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ハンカチ王子の真実
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馬車の中は静まり返っている。ティーナがいないからというわけではなく、ヴィンセルは聞きたいこと、セシルは聴かれるであろうことを考えてどちらも口を開かないでいる。
アリスはセシルの雰囲気に戸惑いを隠せず、この重苦しい空気の中、膝の上で拳を作って俯いていた。
「アリス、怖がらせてごめんね。僕のこと、怖いと思った?」
「あ、いっいえ…大丈夫です」
「よかった。アリスには怖がってほしくないから──」
アリスの様子にそっと手を伸ばしてアリスに触れようとするセシルの手をヴィンセルが掴んで遮った。
「セシル・アッシュバートン、説明責任を果たせ」
友人ではなく一国の王子として接しているような口調に顔を上げたアリスの目に映ったのは令嬢たちから逃げる困り顔でも、アルフレッドに向ける呆れ顔でも、怪我をさせた時に自分に向けた申し訳ないと言いたげな顔でもなく、玉座に腰かける王のような雰囲気をまとうヴィンセルの姿。
「言わなくてもわかってることをわざわざ言わなきゃいけないの? アリスに聞かせたいわけ?」
「セシル」
この国では銃の所持が許可されるのは狩猟の時だけであり、それも事前にに申請しなければならず、許可が下りたときにだけ所持が認められる。
許可が下りるのは主に開催許可が下りた狩猟大会のときだけであるため日常での所持は認められていない。
それなのにセシルは持っていた。今もまだこの馬車の中にあの美しい銃が存在しているのだ。彼の身体の一部であるかのようにその華奢な制服姿の中に隠されている。
「銃を所持するということがどういうことかわかっているな?」
「もちろん」
銃は王子でさえ持つことは許されないのに伯爵家の子息が所持していたなどと知られれば罰は免れないだろう。
今心配なのはセシルが法を犯したことよりもそれをティーナに見られてしまったこと。
仕方のない場面であったといえど、セシルを嫌っているティーナが黙っているとは思えない。
強制的に途中下車させられたことへの逆恨みで暴露してもおかしくはないのだ。
「僕は日常的に銃を所持してる」
「なぜだ?」
「身を守るため」
「違法だとわかっているな?」
「わかってる」
「わかってての所持ということでいいんだな?」
「そうだね」
セシルに悪びれる様子はなかった。
いつかバレるときが来るかもしれない。いくら友人に王子がいようともバレれば無傷では済まないだろう。それがわかっていながらもセシルは所持を選んだ。
銃の構えも撃つときの躊躇のなさも全て日常的に訓練を受けているような落ち着きがあった。
セシルはいい加減な人間ではない。法を犯している自分をイケてる人間だと勘違いするような人間でもない。だからこそ違法である銃の所持には
「ヴィンセル様、セシル様は確かに法を犯しているかもしれません。ですが、今回のことはセシル様の銃のおかげで助かった部分もあるのではないでしょうか?」
「見逃せと?」
「それは……」
ヴィンセルは次期王となることが決まっている。この国の象徴となり、国の父となる。そんな相手に法を犯した者を見逃せなどと言うのは間違いだとわかっていても相手も銃を持っていたことを考えるとセシルの銃があって助かったとアリスは考えている。
騎士団に所属しているヴィンセルならナイフを持った男ぐらい気を逸らさずとも倒せたかもしれない。
だが、銃を持った相手にはどうだろうか。動くなと言われ、位置的にセシルかティーナを人質にしていた可能性もある。
こうして全員が無傷で解放されたのはセシルのおかげだとアリスはグッと拳を握ってヴィンセルの目を見つめた。
「ヴィンセル様が一番わかっておられることだと思います」
表情を変えずにジッとアリスを見つめていたヴィンセルは暫くして表情を緩め、アリスが見慣れたヴィンセルに戻った。
「季節的に暗かったのは幸いだった」
