上 下
59 / 113

肉体に残る呪縛

しおりを挟む
 顔を覗き込むミュゲットを膝から下ろして立ち上がったアルフローレンスに合わせてミュゲットも立ち上がる。

「風呂に行くか」
「今から?」
「問題でもあるのか?」
「だってまだ夜じゃないし……」
「関係ない。行くぞ」

 強引なところは変わらない。それでも今までのように先を歩くのではなく手を差し出してくれる。
 その大きな手を握り、一緒に歩く。足の長さが違えば歩く歩幅も違うが今のアルフローレンスはちゃんと合わせてくれる。
 それだけなのにそれが妙に嬉しかった。
 だが気にもなっている。彼の表情はいつも通りなのに声色だけが静かで。

「はあ~」

 湯気立つ中へと入っていくだけで声が漏れる。
 熱いぐらいなのに今日はそれも気持ちよさへと変わり、少し身震いしては肩まで浸かるとアルフローレンスが横に座った。
 見慣れたはずの傷跡も色々と話を聞いた今日は少し違ったものに見える。
 十二歳で戦場に立ち、死ぬことに恐怖しながら戦い抜いてきた男の傷。
 切られたときはどんな気持ちだったのだろう。恐怖か、それとも悔しさか。
 十二歳の少年は痛みに泣いたのだろうか。
 色々なことを考えては腕にそっと触れる。

「この傷ができたとき、痛かった?」
「ああ。だが、それも次第に慣れていく」

 不要な痛みと不要な傷に不要な慣れ。
 フローラリアにいれば考えられないことだが、グラキエスでは当たり前のこと。否定はできない。

「……後ろから斬られたことはある?」

 以前、後ろの傷に触ろうとして手を払われたことがあった。あの冷血漢が大袈裟なほどの反応を見せたときから後ろの傷は戦争でついたものではないのかもしれないと思っていた。
 だがそれに触れられることを極度に嫌がったため、ミュゲットは単刀直入にはいかず、少し遠回りすることにした。

「聞きたいことは聞けばいい。全て話すつもりだ」

 アルフローレンスの言葉に苦笑しながらそっと背中に触れると以前よりは小さな反応だったが、それでも身体は跳ねた。

「この傷はどこでついたの?」

 背中から切られたにしては多すぎる。あれだけの魔法を使いこなす相手が何度も背中から斬られるようには思えない。
 無数についている傷は痛々しく、ミュゲットはその傷を何度も撫でた。

「……これは……母親に付けられたものだ」

 ミュゲットの思考が一瞬止まる。
 歪んだ異常な愛情ではあったが、母親は息子を愛していたはず。その母親がなぜ息子の背中にこれだけの傷を残すような真似をしたのか。

「母親に斬られた、って……こと……?」
「鞭だ」
「鞭……?」

 細い傷跡。暴力を振るっていたのは父親だったはず。守る立場だった母親まで彼に暴力を振るっていたのかと目を見開くミュゲットにアルフローレンスは天井を見上げて目を閉じる。

「これは余がいい子にしていなかった罰として与えられたもの。いい子にしていれば母親は機嫌がよかった。だが余は人形ではない。母親の望む通りばかりには動けなかった」
「……いい子じゃないって、なに?」
「母親が望むこと以外全てだ」

 自分はいつまで囚われているのか、とアルフローレンスは言った。
 父親の暴力性、支配性を受け継ぎ、気がつけば誰もが自分に怯え一人だったと言っていた彼が母親に囚われているのは『いい子』という口癖だけだと思っていたが、実際はそれだけではなく、自分が望まないことをした者に罰を与えることもそうだった。
 無意識に父親を真似た傲慢さからではなく、母親からの【虐待】によるもの。

「父親とは話すな、使用人とは話すなと言われ、女の使用人と話しているのを見られたときは特にひどく打たれた」

 息子を完全に異性として見ていたのだろう母親の心境を理解することはできない。
 その行動は息子に惚れたからではなく、息子を自分に縛り付けておくための、自分のための行動というだけ。
 母親にどんな理由があったとしてもその行動は間違いなく常軌を逸している。

「本を読むのも母親の機嫌次第だった。一緒にいるのにどうして本を読むのかと怒鳴るときもあった。戦争で勝利を持ち帰ったときも母親の機嫌が悪ければ打たれた。なぜ人を殺して喜んでいるんだと」
「そんな……」
「どんなに泣き喚こうが懇願しようが母親は怒りが収まるまで鞭を振り続けた。首を絞め、死への恐怖で服従させる。それが母親のやり方だった」

