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番外編
一つの国が終わるとき
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セシルのプロポーズを受けて婚約が成立したまでは良かったのだが、結婚まであっという間だったわけではなかった。
ベンフィールド家はカイル以外は大歓迎だったが、アッシュバートン夫妻は恐縮しっぱなしだった。
自分たちが犯している罪に巻き込むわけにはいかないと言い続けるセシルの父親を説得したのはアリスの父親。
この国では銃は確かに御法度であり、死刑になる可能性があることはもちろんネイサンも重々承知の上。だが、それでも結婚に賛成したのは二人が結ばれたのを運命だと思っていたからだ。
アリスは意思が弱く、人に流されやすい。正しいかどうかわからない自分の意見よりも絶対的な確信を持って発言する他人の意見に合わせるほうが失敗がないと思うタイプだった。
セシルは大事なのは自分であって他人は二の次にもならず、他人よりも食事が好き。群れるよりも人に合わせない孤立を選ぶタイプだった。
側から見れば二人は正反対で合いそうにないのに、二人は互いに惹かれ合い、結婚まで決めた。
二人の婚約成立にロマンはなかった。アリスは大怪我をして頭にも身体にも包帯を巻いた状態出会ったにもかかわらず、セシルはその場でプロポーズした。それを聞いたとき、ベンフィールド夫妻は大笑いし、そこまでの愛があるなら結婚に反対する理由がないと言った。そしてアッシュバートン夫妻にもそう説明して説得にかかったのだ。
恩人を巻き込むわけにはいかない気持ちと恩人の思いを無下にすることはできない気持ちで頭を抱える父親を思い出したセシルが新聞で口元を隠して笑う。
「思い出し笑い?」
「あ、スケベだって思ったでしょ。違うから。面白い話は何度思い出しても面白いから笑うだけでそこにスケベさとかそういうのは関係ないからね」
言い訳のように捲し立てるセシルに笑いながらアリスが首を振る。
「何も言ってないよ」
「言いたげな顔してたから」
「してない」
「アリスのがスケベなんじゃない?」
「ようやく食べ頃になったクロワッサン、食べたくないって言った?」
「わー! 嘘嘘! 冗談だよ! 食べます!」
アリスは朝から慣れた手つきでクロワッサンを作っていた。今日は甘いのがいいと言うセシルの希望に合わせて、焼く前に表面にたっぷりと砂糖を振りかけてから焼いたおかげで甘い匂いがリビングまで漂っていた。焼きたてのクロワッサンは完全にサクサクではないため少し冷ましておいたパンがちょうど食べごろになった今、セシルのよく回る口がそれを遠ざける。
今もアリスは毎日パンを焼いている。セシルが毎日アリスの焼いたパンがいいと言うからだ。おかずパンもお菓子パンも両方食べたいとのわがままをアリスは叶え続けている。
「じゃあ何を思い出して笑ってたのか白状してくれる?」
「結婚認めるべきかって頭を抱えてた父さんの姿を思い出してただけだよ。僕たちの結婚に反対はなかったけど、僕たちが結婚することによってベンフィールド家を巻き込んでしまうってずーっと悩んでたんだ。でも反対すればベンフィールド公爵の気持ちをも無下にするし、家族になれることは光栄でしかないし恐縮でしかないって一ヶ月間ずーっと同じこと言ってた。あれは何度思い出しても笑える」
何十回聞いたかわからない話に呆れながらもつられて笑顔になる。
サクサクになったクロワッサンが山のように積まれた大皿をセシルの前に置くと早速一つ取って大口を開けてかぶりついた。
「んー! これこれ! どこのパン屋よりも美味しい! 妻の愛情って甘いんだね」
「その甘さは愛情じゃなくてお砂糖かけたからだよ」
「そうかな? 君は砂糖菓子のように繊細だから砂糖で出来てるのかも」
「じゃあ私はお母様から産まれたんじゃなくてお砂糖で作られたってこと?」
「そうかもね」
セシルの適当な返事に肩を揺らして笑うアリスはセシルがクロワッサンにかぶりつく度にサクサクの生地が落ちていくのを見てどうするべきか迷っていた。砂糖がついた生地が洋服につけば洗濯が大変だが、既に落ちてしまっているため今更焦ったところでどうにもならない。それでも被害を最小に抑えるために小皿を取ってくるべきかどうか。
