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ダンスパーティー2
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「知り合いでしたの?」
「カイル様と?」
婚約者の反応に二人が笑顔で頷く。
「カイル様はミラネス家と親交を持っていてね」
「俺がじゃない、ベンフィールド公爵がだ」
「ですが、いつもカイル様も同行されているではありませんか」
「豪商と呼ばれる君たちのお父上の手腕には興味があってね」
「ベンフィールド公爵より積極的に話をされていますよね」
「豪商と呼ばれるだけあってあの膨大な知識量と顔の広さには脱帽するばかりだ。足を運ぶ甲斐がありすぎる」
「父も喜んでいました。年寄りの昔話をあんなに熱心に聞いてくれる若者は他にはいないと」
「もっと若者に聞かせるべきだよ。興味深い話ばかりだからね」
「伝えておきます」
ナディアたちは婚約者に何度もアリスの話をした。アリスの話だけではなくカイルの話も。ベンフィールドという名前も当然出したのに二人はなんの反応も見せなかった。いつも笑顔で頷いて聴き役に徹してくれていた。
「まさか知り合いだったなんて……」
「どうして何も言ってくれませんでしたの?」
「懇意にしてるんだと言ったほうがよかったかい?」
「知りたかったですわ。だってそのほうが話が広がりますもの」
「君がよく話すアリス嬢と面識がなくてもかい?」
「でもお兄様のカイル様とわたくしたちは面識がありましてよ」
「そうだね。ごめん、次からはちゃんと話すよ」
どっちがどっちなのか、自己紹介をされても一眼では判断がつかない。
ナディアが話している相手がエックハルト、アリシアが話しているのがディートハルトと思うしかない。
「お兄様」
「ん?」
小声でかけられた声にカイルが身を屈めて耳を寄せる。
「見分けがついてるんですか?」
「ああ」
「見分け方を教えてください」
「瞳の色だ」
「瞳の色……」
言われた通りに見ても二人とも同じ色をしているようにしか見えない。
「エックハルトがホリゾンブルー、ディートハルトがスカイブルーだ」
「わかりません」
「よく見ればわかる」
「人の婚約者をそんなにジロジロ見れません」
「惚れられても困るしな」
そういうことではないと言おうと口を開きかけてやめた。
カイルの目には違った色に見えるのだろうが、アリスの目には同じ色にしか見えない。
何度瞬きをしようと、一度顔を逸らしてからもう一度見ようとも変わらない。
個人的に会うことはないためわからなくてもいいかと心の中で開き直って考えるのをやめた。
「ダンスは終わったのか?」
「ええ、さっき踊っていました」
「気付かなかったな」
「妹さんしか見てなかったですからね」
「いつも可愛いが今日は特別可愛くてな」
「よかったですね」
同意はしない。以前、ミラネス家で会ったとき、カイルがあまりにもアリスを自慢するものだからディートハルトは『会ってみたい』と言ったことがある。それはアリスがどういう女性か気になったからではなく、カイル・ベンフィールドが溺愛している妹を見たかった好奇心なだけ。それなのにカイルは『許さん』と言い放った。それもなかなかに圧を込めて。
殺気すら感じたそのとき気付いた。カイル・ベンフィールドはヤバい奴だと。
だからディートハルトはなんとも思っていないと、狙ってなどいないんだと証明するため──いや、絡まれないために同意はしないことを決めていた。
「向こうで少し話さないか?」
「いいですね。アリシア、いいかい?」
「ええ、もちろんですわ。でも帰りは一緒ですからね。カイル様と帰っては嫌ですわよ」
「もちろんだよ、ボクの美しい婚約者」
「ふふっ、待ってますわ」
見ているだけで口から砂が出そうになるほど甘い雰囲気を一瞬で作り上げてしまう二人は小説から抜け出してきたのではないかと思った。
