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エリスローズは嘲笑する

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 城に入るまでに何度驚いたかわからない。
 豊かな緑に人の多さ、道の広さ、空の広さ。
 二人並んで歩けない狭い道。木も花も育たない陽の当たらぬ敷地。遠すぎて白く見えていた青空。
 世界はこんなにも美しいものなのだと何度も驚いた。
 だが今、エリスローズは今までの人生の中で一番の驚きに遭遇している。

「こっちから入るの?」
「そうだ。王妃様が留守であることを知っているのは一部の使用人だけだ。表から入ってバレては困るからな」
「ふーん」

 正面玄関ではなく裏口に回った馬車が停車したのを合図に急いで馬車から降りた。

「こっちだ」

 裏口に着いたが裏口から入るわけではなく、裏口の近くにある螺旋階段を使って二階へと上がっていく。
 
「すごい……」
「ここは王太子妃エリーナ様のお部屋だ。何にも手を触れるな」
 
 与えてもらった屋敷の豪華さにも驚いたが、ここの部屋にも驚いた。
 天井から吊り下げられているシャンデリアの豪華さもそうだが、あちこちに飾ってある小物も目を奪われる。
 見たことがないほど美しい物ばかり。
 シンプルだった王太子の別荘と違って王太子妃の部屋は絢爛豪華そのもの。

「ここまで汚い生き物は見たことがありません」

 ドアが開く音のあとに聞こえた声に振り向くと五十代ぐらいだろう女性の見下すような目と視線が合った。
 疑うまでもなく自分に言っているのだろうことに気付いたエリスローズが睨みつける。

「なんですか、その目は」
「おばさん、誰──ッ!」

 おばさんと言ったエリスローズの手に鋭い痛みが走った。
 何事かと手を見ると甲に赤い痕が残っている。
 女性が右手に持っている鞭で自分の左手をポンポンと二回叩く。

「私は今日からあなたの教育係となるバーバラです」
「教育係ね。字を読めるようにしてくれるの?」
「いいえ、ない品性をあるように見せるのが私の役目です」

 与えるのではなくあくまでも見せるというだけ。
 できないと思ってのことだろうとエリスローズは鼻で笑う。

「スラム街の女にエリーナ様に似ている者がいると聞いたときはゾッとしましたが、こうして目の前で見ると吐き気がしますね」
「吐いたら?」
「お前の顔に吐いてやりましょうか?」
「品性のない人間って誰のことだか──ッ! 痛いんだけど!」

 嘲笑するエリスローズの手の甲を鞭打つバーバラの早業。慣れている証拠だ。

「そのヘドロのような汚れを落としに行きますよ」

 味方がいるとは思っていない。そんな甘い想像をするほどエリスローズはバカではないのだ。
 この国に自分がスラム街出身だと自ら公にする者はいないし、受け入れてくれる者がいると期待する者もいない。
 エリスローズもそう。
 もうすぐ建国記念のパレードが行われというのに王太子妃が姿を消した。そのパレードにだけは何があっても出席しなければならないのだろう。だからスラム街の人間であろうと身代わりになれる相手がいるのなら利用する。
 そんな考えの人間たちが優しくしてくれるはずがない。
 ここはこの国で一番偉い人間が住む場所。そこに仕える自分たちは偉いとでも思っているのだろうことが視線と態度から伝わってくる。
 
「どうしたらここまで汚れるのか不思議です」
「スラム街に住んでみたらどう?」
「私は自らゴミ箱に頭を突っ込むバカではありませんから」
「じゃあ一生疑問のままね」
「あなたを見ればわかりますよ」

 生活も見ていないのになぜわかるのかという問いかけはしないことにした。
 こんな人間に怒ることほど無駄なことはない。
 自分が持つエネルギーは自分のために使う。こんな人間たちのためではないと鼻で笑って進んでいく。

「さっさと脱ぎなさい」

 風呂場に着くと暖かな湯が用意されていた。
 エリスローズは寒い日には湯を用意してその中で手を洗わせてくれたため湯に触れたことはある。
 だから驚きはしないが、用意されているのは王太子の別荘で見た湯船ではなく丸いタライ。
 言葉では飛んでこないが、お前などこれでじゅうぶんだと思っているのが伝わってくる。

「まあ、貧相な身体。こんな貧相な身体でエリーナ様の代わりを務めるなんて嘆かわしい。プリンセスの称号が泣きます」

 貧相なのは否定できない。スラム街にいる人間で栄養バランスの良い食事をしている者はいないし、ハリのある身体を持つ者などいないのだ。
 魅力的と呼ぶには程遠い身体だが、それを恥ずかしいと思うほどエリスローズはウブではない。

