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歴史書の存在

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「お前の痣も薄れてきたな」
「はい」
「痛かったか?」
「この世のものとは思えないぐらい」

 指の背で首を撫でてくるアルフローレンスにミュゲットは素直に答えることにした。

「それはお前がいい子にしていなかったせいだということを忘れるな」

 今なら相手が「あれはやりすぎだった」と反省するのではないかと淡い期待を持っていたが、やはり期待はするだけバカを見ると言うことがわかった。

「これで余から逃げようなどとは思うまい」
「そうですね」
「もう一度余のもとから逃げようとしたらあれでは済まぬぞ」

 息が止まる一歩手前だった状況から更に悪くなると言えば待ち受けるのは死のみ。裏切り者には死を、という言葉はアルフローレンスの中には常にあるのだろうと容易に想像できるため驚きはしない。
 自分の命に従わなかった者、自分の命令以外を実行した者でさえ死という罰を受けるのだから逃げるなと言われていたのに逃げればそれは命に従わなかったとして殺される。

(私がいなくなってもどうせまた捕虜の中から新しい娼婦を選ぶだけのくせに)

 口にはしないが、心の中で悪態をつく。

「寒くはないか?」
「大丈夫、ですけど……」

 風呂から上がってもいつもはこんなことを聞いたりはしない。
 いきなり気遣うような言葉をかけられると戸惑ってしまう。

「少し歩くぞ」
「え?」

 風呂場から部屋までの距離はそんなに遠くはなく、歩くのは歩くが気を遣われるほどの距離ではない。

「ど、どこへ行くのですか?」
「書庫だ」

 髪はまだ濡れている。ポタポタと髪から滴る湯が鬱陶しくないのだろうかとミュゲットのほうが気になってしまう。だが、その心配も母親のように手を焼くほどのことではない。風邪をひかれるのは困るが、雪の中、今のような薄着でも震え一つ見せないのだから平気かと自分の髪をタオルでまとめることにした。
 まだ風呂上がりで身体が温もっているため寒い廊下も少し平気だが、あっという間に熱が下がっていくのを感じる。早歩きで歩かなければ置いていかれる歩幅の違いが恨めしい。
 書庫に到着すると番人だろう兵士が立っていて、アルフローレンスの姿を見るなり全身に緊張が走ったのが見てわかった。

「開けろ」
「はっ!」

 チラッミュゲットを見た後、一人の兵士が鍵を開け、二人がかりで重厚な扉を引っ張って開ける。
 これほど重厚な扉で作られているのであれば番人など必要ないのではないかとミュゲットは思う。

「へ……?」

 実家にも書庫はあった。だが、目の前に広がる光景は自分が知る書庫とは全くの別物で、間抜けな声が漏れた。

「これはこれは! 陛下が直々にお越しくださいますとは!」

 窓の側に置いてある机に向かうと老人が驚いた顔で立ち上がり、慌てて駆け寄ってくる。

「言伝をくださればお部屋までお持ち致しましたのに!」
「よい。風呂上がりに立ち寄っただけだ」
「なるほど。わざわざお越しいただくなど恐悦至極にございます。本は全てお読みになられましたか? もしそうであれば入れ替えさせていただきますよ」
「読み終えたか?」
「いえ、まだです」
「ならまだいい」

 そのやりとりに管理人はひどく驚いた顔をした。無理もない。誰からも恐れられている男が一人の少女にどうかと聞いて答えを決める。それはここで長く働いてきた使用人でも見たことがない光景。

「では、本日はどのようなご用でお越しくださったのでしょう?」
「歴史書を出せ」
「…………あ、歴史書でございますね! かしこまりました!」

 顎が外れそうなほど大きく開けた口で数秒間黙っていたが、聞き直すことがタブーであることはこの老人もわかっているのだろう。慌てて奥へと走っていく。その後をのんびりと歩いていくアルフローレンスの後をミュゲットが早歩きで追いかける。

「これは歴代の皇帝、ですか?」
「そうだ」

 一番奥の本棚かと思っていたが違った。一番奥には扉があって、鍵を開けて中に入ると壁一面に飾られた肖像画が目に入った。家族のものはなく、一人で描かれているものばかり。誰一人として優しい顔をしている者はおらず、全員男。

「女帝はいらっしゃらなかったのですか?」
「女に統治は無理だ」
「でも偉人の中には戦場を駆けた女性もいます」
「神のお告げだなんだと信じていた愚かな聖女とやらのことか」
「信じていないのですか?」

