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人の子

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 アーリーンは不愉快を極めている。ユズリハに出会ったばかりのハロルドがそうであったように、感情を抑えきれない。それは自分が怒っているのに相手が余裕を見せるから余計に感情が昂ってしまう。
 そんな人の感情をユズリハはよく知っている。

「ハロルドさんはあなたを愛したりしない!!」
「そうじゃろうな」

 言い淀まず即答するユズリハにハロルドのほうがショックだった。
 愛しているかというとまだわからない。そこまでの感情はまだないかもしれない。だが、この胸の奥にある感情は相手への親しみであり、好意でもあることは確か。
 髪飾りを送った日、顔を赤く染めていたくせに伝わっていないのかと握った拳を震わせるも、言葉で何も伝えていない人間の感情を安易に信じるほどユズリハは馬鹿じゃない。
 これは政略結婚であり、愛し合う必要はない。それでいいとユズリハは言った。愛し合える仲になれるとは思っていないと、そう言われている気分だった。

「わかってるなら別れなさいよ!」

 一度無理だと言ったことをこの短時間で覆すと思っているのかと問いかける言葉は喉元まで上がってくるが、それが口を突いて出ることはない。
 子供が玩具を取り合うような幼稚さに似た感情をぶつけてくるアーリーンに呆れて口も開かないのだ。
 ユズリハが何も言い返してこないのを言いことにパンッと両手を合わせて良いことを思いついたと言わんばかりに表情を輝かせる。

「あ、そうだわ! あなたが愛人になればいいのよ! 私が正妻になるから、あなたは愛人。これで彼が笑い者になることはなくなるわ。良い案だってあなたも思うでしょ?」

 ハロルドの頭の中では「それがいい」と言葉を返すユズリハが浮かぶ。アーリーンとの恋を応援してアドバイスまでしてきたぐらいだ。夫婦の関係を進めようなどとは微塵も思っていないのだろう。
 シキとは違い、強く目を瞑って宣告を待つように俯くハロルドの耳に届いたのは意外な言葉だった。

「人の旦那を笑い者にしておるのはそなたであろうが」

 少し怒気が混ざった声に聞こえて顔を上げるもカーテンが邪魔でユズリハの表情を見ることはできない。
 シキを見るとシキもあまり聞くことがない声なのか目を開けた。

「私が? 私はしてない! してるのはクラスの皆よ! 私は彼に寄り添ってた!」
「笑い者になると言葉にしておる時点でそなたも奴を笑い者にしておるも同然じゃ」
「違う! 私は彼を笑ったりしてない! 皆が笑ってるの! ハロルド・ヘインズの婚約者は醜悪な和女だって!」

 それに怒って怒鳴ってしまったことはハロルドがから聞いていた。今もそれが続いているのだとすれば同じ学び舎で過ごす者たちは随分と子供だと呆れてしまう。

「だから私は彼がこれ以上笑い者にならないようにしてあげたいの! だから彼と別れなさい!」
「断る」
「どうして!? あなたはそう思いたくないだろうけど、あなたはハロルドさんに相応しくないの! そんな豪華な髪飾りをつけたってあなたは所詮は和女なの! ハロルドさんには釣り合わない! どうしてそれがわからないの!?」
「わからぬのではない。断っておるだけじゃ」

 まるで勘違いを正してやっているような言い方だとアーリーンを見ながら思った。
 アーリーンの表情は悪意に満ちているわけではなく必死なもので「誰が見ても釣り合わないとわかるのにどうしてそこまで意地を張って別れようとしないんだ」と困惑しているようにも見える。
 自分がハロルドと並んで釣り合うとは思っていない。背も低く、金髪でもなければ赤毛でもない。化粧が映える顔はしていないし、化粧の仕方も知らない。十五歳に化粧は早いと父親が禁止していたから紅を引くための筆を握ったことすらないのだ。
 アーリーンは薄付きだが化粧をしている。それがよく似合っているし、美人だとも思う。ハロルドと並べば美男美女だろうと。
 それでもユズリハは今いる自分の座位をアーリーンに譲るつもりはなかった。
 ハロルドが笑い者になるからと心配するのはいい。彼は笑い者になるべき人間じゃないというのもわかる。だが、ユズリハは馬車に乗ってから今のこの瞬間まで会話をして、アーリーン・コールマンという女を受け入れようとは到底思えなかった。
 だからアーリーンの要求に応えるつもりはない。

