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好きと憧れ
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家に帰ったアリスは好きと憧れの違いを考えていた。
アリスは入学当初からヴィンセル・ブラックバーンを好きだった。正確には好きだと思っていた。
実際に話をする機会があり、ドキドキしてたまらなかった。
食事会に招かれたときなど足が地に着いているかもわからないほど舞い上がっていたのだが、ヴィンセルの気持ちを知って気持ちが落ちてしまった。
本当に好きなのであればショックを受けても諦めきれずに追い続けるのではないかと思うアリスにとってヴィンセルを目で追うこともしないこの落ち着いた感情は所詮憧れでしかなかったのだろうかと思ってしまう。
もう長らくヴィンセルとは会話をしていない。それでも恋しくならないのは気持ちが冷めてしまったからなのか。それとも最初から恋ではなかったからだろうかとベッドに寝転びながら天井を見上げて考える。
「アリス」
ノックの音の後に聞こえた母親の声に身を起こしたアリスはドアに寄って扉を開けた。
「どうしたの?」
母親が部屋を訪ねてくるのは珍しく、何か重要な話だろうかと首を傾げると「入っていい?」と言われたため中へ通す。
「学校で何かあった?」
唐突な問いかけに目を瞬かせるもすぐに苦笑へと変わり、アリスはどう答えようか少し迷っていた。
「カイルに相談できること?」
「相談するようなことではないの」
「じゃあ、お母さんに相談してみない?」
母親に相談するほどのことでもないと思ったが、またベッドに寝転んで天井を見上げていたところで答えなど出てこない。
人生の先輩であり、親友でもある母親に相談したほうがまだ答えが見つかるかもしれないと思った。
「喧嘩というか、お友達を怒らせてしまって……」
「あら、どうして?」
「セシルを覚えてるでしょ?」
「ええ、もちろん。婿候補だもの」
「もう……」
セシルを家に呼んだ日、両親が受けた印象は好感触だったらしく、特に母親はセシルが婿に来てもいいとノリ気だった。
アリスにまだその気がないため話し合いにはなっていないのだが、既に聞き飽きた感がある。
「アボット家のナディアご令嬢を知ってる?」
「ええ、あの気立の良い娘ね」
「そうなの。とても優しくて明るくて太陽のような方よ」
「その太陽のような子を怒らせたの? カッカッしたんじゃない?」
「お母様、楽しんでるでしょ」
娘の異変に気付いて部屋を訪ねてきたはずの母親の表情はなぜか嬉しそうで、アリスは下げていた眉を寄せる。
「あなたがティーナ以外のお友達のことで悩んでるのが嬉しいのよ」
「悩んでるのに?」
「悩むのは良いことよ。何が悪くて、どうすればいいのか、何をすべきなのかを考える。一つ一つ答えを見つけていくことが成長へと繋がるんだもの」
「私はまだ成長できてないってこと?」
「まあ、そうね。あなたはずっとカイルの後ろに隠れていたから自分で解決したことがなかった。これからよね」
親から見てもそうだったとアリスはため息をつく。
過去を振り返ってみると自分はいつもカイルの後ろに隠れていた。そうすることで人生を楽に生きられたから。
でもそれではダメなのだ。来年からカイルはいない。いつもそう。自分が三年生になった一年、カイルはいない。それでもやってこれたのだから、カイルの後ろに隠れている理由などありはしないのに、いつも逃げてしまう。
親に兄の後ろに隠れ続けている妹と思われているのは嫌だった。
「ナディア様はね、セシルが好きなの。好きというか、推し?というか……好き、なのかな……」
アリシアが言っていた。超えてはならない一線を超えてしまったと。それは今まで推しというだけだった想いが好きへと変化したということで、だからこそハッキリ決めない自分に怒りを抱いていたのかもしれないとアリスは思った。