「セシル、それあと何個食べる?」
「全部食べようと思ってるけど?」
「あと三時間もすれば夕飯だよ?」
「これはおやつだから」
セシルの底なし胃袋は成長に合わせてまだ大きくなっているのではないかと時折感じ、食べても食べてもまだ入ると言うセシルがいつしか永遠に食べ続けなければ満足できない身体になってしまうのではないかと心配している。
「そういえばカイル、ヴィンセルの側近になったんだってね。ヴィンセル・ブラックバーン王子がついに側近を決めたらしい。護衛も側近も拒み続けた彼に一体どういう心変わりがあったのか。しかも側近はあのベンフィールド公爵の嫡男であるカイル・ベンフィールド。聖フォンスでの学友を側近に選んだ理由は「彼が誰よりも優秀だから」というものらしいが、その実力はまだ他者が認められるほどのものではないというのが実情。今後の活躍に期待か……だってさ」
クロワッサンを咥えたまま新聞の一面をアリスに向けるセシルは学友が載っているという面白さにニヤつく。
アリスの結婚が決まるとカイルも進路を決めた。王子の側近になると言い出したのだ。これはヴィンセルからの提案であり、自分が脅した選択ではないと両親に説明していた。
そして今こうしてカイルの写真が新聞に載るほど注目を集めている。アリスは不思議な気分だった。
「お兄様はこの国を変えると言っていたからきっとやり遂げると思う」
「側近に国が変えられる? たかが側近だよ?」
ニヤつきながらの意地悪な言葉にアリスも似たような笑みを返す。
「お兄様が有言実行者なのはご存知?」
「もちろん知ってるよ。どんな手を使ってでも遂行するヤバい男だってこともね」
セシルも疑っているわけではない。カイルは無茶だと思うようなやり方を通し、それをやり遂げてきた。あまりの多忙さに根を上げて逃げ出した生徒会メンバーの抜けた穴を補充で埋めようとはせず、全て自分の仕事に加えてこなしてきた。学校でも家でも仕事をしない日はなく、父親にさえ飽きられるほど仕事漬けの日々を送っていた。王子の側近になればそれ以上に多忙な日々を送ることになるだろう。カイルならそれを充実した日々だと言う。そこまで想像できている。
「ヴィンセル王子はお兄様を信頼してくださってるもの」
「僕も仕事面に関しては信頼してたよ。忙しくても弱音は吐かないし、苛立ちも見せない。彼は立派な生徒会長だった」
アリスは結局、卒業まで生徒会には入らなかった。兄との約束だったから。アリスが外で仕事をするのであれば忙しさを経験するのも手だが、そうじゃないなら必要ないし足手まといだと言った。言い方に問題があると思いながらも返す言葉がなかったため頷いて了承し、卒業までセシルの専属シェフに徹した。
今もこうしてセシルのためにパンを焼く日々なのは変わらず、変わったのは理由だけ。「友達が食べたいって言ってくれるから」が「夫がねだるから」に。
多忙を極める仕事よりもアリスはこうして愛する夫のためにパンを焼く日々のほうが性に合っていた。
「ねえ、アリス知ってる? クインリーの王族が逃げたんだって」
「……クインリーってオリヴィア王女がいる国?」
「そうだね。あのわがまま放題のオリヴィア・クインリーがいる国」
「逃げたってどういうこと?」
王族が逃げたと聞くのは戦争時くらいではないかと今の平和な時代に似つかわしくない言葉に思わず新聞を覗き込むと確かにそう書いてあった。
【湯水の如く国費を使い果たしたクインリーの逃亡劇】と。
「どうやら国費を私用に使いこんでたらしいね」
「国費って使い果たせるものなの?」
「小さい国だから国費もそう多くはなかったんじゃない? 皆が皆、アリスみたいに物欲がないわけじゃないんだよ。お金は使おうと思えばいくらでも使える」
「セシルでも?」
「僕は無理かな。アリスがこうして焼いてくれるパンがあればいいから……使っても新しいパン焼きの釜ぐらい……じゃあ、使いきれないね」
「物欲ないじゃない」
「あるとは言ってないよ」
舌を出して笑うセシルに肩を竦めては再び記事へと目を通す。
「それがバレて国民総出でデモ活動。城の中にまで国民が乗り込んで暴れ回ってるんだって」
「ひどい……」