「さっさと洗ってくれる? いッ!」
「口の利き方に気をつけなさい。お前はただの身代わりであって王太子妃ではないのですからね」

 尻を鞭で叩かれる痛みは手の甲を叩かれる痛みよりずっと強いもので、悲鳴を上げそうになった。
 目が飛び出すのではないかと思うほど痛く、涙が滲む。

「中に入ってジッとしていてくださいね」

 指示通りタライの中に入ると両側に立った二人のメイドがエリスローズの身体を乱暴に力強く洗っていく。
 鞭で叩かれるよりは痛くないが、普通に痛い。
 スラム街で生きていると肌を擦られることなどない。娼婦であれば乱暴にされることはあってもこんな風に擦られることはまずない。
 透明だったお湯があっという間に黒くなり、それを見たメイドが顔をしかめる。
 こんな色の水はスラム街ではよく見る光景。
 風で街から飛んできたバケツや何かの容器を外に置いておくとそれに雨水が溜まる。皆それで顔を洗ったり身体を洗ったりするのだ。

「野良猫を洗うより汚いなんて……」

 信じられないと引いた顔を見せるメイド。

「何この髪の毛……汚い……」

 石鹸で洗うも泡立たない。ただ黒い水が流れていくばかり。
 雨の日しか洗わない髪が綺麗なはずがない。
 汚れた湯が張るタライの中に座らされ、何度も何度も湯をかけられては石鹸で洗われる。
 湯をかける勢いも強ければ髪を洗う勢いも強い。
 とにかく苦痛でしかないこの瞬間が早く終わるのをジッと耐えて待っていた。

「上がったら化粧をして、それから陛下に拝謁ですからね」

 何時間経ったのだろうかとため息すら出ない疲労感を目を閉じることで耐えていると次の予定が告げられる。

「エリーナ様のドレスを着させるわけにはいきませんからね。今日はネグリジェを着させます」
「陛下への拝謁にそれでよろしいのですか?」
「私が先にお伝えします。あなたたちは準備にかかりなさい」

 一番鬱陶しかったバーバラが部屋を出ていく。
 それだけでエリスローズの気分が少し晴れる。
 バーバラのような人間は珍しくない。興味本位でスラム街を訪れる平民に何度か会ったことがある。
 自らスラム街に足を踏み入れて『汚い』『臭い』と言い回る下劣な人間ばかりだった。
 ゴミ箱に頭を突っ込んで臭いと言う人間ほど愚かな生物はいないと悟った瞬間がそれだった。
 バーバラもその部類の人間というだけ。怒るほどのことではない。 

「一ミリも動かないで」

 冷たく言い放つメイドに従ってエリーナは鏡の前に腰掛けて目を閉じた。

「ちょっと……」
「嘘でしょ……」

 当たる筆が気持ち良いとリラックスしているエリスローズの耳に届く小声。

「終わりましたか?」
「はい、メイド長」
「立ちなさい」

 うるさいのが戻ってきたと内心うんざりしながら立ち上がって目を開けると視界にいたのはひどく驚いた顔をしているバーバラ。
 メイクを施した使用人たちも同じような顔でエリスローズを見ている。
 人の顔を見て何をそんなに驚いているんだと鏡で顔を見るとエリスローズも同じような顔で驚いた。

「……これ……私……?」

 少し前に自分の顔は見ている。
 ピカピカに磨かれた馬車のボディに映った自分の顔をハッキリと見た。
 いくらメイクが施されたからといってここまで変わるだろうかと驚きを隠せないエリスローズは何度も自分の顔を触る。

「ゴホンッ! これなら陛下もご安心なさることでしょう」

 驚いて固まっていたことに気付いて咳払いをするバーバラがついてくるよう指示する。
 靴はまだもらっていない。それに気付いているだろうにバーバラは何も言わずに歩いていく。
 肌触りの良い赤い絨毯の上を歩く気持ちよさ。靴を履いてしまうのがもったいないほどだ。

「これはこれは驚いた。あのゴミ箱に生まれ落ちた女とはな。見違えたぞ。一瞬エリーナ様かと見間違ったほどだ」
「クソ大臣じゃない。子供に言い負かされて帰ってきたこと、国王陛下に怒られなかったの?」
「貴様の悪臭に耐えられなかっただけだ。ここで私にそんな口を利いてタダで済むと思うなよ」
「それは楽しみね。でも気をつけたほうがいいわよ。私、まだカードをたくさん持ってるから」
「これは脅しではないぞ」
「奇遇ね、私もよ」

 笑顔を向け合う二人の間に火花が散る。
 先に笑ったのはエリスローズのほう。あまりにもバカバカしい幼稚なやりとりに無駄な時間だと肩を竦めて大臣の横を通り抜け、その向こうにある大きな扉の前に立った。

「この奥に両陛下がいらっしゃいます。そのよく回る口を閉じて、聞かれたことにだけ答えなさい。余計なことは言わないように」
「あなたみたいに?」
「そういうのをやめなさいと言っているのです!」

 返事の代わりに肩を竦めたエリスローズを睨みつけるが、扉が開くと表情を無に変えたバーバラ。
 赤い絨毯が続く先に階段があり、その上に設置された二つの玉座の上に男と女が座っているのが見えた。
 あれがこの国の国王と王妃かと初めて見るその顔を見つめたまま、その手前まで歩いていく。
 スラム街のことなど気にもかけない、この国の民がそこで生きているというのにゴミ捨て場だと認めているこの国の象徴。
 腐った人間どもの代表者だとエリスローズは笑顔にその嫌味を込めた。
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