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呼び捨て
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「あ……ありがとうございます」
アルフローレンスの口から「好き」という言葉が出るとは思ってもいなかったのもあって驚いた。それも自分の瞳の色に対して言うなどとは想像もしていなかっただけに戸惑いが隠せない。
「アルフローレンスの瞳は氷のような色ですね」
「気に入ったか?」
「キレイだと思います」
気に入りはしない。氷のように冷たい瞳だ。色だけは美しいとは思うが、それを気にいることはない。
「い、行きましょうか」
なんだかぎこちなくなってしまいそうで今の雰囲気を断ち切るように声をかけて外へと向かおうとするが、アルフローレンスが腕を掴むことでミュゲットの足が止まる。
「手が暖かくなってますね」
腕を掴む手は暖かい。ミュゲットは彼の身体が本当に不思議でならなかった。
「まずはここから景色を見る」
「外に行かないんですか?」
「お前が見てきた景色を見る」
できればベッドから離れたいと警戒心を解けないミュゲットだが、渋々従って一緒にバルコニーに出た。
久しぶりに見る景色にミュゲットは大きく息を吸い込んでゆっくりと長く吐いていく。
「語ってよいぞ」
急に語れと言われても困るが、フローラリアがいかに素晴らしいかを説明してやりたいという気持ちもあった。グラキエスよりもずっと美しくて素晴らしい国なのだと。
「朝起きるとまずここに立って深呼吸するんです。眩しい太陽と青い空を見て、目の前に広がる海を眺め……」
それから家族と食事をしていた。だけど両親はもうこの世にはおらず、妹とは仲違い。あの日々が戻ることはもうない。
「なぜこの景色を好いていた?」
「美しいからです」
「毎日見ていれば飽きるだろう」
「同じ女を毎日抱いていて飽きませんでしたか?」
「ふむ……そう言われればそうだな。飽きぬこともあるか」
飽きたくせにと言うのは心にしまって納得した相手に小さく頷く。
「波の音が聞こえるでしょう」
「ああ」
「この音が好きなんです。風が木々を揺らすのも、花が彩る景色も、人々が歩く様子も……全部好きなんです」
フローラリアはミュゲットが思っていた国ではなかった。貞操観念がしっかりしていると思っていたのが、まさかの真逆で性に奔放な国だった。
気にしたことがなかった男女の集団も性を知った今、違う目で見てしまいそうであまり下は見ないようにしている。
視界に入れるのは今も変わらない空や海といった景色。
「グラキエスは気に入らなかったか?」
「一面雪だらけで寂しいですね」
「余は天気だけはどうしてやることもできぬ」
「一度も晴れたことがないんですか?」
「ない。余がこのような青い空を見るのは他国でのみだ」
その他国で見るときはフローラリアを攻め落としたときのように侵略したときなのだろうと思うと笑顔にはなれない。それに、この美しい青空をいつでも眺めることができないというのはあまりにも寂しい。
「星空を見上げたことは?」
「ない」
「他国でも?」
「ない。空を見上げてなんになる」
寂しい人だと思った。価値観の違いだとわかっていても、あれだけ美しい星空もアルフローレンスには見る価値のないものなのだと思うと寂しい。
この人にはどういう女性が合うのだろうと想像しようにも想像できない。何かを一緒に楽しむこともできず、命令ばかりで反論も許さない男をどうやって受け入れ、愛すのか。
「でも今日、フローラリアの星空を見たらきっとそうは言えなくなりますよ」
「すごい自信だな」
「今日は良い天気ですし、星がよく見えるはずです。フローラリアの星空はとても美しいんですよ。グラキエスも雪が止んで雲が消えればとても美しい星空が見えると思います。もしかするとフローラリアより美しいかもしれないですね」
気候から考えると空気が澄んでいるのはグラキエスで、フローラリアより美しい星空が見えるのは間違いない。
「見てみたいか?」
答えにくい質問だと思わず黙りこむ。もうグラキエスには戻らない。雪が止んで雲が消えて満天の星空が見えるようになったと言われても戻りたくはない。空気が澄んでいるほど星空はハッキリと見え、息をのむほど美しい星空と聞くため興味がないわけではないが見たいと即答もできなかった。