夜の訪れが早くなったことで貴族たちの出歩きも少なくなった。それが幸いして他の馬車の通りも人通りもなかったため目撃者はいない。
銃声を聞いた者はいるだろうが、強盗が発砲したものというヴィンセルの説明で警官も納得していた。
「アリス」
「はい」
「怖がらせてごめんね」
「平気です」
再びの謝罪にアリスは首を振って微笑む。
「明日からも僕と話してくれる?」
「もちろんです。セシルはお友達ですから」
「よかった。また明日、レディアリス」
アッシュバートン邸前に着くとセシルから手の甲に口付けに驚きながらも笑顔を見せるセシルにつられて表情を緩め、手を振って家に入るのを見送った。
次はベンフィールド邸に向かって馬車が走り出す。
「セシルには困ったものだ」
ヴィンセルの態度は変わらないが、アリスの心臓は今にも飛び出して破裂しそうなほど緊張していた。
馬車の中で憧れの人と二人きり。こんな夢のようなことがなぜ起きているのか。遠くから見つめるだけだった自分の人生が変わりつつあるような気がして少し不安だった。
目の前に座る整った顔立ちは小説の中に出てくる王子様そのもの。それを何の取柄もない家柄しか自慢できるものがない自分が王族の馬車に乗って王子と二人きりなどという誰もが憧れる瞬間を過ごしていいのだろうかと落ち着かずソワソワしてしまう。
「アリス」
「はい!」
大きな声で反応してしまった品のない行動に慌てて口を押さえる。
「そんなに緊張しないでくれ。セシルと話すように話してくれてかまわない」
(苦笑も素敵…じゃなくて! 王子相手にどうやって気楽に話すの? 気楽な話し方って? ティーナみたいな口調? 違う違う!)
アリスはセシルにも敬語を使っている。違うのは呼び捨てかそうでないかなだけ。だが王子を呼び捨てにするわけにはいかない。ヴィンセルは年上で、王子。セシルは伯爵で同級生。名前で呼べる理由はそれなりにあった。王子にはない。
「セシルと仲が良いんだな。会ったのは先日が初めてだろう?」
「そうです。知っていても遠目に見るぐらいで、皆様にお会いしたのも先日が初めてです」
「そうか。セシルは同級生だったな。だが、カイルの話では君には男友達はいないと」
「私、口下手なんです。自分から話題を上げることも苦手で、いつも聞かれたことに答えるだけとか多くて……」
今もそう。ヴィンセルが話しかけてくれなければベンフィールド邸に着くまでアリスは黙ったままだっただろう。
「あんな風に親しくしていただいて光栄です」
アリスの言葉にヴィンセルは首を傾げる。
「君は公爵令嬢だ。自分を下に見る必要はない。言ってしまえばセシルより上の称号を持っている。仲良くさせてもらっているのは君ではなくセシルのほうだろう」
アリスもわかっている。自分は公爵令嬢で誰かと接するのに卑屈になる必要はないし、謙遜する必要もないのだと。
しかし、それは自分が努力して手に入れたものではなく、運よく公爵の娘として生まれただけ。それをさも自分がすごいのだと言わんばかりに振舞うというのはアリスにはできなかった。
『もっと自信を持ちなさい』
何度そう言われてきたかわからない。どうやっても自信を持つことができなくて、自分が話すより人の話を聞くほうが好きで、ヴィンセルのことも遠くから見ているだけで満足だった。
それが自分には合っているのだと思っていた。
「公爵令嬢らしくないですよね」
パーティーで会う公爵令嬢たちは皆、自分を持っていて、自分をどう魅せればいいかわかっている。
自分に似合う髪型、メイク、装飾品にドレス。自分で選んで自分を飾る。
誰かのパーティーではなく自分のためのパーティーだと言わんばかりに気取る姿だからこそ輝いて見えることをアリスは知っている。それでもアリスにはそれが難しかった。
「自信がないことは欠点であり長所ではないが……誰しも欠点は持っているからな」
ヴィンセルの言葉にアリスが頷く。
「……俺は…人一倍嗅覚が敏感なんだ」
突然の告白にアリスが顔を上げるとヴィンセルはアリスのハンカチを持ち上げて見せた。
「花粉症では、なく?」