「リオちゃんがティーナにオレンジジュースをかけられてびしょ濡れになってたの。そのまま保健室に行くのは気持ち悪いからって花壇にあるホースで水浴びしたらしいんだけど、どうしてか……そのまま抱きしめられちゃって……」
娘がリオに抱きしめられたと聞いても母親は驚きはしなかった。むしろそれはいつか起こるべきことだったと言わんばかりに頷いている。
「リオはあなたのこと大好きだもの。子供の頃からずーっとね」
「そう、だね」
リオの母親からも言われ、リオがすぐ顔を赤くすることからも気持ちは伝わってくる。だが、今はそれに応えることはできない。
アリスの気持ちはまだ誰にも向いていないのだ。
「それで? セシルに申し訳ないと思わないのかって言われた?」
「どう、して……?」
エスパーかと思うほどドンピシャで当てた母親にアリスは目を見開く。
「ありがちな言葉よね。長く片思いをしてるだけの女がよく言う台詞なの。私のほうが彼を知ってる。あなたは相応しくない。ちょっと親しくしてるからって調子に乗るな。彼も、あの彼もってイイ顔するな。尻軽、売女、娼婦。彼に申し訳ないと思わないのか。あなたと一緒にいると彼の評価が下がる。色々言われたわ」
ナディアはそこまで酷いことは言ってないし、きっと言わない。ドリスなら言いかねないが。
「あなたは何か言ったの?」
「ううん。言ったのは双子のアリシア様なの。前にティーナが私に誰にでもイイ顔するなんて最低だって言ったの。それを持ち出して、今のナディア様はティーナと同じだって」
「あら、良い返しね」
「ナディア様泣いてた」
「ティーナと同じって言われて泣かない子はいないと思うわ」
それにはアリスも同意する。
「ねえ、お母様はどうしてお父様と一緒になろうと思ったの?」
「だって、あんな熱烈なプロポーズされたら受けるしかないでしょ?」
「プロポーズが熱烈じゃなかったら受けなかったってこと?」
「そういうのが気になる年頃になったのね」
またからかうような言い方をする母親にアリスは不満を訴えるように肩頬を膨らませる。
「あの強烈さは確かに決め手ではあった。私は親に泣かれるぐらい尻軽だったしね」
「あ、うん……それは……」
聞きたくなかった。
「男は選び放題だったけど、最終的な決めては地位でも名誉でもなく、この人と一緒に歳を取りたいと思ったこと。この人が杖をついてヨボヨボになったとき、同じ姿で隣を歩く自分を想像するの。その相手がお父様だったって感じかな」
「杖をついてヨボヨボ……」
「アリスはまだ想像できないわよね。自分の気持ちがわからないときはそうやって想像してみるのもいいわよ。もちろんそれだけじゃダメだろうけど。価値観が同じか、子育て論は同じか、両親と妻のどっちを取るか、たくさん話をしなきゃダメ。私がそれに気付いたのは結婚してからだった」
「合わなかったの?」
「両親の味方をすることも多かったかな。そんなときはいつも夫に言ったわ。じゃあ両親と暮らせば?って」
母親が気の強い女であることは知っていたが、まさか夫を追い出すような言葉を吐く人だとは思っていなかった。
父親も気の弱い人間ではない。たまに言い合いをして母親を負かしていることがあるが、基本的には尻に敷かれている。
「そ、それで、お父様はなんて言ったの?」
「両親は私の大事な家族だって大声で言うから、あなたが守るべき家族は私でしょうが!って怒鳴って十発ほど枕で叩いたの」
アリスには「叩いた」が「殴った」に聞こえた。
今までも何度か父親が母親にクッションでボコボコにされるのを見てきただけに、叩いたでは済んでいないことは容易に想像がつく。怒鳴りながらなら余計に。
「そういうことをちゃんと話し合える相手にしなさいね」
「んー……参考にする」
「焦ることないわ。セシルでもリオでもその他でもいいじゃない」
「なんか申し訳なくて……ナディア様の言うことも一理あるなぁって……」