「でも晴れないんですよね?」
「そうだ」
「……見れないですよね?」
「お前が見たいと言うのなら魔術師たちに雲を消滅させる」
困った。この男なら本当にやりかねない。アルフローレンスに命令された魔術師たちも死にたくないため死に物狂いでやり遂げてしまいそうだとミュゲットは海を見つめながら瞬きを繰り返す。
「グラキエスが嫌いか?」
「そういうわけでは……」
なぜそういう聞き方をするのだろうかと文句を言いたくなる。これが威圧的な態度で聞いてくるのであればいいが、どことなく縋っているように感じてしまいハッキリ断れない。
相手は憎むべき男なのに一緒にいる時間が長くなるに連れて威圧的な態度は確かに減っているのだ。
誰からも恐れられ一人ぼっちの皇帝。陽の当たらない凍えるような国で笑うことさえない男。哀れであり、寂しくもあった。
「次に行きたい場所はありますか?」
「お前の好きな場所でいい」
「国中歩くことになりますよ?」
「かまわぬ。お前より体力はある」
やれやれと首を振ったミュゲットはバルコニーから一階へと続く螺旋階段をゆっくりと降りていく。ここを降りていくのは久しぶりで、幼い頃はよく使っていたが、成長するにつれてほとんど使わなくなっていった。
「鍾乳洞とやらか」
「よくご存知ですね。静かで涼しくて好きなんです」
「確かに静かだな」
ここにアルフローレンスを連れてきたのは好きな場所というのもあるが、人がほとんど来ないからというのもある。理由としてはそっちが正しい。
きっとフローラリアの民はアルフローレンスを歓迎しない。歓迎しないだけならまだいいが、怒声、あるいは物をぶつける可能性もある。そんなことをしたら確実に首が飛ぶ。人の命をなんとも思っていないこの男にとってフローラリアの民の首に価値などないのだから。
それだけは避けたいと思い、ここに連れてきた。
「グラキエスにこういう場所はありますか?」
「氷の洞窟と呼ばれている場所がある」
「氷の洞窟?」
「その名の通り、氷で作られた洞窟だ。分厚い氷の下に海が見え、それが洞窟を青く照らしているらしい」
「らしい?」
「余は暇ではないからな。行ったことはない。グラキエスの観光名所の一つだと聞いたことがあるだけだが、興味があるなら余が直々に連れて行ってやる。場所はちょうどアローぺクスの生息地だ。ついでに見て帰ることもできるぞ」
優しさによるものなのだろうかと考えてしまうほど穏やかに話す男は別人なのではないかと思うことがここ最近多い。何をするにしても一応要望は聞いてくれる。予定は勝手に立てられてしまうのだが。それでも少し柔和になるときがあるような気がすることが増えた。表情こそ変わらないものの雰囲気で感じ取れる。
彼も人の子。まだ心は残っているのかもしれないと思わないでもなかった。
「へえ、ここが穴場七日」
「すごいでしょ! 滅多に人が来ないから……って、先客はいるみたいだけど」
聞き覚えのある声が二人分。フランはすぐにわかった。だがもう一人は誰だと聞き覚えがありながらすぐには思い出せないでいた。エルムントではないことは確か。誰だと考えていると入口から入ってきた二人の姿にミュゲットは目を見開いた。
「あなたは……」
「やあ、ミュゲットちゃん」
「どうしてあなたが……」
フランと一緒にいたのはエルムントではなくエルドレッドだった。なぜ彼が一緒にいるのか理由がわからずフランを見るもフランは背の高さから見下すようにミュゲットを見ているだけでなぜ一緒にいるのかを答えようとしない。
「フローラリアで舞うって聞いてね、見に来たんだよ」
「そう、ですか……」
聞きたいのはそんなことじゃない。なぜフランと親しげに歩いているのか、だ。
「エルムントはどうしたの……」
「さあ? どっかにいるんじゃない?」
「あなたの専属騎士でしょ」
「彼を案内するからどっか行ってって言ったの。ほら、エルムントは案内しなくても知ってるでしょ? 踏み込んできたんだから」
クスクスッと笑うフランの身勝手さにミュゲットは眉を寄せる。
グラキエスで舞った褒美としてエルムントを専属騎士にしてほしいと頼んだのはフランだ。エルムントからではない。エルムントと二人で暮らすからあの家には帰ってくるなと言ったのもフラン。それがエルドレッドという権力者と知り合った途端に鞍替えするなどミュゲットには信じられない行為だった。