「あれは咄嗟についた嘘だ。彼女に真実を話すのは……なんだか躊躇われてしまった」
正しい選択だとアリスはもう一度頷く。
「人の匂いが特にダメなんだ。汗、香水、ヘアコロンにハンドクリーム、ボディクリーム……それらが個人が持つ匂いと合わさって酷い悪臭に感じてしまう」
「だからいつも逃げ回って──……追いかけっこ……令嬢たちを近付けないようにしているのですか?」
「情けない話だが、そうだ」
口を押さえているのだと思っていたのは鼻を押さえていたのだと理解するも疑問が一つ。
アルフレッドが傍にいるときや令嬢たちから逃げ回っているときは必ずハンカチで鼻を押さえていた。
ティーナはこれを花粉症だと教えられたが、実際はそうではなく嗅覚過敏のせい。新しい情報を得たのはアリスのほう。
「でも香水やヘアコロンは男性もつけると思うのですが」
「セシルとカイルは使ってないんだ。アルフレッドだけが女のように──……っと、この言い方はダメだ。すまない。アルフレッドだけが多様に使いすぎているんだ。アイツが近くにいるだけで頭痛と吐き気がする」
ランチの場でも並んで歩いていても端と端。アリスはアルフレッドを良い香りだと思ったが、それも嗅覚過敏のヴィンセルからすれば悪臭でしかないのだと同情してしまう。
どんな匂いでもきっとそう感じてしまうのだろう。好みではないからというわけではなく、過敏すぎるせいでそう感じてしまう。
そのせいで女嫌いだゲイだと勝手な噂が広まっている。
「女嫌いというわけでは……」
「ない。だが、女性が身だしなみとして使用する物が受け入れられないのだから女嫌いも同然だ」
苦笑する顔はいつもどこか色気があって素敵だと思っていたが、今はそうは思わない。
彼は王になり、そしていつか息子に自分が受けた教育と同じ教育を受けさせ、次期王として育てていく。そのためには世継ぎを産む相手が必要。肌を合わせる相手が必要。
望めば溢れんばかりの数が手に入るだろうが、呼吸を止めながら抱くわけにはいかない。
「何もつけていなければ平気なのですか?」
「いや……そういうわけでもない。軽症というだけで個々に感じ取ってしまう匂いに……その……なんというか……」
言い淀むヴィンセルにアリスが首を傾げる。
「こ、好みがあるのかわからないが……」
選り好みしていると思われてしまう心配から上手く言葉が出てこないヴィンセルのこんな姿を一体何人が見たことがあるだろうと思うとアリスはつい笑ってしまう。
「すまない。こんなことはあってはならないことなのだろうが……」
「誰しも好みはあります。背が高い人、痩せている人、筋肉質な人、背が低い人、太っている人、強面な人、王子様のような人、可愛い人、美人、巨乳──ご、ごめんなさいッ」
思い出す小説の登場人物から例え始めると巨乳と口にしてしまい、慌てて頭を下げるアリスに今度はヴィンセルが笑う。
「いや、ありがとう。気を遣わせた」
「い、いえ、そういうわけでは。ただ、外見や中身の好みがあるのは当然だから、匂いに好みがあるのも当然だと思うと言いたかったんです」
「ちゃんと伝わった」
伝え方の下手さが恨めしく恥ずかしいと真っ赤な顔を隠すように俯くアリスを見てヴィンセルはまだ笑っていた。
口を開けて笑うのではなく肩を揺らすだけの控えめな笑い方。
笑ってもらえるのは嬉しくとも恥はかきたくなかったと穴があったら入りたいと願うアリスだが、ふと思い出したことに顔を上げる。
「あれ? でも今日はあまりハンカチを使っていなかったような……?」
ティーナが厚かましく手を握って距離が近くなったときぐらいしか鼻を押さえなかった気がするとヴィンセルを見ると手にしているハンカチをギュッと握り、人差し指で頭を掻く。
苦笑のような照れのような表情で告げる衝撃の告白。
「君がいると平気なんだ」
「………………え?」
脳がその言葉を理解するのに時間がかかり、ようやく理解できたと思ったら出てきた言葉はやはり理解していないような言葉で
「君が初めて庭園に来た日、君が現れた瞬間、いつも香りで気分が悪い胸が急にスッと晴れたんだ。頭痛も消えた」