「エックハルト、一緒に行こう」
「先に行っててくれ」
エックハルトの目はディートハルトではなくセシルに向いていた。
一歩二歩と近付いてくるエックハルトを随分と見上げることが癪なのか、セシルの表情に穏やかさはない。
「エックハルト?」
何を言うつもりだと不安げに声をかけるナディアに振り返りはせず、真っ直ぐセシルを見つめたまま口を開いた。
「セシル・アッシュバートン様、ですね?」
「そうだけど」
一度だけ頷いたエックハルトはその場で深く勢いよく頭を下げた。
表情が強張っていただけに文句でも言うつもりかと思っていたセシルも驚きを隠せず目を瞬かせる。
「この度はナディアが大変失礼な態度を取り続けましたこと、婚約者の私からもお詫びします」
「謝る相手が違う。僕じゃなくてアリス。彼女は身勝手な理由でアリスを無視してたんだから」
セシルの指摘にエックハルトはハッとし慌ててアリスに向いて再び頭を下げた。
「ナディアの幼稚さのせいで貴女を傷つけてしまいましたこと、お詫びします。申し訳ありませんでした」
「エックハルトやめて! こんなところでそんなことしないで!」
慌てて止めに入るナディアを無視してエックハルトはまだ頭を下げた。
「ナディア、君はわかってない。君の幼稚さがまた人を傷つけるかもしれないということを。許してもらえれば終わりじゃない。君がしたことはなかったことにはならないんだよ」
身体を起こして身体を向けたエックハルトの言葉に眉を下げるナディアを見てエックハルトも眉を下げる。
「してしまったことは仕方ないなんて綺麗事は言わない。友人だと言っていた相手を身勝手に傷つけるなんて許されることじゃない。謝ったほうはいい、許されれば終わりにできるんだから。でも傷付けられたほうはそうはいかない。一生心に傷を残すこともあるんだよ」
「あ、あの、ここでお説教は──」
ダンスパーティーの会場で話すことではないと止めようとするアリスの腕をセシルが掴んで止める。
「どうして?」
「君が言えないことだから、僕が言っちゃいけないことだから、彼が言うんだよ」
「私は望んでない。私たちの問題なのに……」
「これからの彼女の問題でもあるから婚約者として言うんだよ」
「でも何も今言わなくても」
「それはそうなんだけどね」
出会いを見つけて参加した者や異性とのダンスに胸をときめかせている者は大勢いる。そんな場所で婚約者に説教をすることは褒められたこととは言えない。
レディに恥をかかせる行為は紳士のルールに反する。いくら婚約者であろうとも。
「彼にも謝ったのかい?」
「いえ……」
「彼にも謝るんだ。ちゃんと頭を下げて」
エックハルトが頭を下げたことで注目を浴びる中、頭を下げろと言われることにナディアは戸惑っていた。
「ナディア、君はこれからもそうやって謝って全て解決したように振る舞うつもりかい?」
「そんなつもりはありませんわ」
「だったら今ここで証明しないと君の信頼は回復できないよ」
「私は気にしていませんから」
「いえ、これはナディアの問題なんです」
言いきったエックハルトに思わず眉を寄せたアリスはセシルの手を振り払って前に出た。
「ほら、ナディア」
「ア、アリス……セシル様……その……」
「やめてください」
戸惑いながらも謝ろうとするナディアが頭を下げる前に腕に触れて顔はエックハルトに向ける。
「公衆の面前で婚約者に頭を下げさせるなんて侮辱は許しません」
「これは侮辱ではありません」
「紳士は淑女を守る者。恥をかかせる者ではありません」
「謝ることは恥ではありません。ナディアはまだ幼稚な部分があって、将来のために言っているだけです」
「このような場で侯爵令嬢に頭を下げさせることが彼女の将来のためになると本気でおっしゃっているのですか?」
「爵位は関係ありません。人として──」