「アル、お前も案内してもらっていたのか」
エルドレッドは笑顔で気さくに話しかけるが返事はしなかった。
「やっぱりフローラリアは素晴らしい国だな。美しいよ」
「フローラリアの女は美しいでしょ。褐色肌が魅力なの。まあ、どっかにはフローラリア出身のくせに色白の女もいるみたいだけど」
フローラリアにいて色白なのはミュゲットだけ。それはミュゲットにとってコンプレックスの一つでもあった。
褐色肌は衣装が映えて美しい。フローラリアの伝統衣装を着て鏡の前に立つ度にミュゲットはいつも苦笑していた。褐色肌ではない自分はこの国に受け入れられていない気がすると思うこともあった。
そんな悩みをミュゲットから聞いていたフランはすかさずそこを攻める。
「女であればなんでもいいようだな」
「なんでもというわけではないさ。フランは美しい女性だ。そうだろう?」
「やだ、エルドレッド様ったら正直者なんだから」
エルドレッドという人間の詳細をミュゲットは知らない。知っているのは名前だけだ。だから彼がフランに対して本気なのか遊びなのか判断はできないが、アルフローレンスの言い方から察するに女遊びの激しい男であることは間違いないと確信する。しかし、決めつけたように発言できるのはアルフローレンスだけ。もしここで仮にミュゲットが決めつけた発言をすることがアルフローレンスに許されたとしてもフランは許さないだろう。烈火の如く怒りを露わにしてミュゲットを非難するに違いない。
「ミュゲットちゃん、今日はアルフローレンスの妖精の舞を楽しみにして──」
握手しようと伸ばしたエルドレッドの手をアルフローレンスが掴んだ。その直後、エルドレッドの手がピキピキと音を立てて凍っていく。
「指の皮一枚でも触れてみろ、全身の皮を剥いでやる」
「アル、俺がしようとしたのは握手のつもりだったんだ」
「貴様の薄汚い手と握手だと? 笑わせるな」
「握手はコミュニケーションの基本だぞ?」
「黙れ」
腕が凍っているというのに焦らないエルドレッドにミュゲットとフランだけが不安げな表情で見ている。
「このまま腕を粉砕してやってもよいのだぞ」
「できると思うか? お前より俺のほうが魔法速度は速い」
「幼少期の話でいつまでも勝ち誇ったつもりでいられるとはな。さすがはあの愚者である先代が愛した男だ」
「そういうお前は母親──ッ!」
手首から肘にかけて薄く張っていた氷が一瞬で指先まで凍らせ、その氷が分厚くなっていく。涼しかった洞窟は無意識に肌を擦るほど冷え始め、垂れ下がった鍾乳石が氷を纏い、氷柱と化している。
「こんな狭い場所で俺とお前の魔法をぶつけ合うつもりか? 爆発が起きるぞ」
「貴様が今すぐ余の前から消えれば済む話だ」
「生憎だが、今日はこのお姫様をエスコートする役割を仰せつかってるんでね。俺がいなくなればフラン王女はきっと踊らなくなるぞ」
「だって今日はエルドレッド様に見せるために舞うんだもの。フランの舞、ちゃんと見ててね」
エルドレッドの胸に寄り添うように身体を預け、エルドレッドはそれを片腕で抱き締める。
フローラリアの舞を完璧な状態で見るにはフランに消えられるわけにはいかない。アルフローレンスがここにいるのはフローラリアの舞を本場で見るため。エルドレッドは煩わしいが、その言葉に間違いはなさそうだと判断して腕から手を離した。
「アルフローレンス様、そんなにお怒りにならないで。エルドレッド様は兄弟仲良くしたいだけなんだから、ね?」
「フラン、弟に触るな。君の細腕じゃ氷には耐えられない。やめておけ」
アルフローレンスに手を伸ばそうとするのをエルドレッドが止める。腕を固めている氷に触れて溶かしたエルドレッドの言葉にフランは嬉しそうに笑い、真っ赤になっているエルドレッドの腕を撫でた。
「どうしてお兄ちゃんにこんなひどいことを?」
「自分を棚に上げる気分とはどんなものだ?」
「何が?」
「姉を見下す自分を棚に上げて余を非難するつもりか?」
アルフローレンスの言葉にフランは機嫌を悪くしたような顔を見せる。こういう顔をするときのフランは面倒だとミュゲットは知っている。