握ったハンカチを見つめながらヴィンセルはあの瞬間を思い出したのか優しく微笑む。
「俺がカイルの隣にいるのはカイルといると少し気分が楽になるからだ。だが、君はそれ以上……というか、俺にとっては……その……勝手ながら……運命の出会いの、ように……思えた」
王子から告げられた〝運命〟に素直に喜べないのはなぜだろうとアリスは他人事のように考え始めた。
あのヴィンセル・ブラックバーンから『運命の出会い』と言われれば誰でも大喜びするはず。泣いたり、悲鳴をあげたり、中には失神する者もいるのではないだろうか。
本来であればアリスもそっち側になるはずが、なぜか心は踊らなかった。
妄想の中では何万回と繰り返した言葉なのに。
「このハンカチは俺にとってお守りのようで、とても気が楽になった」
「そんなハンカチがヴィンセル様のお役に立てたのであれば何よりです」
お気に入りの薄桃色のハンカチ。手を怪我した際にヴィンセルが自分のハンカチを貸してくれたから代わりに渡しただけ。
偶然でも相手の役に立てたのならこんなに嬉しいことはない。
「だが、君が貸してくれた物を勝手に自分の物のように使っていることに罪悪感があって……何より……変態のようだと我ながら思う……」
その言葉にアリスが固まり、瞬きが増える。
「……洗って……くださいました?」
「…………ぃゃ……」
蚊が鳴くような、いや、それよりも小さい声だったかもしれない。だが、ちゃんと聞こえた否定。
「洗って、くださいね?」
ヴィンセルもわかっている。使ったハンカチを洗わずに使い続けるなど汚いということぐらいは。
だが、それでもヴィンセルは洗えなかった。
「洗ってしまえば匂いが落ちてしまうのではないかと……ああ、俺は何を言ってるんだッ」
話せば話すほど変態としか思われなくなるような言葉しか出てこないことが嫌で、ヴィンセルは思わず頭を抱えた。
「あ、あの……もし、お節介でなければ明日、ハンカチを持ってきましょうか?」
「いいのか?」
驚きと喜びが混ざった表情にアリスが頷く。
「私なんかの物でよければ」
「それは助かる! 君の匂いがいい──……だあっ! 言葉を選べ!」
素直な言葉はどれもマズイと感じるもので、気をつけようと思った直後にまた失敗する。
大きな身体を折り曲げて頭を抱える様子にアリスが声を漏らさずに笑う。
王子とどうこうなれるなど自惚れはしない。小説のような恋は本の中だから上手くいくのだ。あそこに書かれているのは理想で、現実は理想通りには動いてくれない。もし動いてくれるのなら自分は今頃公爵令嬢として兄のように自信に満ち溢れた素敵なレディになれているのだから。
こうして王子が気にかけてくれるのも全てちゃんとした理由があって、自分の存在はオマケのようなもの。期待する方がおかしい。
だからアリスは期待はしない。二人きりでいる夢のような時間を味わえているだけで幸せだとこの瞬間を噛み締めていた。
アリスはセシルの雰囲気に戸惑いを隠せず、この重苦しい空気の中、膝の上で拳を作って俯いていた。
「アリス、怖がらせてごめんね。僕のこと、怖いと思った?」
「あ、いっいえ…大丈夫です」
「よかった。アリスには怖がってほしくないから──」
アリスの様子にそっと手を伸ばしてアリスに触れようとするセシルの手をヴィンセルが掴んで遮った。
「セシル・アッシュバートン、説明責任を果たせ」
友人ではなく一国の王子として接しているような口調に顔を上げたアリスの目に映ったのは令嬢たちから逃げる困り顔でも、アルフレッドに向ける呆れ顔でも、怪我をさせた時に自分に向けた申し訳ないと言いたげな顔でもなく、玉座に腰かける王のような雰囲気をまとうヴィンセルの姿。
「言わなくてもわかってることをわざわざ言わなきゃいけないの? アリスに聞かせたいわけ?」
「セシル」
この国では銃の所持が許可されるのは狩猟の時だけであり、それも事前にに申請しなければならず、許可が下りたときにだけ所持が認められる。
許可が下りるのは主に開催許可が下りた狩猟大会のときだけであるため日常での所持は認められていない。