モテとは縁遠い人生だったアリスにとって今の状況は異常と言える。
面と向かって好きだと言われたのはセシルだけで、リオはそうなんだろうなと確信があるだけ。
ヴィンセルに至っては自分が憧れを抱いていただけで、実際は大した感情ではなかったように感じている。
セシルに向けられるままそれに甘んじていていいのだろうかという焦りもあった。
「私は彼女の言葉は嫉妬からきてるんだと思うわ」
「アリシア様もそう言ってた」
「でもね、こればっかりは相手から気持ちが向いてるから応えるってわけにはいかないのよね」
「うん……」
「それはナディアもわかってると思うわ」
「うん」
「お友達に言われたからって焦らなくていいのよ。大事なのはお友達と仲直りするために急いで結論を出すことじゃなくて、あなたがちゃんと悩んで考えて出した気持ちを相手に伝えることなんだから」
「わからないの。憧れと恋の違いが。どっちもドキドキするでしょ? でもそのドキドキが恋なのか、憧れなのかわからないの」
「恋をしているの?」
「……わからない」
ヴィンセルと接近する前は毎日と言っても過言ではないほど妄想に励んでいた。
デートをしたり手を繋いだりキスをしたり。結婚式も挙げたし、初夜を過ごし、そして子供まで。
だが、今はそれがない。
「恋愛関係にある人は皆すごいなぁって思うの。自分が好きになった人に好きになってもらえる確率って絶対高くないのに、恋人になれる人がいるんだもん。それだけでもすごいのに結婚して、ずーっと愛を囁き合うって……もう未知の世界だわ」
恋と憧れの区別もつかない自分には夫婦として誰かと生きるなんて夢のまた夢だとアリスは思う。
「憧れか恋かなんて分ける必要ある?」
母親の言葉にアリスは目を丸くする。
「だって、好きな人に憧れるなんてよくある話でしょ? 私は夫を愛しているけど、同時に憧れでもあるのよ。けして弱音を吐かない、弱さを見せない彼の強さに憧れてる。私もそういう人間になりたいって思うし、あの強さをずっと傍で見ていたいとも思ってる。若い頃もそうよ。憧れの女性の傍にいるとドキドキした。緊張なのかなんなのかわからない感情に彼女のこと好きなのかもって思うこともあったわ」
「違ったの?」
「考えないことにしただけ。それが憧れでも恋でもどっちでもいいって思ったの。そう思う相手のことは大事にしようって気持ちに切り替えた。だってこれは恋で、これは憧れ、なんて決めるのバカバカしいじゃない。憧れも恋も共通してる感情はその人を素敵だって思ってるってこと。そんな小さなことで悩んで時間をムダにするなんておバカなことはしないように。境界線なんて曖昧なものに迷ってる暇ないもの。時間は有限。人生も有限。頭を使うのは考えるべきことを考えるときだけいい。これが憧れか恋かわからない、じゃなくて、誰が好きなのかわからない、だったらたくさん悩みなさい」
両手で頬を包まれると良い香りがする。母親の使っているハンドクリームの香りだ。
目を閉じてその香りを胸いっぱいに吸い込むとアリスはいつもリラックスできた。
今もそう。もやもやしていた胸の中が晴れていく。
「好みの男性は?」
「え? そ、そんなのまだいない……」
「ホントに?」
「ホ、ホントだよ!」
「ヴィンセル王子は?」
「ええっ!? ど、どうして王子が!?」
わかりやすい反応に母親の表情がニヤつきへと変わり、からかう姿勢に入っているとわかるとアリスは母親の手を握って顔を離す。
「お父様がね、王子とお会いする機会があったみたいなの。そこで彼のほうからアリスはどうしているかって聞いてきたんだって」
「ヴィンセル様が……?」
気にかけてくれているのは視線からもわかるが、話すことがない。
ハンカチを渡すと約束していたのに、食事会以来、ハンカチは渡していない。
大丈夫だろうかと心配にはなるが、近付いて傷付きたくない気持ちが強すぎてアリスは以前のように話しかけることができなくなってしまった。
「アリスは誰を選びたい?