「人として彼女は真に反省し、私に謝ってくれました。ちゃんと頭を下げて。謝ることは恥ではありませんが、大勢の者が集まる場で無意味に頭を下げさせられることは恥でしかありません」
わからないという顔を見せるエックハルトにアリスは怪訝な表情を向ける。
人として頭を下げて謝ることは間違いでなくとも、ここで頭を下げて謝ることは間違いでしかないとアリスは断言できる。頭を下げることが多い商人にとって頭を下げて謝るのは普通だとしてもそれを押し付けることも間違いだと拳を握った。
「彼女が謝り、私が許せば問題は終わるんです。話を聞いたあなたやセシルが気分を害したとしても二人は無関係。謝意を表するために頭を下げさせるなんて婚約者であろうと許される行為ではありません」
アリスの声に含まれる怒気は少しカイルと似ている。無関係、許されないとハッキリと言いきるアリスにエックハルトは唇を噛んで言葉を飲み込んだ。
「ナディア様、どうかこのような場所で頭を下げようなどと思わないでください」
「でも……あなたを傷付けてしまったことは確かですもの」
「もう終わったことです。私はナディア様を恨んでもいませんし、これからも仲良くお茶がしたいです。ちゃんと謝ってくださったじゃないですか。それで終わり。それでいいんです」
ナディアがティーナにアリスの髪を切るよう吹っかけたのであればアリスはナディアを許しはしないが、そうじゃない。ナディアは個人的に無視をしていただけ。アリシアに強要しようとしていたが、アリシアが聞かなかった。そしてアリスにもさほど効果はなかった。
学校に行けなくなるほどのショックを与えたわけでもないのに公衆の面前で侯爵令嬢が頭を下げる必要はない。
「エックハルト、立場を弁えろ。俺たちは貴族じゃないんだぞ。婚約者だろうと勝手は許されない」
兄弟でさえ庇いはしなかった。
豪商は貴族と変わりない地位を持っているといえど爵位がなければ貴族ではない。それをディートハルトはわかっている。
グッと拳を握ったエックハルトはナディアに「すまない」と頭を下げた。
「ごめんなさい、アリス。今日は帰りますわね」
「え……そんな、帰る必要なんて──」
「嫌な注目を浴びてしまいましたもの。帰りますわ。わたくし、プライドが高いんですの。どうせ浴びるなら羨望の眼差しがいいですわ」
ナディアの腕を取って馬車が待つ外へと一緒に向かったアリシアの後ろをディートハルトが追いかけ、エックハルトはその後ろをついていった。
「正解だろうね」
「そうかな……」
「なんでもない顔で参加し続けることは可能だけど、納得していない者がいる状態では心ここにあらずになりそうだし。アリシア嬢は賢いと思うよ」
「せっかく楽しみにしていたのに」
楽しみだと何十回も口にしていた二人が早々に帰ることになってしまった残念さにアリスは眉を下げる。
「アリスにしては結構な噛み付き具合だったね」
あそこまでハッキリ言いきると思っていなかったセシルが一番驚いたのはそこだった。
「……私、最低なことを言おうとした」
「最低なことって?」
「ナディア様の気持ちが一時的にでもセシルに向いた嫉妬から恥をかかせようとしてるんじゃないかって……」
「それこそ侮辱だね」
「だよね……」
「でも言わなかったんだから結果オーライだよ。よく頑張りました」
子供の頭を撫でるように髪に手を滑らせるセシルに眉を下げたまま笑うと大きく息を吐き出した。
「緊張したぁ……。心臓がおかしくなりそう」
人に文句を言うことに慣れていないアリスは咄嗟に出てしまったせいで引っ込みがつかなくなっていた。あのままエックハルトと口論になっていたら膝まで震えていたかもしれないと異常に速く動く心臓の鼓動を感じながら震える手を見つめる。
その手を軽く握ったセシルはダンスポーズを取った。
「同じ人と二回踊るのってマナー違反だっけ?」
「三回ね」
「じゃあセーフだ」
カイルと踊るのは心地良いが、セシルと踊るのは楽しい。