柔和な話し方をして言葉を選び、女性を持ち上げてくれるエルドレッドと違ってアルフローレンスは相手が誰であろうと言葉は選ばない。何より、表情も声も冷たい状態でその言い方をされることにフランは慣れていない。
「フローラリアは女性を敬う文化があるのをご存知?」
「フローラリアは今や余の支配下にある。過去の文化など知らぬ」
フローラリアは自分たちの両親がいた頃と変わらない光景を維持していると言えど、持ち主は違う。エルドレッドのように“王女“と呼ぶ必要はない。
「フランは優秀だもん! ミュゲットよりずっとね! 人気だってあるし!」
「そう思っているのは貴様だけだろう」
「自分だってそうでしょ! 顔しか取り柄がないくせに! 優しさだって思いやりだってエルドレッド様のほうがずっとずっと上なんだから!」
「偽りを受け取り、それだけ舞い上がれるのだからめでたい女だ」
「フランをバカにしないでよ! アンタなんかミュゲットなんか選んだ時点で見る目ないのよ! エルドレッド様はフランを選んでくれたんだもの! 最初からデキが違うって誰でもわかるわ!」
「だから貴様はめでたい女だというのだ」
アルフローレンスに気分を害した様子はなかった。洞窟に響き渡るほど大きく甲高い声でムキになって返すフランとは反対に淡々と返していく様子はまさに大人と子供。それがまたフランは気に入らない。
「フラン、俺を庇ってくれるのは嬉しいけど君がバカにされるのは辛いよ。だからもういいんだ」
「ヤダヤダ! どうしてエルドレッド様がバカにされなきゃいけないのよ! お兄ちゃんなんだから皇帝になるのはエルドレッド様でしょ!?」
「俺には向いてなかった。それだけだよ」
「逃げ出したぐらいだからな」
「追い出したんでしょ!」
「フラン、何も知らないのにそんな言い方しないの」
「うるさい! アンタには言ってないから! 男に媚びるしかできない能無しのくせに偉そうに言わないでよ!」
まだ心のどこか、片隅のほんの小さな場所では淡い期待を捨てられずにいた。いつか仲直りできるのではないかと。今は男に熱を上げているから姉の言葉が鬱陶しく感じるのではないかと。エルムントとの仲が進んで、もし家族になれば丸くなって笑い話にできるのではないかと。
諦めと期待を交互に繰り返しながら未だに捨てられないでいる愚かな感情。
そんな期待するだけ無駄だと何度繰り返せばわかるのだろうと自嘲さえ浮かばない。
「アルフローレンス行きましょう。他の場所を案内します」
「言いたければ言い返せばよい。余が許す」
「いいんです。ここで時間を無駄にする必要ないですから」
「言われたままでよいと? お前が負け犬根性を持っていたとはな」
いつもならなんでここでこの男にまで嫌味を言われなければならないんだと眉を寄せるが今はそう思わない。今はただフランと同じ空間にいたくないためさっさと洞窟を出たかった。
「呼び捨てを許しているとは意外だな」
「黙れ。口を開くな」
エルドレッドが驚いた顔をするのをミュゲットは一瞬だけ横目で見た。この言葉を聞けばフランは更にミュゲットがアルフローレンスに媚びて勝ち取ったのだと思うだろう。どれだけ弁明しようとも呼び捨てにしている事実は変わらないし、真実を言ってもフランは信じないとわかっているためミュゲットは何も言わずにアルフローレンスの手を握って軽く引っ張ったが動かない。
「なぜ先に来た余が去らねばならぬのだ」
先に来たのだから先に出てもおかしくはないと言いたいが、言い返しても口で勝てる気がしないためミュゲットは賭けに出た。
「アル」
「…………」
エルドレッドがそう呼んでいたからミュゲットもそう呼んでみた。最近のアルフローレンスの気まぐれによる優しさを利用した賭け。アルフローレンスと呼べるのは本人がそう呼べと命令したからだが、愛称で呼べとは言われていない。自分が命じた以外のことをされるのが嫌いなアルフローレンスがそれを許すかどうかは賭けでしかなく、それでもまだ自分を気に入ってくれている気持ちがほんの少しでも残っているのなら言うことを聞いてほしいと願い、目で訴えた。
しばらく見つめ合う無言の時間が辛い。早く返事をしてと願っているのにアルフローレンスは口を開かない。
「アル」
ダメもとでもう一度呼んでみる。
「別の場所に──ッ!?」
「行くぞ」
