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「な、なんじゃと!? まだ二日ぞ!? 昨日だけが休みとなぜもっと早う言わなんだ!」
「こっちじゃそれが普通なんだよ。年始から一週間も休むなんて意味ないだろ」
「意味はある!」
「年始から休む意味ってなんだよ。新しい一年が始まった瞬間から食って寝るだけの生活ってだらしないから僕は嫌だ」
「嫌だ……」
二日から普通に学校があると用意をするハロルドはいつもどおり制服を着て鞄を手にする。
ユズリハにとっては当たり前だった光景も国が違えば「だらしない」と言われる光景でしかないらしく、それにショックを受けながらも確かにそうなのかもしれないとは思った。
今頃、兄も父親も浴びるように酒を飲んでドンチャン騒ぎ真っ只中だろうと想像しては恋しくなるが、たった一日だけの休みを終えて登校しなければならない夫を笑顔で見送るため手を振る。
「昨日言ってた話、僕が帰ってきてからにしてくれ。僕も一緒に聞きたいし、お前の隣にいたいから。お祖父様には僕からそう言っておく」
「わかった」
夜更けにしても早朝にしても内容は変わらないが、ハロルドを待つことにした。ユズリハも隣にハロルドがいてくれると安心する。だが、それと同時に今回の話でハロルドをも傷つけることになるだろうことを考えると気が重かった。
ハロルドがウォルターに伝えてから行ったおかげか、朝も昼もウォルターが訪ねてくることはなかった。
「待ちくたびれたぞ」
ハロルドが帰宅したその足でウォルターを呼びに行き、大きな箱を抱えて一緒に家にやってきた。
「また大きな物を……」
「力作だぞ! 開けてみろ!」
ウォルターが誕生日にくれる物はいつも規格外で、父親は大喜びするがユズリハの好みではない物ばかり。
今回はなんだと大箱にかけられた太めのリボンを引っ張ると正方形の箱の壁がバラッと四方にばらけてプレゼントが姿を見せた。
「これは……父上の船か?」
大きなガラス瓶の中にダイゴロウが所有する船の模型が入っている。
「お前が乗ってきた船だ」
そう言われるとこれに乗って嫁いできた日のことを思い出す。
呆れるほどの大荷物を積み込む父親の姿、呆れる兄、ワクワクしていた自分。全部鮮明によみがえる。
「これはボトルシップと言う」
「素晴らしいな……」
「また飾る場所に迷う物をくれたもんだねぇ」
「壊すなよ、シキ」
「暴れん坊娘が一人いるもんでね、そっちに言ってくれるかい?」
ユズリハが持ち上げてシキが受け取る。足が当たったり何かの拍子に落ちたりしない場所に飾らなければと辺りを見回しながら場所を探し始めるシキが一瞬だけユズリハに視線を向けたのをハロルドは見逃さなかった。
いつもなら「誰のことじゃ」と言葉を返すユズリハが黙っている。笑顔がぎこちない。
これから話すことに緊張しているのがハロルドにまで伝わってくる。
「で、話は子供のことなんだろ?」
箱を隅へと移動させながら本題に入ろうとするウォルターにユズリハが頷く。
「お前たちはまだ若い。自分が子供だち思っているうちは子供なんか欲しくないと思うだろう。俺も歳だから早めにお前たちの子供を見たいとは思ってるが、急かすつもりはない。互いに成人したあとにでも考えれば──」
「それはできぬ」
ウォルターの言葉を遮ってまでハッキリ言い切ったユズリハにウォルターが困った顔をする。
ユズリハが頑固なのを知っているだけに、既に心に決めてしまっていてはそれを覆すのに苦労する。ダイゴロウから何度そう聞かされたことか。
「ユズリハ、答えを出すには早すぎるぞ。俺は──」
「ジジ様、できぬのじゃ」
ダイゴロウはいつも『こいつは一度決めたことは絶対に譲らん。親が叱っても譲らないんだ』と呆れていた。
ユズリハは子供嫌いではないはず。モミジに『わらわも母上のようなすてきな母上になれるだろうか?』と聞いていたのを見たことがある。
それなのに子供を作らないと固い決心をした理由がわからない。
「それはお前の意思か? それともハロルドの意思か?」
夫であるハロルドの意思に従った可能性を疑ったが、ユズリハがウォルターから目を逸らすことはなかった。ユズリハの意思だと確信する。
「話し合ったって言ってもまだ具体的な話はしてないだろ? まだ結婚したばかりで子供の話をするにも互いに遠慮があるんだ。もっとゆっくりじっくり話し合って──」