それなのにセシルは持っていた。今もまだこの馬車の中にあの美しい銃が存在しているのだ。彼の身体の一部であるかのようにその華奢な制服姿の中に隠されている。
「銃を所持するということがどういうことかわかっているな?」
「もちろん」
銃は王子でさえ持つことは許されないのに伯爵家の子息が所持していたなどと知られれば罰は免れないだろう。
今心配なのはセシルが法を犯したことよりもそれをティーナに見られてしまったこと。
仕方のない場面であったといえど、セシルを嫌っているティーナが黙っているとは思えない。
強制的に途中下車させられたことへの逆恨みで暴露してもおかしくはないのだ。
「僕は日常的に銃を所持してる」
「なぜだ?」
「身を守るため」
「違法だとわかっているな?」
「わかってる」
「わかってての所持ということでいいんだな?」
「そうだね」
セシルに悪びれる様子はなかった。
いつかバレるときが来るかもしれない。いくら友人に王子がいようともバレれば無傷では済まないだろう。それがわかっていながらもセシルは所持を選んだ。
銃の構えも撃つときの躊躇のなさも全て日常的に訓練を受けているような落ち着きがあった。
セシルはいい加減な人間ではない。法を犯している自分をイケてる人間だと勘違いするような人間でもない。だからこそ違法である銃の所持には
「ヴィンセル様、セシル様は確かに法を犯しているかもしれません。ですが、今回のことはセシル様の銃のおかげで助かった部分もあるのではないでしょうか?」
「見逃せと?」
「それは……」
ヴィンセルは次期王となることが決まっている。この国の象徴となり、国の父となる。そんな相手に法を犯した者を見逃せなどと言うのは間違いだとわかっていても相手も銃を持っていたことを考えるとセシルの銃があって助かったとアリスは考えている。
騎士団に所属しているヴィンセルならナイフを持った男ぐらい気を逸らさずとも倒せたかもしれない。
だが、銃を持った相手にはどうだろうか。動くなと言われ、位置的にセシルかティーナを人質にしていた可能性もある。
こうして全員が無傷で解放されたのはセシルのおかげだとアリスはグッと拳を握ってヴィンセルの目を見つめた。
「ヴィンセル様が一番わかっておられることだと思います」
表情を変えずにジッとアリスを見つめていたヴィンセルは暫くして表情を緩め、アリスが見慣れたヴィンセルに戻った。
「季節的に暗かったのは幸いだった」
夜の訪れが早くなったことで貴族たちの出歩きも少なくなった。それが幸いして他の馬車の通りも人通りもなかったため目撃者はいない。
銃声を聞いた者はいるだろうが、強盗が発砲したものというヴィンセルの説明で警官も納得していた。
「アリス」
「はい」
「怖がらせてごめんね」
「平気です」
再びの謝罪にアリスは首を振って微笑む。
「明日からも僕と話してくれる?」
「もちろんです。セシルはお友達ですから」
「よかった。また明日、レディアリス」
アッシュバートン邸前に着くとセシルから手の甲に口付けに驚きながらも笑顔を見せるセシルにつられて表情を緩め、手を振って家に入るのを見送った。
次はベンフィールド邸に向かって馬車が走り出す。
「セシルには困ったものだ」
ヴィンセルの態度は変わらないが、アリスの心臓は今にも飛び出して破裂しそうなほど緊張していた。
馬車の中で憧れの人と二人きり。こんな夢のようなことがなぜ起きているのか。遠くから見つめるだけだった自分の人生が変わりつつあるような気がして少し不安だった。
目の前に座る整った顔立ちは小説の中に出てくる王子様そのもの。それを何の取柄もない家柄しか自慢できるものがない自分が王族の馬車に乗って王子と二人きりなどという誰もが憧れる瞬間を過ごしていいのだろうかと落ち着かずソワソワしてしまう。
「アリス」
「はい!」
大きな声で反応してしまった品のない行動に慌てて口を押さえる。
「そんなに緊張しないでくれ。セシルと話すように話してくれてかまわない」
(苦笑も素敵…じゃなくて! 王子相手にどうやって気楽に話すの? 気楽な話し方って? ティーナみたいな口調? 違う違う!)
