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番外編

その手を掴むとき

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 招待された場所はノビリスではなく、アボット侯爵の所有する領地に建ててある別荘で行われることになった。

「別荘、だよね?」
「素敵な別荘ね」

 恍惚とした表情でアボット家の別荘を見つめるアリスを横目で見るセシルはアリスはやはり公爵令嬢なのだと思った。普段はそれほど実感することはないのだが、こうして広すぎる土地に建てられた別荘と呼ぶにはあまりにも大きく豪華な建物を見てもこれが別荘かと驚かないところはセシルの感覚とは違う。
 ベンフィールド邸は三百人を超える使用人が毎日せっせと働いている。その中で育ってきたアリスにとってはアボット家のこの別荘は別荘というカテゴリーに普通に入るのだろう。
 セシルからすればこの別荘は貴族が上流貴族が住んでいる本邸にしか思えなかった。

「アリス! セシル様!」

 ドレスアップしたナディアが階段を上がった先にある玄関口から手を振りながら呼びかけ、二人はそれに応じるように手を振り返した。
 二人で階段を上がってナディアの前に立つとナディアの弾ける笑顔が炸裂する。

「ようこそ! 道は今日のために舗装したのですけれど、疲れてませんこと?」
「今日のために?」

 今日のゲストは貴族だけではなく、豪商であるアボット家の関係者も入っている。それこそアッシュバートン家よりも権力を持っている豪商も来るだろう。金の成る木でも持っているのかと疑いたくなるほどの使い方に驚いたのはセシルだけでアリスはまるでそれがよくあることであるかのようにスルーした。

「ナディア様、今日のお召し物がとてもよくお似合いですね」
「当然ですわ。ナディア・アボットの妹アリシアの結婚式には最高のドレスをと決めていましたもの」
「素敵です」

 気合が入ったドレスであることは詳しくないセシルでもわかる。細部にまで拘っている丁寧に施された刺繍も縫い付けられたビジューも一つ一つが輝きを放って目を惹く。
 セシルからすれば妹の結婚式にこれほど気合の入ったドレスを着てもいいのかと思ってしまうが、アリシアの了承を得てのことだろうと黙っていた。

「ふふっ、セシル様、背は伸びなかったのですね」
「文句ある?」
「いいえ、背の低い男性も素敵ですわ」

 半年前に会ったときはそんなこと言わなかったのにと不機嫌な顔を見せるセシルを笑うナディアの意地悪にアリスも笑う。
 背だけが全てじゃないといえど、聖フォンス時代から背が伸びていないのは確かであるため不機嫌な顔を見せるしか方法がなかった。

「セシルはそれぐらいでいいの。背が高くなると踊りにくいもの」
「あら、上手なフォローですこと」
「妹が結婚するからって朝から薬物に手を出したって可能性はない?」
「残念ながらこれ、素面ですのよ」
「それはすごい」

 異常だと肩を竦めるもすぐに笑うセシルをナディアはアリスと一緒に抱きしめた。

「来てくれて本当にありがとう」

 来ない選択肢などなかったというのにお礼を言うナディアに二人は腕の中で顔を見合わせて笑いながら「どういたしまして」と言葉を返す。
 自分よりも背の高い女性に抱きしめられる感覚に喜びはなくとも、やはり知っている顔が至極幸せな笑顔でいることは嬉しい。隣を見れば愛しい妻も至極嬉しそうに笑っている。それだけでセシルは幸せだった。
 ゆっくりと身体を離すナディアが結婚式の時間まで二人に休んでもらう部屋へと案内してくれる。

「アリスの結婚式を思い出しますわね」
「そうですね」
「あのときのアリス、とてもキレイでしたわ」
「ありがとうございます」

 自分でも張り切ってしまったと思うほどの結婚式は一生記憶に残るもので、それを褒められることは幸せの一つでもあるのだが、ゲストルームの入り口で振り向いたナディアが「でも」と言ったことでアリスは目を瞬かせる。その勝ち気な笑顔が何を言いたいのか、なんとなく予想できた。

「お二人には申し訳ないですけど、世界で一番美しい花嫁はアリスではなくアリシアに交代することになりましたの。今日からは世界で一番美しい花嫁の称号はアリシアのものですわ」

 浮かんだセリフは違えど内容は予想どおり。それに対して気分を害するでもなく、アリスはナディアの姉バカさを可愛いとさえ思っていた。しかし、セシルは違う。

「でも、なんて言うから何を言い出すのかと思えば……ありえないね」

 不機嫌ではなく鼻で笑って一蹴する。

「アリスが君の妹に劣るって言うのかい? 世界で一番美しい花嫁はアリスだよ。これはどこの王侯貴族が結婚しようと変えられない事実だ」
「それはアリシアの花嫁姿を見ていないからですわ」
「見ても意見は変わらない」
「アリシアの美しさに平伏すことになりますわよ」