「子ができぬのじゃ」
話の途中だったウォルターの口が開いたまま固まるもすぐに口の動きを再開する。できるだけユズリハを傷つけないよう笑顔も崩さず、声も柔らかめに変えた。
「検査を受けてから来たのか。でも心配するな。良い医者を知ってる。不妊治療に強いと有名なんだ」
あのウォルター・ヘインズが気を遣っている。彼を知っている貴族全員にこの様子を見せてやりたいと思うほど、祖父からの気遣いに肌が粟立つ。
だが、心の中でもそうちゃかせるほど平常心ではない。
ハロルドも同じことを考えている時期があったが、今はそうやってムリヤリにでも前を向かせようとは思っていない。夫として気遣うべきは前向きにさせることではなく、妻の心を支えること。
「お祖父様、僕たちは──」
ユズリハが腕を伸ばして止める。
「治療は意味がない」
静かな声で告げたユズリハにウォルターがグッと笑顔を強くする。
「ユズリハ、お前はまだ十七だ。昨日、十七になったばかりだろう。和の国の検査でそう言われたからといって諦めるな。大丈夫だ。こっちで治療すればきっと──」
「子宮がない」
水を打ったように静まり返る中、ウォルターとハロルドは目を見開き、シキは目を閉じた。
子供ができない身体だとは聞いていたが、その理由はハロルドが想像していたよりもずっと残酷なもので、必死に言葉を紡いできたウォルターさえも次ぐ言葉が見つからないでいる。
「な、にを……」
言ってるんだ、と問えるわけがない。何度も同じことを言わせるほど残酷な人間ではないが、何を言っているのか理解できないでいる。
ハロルドが同じ反応をしていることにハロルドにも話していなかったのかと察し、困惑の表情のままユズリハを見た。
涙を滲ませもせず、苦笑さえ見せないユズリハにハロルドはまだ心臓が激しく脈を打ちながらもユズリハの手を握って指を絡めた。
「子供ができにくいとか、子供ができないだろうとか、そういう憶測の話ではない。わらわには生まれつき子宮がないのじゃ。故に、初潮も月経もない。いくらジジ様が世界中から名医を呼び寄せてくれても、治療する場所がないのじゃ」
治療する場所がない。本人にそう言わせなければならない残酷な現実にウォルターが震えた息を吐き出す。必死に整理しているのだろう。受け止めようとしているのだろう。
だが、簡単に受け止められるはずがない。
「ダイゴロウは……」
「知っておる」
話す時間はたっぷりあった。検査をしたのは出国前でも、到着してからの三日間、ユズリハたちが帰国してからの三日間と二人で過ごした時間の中で話せたはず。
それをダイゴロウが言わなかったことにもショックを受けていた。
絶句するウォルターにユズリハが深く頭を下げる。
「黙っておってすまなんだ。ジジ様が子を期待しておることは知っておったが、言えなんだ。本当の孫のように愛してくれるそなたに……子を作る場所がないと……伝えることが……できなんだ……。すまぬ、ジジ様」
辛かったとは口が裂けても言わない。子供を産めるのは女だけ。言ってしまえば女の役目だ。でもそれを果たせないことが心苦しい。受け入れてくれる人がいたとしても、その人に子供を抱かせてやれないことが死にたくなるほど辛くて、言えなかった。
額を床につけながら謝るユズリハに頭を上げるよう肩に手を添えるも上げようとはしない。
ユズリハが悪いわけではない。謝る必要などない。それでもユズリハは頭を下げ続ける。
そしてウォルターはその姿を見ても何も言わず、フラつきながら家を出ていった。
「ユズリハ」
ウォルターが帰ったことには気付いているだろうユズリハに声をかけるとゆっくり頭を上げたユズリハが笑顔を見せる。
「と言うわけじゃ。どう転んでも子はできぬ。受け皿がないのではな、どれだけ頑張ろうと結果は残せぬ。ジジ様にショックを与えてしもうたな。申し訳ない。また後日、謝りに……」
この残酷な現実に一番ショックを受けているのは誰か、なんて考えるまでもない。笑顔を見せるユズリハに安堵したりもしない。
子供の頃から親が言い聞かせていたわけではない。初潮が来ないことに疑問を感じて検査をしたのか、出国前に健康な身体かをチェックしたときに発覚したのかはわからないが、知ったのはここ数年だろう。慣れたと言うにはまだ知って浅い。そんな少女を誰が責められるのか。