オリヴィアが暮らす国は小国であり、人口もそう多くはない。だから王族であろうとも権力は大国の貴族のほうが強く、世界に出ればクインリーの王族とは名ばかり。
クインリーよりもベンフィールドのほうがずっと強い権力を持っている。
それほどクインリーは小さい。どれほど小さいのかは知らないが、国費を使いこんだ王族を国民が許さないのは当然だと暴動の様子が収められた写真を見ると予想以上にひどい様子だった。
「一家離散して居場所がわかってるのは国王夫妻だけみたいだね」
「王女たちは?」
「見つかってないみたい」
「ご両親が上手く隠したのかしら」
「たぶんね。娘のせいで破産したんじゃない? それなりのことやってみたいだし」
「それなりって?」
「噂によると闇カジノとかにまで手を出してたらしいし、気に入らない奴には裏から手を回して始末してたとか」
「小国の王族にそんなことできるの?」
「金さえもらえばなんでもやるって人間は多いよ」
オリヴィアの性格はかなりキツいもので、ティーナとよく似ていた。だから兄の婚約者がオリヴィアでなくて本当によかったと心から安堵している。
新聞を覗き込んでオリヴィアの記事に目を通すアリスが、ある一文に目を見開いた。
「オリヴィア王女が……死刑? 殺人、教唆……?」
国費を使い果たしたことによる破産だけであれば死刑にはならないが、オリヴィアだけ名指しで死刑と書いてあった。そこまでする人なのかと衝撃に手で口を押さえながら読み進めていくと待っていたのは信じ難い事実。
「ノビリスのベンフィールド公爵の長女アリス公女が馬車による事故で負傷した事件が収束を迎えそうだ。逮捕された男はオリヴィア王女から事故に見せかけて殺してほしいと多額の成功報酬で依頼を受けたと話している。オリヴィア王女は逮捕され次第、身柄はノビリスに移送し、判決を受けることになる」
淡々と読み上げるセシルが新聞を閉じてクロワッサンを食べ切ると「当然だろうね」と肩を竦めた。
「自分を守ってくれる国はもうない。王族であろうと他国の公爵令嬢を殺そうとしたんだから」
「あの日のことが……そんなに気に入らなかったの?」
確かにオリヴィアは怒って帰った。カイルが言った言葉で怒ったのではあるが、その前にもアリスが怒らせている。あの怒りで人を殺そうとまで思ったオリヴィアの異常性にアリスは戦慄する。
アリスがこの世で嫌いだと思った人間はただ一人、ティーナだけだが殺そうと思ったことは一度もない。
あのトランペット吹きをおかしいと思ったのは間違いではなく、やはり自分を狙ったものだったのだと確信すると余計に怖くなる。あのトランペット吹きはあの日、偶然アリスを見かけたから慌ててトランペットを吹いたのではなく、何日か何週間か前からアリスを見張ってどのルートをよく通るのか調査していた。そしてセシルもカイルも一緒ではない日を狙って決行したのだ。
死を覚悟したほどの事故。あの通りは馬車も多く、一度暴走すると制御不可能な馬を驚かせばあとは勝手に事故になると考えたのだろう男の勝ちとも言える大事故だが、アリスが死んでいなかったことで失敗となった。それを知ったオリヴィアは今どうしているのだろうかと考えるもすぐにかぶりを振って大きく息を吐き出す。オリヴィアのあの悪鬼のような表情を思い出すだけで憂鬱になってしまう。
「公開処刑だろうね。見に行く?」
「……冗談よね?」
「もちろん」
冗談じゃないとも言わなかったセシルに悪趣味だと目だけで訴えるも笑顔が返ってくるだけ。
公開絞首刑を見に行くのはあまりにも悪趣味すぎる。これから絞首刑にかけられる者が台に立ち、後ろ手を縛られ首に縄をかけられる。死刑を宣告され、これからかけられる刑に怯えて奇声を発し、暴言を吐き散らす。そして床が開いて身体が落ち、骨が折れる音と共に小さな呻き声がして身体が痙攣によって揺れ動く。
そんな様を見たいと思うことは一瞬だってない。見たくはないが、心のどこかでオリヴィアがそうなってくれれば安心できるという思いがないわけではない。国を失い、財を失ったオリヴィアの願いを聞き入れてくれる者など存在しない可能性は高くともゼロという確信もない以上は安心もできない。もし、こうなったら自分の手で、と考えていたら今頃ノビリスに潜伏しているかもしれない。それだけなら無駄な足掻きだが、そこでアリスがどこへ引っ越したか聞いて追いかけてこようものなら……と嫌な想像ばかりが頭を占める。