 これだけの傷が残っているということは、血が流れるほど深く皮膚が裂けたということ。痛みに泣き喚きながら懇願する息子より自分の怒りを優先させた母親に絶望しないわけがない。
 そんな人間を母親と言えるのだろうか。
 嫁いでからの環境が違うため比べても意味のないことだとはわかっているが、いつも愛情をハグや笑顔、言葉で表現してくれた母親と比べてしまう。
 我が子を鞭で打つ母親の愛情とはなんなのか──……ミュゲットには理解できない。

「エルドレッドが余と同じ目に遭っているということだけが救いだった。エルドレッドも我慢しているのだから余も我慢すると」
「エルドレッド様の身体にも同じような傷が?」
「……余以上のものがあるかもしれぬ」

 彼が言った愛と憎しみが表裏一体なのだとして、母親がアルフローレンスを虐待していたのはわかる。父親は愛してくれないのだから母親である自分に捨てられたら終わりだと思って縋り付くように仕向けていたのかもしれない。
 いい子でなければ鞭を振るい痛みを与えるが、いい子にしていれば鞭はない。いい子にしていようとそのあまりにも脆い希望に子供は縋るだろうから。
 だが、先代皇帝がエルドレッドに暴力を振るう理由がない。愛した女との子供になぜ暴力を振るっていたのか……

「奴は余が同じ苦しみの中にいると知りながら一人で逃げ出した。家を飛び出す日、エルドレッドは部屋を覗いていた。余と目があったにも関わらず、エルドレッドはそのまま扉を離れて消えてしまったのだ」

 行為に夢中の母親を刺してでも手を引いて一緒に逃げてほしかったのだろう。救いの手を差し伸べて欲しかったのだろう。
 だがエルドレッドはそうしなかった。
 一人残されたアルフローレンスは母親からだけではなく父親からも暴力を受けることになり、より深い絶望へと落ちることになった。

「お前に出会わなければ余は今でもあの二人の支配を受けていた可能性がある」

 五歳の少女に見出した希望もきっととても小さく儚いものだったのだろうが、ミュゲットは心からよかったと思っている。
 自分は何も覚えていなかったし、アルフローレンスという男の名も忘れていたのに彼にとって母親の言葉を守っただけの行動が救いとなった。それは心から喜べることである。

「いつかあなたたち兄弟が親の呪縛から解放される日が訪れることを祈ってる」
「エルドレッドは一生囚われていればよいのだ」
「そんなこと言わないの」

 十年以上が経っても許せていない感情は今後も消えることはないのだろう。
 戦場に立って人を殺すこと、兄に見捨てられたこと、母親から受ける歪んだ愛情、父親から受ける暴力……
 その全てがアルフローレンスを歪ませてしまった。笑顔を奪い、喜びや幸せという感情を彼の人生から消し去った。
 愛されたことがないから愛し方がわからない。
 アルフローレンスの愛情はちゃんとミュゲットに伝わっているが、だが彼はそれを上手く伝えられていないと思っている。
 それはアルフローレンスにとって一つの苦しみでもあった。

「フローラリアに乗り込んできたとき、私を見てどう思った?」
「美しく成長したなと思った。余の想像以上に」
「私があなたを覚えてなかったことはショックだった?」
「いや、覚えているとは思っていなかった。幼い頃に一度会っただけの相手を覚えていると期待するほうがおかしいだろう。それにあの状況で覚えていないか?と聞いたところでお前は素直に余と会話したか?」
「……しなかったと思う……」
「余は無駄なことは好かぬ」

 自分なら期待してしまうとミュゲットは思う。
 覚えていないかもしれない。でも覚えてくれているかもしれないと淡い期待を胸にしているだろう。
 全てに期待しなくなったのは彼がほとんどの感情を捨ててしまったから。
 期待しない。諦めよう。そんな感情をグラキエスに来てから何度も抱いたミュゲットですら捨てきることはできなかった。
 感情を捨てきるにはどれだけの辛さと、どれだけの時間をその辛さの中で過ごせばいいのだろうかと想像を絶する。

「お前を手に入れられただけで余は満足だった。お前にとっては不幸のどん底だっただろうがな。だがもう暴力は振るわぬと約束する。いい子にしていろとも言わぬ。だからもう二度と余の目の前から消えることだけはするな」