アリスはセシルにも敬語を使っている。違うのは呼び捨てかそうでないかなだけ。だが王子を呼び捨てにするわけにはいかない。ヴィンセルは年上で、王子。セシルは伯爵で同級生。名前で呼べる理由はそれなりにあった。王子にはない。
「セシルと仲が良いんだな。会ったのは先日が初めてだろう?」
「そうです。知っていても遠目に見るぐらいで、皆様にお会いしたのも先日が初めてです」
「そうか。セシルは同級生だったな。だが、カイルの話では君には男友達はいないと」
「私、口下手なんです。自分から話題を上げることも苦手で、いつも聞かれたことに答えるだけとか多くて……」
今もそう。ヴィンセルが話しかけてくれなければベンフィールド邸に着くまでアリスは黙ったままだっただろう。
「あんな風に親しくしていただいて光栄です」
アリスの言葉にヴィンセルは首を傾げる。
「君は公爵令嬢だ。自分を下に見る必要はない。言ってしまえばセシルより上の称号を持っている。仲良くさせてもらっているのは君ではなくセシルのほうだろう」
アリスもわかっている。自分は公爵令嬢で誰かと接するのに卑屈になる必要はないし、謙遜する必要もないのだと。
しかし、それは自分が努力して手に入れたものではなく、運よく公爵の娘として生まれただけ。それをさも自分がすごいのだと言わんばかりに振舞うというのはアリスにはできなかった。
『もっと自信を持ちなさい』
何度そう言われてきたかわからない。どうやっても自信を持つことができなくて、自分が話すより人の話を聞くほうが好きで、ヴィンセルのことも遠くから見ているだけで満足だった。
それが自分には合っているのだと思っていた。
「公爵令嬢らしくないですよね」
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ヴィンセルの言葉にアリスが頷く。
「……俺は…人一倍嗅覚が敏感なんだ」
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「花粉症では、なく?」
「あれは咄嗟についた嘘だ。彼女に真実を話すのは……なんだか躊躇われてしまった」
正しい選択だとアリスはもう一度頷く。
「人の匂いが特にダメなんだ。汗、香水、ヘアコロンにハンドクリーム、ボディクリーム……それらが個人が持つ匂いと合わさって酷い悪臭に感じてしまう」
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「情けない話だが、そうだ」
口を押さえているのだと思っていたのは鼻を押さえていたのだと理解するも疑問が一つ。
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「セシルとカイルは使ってないんだ。アルフレッドだけが女のように──……っと、この言い方はダメだ。すまない。アルフレッドだけが多様に使いすぎているんだ。アイツが近くにいるだけで頭痛と吐き気がする」
ランチの場でも並んで歩いていても端と端。アリスはアルフレッドを良い香りだと思ったが、それも嗅覚過敏のヴィンセルからすれば悪臭でしかないのだと同情してしまう。
どんな匂いでもきっとそう感じてしまうのだろう。好みではないからというわけではなく、過敏すぎるせいでそう感じてしまう。
そのせいで女嫌いだゲイだと勝手な噂が広まっている。
「女嫌いというわけでは……」
「ない。だが、女性が身だしなみとして使用する物が受け入れられないのだから女嫌いも同然だ」
苦笑する顔はいつもどこか色気があって素敵だと思っていたが、今はそうは思わない。
彼は王になり、そしていつか息子に自分が受けた教育と同じ教育を受けさせ、次期王として育てていく。そのためには世継ぎを産む相手が必要。肌を合わせる相手が必要。
望めば溢れんばかりの数が手に入るだろうが、呼吸を止めながら抱くわけにはいかない。
「何もつけていなければ平気なのですか?」
「いや……そういうわけでもない。軽症というだけで個々に感じ取ってしまう匂いに……その……なんというか……」
言い淀むヴィンセルにアリスが首を傾げる。
「こ、好みがあるのかわからないが……」
選り好みしていると思われてしまう心配から上手く言葉が出てこないヴィンセルのこんな姿を一体何人が見たことがあるだろうと思うとアリスはつい笑ってしまう。
「すまない。こんなことはあってはならないことなのだろうが……」