「大丈夫だよ、アリス。僕らには守護神がついてる、カイルという名のね」
「そうね」
国を捨てて逃げているだけではなく殺人教唆の容疑がかけられているオリヴィアには懸賞金がかけられる可能性がある。そうなればどこにいても気は休まらないだろう。泥棒のようにコソコソと端を歩いて生きていかなければならない生活に王女がいつまで耐えられるか。
「何かあれば僕が守るから心配しないで。そう約束したし」
「カイルという名の守護神に?」
「そう。それとご両親に」
銃を規制するノビリスで暮らすことはできないと判断して国を出た二人。武器の規制を緩めることが簡単ではないことぐらいアリスにもわかるが、カイルはアリスが国を出る日に約束した。
『お前がこの国で心穏やかに暮らせるよう、兄様が全て変えてやるからな。少しだけ外の世界を楽しんでおいで』
やると言ったらやる男だ。彼が白と言えば黒も白。だがそれは学校という小さな組織の中でだから通用したものであって、国という大きすぎる中で彼の持つカードにどれほどの効力があるのかはわからない。
それでも有言実行をモットーに生きてきたカイルは必ず何かやり遂げるとアリスは確信に近い思いがあった。
両親は妹のために国を変えようとするんじゃないと呆れていたが、カイルは反抗的な表情でそれを無視した。
「いつだって僕が君を守るから」
深刻に捉えず明るい表情を見せてくれるセシルに不安が少し和らぐ。この幸せが少しでも揺らごうものならカイルが黙ってはいない。それもあって絶対に守らなければならないものとして日々過ごしているのだが、知らなければよかったニュースにため息をつく。
「心配?」
「少しね」
「じゃあ、射撃にでも行く?」
「行かない。銃は握らないことにしてるの」
「えー、じゃあ僕が誘拐されたらもう助けてくれないの?」
「守護神がいるから大丈夫なんでしょ?」
「あの守護神は君のであって僕のじゃない。僕の守護神はアリスっていうとびきり美人な守護神だからね」
いい加減な男だと笑ってしまうもセシルといる幸せを失うことは考えられない。だからアリスは怯えず祈ることにした。オリヴィアが逮捕されることではなく、彼の笑顔が一秒でも長く続く人生でありますようにと。
ベンフィールド家はカイル以外は大歓迎だったが、アッシュバートン夫妻は恐縮しっぱなしだった。
自分たちが犯している罪に巻き込むわけにはいかないと言い続けるセシルの父親を説得したのはアリスの父親。
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アリスは意思が弱く、人に流されやすい。正しいかどうかわからない自分の意見よりも絶対的な確信を持って発言する他人の意見に合わせるほうが失敗がないと思うタイプだった。
セシルは大事なのは自分であって他人は二の次にもならず、他人よりも食事が好き。群れるよりも人に合わせない孤立を選ぶタイプだった。
側から見れば二人は正反対で合いそうにないのに、二人は互いに惹かれ合い、結婚まで決めた。
二人の婚約成立にロマンはなかった。アリスは大怪我をして頭にも身体にも包帯を巻いた状態出会ったにもかかわらず、セシルはその場でプロポーズした。それを聞いたとき、ベンフィールド夫妻は大笑いし、そこまでの愛があるなら結婚に反対する理由がないと言った。そしてアッシュバートン夫妻にもそう説明して説得にかかったのだ。
恩人を巻き込むわけにはいかない気持ちと恩人の思いを無下にすることはできない気持ちで頭を抱える父親を思い出したセシルが新聞で口元を隠して笑う。
「思い出し笑い?」
「あ、スケベだって思ったでしょ。違うから。面白い話は何度思い出しても面白いから笑うだけでそこにスケベさとかそういうのは関係ないからね」
言い訳のように捲し立てるセシルに笑いながらアリスが首を振る。
「何も言ってないよ」
「言いたげな顔してたから」
「してない」
「アリスのがスケベなんじゃない?」
「ようやく食べ頃になったクロワッサン、食べたくないって言った?」
「わー! 嘘嘘! 冗談だよ! 食べます!」