 馬鹿馬鹿しいと言わんばかりのため息にムッとするのはミュゲットが神を信じているから。
 フローラリアは山や海の神を信じていて、感謝を捧げる日が一年に一度ある。果物や花や貝殻で作った装飾品などを備えて国民全員で感謝する。
 自然に囲まれた国でありながら天候による被害を受けないのも全て神が守ってくれているからなのだと幼い頃からそう教えられてきたのだ。だからアルフローレンスの態度に腹が立った。

「そんな顔をするな。お前の神を否定しているわけではない。信じたければ好きにすればいい。余はただそれらの類をくだらぬと思っているだけだ」
「くだらないって……」

 顔に出ていたかと自分の頬を触ると確かに唇に力が入っていた。
 カチャカチャと解錠される音にそっちへ視線を向けると肖像画の下に設置してあるガラスケースの中には一冊の本が入っていて、管理人は鍵を開けるだけで本を取り出そうとはしない。

「どうぞ」

 アルフローレンスに合わせてガラスケースに寄ると両手で抱き抱えなければならないほど大きく、これを本と呼ぶのはいかがなものかと思うほど巨大。
 こんな場所に厳重に保管される歴史書とはどれほどのものか興味が増す。

「古いですね」
「初代から続く物だ」
「だからこんなに……」

 埃は被っていないが、少し強く扱うだけで簡単に壊れてしまいそうな脆さがあった。
 
「あ、待ってください!」
「どうした?」

 取り出そうとするアルフローレンスをミュゲットが止める。
 この男が両手で取り出そうとするということはそれだけ脆い物であるということ。自分の欲だけで外へ出して剥がれでもしたらと思うと怖くなった。

「歴史書はいいです。もっと軽く見られる物だと思っていたので」
「見ればよい」
「崩れたらどうするんですか」
「新しい物を用意してそこに書き写せば済む話だ」

 簡単に言う相手にミュゲットは首を振る。

「でもこれはきっと簡単に取り出してはいけない物だと思うんです。だから、取り出さないでください」
「読みたかったのだろう? グラキエスの歴史が知りたいと言っていたではないか」

 グラキエスがいつからこんなに残酷な行いをしてきたのか知りたかった。なぜ戦争をやめないのか。そもそもの始まりは一体なんだったのか。知りたいことはたくさんあったが、ページを捲る度に剥がれるのではないかと緊張しながら読むことを天秤にかけると諦めるのを迷うことではなかった。

「よくご存じの方にお話してもらいます」
「余にねだるのか?」
「もし聞かせてくださったらお返しに私は絵本を読んであげます」
「余を子供扱いするな」
「いりませんか?」
「いらぬとは言ってない」

 管理人は開きっぱなしの口から今にも入れ歯が落ちそうだった。書庫の管理を任されているということはそれなりに長い年数をここで過ごしてきたということ。初老というのを見ても先代から仕えていた可能性が高い。マクスウェル家を見てきたのであれば驚くのも無理はない。
 人を寄せ付けず誰からの指図も受けない男がこんな小娘に対等であるかのような口を利かれて怒らないことに驚愕していた。

「手間をかけさせた」
「……はっ! と、とんでもございません! またいつでもお声かけください!」

 驚きの世界に行ったまま戻れなくなっていたが、アルフローレンスの声で元に戻ってきた。
 管理人がガラスケースの鍵を閉めている間に二人は書庫へと戻っていく。
 管理人は鍵がしっかり閉まっているかの確認をし、歴代皇帝の肖像画に深く頭を下げてから二人を追いかけた。

「へ、陛下!」

 思ったより大きな声が出てしまったことに慌てて口を押さえる管理人の様子にアルフローレンスは足を止めて言葉を待った。

「やはり陛下の素晴らしき名誉を綴られるべきではないでしょうか? グラキエスの歴史は今この瞬間も刻まれております。それなのに先代で終わらせてしまうにはあまりにも惜しい! 陛下がグラキエスの皇帝として生きられているこの歴史を──」
「必要ない」
「陛下……お言葉ではございますが、グラキエスはこれからも続いてゆくのです。陛下の代だけ空白など──」
「デニス、失望させるな。お前は聞き分けの良い人間であるはずだ」
「へ、陛下……」