だが、アリスの頭の中はナディアとエックハルトのことでいっぱいだった。
「カイル様と?」
婚約者の反応に二人が笑顔で頷く。
「カイル様はミラネス家と親交を持っていてね」
「俺がじゃない、ベンフィールド公爵がだ」
「ですが、いつもカイル様も同行されているではありませんか」
「豪商と呼ばれる君たちのお父上の手腕には興味があってね」
「ベンフィールド公爵より積極的に話をされていますよね」
「豪商と呼ばれるだけあってあの膨大な知識量と顔の広さには脱帽するばかりだ。足を運ぶ甲斐がありすぎる」
「父も喜んでいました。年寄りの昔話をあんなに熱心に聞いてくれる若者は他にはいないと」
「もっと若者に聞かせるべきだよ。興味深い話ばかりだからね」
「伝えておきます」
ナディアたちは婚約者に何度もアリスの話をした。アリスの話だけではなくカイルの話も。ベンフィールドという名前も当然出したのに二人はなんの反応も見せなかった。いつも笑顔で頷いて聴き役に徹してくれていた。
「まさか知り合いだったなんて……」
「どうして何も言ってくれませんでしたの?」
「懇意にしてるんだと言ったほうがよかったかい?」
「知りたかったですわ。だってそのほうが話が広がりますもの」
「君がよく話すアリス嬢と面識がなくてもかい?」
「でもお兄様のカイル様とわたくしたちは面識がありましてよ」
「そうだね。ごめん、次からはちゃんと話すよ」
どっちがどっちなのか、自己紹介をされても一眼では判断がつかない。
ナディアが話している相手がエックハルト、アリシアが話しているのがディートハルトと思うしかない。
「お兄様」
「ん?」
小声でかけられた声にカイルが身を屈めて耳を寄せる。
「見分けがついてるんですか?」
「ああ」
「見分け方を教えてください」
「瞳の色だ」
「瞳の色……」
言われた通りに見ても二人とも同じ色をしているようにしか見えない。
「エックハルトがホリゾンブルー、ディートハルトがスカイブルーだ」
「わかりません」
「よく見ればわかる」
「人の婚約者をそんなにジロジロ見れません」
「惚れられても困るしな」
そういうことではないと言おうと口を開きかけてやめた。
カイルの目には違った色に見えるのだろうが、アリスの目には同じ色にしか見えない。
何度瞬きをしようと、一度顔を逸らしてからもう一度見ようとも変わらない。
個人的に会うことはないためわからなくてもいいかと心の中で開き直って考えるのをやめた。
「ダンスは終わったのか?」
「ええ、さっき踊っていました」
「気付かなかったな」
「妹さんしか見てなかったですからね」
「いつも可愛いが今日は特別可愛くてな」
「よかったですね」
同意はしない。以前、ミラネス家で会ったとき、カイルがあまりにもアリスを自慢するものだからディートハルトは『会ってみたい』と言ったことがある。それはアリスがどういう女性か気になったからではなく、カイル・ベンフィールドが溺愛している妹を見たかった好奇心なだけ。それなのにカイルは『許さん』と言い放った。それもなかなかに圧を込めて。
殺気すら感じたそのとき気付いた。カイル・ベンフィールドはヤバい奴だと。
だからディートハルトはなんとも思っていないと、狙ってなどいないんだと証明するため──いや、絡まれないために同意はしないことを決めていた。
「向こうで少し話さないか?」
「いいですね。アリシア、いいかい?」
「ええ、もちろんですわ。でも帰りは一緒ですからね。カイル様と帰っては嫌ですわよ」
「もちろんだよ、ボクの美しい婚約者」
「ふふっ、待ってますわ」
見ているだけで口から砂が出そうになるほど甘い雰囲気を一瞬で作り上げてしまう二人は小説から抜け出してきたのではないかと思った。
「エックハルト、一緒に行こう」
「先に行っててくれ」
エックハルトの目はディートハルトではなくセシルに向いていた。
