロと上手に転がる傘は中央にある噴水の傍に立っていた男性の足に当たったことでようやく止まった。それを拾い上げて渡してくれた男性にお礼を言って受け取るも傘は握られたまま。
「あ、あの……」
なぜ離してくれないのかがわからず、戸惑うマリーの顔を男がまじまじと覗き込む。不躾に顔を近付ける男に嫌悪感を抱くマリーは傘を離してその場から離れようとしたが、腕を掴まれてしまう。
何が目的なのかわからず恐怖に駆られるマリーが踏ん張って手を振り解こうとするもマリーの力では男の力を振り払えない。
「アンタ、可愛い顔してるな。名前は?」
マリーは答えなかった。答えてはいけない気がしたから。
男が放つ不気味な雰囲気に肌はぞわりと粟立つ。
「離してくださいっ」
「なんだよ。お前も向こうでバカ騒ぎする女共に混ざるつもりってか?」
「離してっ!」
酒臭い。よく見ると足元には酒瓶が数本転がっていて、男の顔は鼻まで赤くなっている。ズタボロの布のような服を身にまとい、酒浸りのように酒臭い人間を見るのは初めてで怖くなったマリーは小刻みに震えながら声を上げた。
「うおおおおおおおおっ!?」
突如、男の手が離れ、男はそのままバランスを崩したように後ろへと傾いて噴水の中に落ちた。バシャーンッと噴き上げる水しぶきは大きな身体に包み込まれたことでかからなかった。
「昼間から酒を飲むのは勝手だが、人を巻き込むな。そこで少し頭を冷やせ」
アーサーの匂い。アーサーの声。アーサーの温もり。全てがマリーを安心させてくれる。背中に回される長い腕がマリーが強く抱きしめ守ってくれていた。
「な、なんだお前! 何しやがる! ふざけんじゃ……ッ!?」
全身ずぶ濡れで立ち上がった男が酔いか憤慨か、顔を真っ赤にしながら立ち上がり、地面に置いていた酒瓶を逆さに握るもそれを振り上げることはできなかった。
アーサーの後ろにいる女性陣の目が夜の森に潜む獣のようにギラついていることに気付き、一ミリでもその腕をそのまま上げようものなら何をされるかわからないと恐怖に怯え、真っ青な顔で慌てて逃げ出した。
「大丈夫だったかい?」
「大丈夫です」
笑顔を見せるが、マリーの身体は小刻みに震えている。平気なはずがない。生まれて初めて男の恐怖を知ったのだ。女の自分では振りほどけないほど強い力を男は持っている。それを知っただけでもマリーには相当な恐怖だったはず。
「アーサー様、大丈夫でしたか?」
「お怪我はございませんこと?」
「素敵でしたわ。令嬢を守るお姿と勇姿、わたくし感動しましたの」
男が去ると再び砂糖に群がる蟻のようにぞろぞろと寄ってくる令嬢達が頬を染めてアーサーを褒め始める。指先でさりげなくアーサーの腕に触れる令嬢もいた。アーサーはそれを無視してその場でマリーを抱きあげる。
「すまないが、向こうへ行ってくれ」
冷たい言い方にポカンと口を開けた令嬢達を背に、アーサーは馬車まで戻っていく。一人の紳士が令嬢を抱きあげて歩く姿は絵になっているが、それ故に注目の的となっていた。
そのまま馬車へと戻ればハンネスに氷を用意するように伝え、ドアを閉めた。
「赤くなっているな……」
すぐに手袋を脱がせたアーサーはマリーの白い手首が男に掴まれたせいで赤くなっているのを見てギリッと歯を鳴らす。
(令嬢達に囲まれたとき、すぐにマリーの手を引いてその場を離れるべきだった)
厄介なことになるとわかっていたのにそうしなかったのは〝女性に恥をかかせるな〟という父親の教えがあったから。
『未来を担う子を宿し産んでくれる女性は国の宝だ。だから女性は宝物を扱うように扱え。自分が恥をかいても相手には恥をかかせるな』
そう教わってきたから迷ってしまったのだ。その迷いがマリーを他の男に触れさせることになった。自分が許せないと唇を噛みしめるアーサーの手をマリーがギュッと握る。
顔を上げたアーサーの目に映ったのは微笑むマリーの顔。
「どうか、ご自分をお責めになるのはおやめください」
「私が君の傍を離れなかったら君はあんな男に絡まれることなどなかったのに……」
「助けに来てくださったじゃありませんか」
「そんなのは当たり前だ!」
急に大声を張ったアーサーに驚くマリーを見て「すまない」と呟いて髪を乱すように頭を掻くアーサーは余裕がなかった。
危険な目に遭ったわけではない。絡まれていただけ。それでもあれは必要のない恐怖であることは間違いない。一生知らずにいてほしかった恐怖。男は力が強く、怖い生き物だと知ってほしくなかった。