「わらわがふさわしくないのはわかっておる。じゃが、それはそなたもじゃ」
「私も相応しくない……? どの口が言ってるのよ!!」

 学校でも人気者の自分がハロルドに相応しくないわけがない。それを和女であるユズリハに言われたことがアーリーンの怒りに火をつけた。

「ハロルド・ヘインズは優しい男。不器用ではあるが、人を思いやれる良い奴じゃ。そのような男に「お前は彼に相応しくないから別れろ。正妻の座を譲れ」などと怒鳴り散らす女がなぜ相応しいと思える?」
「私は事実を言ってるだけ!」
「それが事実であるのなら尚のこと、できぬ相談じゃ」
「これは相談じゃない! 別れろって言ってるの!」

 相談でなければお願いでもない。となれば強要。アーリーンに言えばまたお願いだと言うだろうからと何も言わずにいるが、ユズリハはこの時間が無駄に思えて仕方なかった。

「一度でも自分の顔を鏡で見たことある!? あなたが恥も知らずに外を歩くからあなたがハロルド・ヘインズの妻だって皆が知ってるのよ! そんんな顔でよく表を歩けるわね! ハロルドさんに申し訳ないと思わないの!?」

 もはやヒステリーに近い怒声に耳が痛い。片耳に指を突っ込んで防ぎながら小さく息を吐き出した。

「思わぬわけではないが、旦那様より許可を──」
「だったら表歩くのやめなさいよ! ハロルドさんが恥をかくわ! それに旦那って呼ぶのもやめて! 彼は優しい人だから、あなたにそう呼ばれるのが嫌でも言えないのよ!」

 ハロルドからそう呼んでもいいと言われたことはアーリーンには言わない。こうなると聞く耳を持たないのは和の国で一度経験している。

「その髪飾りも全然似合ってないって気付いてる?」
「そなたにはそう見えるのじゃろうな。だが、これは送り主がわらわのことを考えながら選んでくれた物。わらわは気に入っておる」
「センスはあるけど、送る相手を間違えたみたいね。でも私は似合わないから言ってあげてるの。そういうのは私みたいな金髪にこそ似合う物だから。恥知らずはそんなこともわからないのよね。ホント……ハロルドさんに相応しくない女」

 あまり外と関わりを持ってこなかっただけにこれほど強烈な敵意や悪意を向けられたことないため頭痛が発生したことでようやく限界を感じたユズリハが一度強く馬車の床を踏みつけた。
 ドンッと大きな音が鳴って馬車が揺れる。
 それに驚いたのかアーリーンが目を見開いて固まった。もたれかかっていたシキも目を開いて身体を離す。

「そなたの感情は理解した」
「だったら──」

 表情を明るめるアーリーンにユズリハがキッパリと言い放つ。

「無関係のそなたに言われることではない」

 堪えきれず吹き出したシキが口を押さえる様子を見ながらハロルドには何が面白いのかこれっぽっちも理解できなかった。
 アーリーンの言葉はただただ不愉快で、ユズリハへの悪意に満ちていた。相手を傷つけようとする悪意を放って傷をつける。
 学校でただ過ごしているだけでは絶対に気付かないだろう彼女の本性。

「すまぬが、話の通じぬ相手との会話は疲れる。同じことを延々と繰り返されるのは嫌いでな。何百回そなたに別れろと強要されようとも答えは変わらぬ。次はわらわではなくそなたの想い人を説得することじゃな」
「あなたが言えばいいだけじゃない!」
「シキ、開けてくりゃれ」
「あいよ」
 