アリスは朝から慣れた手つきでクロワッサンを作っていた。今日は甘いのがいいと言うセシルの希望に合わせて、焼く前に表面にたっぷりと砂糖を振りかけてから焼いたおかげで甘い匂いがリビングまで漂っていた。焼きたてのクロワッサンは完全にサクサクではないため少し冷ましておいたパンがちょうど食べごろになった今、セシルのよく回る口がそれを遠ざける。
今もアリスは毎日パンを焼いている。セシルが毎日アリスの焼いたパンがいいと言うからだ。おかずパンもお菓子パンも両方食べたいとのわがままをアリスは叶え続けている。
「じゃあ何を思い出して笑ってたのか白状してくれる?」
「結婚認めるべきかって頭を抱えてた父さんの姿を思い出してただけだよ。僕たちの結婚に反対はなかったけど、僕たちが結婚することによってベンフィールド家を巻き込んでしまうってずーっと悩んでたんだ。でも反対すればベンフィールド公爵の気持ちをも無下にするし、家族になれることは光栄でしかないし恐縮でしかないって一ヶ月間ずーっと同じこと言ってた。あれは何度思い出しても笑える」
何十回聞いたかわからない話に呆れながらもつられて笑顔になる。
サクサクになったクロワッサンが山のように積まれた大皿をセシルの前に置くと早速一つ取って大口を開けてかぶりついた。
「んー! これこれ! どこのパン屋よりも美味しい! 妻の愛情って甘いんだね」
「その甘さは愛情じゃなくてお砂糖かけたからだよ」
「そうかな? 君は砂糖菓子のように繊細だから砂糖で出来てるのかも」
「じゃあ私はお母様から産まれたんじゃなくてお砂糖で作られたってこと?」
「そうかもね」
セシルの適当な返事に肩を揺らして笑うアリスはセシルがクロワッサンにかぶりつく度にサクサクの生地が落ちていくのを見てどうするべきか迷っていた。砂糖がついた生地が洋服につけば洗濯が大変だが、既に落ちてしまっているため今更焦ったところでどうにもならない。それでも被害を最小に抑えるために小皿を取ってくるべきかどうか。
「セシル、それあと何個食べる?」
「全部食べようと思ってるけど?」
「あと三時間もすれば夕飯だよ?」
「これはおやつだから」
セシルの底なし胃袋は成長に合わせてまだ大きくなっているのではないかと時折感じ、食べても食べてもまだ入ると言うセシルがいつしか永遠に食べ続けなければ満足できない身体になってしまうのではないかと心配している。
「そういえばカイル、ヴィンセルの側近になったんだってね。ヴィンセル・ブラックバーン王子がついに側近を決めたらしい。護衛も側近も拒み続けた彼に一体どういう心変わりがあったのか。しかも側近はあのベンフィールド公爵の嫡男であるカイル・ベンフィールド。聖フォンスでの学友を側近に選んだ理由は「彼が誰よりも優秀だから」というものらしいが、その実力はまだ他者が認められるほどのものではないというのが実情。今後の活躍に期待か……だってさ」
クロワッサンを咥えたまま新聞の一面をアリスに向けるセシルは学友が載っているという面白さにニヤつく。
アリスの結婚が決まるとカイルも進路を決めた。王子の側近になると言い出したのだ。これはヴィンセルからの提案であり、自分が脅した選択ではないと両親に説明していた。
そして今こうしてカイルの写真が新聞に載るほど注目を集めている。アリスは不思議な気分だった。
「お兄様はこの国を変えると言っていたからきっとやり遂げると思う」
「側近に国が変えられる? たかが側近だよ?」
ニヤつきながらの意地悪な言葉にアリスも似たような笑みを返す。
「お兄様が有言実行者なのはご存知?」
「もちろん知ってるよ。どんな手を使ってでも遂行するヤバい男だってこともね」
セシルも疑っているわけではない。カイルは無茶だと思うようなやり方を通し、それをやり遂げてきた。あまりの多忙さに根を上げて逃げ出した生徒会メンバーの抜けた穴を補充で埋めようとはせず、全て自分の仕事に加えてこなしてきた。学校でも家でも仕事をしない日はなく、父親にさえ飽きられるほど仕事漬けの日々を送っていた。王子の側近になればそれ以上に多忙な日々を送ることになるだろう。カイルならそれを充実した日々だと言う。そこまで想像できている。
「ヴィンセル王子はお兄様を信頼してくださってるもの」
「僕も仕事面に関しては信頼してたよ。忙しくても弱音は吐かないし、苛立ちも見せない。彼は立派な生徒会長だった」