ミュゲットを抱き上げてそのまま去っていくアルフローレンスにエルドレッドはひどく驚いた顔をしていた。
アルフローレンスの口から「好き」という言葉が出るとは思ってもいなかったのもあって驚いた。それも自分の瞳の色に対して言うなどとは想像もしていなかっただけに戸惑いが隠せない。
「アルフローレンスの瞳は氷のような色ですね」
「気に入ったか?」
「キレイだと思います」
気に入りはしない。氷のように冷たい瞳だ。色だけは美しいとは思うが、それを気にいることはない。
「い、行きましょうか」
なんだかぎこちなくなってしまいそうで今の雰囲気を断ち切るように声をかけて外へと向かおうとするが、アルフローレンスが腕を掴むことでミュゲットの足が止まる。
「手が暖かくなってますね」
腕を掴む手は暖かい。ミュゲットは彼の身体が本当に不思議でならなかった。
「まずはここから景色を見る」
「外に行かないんですか?」
「お前が見てきた景色を見る」
できればベッドから離れたいと警戒心を解けないミュゲットだが、渋々従って一緒にバルコニーに出た。
久しぶりに見る景色にミュゲットは大きく息を吸い込んでゆっくりと長く吐いていく。
「語ってよいぞ」
急に語れと言われても困るが、フローラリアがいかに素晴らしいかを説明してやりたいという気持ちもあった。グラキエスよりもずっと美しくて素晴らしい国なのだと。
「朝起きるとまずここに立って深呼吸するんです。眩しい太陽と青い空を見て、目の前に広がる海を眺め……」
それから家族と食事をしていた。だけど両親はもうこの世にはおらず、妹とは仲違い。あの日々が戻ることはもうない。
「なぜこの景色を好いていた?」
「美しいからです」
「毎日見ていれば飽きるだろう」
「同じ女を毎日抱いていて飽きませんでしたか?」
「ふむ……そう言われればそうだな。飽きぬこともあるか」
飽きたくせにと言うのは心にしまって納得した相手に小さく頷く。
「波の音が聞こえるでしょう」
「ああ」
「この音が好きなんです。風が木々を揺らすのも、花が彩る景色も、人々が歩く様子も……全部好きなんです」
フローラリアはミュゲットが思っていた国ではなかった。貞操観念がしっかりしていると思っていたのが、まさかの真逆で性に奔放な国だった。
気にしたことがなかった男女の集団も性を知った今、違う目で見てしまいそうであまり下は見ないようにしている。
視界に入れるのは今も変わらない空や海といった景色。
「グラキエスは気に入らなかったか?」
「一面雪だらけで寂しいですね」
「余は天気だけはどうしてやることもできぬ」
「一度も晴れたことがないんですか?」
「ない。余がこのような青い空を見るのは他国でのみだ」
その他国で見るときはフローラリアを攻め落としたときのように侵略したときなのだろうと思うと笑顔にはなれない。それに、この美しい青空をいつでも眺めることができないというのはあまりにも寂しい。
「星空を見上げたことは?」
「ない」
「他国でも?」
「ない。空を見上げてなんになる」
寂しい人だと思った。価値観の違いだとわかっていても、あれだけ美しい星空もアルフローレンスには見る価値のないものなのだと思うと寂しい。
この人にはどういう女性が合うのだろうと想像しようにも想像できない。何かを一緒に楽しむこともできず、命令ばかりで反論も許さない男をどうやって受け入れ、愛すのか。
「でも今日、フローラリアの星空を見たらきっとそうは言えなくなりますよ」
「すごい自信だな」
「今日は良い天気ですし、星がよく見えるはずです。フローラリアの星空はとても美しいんですよ。グラキエスも雪が止んで雲が消えればとても美しい星空が見えると思います。もしかするとフローラリアより美しいかもしれないですね」
気候から考えると空気が澄んでいるのはグラキエスで、フローラリアより美しい星空が見えるのは間違いない。
「見てみたいか?」
答えにくい質問だと思わず黙りこむ。もうグラキエスには戻らない。雪が止んで雲が消えて満天の星空が見えるようになったと言われても戻りたくはない。空気が澄んでいるほど星空はハッキリと見え、息をのむほど美しい星空と聞くため興味がないわけではないが見たいと即答もできなかった。
「でも晴れないんですよね?」
「そうだ」
「……見れないですよね?」