こうして涙も見せず、代わりに笑顔でいつもどおり過ごそうとしている妻に今だけは合わせてやることができなかった。
笑顔を見せようとも身体の震えまでは抑えられない。その身体を抱きしめて背中を撫でながら声をかけた。
「笑わなくていい」
「う……うぅ……ッ」
背中の震えが大きくなり、声が漏れる。ずっと泣きたいのを我慢していたのだ。それなのに笑って心を殺そうとする姿は見ていられない。
「すまぬ……すまぬのじゃ。お前様……すまぬ」
こんなときでさえユズリハが口にするのは謝罪だった。
人の気持ちなど考えず、もっと自分のことだけ考えて泣けばいいのにとハロルドは思う。
辛い、苦しい、悲しい、嫌だと泣き叫んでもいい。自分ならきっとそうする。でもユズリハはそうしないし、できないのだ。
「わらわがこんな身体のせいで……!」
「やめろ」
自分の身体が悪いと責めさせたくない。責める必要がどこにある。
「それがお前の身体だろ。何もおかしくないし、誰かに申し訳ないって思う必要もない。僕はお前が治療で辛い思いをする必要がないってわかってよかったよ。不妊だとわかって治療してもなかなか子供ができずに身体も心も痛くて辛い思いの中で苦しむお前を見てるほうが子供ができないことよりずっと辛いし、僕は嫌だ。できないなら仕方ないじゃないか。それが現実なんだ。だから謝るな。僕はお前がいればいいって何度言えばわかるんだよ」
ハロルドの言葉にユズリハの泣き声が大きくなる。
少しは希望を持っているかもしれないとあの日からずっと思っていた。子供ができないと伝えた日ではなく、彼が明らかな好意を見せてくれた日。彼はきっと自分との将来を想像してくれた。そこには間違いなく自分たちの子供がいただろう。二人か、三人……もっとかもしれない。
できない、の一言では詳細はわからない。何も言わなくなったが、心の片隅ではウォルターのように金をかけてでも治療をすれば、と期待があったかもしれない。
それさえも打ち砕く結果を告げるしかない現実はあまりにも辛く、しがみつきながら声を上げて泣いた。
謝るなと言われても口からこぼれる「すまぬ」の謝罪にハロルドはその言葉が止むまで「いいんだ」と返し続けた。
「こっちじゃそれが普通なんだよ。年始から一週間も休むなんて意味ないだろ」
「意味はある!」
「年始から休む意味ってなんだよ。新しい一年が始まった瞬間から食って寝るだけの生活ってだらしないから僕は嫌だ」
「嫌だ……」
二日から普通に学校があると用意をするハロルドはいつもどおり制服を着て鞄を手にする。
ユズリハにとっては当たり前だった光景も国が違えば「だらしない」と言われる光景でしかないらしく、それにショックを受けながらも確かにそうなのかもしれないとは思った。
今頃、兄も父親も浴びるように酒を飲んでドンチャン騒ぎ真っ只中だろうと想像しては恋しくなるが、たった一日だけの休みを終えて登校しなければならない夫を笑顔で見送るため手を振る。
「昨日言ってた話、僕が帰ってきてからにしてくれ。僕も一緒に聞きたいし、お前の隣にいたいから。お祖父様には僕からそう言っておく」
「わかった」
夜更けにしても早朝にしても内容は変わらないが、ハロルドを待つことにした。ユズリハも隣にハロルドがいてくれると安心する。だが、それと同時に今回の話でハロルドをも傷つけることになるだろうことを考えると気が重かった。
ハロルドがウォルターに伝えてから行ったおかげか、朝も昼もウォルターが訪ねてくることはなかった。
「待ちくたびれたぞ」
ハロルドが帰宅したその足でウォルターを呼びに行き、大きな箱を抱えて一緒に家にやってきた。
「また大きな物を……」
「力作だぞ! 開けてみろ!」
ウォルターが誕生日にくれる物はいつも規格外で、父親は大喜びするがユズリハの好みではない物ばかり。
今回はなんだと大箱にかけられた太めのリボンを引っ張ると正方形の箱の壁がバラッと四方にばらけてプレゼントが姿を見せた。
「これは……父上の船か?」
大きなガラス瓶の中にダイゴロウが所有する船の模型が入っている。
「お前が乗ってきた船だ」
そう言われるとこれに乗って嫁いできた日のことを思い出す。
呆れるほどの大荷物を積み込む父親の姿、呆れる兄、ワクワクしていた自分。全部鮮明によみがえる。
「これはボトルシップと言う」