アリスは結局、卒業まで生徒会には入らなかった。兄との約束だったから。アリスが外で仕事をするのであれば忙しさを経験するのも手だが、そうじゃないなら必要ないし足手まといだと言った。言い方に問題があると思いながらも返す言葉がなかったため頷いて了承し、卒業までセシルの専属シェフに徹した。
今もこうしてセシルのためにパンを焼く日々なのは変わらず、変わったのは理由だけ。「友達が食べたいって言ってくれるから」が「夫がねだるから」に。
多忙を極める仕事よりもアリスはこうして愛する夫のためにパンを焼く日々のほうが性に合っていた。
「ねえ、アリス知ってる? クインリーの王族が逃げたんだって」
「……クインリーってオリヴィア王女がいる国?」
「そうだね。あのわがまま放題のオリヴィア・クインリーがいる国」
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「小さい国だから国費もそう多くはなかったんじゃない? 皆が皆、アリスみたいに物欲がないわけじゃないんだよ。お金は使おうと思えばいくらでも使える」
「セシルでも?」
「僕は無理かな。アリスがこうして焼いてくれるパンがあればいいから……使っても新しいパン焼きの釜ぐらい……じゃあ、使いきれないね」
「物欲ないじゃない」
「あるとは言ってないよ」
舌を出して笑うセシルに肩を竦めては再び記事へと目を通す。
「それがバレて国民総出でデモ活動。城の中にまで国民が乗り込んで暴れ回ってるんだって」
「ひどい……」
オリヴィアが暮らす国は小国であり、人口もそう多くはない。だから王族であろうとも権力は大国の貴族のほうが強く、世界に出ればクインリーの王族とは名ばかり。
クインリーよりもベンフィールドのほうがずっと強い権力を持っている。
それほどクインリーは小さい。どれほど小さいのかは知らないが、国費を使いこんだ王族を国民が許さないのは当然だと暴動の様子が収められた写真を見ると予想以上にひどい様子だった。
「一家離散して居場所がわかってるのは国王夫妻だけみたいだね」
「王女たちは?」
「見つかってないみたい」
「ご両親が上手く隠したのかしら」
「たぶんね。娘のせいで破産したんじゃない? それなりのことやってみたいだし」
「それなりって?」
「噂によると闇カジノとかにまで手を出してたらしいし、気に入らない奴には裏から手を回して始末してたとか」
「小国の王族にそんなことできるの?」
「金さえもらえばなんでもやるって人間は多いよ」
オリヴィアの性格はかなりキツいもので、ティーナとよく似ていた。だから兄の婚約者がオリヴィアでなくて本当によかったと心から安堵している。
新聞を覗き込んでオリヴィアの記事に目を通すアリスが、ある一文に目を見開いた。
「オリヴィア王女が……死刑? 殺人、教唆……?」
国費を使い果たしたことによる破産だけであれば死刑にはならないが、オリヴィアだけ名指しで死刑と書いてあった。そこまでする人なのかと衝撃に手で口を押さえながら読み進めていくと待っていたのは信じ難い事実。
「ノビリスのベンフィールド公爵の長女アリス公女が馬車による事故で負傷した事件が収束を迎えそうだ。逮捕された男はオリヴィア王女から事故に見せかけて殺してほしいと多額の成功報酬で依頼を受けたと話している。オリヴィア王女は逮捕され次第、身柄はノビリスに移送し、判決を受けることになる」
淡々と読み上げるセシルが新聞を閉じてクロワッサンを食べ切ると「当然だろうね」と肩を竦めた。
「自分を守ってくれる国はもうない。王族であろうと他国の公爵令嬢を殺そうとしたんだから」
「あの日のことが……そんなに気に入らなかったの?」
確かにオリヴィアは怒って帰った。カイルが言った言葉で怒ったのではあるが、その前にもアリスが怒らせている。あの怒りで人を殺そうとまで思ったオリヴィアの異常性にアリスは戦慄する。
アリスがこの世で嫌いだと思った人間はただ一人、ティーナだけだが殺そうと思ったことは一度もない。