「お前が見たいと言うのなら魔術師たちに雲を消滅させる」
困った。この男なら本当にやりかねない。アルフローレンスに命令された魔術師たちも死にたくないため死に物狂いでやり遂げてしまいそうだとミュゲットは海を見つめながら瞬きを繰り返す。
「グラキエスが嫌いか?」
「そういうわけでは……」
なぜそういう聞き方をするのだろうかと文句を言いたくなる。これが威圧的な態度で聞いてくるのであればいいが、どことなく縋っているように感じてしまいハッキリ断れない。
相手は憎むべき男なのに一緒にいる時間が長くなるに連れて威圧的な態度は確かに減っているのだ。
誰からも恐れられ一人ぼっちの皇帝。陽の当たらない凍えるような国で笑うことさえない男。哀れであり、寂しくもあった。
「次に行きたい場所はありますか?」
「お前の好きな場所でいい」
「国中歩くことになりますよ?」
「かまわぬ。お前より体力はある」
やれやれと首を振ったミュゲットはバルコニーから一階へと続く螺旋階段をゆっくりと降りていく。ここを降りていくのは久しぶりで、幼い頃はよく使っていたが、成長するにつれてほとんど使わなくなっていった。
「鍾乳洞とやらか」
「よくご存知ですね。静かで涼しくて好きなんです」
「確かに静かだな」
ここにアルフローレンスを連れてきたのは好きな場所というのもあるが、人がほとんど来ないからというのもある。理由としてはそっちが正しい。
きっとフローラリアの民はアルフローレンスを歓迎しない。歓迎しないだけならまだいいが、怒声、あるいは物をぶつける可能性もある。そんなことをしたら確実に首が飛ぶ。人の命をなんとも思っていないこの男にとってフローラリアの民の首に価値などないのだから。
それだけは避けたいと思い、ここに連れてきた。
「グラキエスにこういう場所はありますか?」
「氷の洞窟と呼ばれている場所がある」
「氷の洞窟?」
「その名の通り、氷で作られた洞窟だ。分厚い氷の下に海が見え、それが洞窟を青く照らしているらしい」
「らしい?」
「余は暇ではないからな。行ったことはない。グラキエスの観光名所の一つだと聞いたことがあるだけだが、興味があるなら余が直々に連れて行ってやる。場所はちょうどアローぺクスの生息地だ。ついでに見て帰ることもできるぞ」
優しさによるものなのだろうかと考えてしまうほど穏やかに話す男は別人なのではないかと思うことがここ最近多い。何をするにしても一応要望は聞いてくれる。予定は勝手に立てられてしまうのだが。それでも少し柔和になるときがあるような気がすることが増えた。表情こそ変わらないものの雰囲気で感じ取れる。
彼も人の子。まだ心は残っているのかもしれないと思わないでもなかった。
「へえ、ここが穴場七日」
「すごいでしょ! 滅多に人が来ないから……って、先客はいるみたいだけど」
聞き覚えのある声が二人分。フランはすぐにわかった。だがもう一人は誰だと聞き覚えがありながらすぐには思い出せないでいた。エルムントではないことは確か。誰だと考えていると入口から入ってきた二人の姿にミュゲットは目を見開いた。
「あなたは……」
「やあ、ミュゲットちゃん」
「どうしてあなたが……」
フランと一緒にいたのはエルムントではなくエルドレッドだった。なぜ彼が一緒にいるのか理由がわからずフランを見るもフランは背の高さから見下すようにミュゲットを見ているだけでなぜ一緒にいるのかを答えようとしない。
「フローラリアで舞うって聞いてね、見に来たんだよ」
「そう、ですか……」
聞きたいのはそんなことじゃない。なぜフランと親しげに歩いているのか、だ。
「エルムントはどうしたの……」
「さあ? どっかにいるんじゃない?」
「あなたの専属騎士でしょ」
「彼を案内するからどっか行ってって言ったの。ほら、エルムントは案内しなくても知ってるでしょ? 踏み込んできたんだから」
クスクスッと笑うフランの身勝手さにミュゲットは眉を寄せる。
グラキエスで舞った褒美としてエルムントを専属騎士にしてほしいと頼んだのはフランだ。エルムントからではない。エルムントと二人で暮らすからあの家には帰ってくるなと言ったのもフラン。それがエルドレッドという権力者と知り合った途端に鞍替えするなどミュゲットには信じられない行為だった。
「アル、お前も案内してもらっていたのか」