「誰って?」
アリスの頭の中に浮かんでいるのはセシルとリオだけだが、母親の言い方では二人以上いるような言い方。
首を傾げるアリスの頬を母親がニヤつきながらつつく。
「四人候補がいるでしょ?」
「四人? セシルとリオちゃん以外に誰──」
「カイルとヴィンセル王子」
「お兄様は恋愛対象じゃない!」
「そうね。でもあなたに婚約者ができない場合、ずーっとカイルといることになるのよ? その人生もあること、忘れないで」
「……ええ……」
戸惑いの声を漏らすアリスに母親がクスッと笑う。
「周りが異常者だと認識するぐらいカイルの過保護さは度を越してるけど、でも婚約者がいないあなたを不幸にはしないわ」
それはアリスもわかっている。カイルはアリスを見放さない。アリスが結婚するまで自分は結婚しないと豪語している。
その判断を良い兄だと喜べるほどアリス単純ではないし、むしろ早く結婚してほしいとさえ願っている。
「ゆっくり考えればいいの。今年はデビュタントもあるしね」
「……そうね」
「あら、行くの?」
「わからない。お兄様は行く必要はないって言うし……でも、自分の足でちゃんと立たなきゃお兄様も結婚できないし」
「あの子の言うことは聞かなくていいのよ。あの子、バカだからわけわかんないこと言うだけなの」
こういう言葉は父親が言うものではないのかと思いながらもアリスはそれに笑ってしまった。
母親はいつもカイルへの言葉を乱暴に変える。それもワザと。
デビュタント──カイルは行かなくていい。必要ないと言っていたためアリスも人と話すのが苦手で、婚約者探しに行くのだと思うと乗り気になれなかったが、そういうことも公爵令嬢として向き合っていかなければならない気がしていた。
まだカイルには何も言っていない。どうなるかわからないが、アリスは少しずつ前に進もうと決めた。
アリスは入学当初からヴィンセル・ブラックバーンを好きだった。正確には好きだと思っていた。
実際に話をする機会があり、ドキドキしてたまらなかった。
食事会に招かれたときなど足が地に着いているかもわからないほど舞い上がっていたのだが、ヴィンセルの気持ちを知って気持ちが落ちてしまった。
本当に好きなのであればショックを受けても諦めきれずに追い続けるのではないかと思うアリスにとってヴィンセルを目で追うこともしないこの落ち着いた感情は所詮憧れでしかなかったのだろうかと思ってしまう。
もう長らくヴィンセルとは会話をしていない。それでも恋しくならないのは気持ちが冷めてしまったからなのか。それとも最初から恋ではなかったからだろうかとベッドに寝転びながら天井を見上げて考える。
「アリス」
ノックの音の後に聞こえた母親の声に身を起こしたアリスはドアに寄って扉を開けた。
「どうしたの?」
母親が部屋を訪ねてくるのは珍しく、何か重要な話だろうかと首を傾げると「入っていい?」と言われたため中へ通す。
「学校で何かあった?」
唐突な問いかけに目を瞬かせるもすぐに苦笑へと変わり、アリスはどう答えようか少し迷っていた。
「カイルに相談できること?」
「相談するようなことではないの」
「じゃあ、お母さんに相談してみない?」
母親に相談するほどのことでもないと思ったが、またベッドに寝転んで天井を見上げていたところで答えなど出てこない。
人生の先輩であり、親友でもある母親に相談したほうがまだ答えが見つかるかもしれないと思った。
「喧嘩というか、お友達を怒らせてしまって……」
「あら、どうして?」
「セシルを覚えてるでしょ?」
「ええ、もちろん。婿候補だもの」
「もう……」
セシルを家に呼んだ日、両親が受けた印象は好感触だったらしく、特に母親はセシルが婿に来てもいいとノリ気だった。
アリスにまだその気がないため話し合いにはなっていないのだが、既に聞き飽きた感がある。