一歩二歩と近付いてくるエックハルトを随分と見上げることが癪なのか、セシルの表情に穏やかさはない。
「エックハルト?」
何を言うつもりだと不安げに声をかけるナディアに振り返りはせず、真っ直ぐセシルを見つめたまま口を開いた。
「セシル・アッシュバートン様、ですね?」
「そうだけど」
一度だけ頷いたエックハルトはその場で深く勢いよく頭を下げた。
表情が強張っていただけに文句でも言うつもりかと思っていたセシルも驚きを隠せず目を瞬かせる。
「この度はナディアが大変失礼な態度を取り続けましたこと、婚約者の私からもお詫びします」
「謝る相手が違う。僕じゃなくてアリス。彼女は身勝手な理由でアリスを無視してたんだから」
セシルの指摘にエックハルトはハッとし慌ててアリスに向いて再び頭を下げた。
「ナディアの幼稚さのせいで貴女を傷つけてしまいましたこと、お詫びします。申し訳ありませんでした」
「エックハルトやめて! こんなところでそんなことしないで!」
慌てて止めに入るナディアを無視してエックハルトはまだ頭を下げた。
「ナディア、君はわかってない。君の幼稚さがまた人を傷つけるかもしれないということを。許してもらえれば終わりじゃない。君がしたことはなかったことにはならないんだよ」
身体を起こして身体を向けたエックハルトの言葉に眉を下げるナディアを見てエックハルトも眉を下げる。
「してしまったことは仕方ないなんて綺麗事は言わない。友人だと言っていた相手を身勝手に傷つけるなんて許されることじゃない。謝ったほうはいい、許されれば終わりにできるんだから。でも傷付けられたほうはそうはいかない。一生心に傷を残すこともあるんだよ」
「あ、あの、ここでお説教は──」
ダンスパーティーの会場で話すことではないと止めようとするアリスの腕をセシルが掴んで止める。
「どうして?」
「君が言えないことだから、僕が言っちゃいけないことだから、彼が言うんだよ」
「私は望んでない。私たちの問題なのに……」
「これからの彼女の問題でもあるから婚約者として言うんだよ」
「でも何も今言わなくても」
「それはそうなんだけどね」
出会いを見つけて参加した者や異性とのダンスに胸をときめかせている者は大勢いる。そんな場所で婚約者に説教をすることは褒められたこととは言えない。
レディに恥をかかせる行為は紳士のルールに反する。いくら婚約者であろうとも。
「彼にも謝ったのかい?」
「いえ……」
「彼にも謝るんだ。ちゃんと頭を下げて」
エックハルトが頭を下げたことで注目を浴びる中、頭を下げろと言われることにナディアは戸惑っていた。
「ナディア、君はこれからもそうやって謝って全て解決したように振る舞うつもりかい?」
「そんなつもりはありませんわ」
「だったら今ここで証明しないと君の信頼は回復できないよ」
「私は気にしていませんから」
「いえ、これはナディアの問題なんです」
言いきったエックハルトに思わず眉を寄せたアリスはセシルの手を振り払って前に出た。
「ほら、ナディア」
「ア、アリス……セシル様……その……」
「やめてください」
戸惑いながらも謝ろうとするナディアが頭を下げる前に腕に触れて顔はエックハルトに向ける。
「公衆の面前で婚約者に頭を下げさせるなんて侮辱は許しません」
「これは侮辱ではありません」
「紳士は淑女を守る者。恥をかかせる者ではありません」
「謝ることは恥ではありません。ナディアはまだ幼稚な部分があって、将来のために言っているだけです」
「このような場で侯爵令嬢に頭を下げさせることが彼女の将来のためになると本気でおっしゃっているのですか?」
「爵位は関係ありません。人として──」
「人として彼女は真に反省し、私に謝ってくれました。ちゃんと頭を下げて。謝ることは恥ではありませんが、大勢の者が集まる場で無意味に頭を下げさせられることは恥でしかありません」
わからないという顔を見せるエックハルトにアリスは怪訝な表情を向ける。