 気の強い二人が火花を散らす様子に苦笑しながらくだらない言い合いは終わりだとアリスが手を叩いたのを合図に二人は少し距離を取る。

「花嫁はその日、世界で一番美しいと決まってるの。ナディア様が結婚する日はナディア様が世界で一番美しいのよ。今日はアリシア様だからアリシア様が一番美しいの。それこそ変えられない事実よ。結婚式の日にくだらない言い合いはやめて」

 雲一つない快晴で神さえも祝っているかのような澄んだ空の下で勝手に暗雲を立ち込めさせるのはやめるよう二人を交互に見ながら注意するもセシルがアリスを抱き寄せて勝ち誇った表情をナディアに向けて言い放つ。

「ほらね、これが美しい心を持つ女性だよ」
「あら、じゃあ嫁ぐ相手を間違えたのかもしれませんわね」
「誰にも嫁げていない女性に判断されることじゃないよ」

 キーッと悔しげに声を上げるナディアが二人を部屋に押し込むとガチャガチャと音を立てて鍵を閉めてしまう。中にも鍵が付いているため回せば解錠するため何がしたいんだと二人して笑ってしまう。

「彼女、相当緊張してるね」
「それはそうよ。妹の結婚式で緊張しないわけない」

 あのテンションは浮かれているのではなく緊張を誤魔化すためだと二人にはわかっている。寂しさや悲しみを表に出さないよう必死なのだ。きっと泣いてしまうだろうことはわかっていても、まだそのときではないからと必死に明るく振る舞っている。それは痛々しいというよりも微笑ましいもので、頑張れと背中を撫でたくなった。

「カイルの結婚式があったら緊張する?」
「緊張で吐いてると思う」
「カイルが結婚なんて想像つかないよね」
「お兄様が誰かに恋をしてプロポーズして結婚……」

 想像しようとしてもできない。カイル・ベンフィールドが誰かを好きに恋をして仕事も手につかない様子が全く想像できないのだ。できるのは寝食も忘れて仕事に徹し、目の下に大きなクマを作っている姿ぐらい。
 無理だと首を振るアリスにセシルも頷いて同意する。

「このお菓子って食べてもいいのかな?」
「お腹いっぱいにしないようにね?」

 テーブルの上に置かれているお菓子を嬉しそうに手に取って一つ頬張るセシルはその美味さに表情を蕩けさせて目を閉じる。甘くて美味しいチョコレートはセシルの大好物だ。それを知っていて置いたのはアリシアではなくナディアだろうとアリスは思った。
 それから少し屋敷内を散歩し、残りの時間は部屋でお茶をしながら過ごしているとそろそろだと呼ばれて出席した二人にとって初めての結婚式の参列。
 広い庭には数えきれないほどのゲストが集まり、今か今かと花嫁の登場を待っている。

「すごい緊張してるのがすごい伝わってくる」

 神父の前で花嫁を待っているディートハルトの緊張は見ているだけでも伝わってくる。何度も肩を上下させては深呼吸を繰り返していた。当然だ。彼にとって今日は何年も前から待っていた日なのだから。

「あ……」

 花嫁の登場とアナウンスがあり、全員が入場口へと身体ごと向ける。用意された楽団の生演奏が始まり、その中を純白のウェディングドレスを纏ったアリシアがゆっくりと歩いてくる。その美しさは息を呑むほどだが、同時に少しザワついたのは本来なら父親が歩くはずの隣をナディアが歩いていたからだ。
 アリスも驚いたが、親族の席を見てもアボット夫妻に怒った様子はなく、アボット侯爵は既に嗚咽を上げるほどの号泣状態で背を丸め、妻はそれの背を微笑みながら撫でている。

「すごくキレイです、アリシア様」
「ありがとう」

 横を通るときに目が合った瞬間、アリスが小さく伝えると小さな声で返ってきた感謝にアリスはなんだか涙が出そうになった。
 新郎の前まで姉妹で歩き、引き渡すその手を離すのが惜しいと思っているナディアの気持ちが伝わってきて泣いてしまう。新郎に託す際に少し強めに握ってから離したナディアが席へと移動するのを目で追うとナディアの唇は今にもへの字に曲がりそうに震えていたが、それでも必死に笑顔でいようとしていた。
 魂の片割れである妹の結婚式。ナディアにとって最高に幸せな日であり、人生で最も辛い日でもある。寂しさとめでたさに感情がぐちゃぐちゃになっているナディアは自分たちと別れから式が始まるまで、アリシアと何を話したんだろうとアリスは少し知りたくなった。
 短いけど大切な時間。今まで過ごしたどんな時間よりも深く思い出に刻まれただろう。
 誓いを交わし、指輪を交換し、そしてキスをする。祝福の鐘と拍手と歓声とが鳴り響く中、二人は抱き合って世界で一番幸せだという笑顔を見せる。それをジッと見つめるナディアの横顔がアリスはとても印象的だった。