エルドレッドは笑顔で気さくに話しかけるが返事はしなかった。
「やっぱりフローラリアは素晴らしい国だな。美しいよ」
「フローラリアの女は美しいでしょ。褐色肌が魅力なの。まあ、どっかにはフローラリア出身のくせに色白の女もいるみたいだけど」
フローラリアにいて色白なのはミュゲットだけ。それはミュゲットにとってコンプレックスの一つでもあった。
褐色肌は衣装が映えて美しい。フローラリアの伝統衣装を着て鏡の前に立つ度にミュゲットはいつも苦笑していた。褐色肌ではない自分はこの国に受け入れられていない気がすると思うこともあった。
そんな悩みをミュゲットから聞いていたフランはすかさずそこを攻める。
「女であればなんでもいいようだな」
「なんでもというわけではないさ。フランは美しい女性だ。そうだろう?」
「やだ、エルドレッド様ったら正直者なんだから」
エルドレッドという人間の詳細をミュゲットは知らない。知っているのは名前だけだ。だから彼がフランに対して本気なのか遊びなのか判断はできないが、アルフローレンスの言い方から察するに女遊びの激しい男であることは間違いないと確信する。しかし、決めつけたように発言できるのはアルフローレンスだけ。もしここで仮にミュゲットが決めつけた発言をすることがアルフローレンスに許されたとしてもフランは許さないだろう。烈火の如く怒りを露わにしてミュゲットを非難するに違いない。
「ミュゲットちゃん、今日はアルフローレンスの妖精の舞を楽しみにして──」
握手しようと伸ばしたエルドレッドの手をアルフローレンスが掴んだ。その直後、エルドレッドの手がピキピキと音を立てて凍っていく。
「指の皮一枚でも触れてみろ、全身の皮を剥いでやる」
「アル、俺がしようとしたのは握手のつもりだったんだ」
「貴様の薄汚い手と握手だと? 笑わせるな」
「握手はコミュニケーションの基本だぞ?」
「黙れ」
腕が凍っているというのに焦らないエルドレッドにミュゲットとフランだけが不安げな表情で見ている。
「このまま腕を粉砕してやってもよいのだぞ」
「できると思うか? お前より俺のほうが魔法速度は速い」
「幼少期の話でいつまでも勝ち誇ったつもりでいられるとはな。さすがはあの愚者である先代が愛した男だ」
「そういうお前は母親──ッ!」
手首から肘にかけて薄く張っていた氷が一瞬で指先まで凍らせ、その氷が分厚くなっていく。涼しかった洞窟は無意識に肌を擦るほど冷え始め、垂れ下がった鍾乳石が氷を纏い、氷柱と化している。
「こんな狭い場所で俺とお前の魔法をぶつけ合うつもりか? 爆発が起きるぞ」
「貴様が今すぐ余の前から消えれば済む話だ」
「生憎だが、今日はこのお姫様をエスコートする役割を仰せつかってるんでね。俺がいなくなればフラン王女はきっと踊らなくなるぞ」
「だって今日はエルドレッド様に見せるために舞うんだもの。フランの舞、ちゃんと見ててね」
エルドレッドの胸に寄り添うように身体を預け、エルドレッドはそれを片腕で抱き締める。
フローラリアの舞を完璧な状態で見るにはフランに消えられるわけにはいかない。アルフローレンスがここにいるのはフローラリアの舞を本場で見るため。エルドレッドは煩わしいが、その言葉に間違いはなさそうだと判断して腕から手を離した。
「アルフローレンス様、そんなにお怒りにならないで。エルドレッド様は兄弟仲良くしたいだけなんだから、ね?」
「フラン、弟に触るな。君の細腕じゃ氷には耐えられない。やめておけ」
アルフローレンスに手を伸ばそうとするのをエルドレッドが止める。腕を固めている氷に触れて溶かしたエルドレッドの言葉にフランは嬉しそうに笑い、真っ赤になっているエルドレッドの腕を撫でた。
「どうしてお兄ちゃんにこんなひどいことを?」
「自分を棚に上げる気分とはどんなものだ?」
「何が?」
「姉を見下す自分を棚に上げて余を非難するつもりか?」
アルフローレンスの言葉にフランは機嫌を悪くしたような顔を見せる。こういう顔をするときのフランは面倒だとミュゲットは知っている。
柔和な話し方をして言葉を選び、女性を持ち上げてくれるエルドレッドと違ってアルフローレンスは相手が誰であろうと言葉は選ばない。何より、表情も声も冷たい状態でその言い方をされることにフランは慣れていない。