 シキがドアを開けると目の前に立っていたのはシキではなくハロルドだった。
 なぜ彼がそこにいるんだと驚きを隠せないユズリハが一瞬固まるも差し出された手を取って馬車を降りる。

「そなた、いつからそこで聞いておった?」
「政略結婚のくだりから」
「序盤じゃのう」
「まあな」

 聞き慣れた声に反応したアーリーンが顔を見せるとハロルドがいることに怒りで赤に染まっていた顔が青へと変わっていく。

「は、ハロルド様……」
「やあ」

 片手を上げて挨拶を返すハロルドに笑顔はない。

「お前様も悪趣味じゃのう。聞き苦しいものに耳を立て続けるとは」
「僕は止めに入ろうとしたけどシキが止めたんだ」
「こんな面白いもんを止める理由がどこにあるってんだい?」

 悪趣味に浸るのが趣味のような性格であることを知っているため呆れた視線だけシキに送ってからハロルドへと目線を上げる。

「帰ってよかったのじゃぞ」
「お前がアーリーンと話してるってわかってるのに帰れるわけないだろ」
「悪趣味に興じるな」
「興じてはない」

 いつもどおりのユズリハを見てハロルドはさすがだと思った。どれだけ怒鳴られようと怒鳴り返すことはせず、馬車の中で床を踏みつけはしたが、きっとダイゴロウが人を黙らせるときにやっていたことなのだろう。やかましいと怒鳴ることもできたのにそうしなかった。
 聞いているだけでも頭にきたアーリーンの言葉を直で受け止めながら何を考えていたのだろうと見つめてみるも表情は変わらない。

「ハ、ハロルド様……」
「アーリーン、少し話そうか」
「わ、私は……」

 真っ青な顔で震えるアーリーンの怯え方は小動物のようで、ユズリハはそういう可愛さは自分にはないものだと実感する。
 可愛げもなければ美貌もない。金髪でもなければ赤毛でもない。目鼻立ちがはっきりしているわけでもないし、おしゃれなわけでもない。
 ハロルドの横に立って歩けば確かに恥をかかせるかもしれないと苦笑が浮かびそうになるのを背を向けることで隠した。

「わらわは聞き苦しいものに耳を立て続ける趣味はない故、先に帰らせてもらう」

 シキを連れて帰るユズリハの歩く後ろ姿もいつもと変わらなかった。


「大丈夫かい?」

 家に到着してすぐ、シキが声をかけた。
 ハロルドにはわからなかったが、シキは顔を見ずともユズリハの感情の乱れがわかる。
 その証拠に振り返ったユズリハの表情は曇っており、苦笑さえうっすらとしたものだった。

「ははっ……さすがに少しこたえたな……」

 傍まで寄ったシキがユズリハの頭に手を乗せ「よく頑張った」と褒めた。
 ユズリハの感情は出会った頃よりもずっとハロルドに向いていて、感情を乱すのではないかと想像していたがそうしなかった。
 それは全て和人のためであり、ハロルドのためでもある。ムキになって怒れば和人もハロルドもよく思われない。だから感情を乱さないよう努めた。
 
「旦那様の面子のために言いたいことを我慢するイイ女じゃからのう、わらわは」
「そうさな」

 冗談を口にして笑おうとしても心が疲弊している今、ユズリハは自分が思っている以上に上手く笑えていない。そういうとき、シキは笑って同意するだけ。正論をぶちかます必要があるとは思っていないのだ。
 言えばよかったのに、と言うのは簡単だが、そうしなかったユズリハの決断を褒めてやりたかった。
 言いたいことを言えばユズリハの感情はスッキリするが、和女が妻というだけで迷惑をかけているのに、これ以上の迷惑はかけたくないと冷静を心がけていた。
 だからといって傷ついていないわけではない。

『あなたは相応しくない!』

 その言葉が思った以上に心に突き刺さり、傷ついている。

「言われずともわかっておるわ……」

 呟くように言葉を漏らしたユズリハの頭を軽く引き寄せるシキに合わせてそのまま胸に額を押し当て、目を閉じた。
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