「アボット家のナディアご令嬢を知ってる?」
「ええ、あの気立の良い娘ね」
「そうなの。とても優しくて明るくて太陽のような方よ」
「その太陽のような子を怒らせたの? カッカッしたんじゃない?」
「お母様、楽しんでるでしょ」
娘の異変に気付いて部屋を訪ねてきたはずの母親の表情はなぜか嬉しそうで、アリスは下げていた眉を寄せる。
「あなたがティーナ以外のお友達のことで悩んでるのが嬉しいのよ」
「悩んでるのに?」
「悩むのは良いことよ。何が悪くて、どうすればいいのか、何をすべきなのかを考える。一つ一つ答えを見つけていくことが成長へと繋がるんだもの」
「私はまだ成長できてないってこと?」
「まあ、そうね。あなたはずっとカイルの後ろに隠れていたから自分で解決したことがなかった。これからよね」
親から見てもそうだったとアリスはため息をつく。
過去を振り返ってみると自分はいつもカイルの後ろに隠れていた。そうすることで人生を楽に生きられたから。
でもそれではダメなのだ。来年からカイルはいない。いつもそう。自分が三年生になった一年、カイルはいない。それでもやってこれたのだから、カイルの後ろに隠れている理由などありはしないのに、いつも逃げてしまう。
親に兄の後ろに隠れ続けている妹と思われているのは嫌だった。
「ナディア様はね、セシルが好きなの。好きというか、推し?というか……好き、なのかな……」
アリシアが言っていた。超えてはならない一線を超えてしまったと。それは今まで推しというだけだった想いが好きへと変化したということで、だからこそハッキリ決めない自分に怒りを抱いていたのかもしれないとアリスは思った。
「リオちゃんがティーナにオレンジジュースをかけられてびしょ濡れになってたの。そのまま保健室に行くのは気持ち悪いからって花壇にあるホースで水浴びしたらしいんだけど、どうしてか……そのまま抱きしめられちゃって……」
娘がリオに抱きしめられたと聞いても母親は驚きはしなかった。むしろそれはいつか起こるべきことだったと言わんばかりに頷いている。
「リオはあなたのこと大好きだもの。子供の頃からずーっとね」
「そう、だね」
リオの母親からも言われ、リオがすぐ顔を赤くすることからも気持ちは伝わってくる。だが、今はそれに応えることはできない。
アリスの気持ちはまだ誰にも向いていないのだ。
「それで? セシルに申し訳ないと思わないのかって言われた?」
「どう、して……?」
エスパーかと思うほどドンピシャで当てた母親にアリスは目を見開く。
「ありがちな言葉よね。長く片思いをしてるだけの女がよく言う台詞なの。私のほうが彼を知ってる。あなたは相応しくない。ちょっと親しくしてるからって調子に乗るな。彼も、あの彼もってイイ顔するな。尻軽、売女、娼婦。彼に申し訳ないと思わないのか。あなたと一緒にいると彼の評価が下がる。色々言われたわ」
ナディアはそこまで酷いことは言ってないし、きっと言わない。ドリスなら言いかねないが。
「あなたは何か言ったの?」
「ううん。言ったのは双子のアリシア様なの。前にティーナが私に誰にでもイイ顔するなんて最低だって言ったの。それを持ち出して、今のナディア様はティーナと同じだって」
「あら、良い返しね」
「ナディア様泣いてた」
「ティーナと同じって言われて泣かない子はいないと思うわ」
それにはアリスも同意する。
「ねえ、お母様はどうしてお父様と一緒になろうと思ったの?」
「だって、あんな熱烈なプロポーズされたら受けるしかないでしょ?」
「プロポーズが熱烈じゃなかったら受けなかったってこと?」
「そういうのが気になる年頃になったのね」
またからかうような言い方をする母親にアリスは不満を訴えるように肩頬を膨らませる。
「あの強烈さは確かに決め手ではあった。私は親に泣かれるぐらい尻軽だったしね」