「セシル、先にナディア様に挨拶に行かない? アリシア様はまだ向こうにいるから時間がかかりそうだし」
「今日は泊まりだし、あとでいんじゃない? お邪魔になると悪いし」
「なんのこと──……」

 顎でクイッと指されたほうを見るとナディアの隣にはエックハルトが立っていた。それを避けるつもりもないナディアはやはりあの日言ったようにそれほど辛くないのか、それともあれは強がりで、今日は妹の結婚式だから穏やかなふりをしているだけなのか。
 立ち上がろうと身体に入れた力を抜いて座り直した。

「どうぞ」

 ゲストに祝われて笑顔を咲かせるアリシアを見ながら涙するナディアを見ないまま取り出したハンカチを差し出すエックハルトをナディアも見ようとはせず、そのままハンカチを受け取った。吸っても吸っても出てくる涙でハンカチはあっという間に濡れそぼってしまう。

「キレイだ」

 エックハルトの呟きにナディアが何か言おうとすると言葉が詰まり、一度「ンンッ」と喉を鳴らしてからもう一度口を開いた。

「アリシア・アボットが美しくないわけないでしょう。ナディア・アボットの妹ですのよ」

 いつだって自慢の妹だった。誰にだって胸を張って自慢できる妹だった。結婚してもそれは変わらない。大好きな妹だと言葉にすればするほど涙は滝のように溢れていく。

「ナディア・アボットのことを言ったつもりだったんだけど」

 怪訝な顔をしてエックハルトに振り向くとエックハルトもナディアを見て微笑んだ。

「君の涙がすごく美しかったから。妹の門出を祝う涙はとても美しい。それはどんな宝石にも勝る美しさだ」

 ロマンチックな言葉にナディアが向けたのは嫌悪感剥き出しの顔。

「涙に興奮する危ない性癖でも持っていますの?」
「特別な人のね」

 特別という言葉をナディアが鼻で笑う。

「わたくしはもうあなたへの未練はありませんの。婚約者が必要なら他をあたってくださる?」
「何百回も後悔して、今もずっと後悔し続けてる。君は誰よりも美しい人だから男の問題なんてあって当たり前だって覚悟してたはずなのに、僕は君が離れていってしまうんじゃないかって嫉妬でおかしくなりそうで……おかしくなった」

 隣で吐き出される懺悔にナディアは震えた息を吐き出して顔を上げた。目に映すのはエックハルトではなく笑顔のナディア。

「懺悔したければ教会に行ってはいかが?」
「君に、聞いてほしいんだ」
「やめて。今日は妹の結婚式なの。ここで口にしていいのは祝いの言葉だけ。懺悔なんて最低なものは相応しくありませんわ」

 その懺悔を聞くにはナディアの心はまだ整理がついていない。婚約解消をした日、エックハルトから言われた言葉がまだ尾を引いているのだ。

「ナディア、どうか僕を許してほしい」
「やめて」
「もう一度、もう一度だけ、僕にチャンスをください」
「やめてって言って──……」

 聞きたくないと勢いよく振り向いた先にいたエックハルトは片膝をついて小箱に入った指輪を見せていた。まるでパーティーで出会った日と同じように。一気に蘇る当時の記憶にナディアが拳を握る。
 
「なんのつもり?」
「チャンスが欲しい。もう一度、君を愛するチャンスを」
「……そんなの……」

 ありえないと首を振るナディアの後ろで「それが正しい答えなの?」と息を切らせた声が聞こえた。遠くでゲストの対応していたアリシアがエックハルトがしていることを見て走ってきた。
 今日の主役が、眩しいほど清らかで真っ白なウェディングドレスのまま駆けつけてナディアを止めた。ナディアの心の内を知っている唯一の人物。

「アリシア……」

 切らせた息を吐き出して整え、姿勢を正す。

「あなたも許してもらったでしょう? 大事な人を傷つけて、謝って、許してもらった」
「で、でもわたくしは……」
「公爵令嬢を傷つけた」
「ッ!!」

 立場は関係ないと一蹴するアリシアにナディアはアリスに頭を下げて謝った日のことを思い出した。一方的な嫉妬で傷つけた自分はエックハルトと同じ。立場もそうだ。チャンスを与えてもらって、それを一生物とすると決めて今がある。もう二度と失敗しないと、愚かな自分を恥じて心に刻んだ。エックハルトも同じなのだ。