赤くなった手首を癒すように何度も優しく撫でるアーサーの取り繕った姿とはまた別の顔が見れたような気がしたマリーはその大きな手を見つめて目を細める。
「男の力は女性を怖がらせるためにあるんじゃない。女性を守るためにあるんだ。それなのに彼のように間違った使い方をする者もいる。だが、どうか信じてほしい。そんな男ばかりじゃない。女性を守るために使う者がほとんどだ」
「わかっています」
傷ができたわけじゃない。血が流れたわけじゃない。ただ掴まれていた部分が赤くなっただけ。それなのにこんなにも必死に言葉を伝えてくる彼も同類だと疑えるわけがないのだ。
マリーの手の甲に額を押し当てるアーサーにすぐ言葉を返したマリーの声にアーサーが顔を上げた。
「抱きしめてくださったアーサー様の力とあの人の力は全くの別物ですから」
マリーの言葉はアーサーの救いになった。恋人ではなくとも外へ連れ出した以上、守らなければならなかった。ベンジャミンに守ると約束したのだ。それなのに自分は他の女性への対応にいっぱいいっぱいになってマリーを危険な目に遭わせてしまった。
その後悔を拭うように優しい声で笑顔を向けてくれるマリーにアーサーの胸がいっぱいになる。
「マ……」
曲げていた上半身を起こして片手を伸ばそうとしたとき、ドアをノックする音が聞こえた。
「ご主人様、氷をお持ちしました」
「あ、ああ、すまない。ありがとう」
「他にご入用の物はございますか?」
「いや、ない」
ドアを開けてハンカチに巻かれた氷が入った袋を受け取ればドアが閉まったのだが、さっき言おうとした言葉は出てこない。感情に任せて動くのはやめようと決めたアーサーはまた同じことを繰り返しそうになった自分の愚かさに唇を噛みしめた。
手首にそっと氷嚢を乗せるとマリーの腕がピクッと反応する。
「冷たいかい?」
「少し。でも、こんなことまでしていただかなくても……」
「私が嫌なんだ。君の手に、いつまでもあの男が無礼を働いた痕跡が残っているのが嫌なんだ」
アーサーの言葉がマリーの胸をじんわりと温かくする。ネイトと会っているときにはなかったものだ。
(どうして……)
自分は魅力がある女ではないと思っている。他の令嬢と比べて背も低く、似合うドレスも少ない。イブニングドレスを着ても色気は出ず、ドレスを着ることも苦手。セリーヌと比べると提灯と釣鐘。同じ物を着ていても美しさは似ても似つかない。だからネイトもセリーヌを選んだ。
それなのにアーサーはこんなにも大切にしてくれる。
「唇が……」
そう口にしたマリーがアーサーの顔に手を伸ばす。細い指がアーサーの唇に触れ
「切れてしまいますよ」
唇を噛みしめるほど何を考えているのだろう。彼が後悔することなどないもないのに大波のような後悔に襲われている様子を放っておけなかった。
アーサーは唇を噛むのをやめ、その唇をなぞるようにマリーが指を這わせる。その手を掴み、少し後ろに引いたのを合図にするかのようにマリーは引き寄せられるまま身を寄せ、唇を重ねた。
アーサーの指が顎の下で結んでいるボンネットのリボンを解き、シートに落ちる。
柔らかな唇。小説の中では男性が女性の唇を柔らかいと言う表現がほとんどだったが、アーサーの唇もそう囁きたくなるほど柔らかかった。
手を掴まれているのは同じなのに恐怖はない。むしろその手の大きさと温もりに安心する。離さないと言うように背中に回された手が密着するほど強く抱きしめていることで身体を離すことができない状況をマリーも望んでいたかのように空いている手をそっと首に回すと掴まれている手が解放され、その手も首に回してマリー自らアーサーに密着する。
結婚もしていないのにこんなことが許されるはずがないとか、昨日婚約破棄されたばかりなのにとか、今はそんな言い訳はどうでもよかった。
互いが互いを心から愛しいと思い、互いを欲して求め合い、その欲望に本能で従っている。それしかなかった。
「ア、サー……」
「マリー」
啄むようなキスを交わす合間にマリーが名前を呼ぶとアーサーも熱のこもった声でマリーの名を呼ぶ。
だが、その甘い雰囲気に、甘すぎる雰囲気に酔ったようにガクンッとマリーの上半身が後ろへ傾いた。
「マリー!?」
「はええ……」
落ちないように支えて顔を覗きこむとマリーは真っ赤な顔で目を回していた。グルグルと回る目と茹でダコのように赤い顔に蒸気を放つ頭。
十七歳のマリーには大人すぎるキスだった。