「あ、うん……それは……」
聞きたくなかった。
「男は選び放題だったけど、最終的な決めては地位でも名誉でもなく、この人と一緒に歳を取りたいと思ったこと。この人が杖をついてヨボヨボになったとき、同じ姿で隣を歩く自分を想像するの。その相手がお父様だったって感じかな」
「杖をついてヨボヨボ……」
「アリスはまだ想像できないわよね。自分の気持ちがわからないときはそうやって想像してみるのもいいわよ。もちろんそれだけじゃダメだろうけど。価値観が同じか、子育て論は同じか、両親と妻のどっちを取るか、たくさん話をしなきゃダメ。私がそれに気付いたのは結婚してからだった」
「合わなかったの?」
「両親の味方をすることも多かったかな。そんなときはいつも夫に言ったわ。じゃあ両親と暮らせば?って」
母親が気の強い女であることは知っていたが、まさか夫を追い出すような言葉を吐く人だとは思っていなかった。
父親も気の弱い人間ではない。たまに言い合いをして母親を負かしていることがあるが、基本的には尻に敷かれている。
「そ、それで、お父様はなんて言ったの?」
「両親は私の大事な家族だって大声で言うから、あなたが守るべき家族は私でしょうが!って怒鳴って十発ほど枕で叩いたの」
アリスには「叩いた」が「殴った」に聞こえた。
今までも何度か父親が母親にクッションでボコボコにされるのを見てきただけに、叩いたでは済んでいないことは容易に想像がつく。怒鳴りながらなら余計に。
「そういうことをちゃんと話し合える相手にしなさいね」
「んー……参考にする」
「焦ることないわ。セシルでもリオでもその他でもいいじゃない」
「なんか申し訳なくて……ナディア様の言うことも一理あるなぁって……」
モテとは縁遠い人生だったアリスにとって今の状況は異常と言える。
面と向かって好きだと言われたのはセシルだけで、リオはそうなんだろうなと確信があるだけ。
ヴィンセルに至っては自分が憧れを抱いていただけで、実際は大した感情ではなかったように感じている。
セシルに向けられるままそれに甘んじていていいのだろうかという焦りもあった。
「私は彼女の言葉は嫉妬からきてるんだと思うわ」
「アリシア様もそう言ってた」
「でもね、こればっかりは相手から気持ちが向いてるから応えるってわけにはいかないのよね」
「うん……」
「それはナディアもわかってると思うわ」
「うん」
「お友達に言われたからって焦らなくていいのよ。大事なのはお友達と仲直りするために急いで結論を出すことじゃなくて、あなたがちゃんと悩んで考えて出した気持ちを相手に伝えることなんだから」
「わからないの。憧れと恋の違いが。どっちもドキドキするでしょ? でもそのドキドキが恋なのか、憧れなのかわからないの」
「恋をしているの?」
「……わからない」
ヴィンセルと接近する前は毎日と言っても過言ではないほど妄想に励んでいた。
デートをしたり手を繋いだりキスをしたり。結婚式も挙げたし、初夜を過ごし、そして子供まで。
だが、今はそれがない。
「恋愛関係にある人は皆すごいなぁって思うの。自分が好きになった人に好きになってもらえる確率って絶対高くないのに、恋人になれる人がいるんだもん。それだけでもすごいのに結婚して、ずーっと愛を囁き合うって……もう未知の世界だわ」
恋と憧れの区別もつかない自分には夫婦として誰かと生きるなんて夢のまた夢だとアリスは思う。
「憧れか恋かなんて分ける必要ある?」
母親の言葉にアリスは目を丸くする。
「だって、好きな人に憧れるなんてよくある話でしょ? 私は夫を愛しているけど、同時に憧れでもあるのよ。けして弱音を吐かない、弱さを見せない彼の強さに憧れてる。私もそういう人間になりたいって思うし、あの強さをずっと傍で見ていたいとも思ってる。若い頃もそうよ。憧れの女性の傍にいるとドキドキした。緊張なのかなんなのかわからない感情に彼女のこと好きなのかもって思うこともあったわ」