人として頭を下げて謝ることは間違いでなくとも、ここで頭を下げて謝ることは間違いでしかないとアリスは断言できる。頭を下げることが多い商人にとって頭を下げて謝るのは普通だとしてもそれを押し付けることも間違いだと拳を握った。
「彼女が謝り、私が許せば問題は終わるんです。話を聞いたあなたやセシルが気分を害したとしても二人は無関係。謝意を表するために頭を下げさせるなんて婚約者であろうと許される行為ではありません」
アリスの声に含まれる怒気は少しカイルと似ている。無関係、許されないとハッキリと言いきるアリスにエックハルトは唇を噛んで言葉を飲み込んだ。
「ナディア様、どうかこのような場所で頭を下げようなどと思わないでください」
「でも……あなたを傷付けてしまったことは確かですもの」
「もう終わったことです。私はナディア様を恨んでもいませんし、これからも仲良くお茶がしたいです。ちゃんと謝ってくださったじゃないですか。それで終わり。それでいいんです」
ナディアがティーナにアリスの髪を切るよう吹っかけたのであればアリスはナディアを許しはしないが、そうじゃない。ナディアは個人的に無視をしていただけ。アリシアに強要しようとしていたが、アリシアが聞かなかった。そしてアリスにもさほど効果はなかった。
学校に行けなくなるほどのショックを与えたわけでもないのに公衆の面前で侯爵令嬢が頭を下げる必要はない。
「エックハルト、立場を弁えろ。俺たちは貴族じゃないんだぞ。婚約者だろうと勝手は許されない」
兄弟でさえ庇いはしなかった。
豪商は貴族と変わりない地位を持っているといえど爵位がなければ貴族ではない。それをディートハルトはわかっている。
グッと拳を握ったエックハルトはナディアに「すまない」と頭を下げた。
「ごめんなさい、アリス。今日は帰りますわね」
「え……そんな、帰る必要なんて──」
「嫌な注目を浴びてしまいましたもの。帰りますわ。わたくし、プライドが高いんですの。どうせ浴びるなら羨望の眼差しがいいですわ」
ナディアの腕を取って馬車が待つ外へと一緒に向かったアリシアの後ろをディートハルトが追いかけ、エックハルトはその後ろをついていった。
「正解だろうね」
「そうかな……」
「なんでもない顔で参加し続けることは可能だけど、納得していない者がいる状態では心ここにあらずになりそうだし。アリシア嬢は賢いと思うよ」
「せっかく楽しみにしていたのに」
楽しみだと何十回も口にしていた二人が早々に帰ることになってしまった残念さにアリスは眉を下げる。
「アリスにしては結構な噛み付き具合だったね」
あそこまでハッキリ言いきると思っていなかったセシルが一番驚いたのはそこだった。
「……私、最低なことを言おうとした」
「最低なことって?」
「ナディア様の気持ちが一時的にでもセシルに向いた嫉妬から恥をかかせようとしてるんじゃないかって……」
「それこそ侮辱だね」
「だよね……」
「でも言わなかったんだから結果オーライだよ。よく頑張りました」
子供の頭を撫でるように髪に手を滑らせるセシルに眉を下げたまま笑うと大きく息を吐き出した。
「緊張したぁ……。心臓がおかしくなりそう」
人に文句を言うことに慣れていないアリスは咄嗟に出てしまったせいで引っ込みがつかなくなっていた。あのままエックハルトと口論になっていたら膝まで震えていたかもしれないと異常に速く動く心臓の鼓動を感じながら震える手を見つめる。
その手を軽く握ったセシルはダンスポーズを取った。
「同じ人と二回踊るのってマナー違反だっけ?」
「三回ね」
「じゃあセーフだ」
カイルと踊るのは心地良いが、セシルと踊るのは楽しい。
だが、アリスの頭の中はナディアとエックハルトのことでいっぱいだった。
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