「素晴らしいな……」
「また飾る場所に迷う物をくれたもんだねぇ」
「壊すなよ、シキ」
「暴れん坊娘が一人いるもんでね、そっちに言ってくれるかい?」
ユズリハが持ち上げてシキが受け取る。足が当たったり何かの拍子に落ちたりしない場所に飾らなければと辺りを見回しながら場所を探し始めるシキが一瞬だけユズリハに視線を向けたのをハロルドは見逃さなかった。
いつもなら「誰のことじゃ」と言葉を返すユズリハが黙っている。笑顔がぎこちない。
これから話すことに緊張しているのがハロルドにまで伝わってくる。
「で、話は子供のことなんだろ?」
箱を隅へと移動させながら本題に入ろうとするウォルターにユズリハが頷く。
「お前たちはまだ若い。自分が子供だち思っているうちは子供なんか欲しくないと思うだろう。俺も歳だから早めにお前たちの子供を見たいとは思ってるが、急かすつもりはない。互いに成人したあとにでも考えれば──」
「それはできぬ」
ウォルターの言葉を遮ってまでハッキリ言い切ったユズリハにウォルターが困った顔をする。
ユズリハが頑固なのを知っているだけに、既に心に決めてしまっていてはそれを覆すのに苦労する。ダイゴロウから何度そう聞かされたことか。
「ユズリハ、答えを出すには早すぎるぞ。俺は──」
「ジジ様、できぬのじゃ」
ダイゴロウはいつも『こいつは一度決めたことは絶対に譲らん。親が叱っても譲らないんだ』と呆れていた。
ユズリハは子供嫌いではないはず。モミジに『わらわも母上のようなすてきな母上になれるだろうか?』と聞いていたのを見たことがある。
それなのに子供を作らないと固い決心をした理由がわからない。
「それはお前の意思か? それともハロルドの意思か?」
夫であるハロルドの意思に従った可能性を疑ったが、ユズリハがウォルターから目を逸らすことはなかった。ユズリハの意思だと確信する。
「話し合ったって言ってもまだ具体的な話はしてないだろ? まだ結婚したばかりで子供の話をするにも互いに遠慮があるんだ。もっとゆっくりじっくり話し合って──」
「子ができぬのじゃ」
話の途中だったウォルターの口が開いたまま固まるもすぐに口の動きを再開する。できるだけユズリハを傷つけないよう笑顔も崩さず、声も柔らかめに変えた。
「検査を受けてから来たのか。でも心配するな。良い医者を知ってる。不妊治療に強いと有名なんだ」
あのウォルター・ヘインズが気を遣っている。彼を知っている貴族全員にこの様子を見せてやりたいと思うほど、祖父からの気遣いに肌が粟立つ。
だが、心の中でもそうちゃかせるほど平常心ではない。
ハロルドも同じことを考えている時期があったが、今はそうやってムリヤリにでも前を向かせようとは思っていない。夫として気遣うべきは前向きにさせることではなく、妻の心を支えること。
「お祖父様、僕たちは──」
ユズリハが腕を伸ばして止める。
「治療は意味がない」
静かな声で告げたユズリハにウォルターがグッと笑顔を強くする。
「ユズリハ、お前はまだ十七だ。昨日、十七になったばかりだろう。和の国の検査でそう言われたからといって諦めるな。大丈夫だ。こっちで治療すればきっと──」
「子宮がない」
水を打ったように静まり返る中、ウォルターとハロルドは目を見開き、シキは目を閉じた。
子供ができない身体だとは聞いていたが、その理由はハロルドが想像していたよりもずっと残酷なもので、必死に言葉を紡いできたウォルターさえも次ぐ言葉が見つからないでいる。
「な、にを……」
言ってるんだ、と問えるわけがない。何度も同じことを言わせるほど残酷な人間ではないが、何を言っているのか理解できないでいる。
ハロルドが同じ反応をしていることにハロルドにも話していなかったのかと察し、困惑の表情のままユズリハを見た。
涙を滲ませもせず、苦笑さえ見せないユズリハにハロルドはまだ心臓が激しく脈を打ちながらもユズリハの手を握って指を絡めた。
「子供ができにくいとか、子供ができないだろうとか、そういう憶測の話ではない。わらわには生まれつき子宮がないのじゃ。故に、初潮も月経もない。いくらジジ様が世界中から名医を呼び寄せてくれても、治療する場所がないのじゃ」
治療する場所がない。本人にそう言わせなければならない残酷な現実にウォルターが震えた息を吐き出す。必死に整理しているのだろう。受け止めようとしているのだろう。