 感情が向くことは期待していないと言うような言葉にミュゲットはたまらず抱きついた。

「どうした?」

 急に抱きついてきたミュゲットに目を開けたアルフローレンスがその細い腰を抱き締める。

「大丈夫」

 ミュゲットの囁きにアルフローレンスの目が見開き、ゆっくりと閉じていく。吐き出される息は微かに震え、腰に回っていた腕は背中へと回って強く抱きしめた。
 それはまるで抱きしめているというより縋り付くように抱きついているようで、ミュゲットはなぜだかわからない涙を流しながらそれに応えるように腕に力を込めた。
しおりを挟む
感想 140

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました

さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。 王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ 頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。 ゆるい設定です

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

[完結]婚約破棄してください。そして私にもう関わらないで

みちこ
恋愛
妹ばかり溺愛する両親、妹は思い通りにならないと泣いて私の事を責める 婚約者も妹の味方、そんな私の味方になってくれる人はお兄様と伯父さんと伯母さんとお祖父様とお祖母様 私を愛してくれる人の為にももう自由になります

大嫌いな幼馴染の皇太子殿下と婚姻させられたので、白い結婚をお願いいたしました

柴野
恋愛
「これは白い結婚ということにいたしましょう」  結婚初夜、そうお願いしたジェシカに、夫となる人は眉を顰めて答えた。 「……ああ、お前の好きにしろ」  婚約者だった隣国の王弟に別れを切り出され嫁ぎ先を失った公爵令嬢ジェシカ・スタンナードは、幼馴染でありながら、たいへん仲の悪かった皇太子ヒューパートと王命で婚姻させられた。  ヒューパート皇太子には陰ながら想っていた令嬢がいたのに、彼女は第二王子の婚約者になってしまったので長年婚約者を作っていなかったという噂がある。それだというのに王命で大嫌いなジェシカを娶ることになったのだ。  いくら政略結婚とはいえ、ヒューパートに抱かれるのは嫌だ。子供ができないという理由があれば離縁できると考えたジェシカは白い結婚を望み、ヒューパートもそれを受け入れた。  そのはず、だったのだが……?  離縁を望みながらも徐々に絆されていく公爵令嬢と、実は彼女のことが大好きで仕方ないツンデレ皇太子によるじれじれラブストーリー。 ※こちらの作品は小説家になろうにも重複投稿しています。

まだ20歳の未亡人なので、この後は好きに生きてもいいですか?

せいめ
恋愛
 政略結婚で愛することもなかった旦那様が魔物討伐中の事故で亡くなったのが1年前。  喪が明け、子供がいない私はこの家を出て行くことに決めました。  そんな時でした。高額報酬の良い仕事があると声を掛けて頂いたのです。  その仕事内容とは高貴な身分の方の閨指導のようでした。非常に悩みましたが、家を出るのにお金が必要な私は、その仕事を受けることに決めたのです。  閨指導って、そんなに何度も会う必要ないですよね?しかも、指導が必要には見えませんでしたが…。  でも、高額な報酬なので文句は言いませんわ。  家を出る資金を得た私は、今度こそ自由に好きなことをして生きていきたいと考えて旅立つことに決めました。  その後、新しい生活を楽しんでいる私の所に現れたのは……。    まずは亡くなったはずの旦那様との話から。      ご都合主義です。  設定は緩いです。  誤字脱字申し訳ありません。  主人公の名前を途中から間違えていました。  アメリアです。すみません。    

雪解けの白い結婚 〜触れることもないし触れないでほしい……からの純愛!?〜

川奈あさ
恋愛
セレンは前世で夫と友人から酷い裏切りを受けたレスられ・不倫サレ妻だった。 前世の深い傷は、転生先の心にも残ったまま。 恋人も友人も一人もいないけれど、大好きな魔法具の開発をしながらそれなりに楽しい仕事人生を送っていたセレンは、祖父のために結婚相手を探すことになる。 だけど凍り付いた表情は、舞踏会で恐れられるだけで……。 そんな時に出会った壁の花仲間かつ高嶺の花でもあるレインに契約結婚を持ちかけられる。 「私は貴女に触れることもないし、私にも触れないでほしい」 レインの条件はひとつ、触らないこと、触ることを求めないこと。 実はレインは女性に触れられると、身体にひどいアレルギー症状が出てしまうのだった。 女性アレルギーのスノープリンス侯爵 × 誰かを愛することが怖いブリザード令嬢。 過去に深い傷を抱えて、人を愛することが怖い。 二人がゆっくり夫婦になっていくお話です。

旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます

結城芙由奈 
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】 ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。

処理中です...