 同じことを二度も言わせるなと言うこと。
 ミュゲットは今までこの言葉をずっと傲慢だと思ってきた。相手は納得できないから反論や聞き返しをするのであってワザとではない。それなのに二度同じことを言わせた者は問答無用で首を刎ねられる。血も涙もない男だと非難してきたが、実際はそれほど非道でもなかった。
 二度同じことを言う行為が嫌いでも必ず『二度同じことを言わせるな』と警告する。目の前で首を刎ねられた兵士もいたが、デニスも『失望させるな』と警告を受けた。それを優しさと解釈するのは甘すぎるとミュゲットもわかっている。脅迫や暴力を振るう最低の男だが、なぜそういう生き方しかできないのかという疑問は彼が【空白】にしようとしている過去にあるのではないかと気になっていた。

「もし、お考えが変わられたときはいつでもお越しください。この命尽きるその日まで陛下のお越しをお待ちしております」

 アルフローレンスは何も言わなかった。デニスを見下ろしたまま数秒間黙り、その後すぐに部屋を出ていった。

「歴史書に空白ができたことは?」
「ない」
「いいのですか?」
「皇帝である余の決定が全てだ」

 アルフローレンスらしい言葉だと納得してしまうのも癪だが、こういうはっきりとした答え方のほうがミュゲットも聞いていて違和感はない。

「歴史書に空白があろうとグラキエスが続けばそれでよいのだ。重要なのは歴史上に余の名が残ることではなく、グラキエスが繁栄していることだ」

 それには賛成できるが、ミュゲットはこうも思う。

(グラキエスを守り続けてきた者の名が空白の中にしまわれてしまうのはあまりにも悲しすぎる)と。

 ミュゲットはふと父親と本の感想を交わし合っていたときのことを思い出した。内容は戦争。兵士を集め、同じ場に立って、同じ剣を持って戦う。剣一本握りしめて敵陣へと駆け出し、殺されないために殺す。戦争というあまりにも残酷で悲しい出来事がなぜ繰り返されるのかがわからないミュゲットに父親はこう言った。

『戦争で得られるものは力の誇示だけだ。自分たちがいかに強いかを示すためだけにするもの。どれほど頭が悪くとも力を持つ者が勝つ。どれほど賢くとも力なき者が負ける。戦争なんて無意味でくだらないものだ。それでもやめないのは戦争という巨大すぎる力のぶつけ合いに陶酔してしまっているからだろうね』

 当時は何も思わなかったが、今思えば父親の表情や物言いはまるでそれを理解しているようだった。だが、フローラリアは戦争未経験。フローラリアだけではなく、フローラリア周辺国もそうだ。南国は戦争とは無縁の穏やかな地。荒れているのは北ばかり。
 長年生きていれば戦争に理解も示せるようになるのだろうかと父親の表情を思い出して足を止める。

「入らないのか?」
「あ、入ります」

 いつの間にか部屋の前まで戻っていたミュゲットはアルフローレンスの声に顔を上げ、慌てて部屋へと入る。

「髪が濡れたままだ」
「そうですね」
「気が利かぬ女は好かぬ」
「そうですか。髪、拭いたほうがいいですよ。風邪ひきますから」

 アルフローレンスが何を言いたいのかはわかっている。ミュゲットもそれ用のタオルを持っているが、言い方が気に食わなかったためあえて拭くとは言わなかった。
 好いてもらわなくて結構。それがミュゲットの返事。

「グラキエスの歴史を知りたくないようだな?」
「絵本の読み聞かせもいらないということですね?」

 文句あるのだろう意思を感じさせる目にミュゲットは勝ち誇った笑みを向ける。

「余の髪を拭くのはお前の仕事だ」
「素直に拭いてほしいと言ったらどうですか?」
「余が子供のように甘えているとでも言いたいのか?」
「違いますか?」
「違う。余をなんだと思っているのだ」
「言うと怒るので言いません。でも特別に拭いてあげます」
「素直に拭くと言え」

 可愛げのない男だと悪態をつきたくなるが、ミュゲットの表情は笑顔だった。
 持っていたタオルで動物を拭くようにわしゃわしゃと拭いても意外にも文句は言わない。そうなると優しく拭いてやりたくなる。

「人身掌握術でも会得してます?」
「そのようなもの会得せずとも人は余に従う」

 恐怖で支配しているからだろうというツッコミはしなかった。彼にとって人を操るのに必要なのは信頼ではなく恐怖。かくいうミュゲットもそうだ。大人しく従っているのはこれ以上痛い思いをしたくないから。
 可哀想な人だという同情からミュゲットは拭く手を止めて二回だけ頭を撫でた。アルフローレンスは何も言わない。それでいい。なんのつもりだと言われると説明が面倒だとミュゲットはまたタオルを動かし始めた。
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