あのトランペット吹きをおかしいと思ったのは間違いではなく、やはり自分を狙ったものだったのだと確信すると余計に怖くなる。あのトランペット吹きはあの日、偶然アリスを見かけたから慌ててトランペットを吹いたのではなく、何日か何週間か前からアリスを見張ってどのルートをよく通るのか調査していた。そしてセシルもカイルも一緒ではない日を狙って決行したのだ。
死を覚悟したほどの事故。あの通りは馬車も多く、一度暴走すると制御不可能な馬を驚かせばあとは勝手に事故になると考えたのだろう男の勝ちとも言える大事故だが、アリスが死んでいなかったことで失敗となった。それを知ったオリヴィアは今どうしているのだろうかと考えるもすぐにかぶりを振って大きく息を吐き出す。オリヴィアのあの悪鬼のような表情を思い出すだけで憂鬱になってしまう。
「公開処刑だろうね。見に行く?」
「……冗談よね?」
「もちろん」
冗談じゃないとも言わなかったセシルに悪趣味だと目だけで訴えるも笑顔が返ってくるだけ。
公開絞首刑を見に行くのはあまりにも悪趣味すぎる。これから絞首刑にかけられる者が台に立ち、後ろ手を縛られ首に縄をかけられる。死刑を宣告され、これからかけられる刑に怯えて奇声を発し、暴言を吐き散らす。そして床が開いて身体が落ち、骨が折れる音と共に小さな呻き声がして身体が痙攣によって揺れ動く。
そんな様を見たいと思うことは一瞬だってない。見たくはないが、心のどこかでオリヴィアがそうなってくれれば安心できるという思いがないわけではない。国を失い、財を失ったオリヴィアの願いを聞き入れてくれる者など存在しない可能性は高くともゼロという確信もない以上は安心もできない。もし、こうなったら自分の手で、と考えていたら今頃ノビリスに潜伏しているかもしれない。それだけなら無駄な足掻きだが、そこでアリスがどこへ引っ越したか聞いて追いかけてこようものなら……と嫌な想像ばかりが頭を占める。
「大丈夫だよ、アリス。僕らには守護神がついてる、カイルという名のね」
「そうね」
国を捨てて逃げているだけではなく殺人教唆の容疑がかけられているオリヴィアには懸賞金がかけられる可能性がある。そうなればどこにいても気は休まらないだろう。泥棒のようにコソコソと端を歩いて生きていかなければならない生活に王女がいつまで耐えられるか。
「何かあれば僕が守るから心配しないで。そう約束したし」
「カイルという名の守護神に?」
「そう。それとご両親に」
銃を規制するノビリスで暮らすことはできないと判断して国を出た二人。武器の規制を緩めることが簡単ではないことぐらいアリスにもわかるが、カイルはアリスが国を出る日に約束した。
『お前がこの国で心穏やかに暮らせるよう、兄様が全て変えてやるからな。少しだけ外の世界を楽しんでおいで』
やると言ったらやる男だ。彼が白と言えば黒も白。だがそれは学校という小さな組織の中でだから通用したものであって、国という大きすぎる中で彼の持つカードにどれほどの効力があるのかはわからない。
それでも有言実行をモットーに生きてきたカイルは必ず何かやり遂げるとアリスは確信に近い思いがあった。
両親は妹のために国を変えようとするんじゃないと呆れていたが、カイルは反抗的な表情でそれを無視した。
「いつだって僕が君を守るから」
深刻に捉えず明るい表情を見せてくれるセシルに不安が少し和らぐ。この幸せが少しでも揺らごうものならカイルが黙ってはいない。それもあって絶対に守らなければならないものとして日々過ごしているのだが、知らなければよかったニュースにため息をつく。
「心配?」
「少しね」
「じゃあ、射撃にでも行く?」
「行かない。銃は握らないことにしてるの」
「えー、じゃあ僕が誘拐されたらもう助けてくれないの?」
「守護神がいるから大丈夫なんでしょ?」
「あの守護神は君のであって僕のじゃない。僕の守護神はアリスっていうとびきり美人な守護神だからね」
いい加減な男だと笑ってしまうもセシルといる幸せを失うことは考えられない。だからアリスは怯えず祈ることにした。オリヴィアが逮捕されることではなく、彼の笑顔が一秒でも長く続く人生でありますようにと。
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全7話の短編です 完結確約です。
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