「フローラリアは女性を敬う文化があるのをご存知?」
「フローラリアは今や余の支配下にある。過去の文化など知らぬ」
フローラリアは自分たちの両親がいた頃と変わらない光景を維持していると言えど、持ち主は違う。エルドレッドのように“王女“と呼ぶ必要はない。
「フランは優秀だもん! ミュゲットよりずっとね! 人気だってあるし!」
「そう思っているのは貴様だけだろう」
「自分だってそうでしょ! 顔しか取り柄がないくせに! 優しさだって思いやりだってエルドレッド様のほうがずっとずっと上なんだから!」
「偽りを受け取り、それだけ舞い上がれるのだからめでたい女だ」
「フランをバカにしないでよ! アンタなんかミュゲットなんか選んだ時点で見る目ないのよ! エルドレッド様はフランを選んでくれたんだもの! 最初からデキが違うって誰でもわかるわ!」
「だから貴様はめでたい女だというのだ」
アルフローレンスに気分を害した様子はなかった。洞窟に響き渡るほど大きく甲高い声でムキになって返すフランとは反対に淡々と返していく様子はまさに大人と子供。それがまたフランは気に入らない。
「フラン、俺を庇ってくれるのは嬉しいけど君がバカにされるのは辛いよ。だからもういいんだ」
「ヤダヤダ! どうしてエルドレッド様がバカにされなきゃいけないのよ! お兄ちゃんなんだから皇帝になるのはエルドレッド様でしょ!?」
「俺には向いてなかった。それだけだよ」
「逃げ出したぐらいだからな」
「追い出したんでしょ!」
「フラン、何も知らないのにそんな言い方しないの」
「うるさい! アンタには言ってないから! 男に媚びるしかできない能無しのくせに偉そうに言わないでよ!」
まだ心のどこか、片隅のほんの小さな場所では淡い期待を捨てられずにいた。いつか仲直りできるのではないかと。今は男に熱を上げているから姉の言葉が鬱陶しく感じるのではないかと。エルムントとの仲が進んで、もし家族になれば丸くなって笑い話にできるのではないかと。
諦めと期待を交互に繰り返しながら未だに捨てられないでいる愚かな感情。
そんな期待するだけ無駄だと何度繰り返せばわかるのだろうと自嘲さえ浮かばない。
「アルフローレンス行きましょう。他の場所を案内します」
「言いたければ言い返せばよい。余が許す」
「いいんです。ここで時間を無駄にする必要ないですから」
「言われたままでよいと? お前が負け犬根性を持っていたとはな」
いつもならなんでここでこの男にまで嫌味を言われなければならないんだと眉を寄せるが今はそう思わない。今はただフランと同じ空間にいたくないためさっさと洞窟を出たかった。
「呼び捨てを許しているとは意外だな」
「黙れ。口を開くな」
エルドレッドが驚いた顔をするのをミュゲットは一瞬だけ横目で見た。この言葉を聞けばフランは更にミュゲットがアルフローレンスに媚びて勝ち取ったのだと思うだろう。どれだけ弁明しようとも呼び捨てにしている事実は変わらないし、真実を言ってもフランは信じないとわかっているためミュゲットは何も言わずにアルフローレンスの手を握って軽く引っ張ったが動かない。
「なぜ先に来た余が去らねばならぬのだ」
先に来たのだから先に出てもおかしくはないと言いたいが、言い返しても口で勝てる気がしないためミュゲットは賭けに出た。
「アル」
「…………」
エルドレッドがそう呼んでいたからミュゲットもそう呼んでみた。最近のアルフローレンスの気まぐれによる優しさを利用した賭け。アルフローレンスと呼べるのは本人がそう呼べと命令したからだが、愛称で呼べとは言われていない。自分が命じた以外のことをされるのが嫌いなアルフローレンスがそれを許すかどうかは賭けでしかなく、それでもまだ自分を気に入ってくれている気持ちがほんの少しでも残っているのなら言うことを聞いてほしいと願い、目で訴えた。
しばらく見つめ合う無言の時間が辛い。早く返事をしてと願っているのにアルフローレンスは口を開かない。
「アル」
ダメもとでもう一度呼んでみる。
「別の場所に──ッ!?」
「行くぞ」
ミュゲットを抱き上げてそのまま去っていくアルフローレンスにエルドレッドはひどく驚いた顔をしていた。
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