「違ったの?」
「考えないことにしただけ。それが憧れでも恋でもどっちでもいいって思ったの。そう思う相手のことは大事にしようって気持ちに切り替えた。だってこれは恋で、これは憧れ、なんて決めるのバカバカしいじゃない。憧れも恋も共通してる感情はその人を素敵だって思ってるってこと。そんな小さなことで悩んで時間をムダにするなんておバカなことはしないように。境界線なんて曖昧なものに迷ってる暇ないもの。時間は有限。人生も有限。頭を使うのは考えるべきことを考えるときだけいい。これが憧れか恋かわからない、じゃなくて、誰が好きなのかわからない、だったらたくさん悩みなさい」
両手で頬を包まれると良い香りがする。母親の使っているハンドクリームの香りだ。
目を閉じてその香りを胸いっぱいに吸い込むとアリスはいつもリラックスできた。
今もそう。もやもやしていた胸の中が晴れていく。
「好みの男性は?」
「え? そ、そんなのまだいない……」
「ホントに?」
「ホ、ホントだよ!」
「ヴィンセル王子は?」
「ええっ!? ど、どうして王子が!?」
わかりやすい反応に母親の表情がニヤつきへと変わり、からかう姿勢に入っているとわかるとアリスは母親の手を握って顔を離す。
「お父様がね、王子とお会いする機会があったみたいなの。そこで彼のほうからアリスはどうしているかって聞いてきたんだって」
「ヴィンセル様が……?」
気にかけてくれているのは視線からもわかるが、話すことがない。
ハンカチを渡すと約束していたのに、食事会以来、ハンカチは渡していない。
大丈夫だろうかと心配にはなるが、近付いて傷付きたくない気持ちが強すぎてアリスは以前のように話しかけることができなくなってしまった。
「アリスは誰を選びたい?
「誰って?」
アリスの頭の中に浮かんでいるのはセシルとリオだけだが、母親の言い方では二人以上いるような言い方。
首を傾げるアリスの頬を母親がニヤつきながらつつく。
「四人候補がいるでしょ?」
「四人? セシルとリオちゃん以外に誰──」
「カイルとヴィンセル王子」
「お兄様は恋愛対象じゃない!」
「そうね。でもあなたに婚約者ができない場合、ずーっとカイルといることになるのよ? その人生もあること、忘れないで」
「……ええ……」
戸惑いの声を漏らすアリスに母親がクスッと笑う。
「周りが異常者だと認識するぐらいカイルの過保護さは度を越してるけど、でも婚約者がいないあなたを不幸にはしないわ」
それはアリスもわかっている。カイルはアリスを見放さない。アリスが結婚するまで自分は結婚しないと豪語している。
その判断を良い兄だと喜べるほどアリス単純ではないし、むしろ早く結婚してほしいとさえ願っている。
「ゆっくり考えればいいの。今年はデビュタントもあるしね」
「……そうね」
「あら、行くの?」
「わからない。お兄様は行く必要はないって言うし……でも、自分の足でちゃんと立たなきゃお兄様も結婚できないし」
「あの子の言うことは聞かなくていいのよ。あの子、バカだからわけわかんないこと言うだけなの」
こういう言葉は父親が言うものではないのかと思いながらもアリスはそれに笑ってしまった。
母親はいつもカイルへの言葉を乱暴に変える。それもワザと。
デビュタント──カイルは行かなくていい。必要ないと言っていたためアリスも人と話すのが苦手で、婚約者探しに行くのだと思うと乗り気になれなかったが、そういうことも公爵令嬢として向き合っていかなければならない気がしていた。
まだカイルには何も言っていない。どうなるかわからないが、アリスは少しずつ前に進もうと決めた。
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