だが、簡単に受け止められるはずがない。
「ダイゴロウは……」
「知っておる」
話す時間はたっぷりあった。検査をしたのは出国前でも、到着してからの三日間、ユズリハたちが帰国してからの三日間と二人で過ごした時間の中で話せたはず。
それをダイゴロウが言わなかったことにもショックを受けていた。
絶句するウォルターにユズリハが深く頭を下げる。
「黙っておってすまなんだ。ジジ様が子を期待しておることは知っておったが、言えなんだ。本当の孫のように愛してくれるそなたに……子を作る場所がないと……伝えることが……できなんだ……。すまぬ、ジジ様」
辛かったとは口が裂けても言わない。子供を産めるのは女だけ。言ってしまえば女の役目だ。でもそれを果たせないことが心苦しい。受け入れてくれる人がいたとしても、その人に子供を抱かせてやれないことが死にたくなるほど辛くて、言えなかった。
額を床につけながら謝るユズリハに頭を上げるよう肩に手を添えるも上げようとはしない。
ユズリハが悪いわけではない。謝る必要などない。それでもユズリハは頭を下げ続ける。
そしてウォルターはその姿を見ても何も言わず、フラつきながら家を出ていった。
「ユズリハ」
ウォルターが帰ったことには気付いているだろうユズリハに声をかけるとゆっくり頭を上げたユズリハが笑顔を見せる。
「と言うわけじゃ。どう転んでも子はできぬ。受け皿がないのではな、どれだけ頑張ろうと結果は残せぬ。ジジ様にショックを与えてしもうたな。申し訳ない。また後日、謝りに……」
この残酷な現実に一番ショックを受けているのは誰か、なんて考えるまでもない。笑顔を見せるユズリハに安堵したりもしない。
子供の頃から親が言い聞かせていたわけではない。初潮が来ないことに疑問を感じて検査をしたのか、出国前に健康な身体かをチェックしたときに発覚したのかはわからないが、知ったのはここ数年だろう。慣れたと言うにはまだ知って浅い。そんな少女を誰が責められるのか。
こうして涙も見せず、代わりに笑顔でいつもどおり過ごそうとしている妻に今だけは合わせてやることができなかった。
笑顔を見せようとも身体の震えまでは抑えられない。その身体を抱きしめて背中を撫でながら声をかけた。
「笑わなくていい」
「う……うぅ……ッ」
背中の震えが大きくなり、声が漏れる。ずっと泣きたいのを我慢していたのだ。それなのに笑って心を殺そうとする姿は見ていられない。
「すまぬ……すまぬのじゃ。お前様……すまぬ」
こんなときでさえユズリハが口にするのは謝罪だった。
人の気持ちなど考えず、もっと自分のことだけ考えて泣けばいいのにとハロルドは思う。
辛い、苦しい、悲しい、嫌だと泣き叫んでもいい。自分ならきっとそうする。でもユズリハはそうしないし、できないのだ。
「わらわがこんな身体のせいで……!」
「やめろ」
自分の身体が悪いと責めさせたくない。責める必要がどこにある。
「それがお前の身体だろ。何もおかしくないし、誰かに申し訳ないって思う必要もない。僕はお前が治療で辛い思いをする必要がないってわかってよかったよ。不妊だとわかって治療してもなかなか子供ができずに身体も心も痛くて辛い思いの中で苦しむお前を見てるほうが子供ができないことよりずっと辛いし、僕は嫌だ。できないなら仕方ないじゃないか。それが現実なんだ。だから謝るな。僕はお前がいればいいって何度言えばわかるんだよ」
ハロルドの言葉にユズリハの泣き声が大きくなる。
少しは希望を持っているかもしれないとあの日からずっと思っていた。子供ができないと伝えた日ではなく、彼が明らかな好意を見せてくれた日。彼はきっと自分との将来を想像してくれた。そこには間違いなく自分たちの子供がいただろう。二人か、三人……もっとかもしれない。
できない、の一言では詳細はわからない。何も言わなくなったが、心の片隅ではウォルターのように金をかけてでも治療をすれば、と期待があったかもしれない。
それさえも打ち砕く結果を告げるしかない現実はあまりにも辛く、しがみつきながら声を上げて泣いた。
謝るなと言われても口からこぼれる「すまぬ」の謝罪にハロルドはその言葉が止むまで「いいんだ」と返し続けた。
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