二人が家に着いた頃にはすっかり辺りは暗く、アーネット邸も門に灯りがついていた。
「降りられるかい?」
「は、はい」
目を回してからずっと横になっていたマリーは目を覚ましたといえど心臓はまだ速いままで、アーサーの顔が見れないでいる。差し出される手を取って馬車から降りると家の玄関が開いて二人が出てきた。
朝見送ってもらったのにまるで何日も離れていたかのように感じるほど二人の姿を見て嬉しくなったマリーは小走りで駆け寄っていく。
「ただいま、おじいさま、おばあさま」
「おかえり、アップルパイ」
「おかえりなさい、マリー」
ベンジャミンが愛称で呼ぶとマリーは嬉しそうに笑って頷き、頬にキスをする。カサンドラにも同様に。それをアーサーが微笑ましく見守っているとベンジャミンが片足を引きながら寄ってくる。
「孫はご迷惑おかけしませんでしたか?」
「私の不注意で彼女が酔っ払いに絡まれてしまいました。申し訳ありません」
申し訳ないと頭を下げるアーサーにベンジャミンは怒るどころか笑い声を上げた。眉を寄せられ不機嫌な顔で罵倒される覚悟もあったアーサーにとって大笑いは想像の片隅にさえなかったことで、驚きに顔を上げるとベンジャミンは本気で大笑いしている。
「マーケットに行けば酔っ払いがいるのは当然のことです。絡まれたのは運が悪かった。それだけです」
「ですが––––––」
「孫はどこか怪我を?」
「いえ」
「なら問題ない」
「私が––––––」
自分の不注意とは言ったが、何をしていたのかまでは伝えていないため伝えておこうと口を開いたアーサーにベンジャミンは首を振る。
「問題ない。それだけですよ、アーサー様」
孫が怪我をして震えながら帰ってきたならベンジャミンは激怒して断罪の覚悟で罵倒していただろう。だが、孫に怪我はなく、笑顔で帰ってきた。それだけでよかった。
ベンジャミンにとってアーサーは信頼に足る人物。何があって酔っ払いに絡まれることになったのかなど問題にはしない。
「さ、どうぞ。中へ」
「ああ、いえ、今日はこれで失礼します」
「おや、用事ですか?」
不思議そうに見るベンジャミンに苦笑しながら頷くアーサーにベンジャミンは頷き、笑顔を見せる。
「ではまた、帰国される前にお立ち寄りください。カサンドラのアップルパイは最高なんですよ」
「是非」
物分かりが良い相手は助かる。男爵が大公を引き留めて時間を割かせるなどあってはならないが、残念なことに身分を弁えない貴族はまだ多い。
明日、明後日ではなく帰国前に少しだけというベンジャミンの願いを聞き入れないわけもなく、快諾した。
「マリー、これを君に」
「え?」
執事が台からラッピングされた箱を二つと花束を取ってアーサーに渡し、アーサーはそれを持ってマリーの傍まで寄っていく。
「今日は付き合ってくれてありがとう。少しでも君の心が癒えていたら嬉しい」
「あ……」
今日出かけたのはアーサーが気分転換のために連れ出してくれたから。マリーの頭の中も心の中も既にアーサー・アーチボルトでいっぱいになっていて忘れていた。
それぐらい、今日は特別な日だった。
「いつの間に……」
「秘密」
ウインクするアーサーにクスッと笑うと両手を伸ばして全て受け取る。バラの花束はわかるが、他の二つはなんだろう。期待に胸躍らせるマリーはそれらを抱きしめて満面の笑みを浮かべる。
その表情を見ているだけで三人は嬉しくなった。
「じゃあね、マリー。おやすみ。良い夢を」
チュッとリップ音を立てて額に口付けたアーサーに三人が驚くもアーサーだけが爽やかな笑顔で馬車へと戻っていく。
「では、失礼します」
門を通り、馬車の前で一礼してから馬車に乗り込み颯爽と去っていくアーサーに最初はポカンとしていたベンジャミンがまた大笑いし始めた。
「本当に愉快な方だ!」
大公でありながら傲慢さは微塵も感じられず、男爵である自分達にさえ敬語を使ってくれる男は世界中探し回ってもアーサー・アーチボルトただ一人だろう。
そんな男が孫をもらってくれればどんなに良いだろう。孫が彼を愛し、彼が孫を愛してくれれば思い残すことはない。あとの余生は愛する妻と二人で静かに暮らし、迎えが来るのを待つだけ。
急かすつもりは毛頭ないが、顔を赤らめて抱えたプレゼントに顔を埋める孫を見ていると、そんな日も遠くないような気がしていた。
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