「誰しも好みはあります。背が高い人、痩せている人、筋肉質な人、背が低い人、太っている人、強面な人、王子様のような人、可愛い人、美人、巨乳──ご、ごめんなさいッ」
思い出す小説の登場人物から例え始めると巨乳と口にしてしまい、慌てて頭を下げるアリスに今度はヴィンセルが笑う。
「いや、ありがとう。気を遣わせた」
「い、いえ、そういうわけでは。ただ、外見や中身の好みがあるのは当然だから、匂いに好みがあるのも当然だと思うと言いたかったんです」
「ちゃんと伝わった」
伝え方の下手さが恨めしく恥ずかしいと真っ赤な顔を隠すように俯くアリスを見てヴィンセルはまだ笑っていた。
口を開けて笑うのではなく肩を揺らすだけの控えめな笑い方。
笑ってもらえるのは嬉しくとも恥はかきたくなかったと穴があったら入りたいと願うアリスだが、ふと思い出したことに顔を上げる。
「あれ? でも今日はあまりハンカチを使っていなかったような……?」
ティーナが厚かましく手を握って距離が近くなったときぐらいしか鼻を押さえなかった気がするとヴィンセルを見ると手にしているハンカチをギュッと握り、人差し指で頭を掻く。
苦笑のような照れのような表情で告げる衝撃の告白。
「君がいると平気なんだ」
「………………え?」
脳がその言葉を理解するのに時間がかかり、ようやく理解できたと思ったら出てきた言葉はやはり理解していないような言葉で
「君が初めて庭園に来た日、君が現れた瞬間、いつも香りで気分が悪い胸が急にスッと晴れたんだ。頭痛も消えた」
握ったハンカチを見つめながらヴィンセルはあの瞬間を思い出したのか優しく微笑む。
「俺がカイルの隣にいるのはカイルといると少し気分が楽になるからだ。だが、君はそれ以上……というか、俺にとっては……その……勝手ながら……運命の出会いの、ように……思えた」
王子から告げられた〝運命〟に素直に喜べないのはなぜだろうとアリスは他人事のように考え始めた。
あのヴィンセル・ブラックバーンから『運命の出会い』と言われれば誰でも大喜びするはず。泣いたり、悲鳴をあげたり、中には失神する者もいるのではないだろうか。
本来であればアリスもそっち側になるはずが、なぜか心は踊らなかった。
妄想の中では何万回と繰り返した言葉なのに。
「このハンカチは俺にとってお守りのようで、とても気が楽になった」
「そんなハンカチがヴィンセル様のお役に立てたのであれば何よりです」
お気に入りの薄桃色のハンカチ。手を怪我した際にヴィンセルが自分のハンカチを貸してくれたから代わりに渡しただけ。
偶然でも相手の役に立てたのならこんなに嬉しいことはない。
「だが、君が貸してくれた物を勝手に自分の物のように使っていることに罪悪感があって……何より……変態のようだと我ながら思う……」
その言葉にアリスが固まり、瞬きが増える。
「……洗って……くださいました?」
「…………ぃゃ……」
蚊が鳴くような、いや、それよりも小さい声だったかもしれない。だが、ちゃんと聞こえた否定。
「洗って、くださいね?」
ヴィンセルもわかっている。使ったハンカチを洗わずに使い続けるなど汚いということぐらいは。
だが、それでもヴィンセルは洗えなかった。
「洗ってしまえば匂いが落ちてしまうのではないかと……ああ、俺は何を言ってるんだッ」
話せば話すほど変態としか思われなくなるような言葉しか出てこないことが嫌で、ヴィンセルは思わず頭を抱えた。
「あ、あの……もし、お節介でなければ明日、ハンカチを持ってきましょうか?」
「いいのか?」
驚きと喜びが混ざった表情にアリスが頷く。
「私なんかの物でよければ」
「それは助かる! 君の匂いがいい──……だあっ! 言葉を選べ!」
素直な言葉はどれもマズイと感じるもので、気をつけようと思った直後にまた失敗する。
大きな身体を折り曲げて頭を抱える様子にアリスが声を漏らさずに笑う。
王子とどうこうなれるなど自惚れはしない。小説のような恋は本の中だから上手くいくのだ。あそこに書かれているのは理想で、現実は理想通りには動いてくれない。もし動いてくれるのなら自分は今頃公爵令嬢として兄のように自信に満ち溢れた素敵なレディになれているのだから。
こうして王子が気にかけてくれるのも全てちゃんとした理由があって、自分の存在はオマケのようなもの。期待する方がおかしい。
だからアリスは期待はしない。二人きりでいる夢のような時間を味わえているだけで幸せだとこの瞬間を噛み締めていた。
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