「……嫉妬は醜い」

 ナディアが呟いた言葉にハッとしたエックハルトが伏せていた顔を上げる。

「あれは……」
「わかってますわ。わたくしに言った言葉じゃない。あなたは自分に言ったの」

 婚約を解消した日にエックハルトが言った言葉がずっと引っかかっていたのはナディアに思い当たる節があったから。醜い嫉妬で大切な友達を失いそうになった。アリスもセシルも、そしてアリシアさえも。全て嫉妬による自分勝手な行動のせい。だからエックハルトが言った言葉は自分に向けられたものだと思いこんでしまった。

「そのとおりですわ。嫉妬は醜い。わたくしもあなたも同じですの。嫉妬して、傷つけて、恥をかかせて、後悔する。そして自分が楽になりたいから許してほしいと謝る。愚かですわ」
「うん……」

 アリスは怒っていないと言った。許すと言った。怒ったのはアリシアだった。情けない、恥ずかしいと。仲良くしていた相手が急に無視をすれば傷つくはずなのにアリスは許さないとは一言だって言わなかったし、睨みつけることもしなかった。公爵と侯爵は近いようで遠い。侯爵令嬢が向けた無礼を公爵令嬢は快く許してくれたのに、自分が許す側に立ったら許さないと切り捨てるように言ったことこそ恥ずかしいのではないかとナディアは思った。
 一度は許す。二度目があれば問答無用で許さない。それでいいのではないだろうか。

「本当に……どうしようもないですわね、わたくしもあなたも」

 それが許しの言葉だとエックハルトは思わない。紳士的ではなかった自分は捨てられて当然で、こうして縋り付くことだって男としてみっともない最低の行為だと恥ずかしくもあるが、ナディアの隣に立てるチャンスを逃したくはなかった。
 向けられる眼差しにナディアが微笑むとスッと手を差し出した。

「いいの、かい?」
「あら、さっきの言葉は嘘ですの?」
「う、嘘じゃない! 本当だ! もう二度と嫉妬なんてしない。もう二度と君を傷つけたり貶めるようなことはしない。君のために生きると誓うよ」
「期待してますわ」

 セシルはあくまでも推しで、聖フォンスを卒業したらエックハルトと結婚するつもりだった。その未来があるぐらいにはナディアはエックハルトを愛していた。それを壊したのは自分の身勝手な行動であり、自業自得。それを受け入れてくれた彼に感謝したはずなのに許そうとはしていなかった。口ばかりで心がないと過去にアリシアに言われたことがある。そのとおりだとようやく理解できた。
 ナディアの細く長い指に一度は返した指輪が通り、寂しかった指を彩る。
 立ち上がったエックハルトが抱きしめようと遠慮がちに伸ばす腕の中にナディア自ら入っていった。

「お父様がびっくりしてますわ」
「説明に行かないと」

 婚約解消した相手とまた婚約するのかと驚いて、さっきまで滝のように流れていた涙が止まっている。今にも目玉がこぼれ落ちそうなほど見開いて状況を理解しようと必死な父親にアリシアとナディアが手を繋いで父親の元へと歩いていく。その後ろをミラネス兄弟がついていく。
 アリシアの幸せな結婚式でナディアも幸せを手に入れた。

「行かないの?」
「結婚してるのにブーケなんて受け取れない」
「受け取る人は決まってそうだしね」
「ふふっ、ナディア様もブーケなんて必要ないわ」
「そうだね」

 ブーケトスには参加せず、後ろのほうで見ているナディアを見つめながらアリスは心配事がなくなったことに安堵していた。
 
「アリス!」

 寄ってきたナディアの隣をエックハルトが歩いている。

「おめでとうございます」
「見てたのね」
「はい」

 少し恥ずかしそうに、だが嬉しそうに笑うナディアがアリスの手を握る。

「ありがとう、アリス」
「え?」

 お礼を言われるようなことは何もしていないアリスにとってその意味を理解することはできず首を傾げるともう一度ありがとうと言われた。

「あなたが許してくれたおかげよ」

 なんのことだと目を瞬かせるアリスだが、自分がしたことでナディアがまたエックハルトと一緒にいることを決めるキッカケになったのならなんでもよかった。

「お二人に……いえ、皆様が長い幸せに包まれますように」

 アリシアやナディアだけではなく、アリスにとっても幸せな一日だった。大好きな友人が幸せになった日、大好きな友人が幸せになるために進んだ日。
 未来永劫の幸せが訪れることを祈らずにはいられない最高の日となった。
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