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子供の話
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キスをした翌日、ハロルドは朝から困っていた。
どんな顔をして会えばいいのかわからないだけなら今日はやめておくかと家を訪ねなければ済んだ話なのだが、混乱で家を飛び出したせいで教科書が入った鞄をユズリハの家に置いてきてしまったのだ。それがなければ学校に行く意味はない。ましてや昨日は宿題もしていない。部屋に帰ってからも宿題をしなければという考えが出てこず、朝になって学校に行く準備をしようとして鞄がないことに気付いた。そして宿題をしていないことも。
ハロルドは今まで一度だって宿題を未提出にしたことはない。それはヘインズ家の人間として当然のことで、学生としても当然のことだからだ。
それなのに今日、その当然が崩れようとしていた。
「今日も朝から崇高な趣味に勤しんでるのかい?」
「ッ~~~~~!!」
危うく大声を出しそうになったのを両手で口を押さえることで防いだ。
後ろからそっと声をかけるのは絶対にワザとだと確信したハロルドが振り向いて睨みつけようとするも見えたのはシキの顔ではなく見慣れた鞄。
「忘れ物、取りに来たんだろ?」
「あ、ありが……」
鞄を受け取ったハロルドはユズリハに顔を合わせなくて済むことに安堵したのも束の間、鞄を下げたことで見えたシキの顔にお礼が止まる。
「まさかお前さんがお嬢にキスをするとはねぇ」
「み、見てたのか!?」
「いやいや、俺にはそんな崇高な趣味はないもんでね。見えただけさね」
「いつもどこにいるんだよ!」
「それは問題じゃない。問題なのはお前さんがキスをしたってことさ。あと逃げたこと」
「あ、あれは……!」
パニックを起こして逃げてしまったのが事実だとしても、それこそ紳士としてあるまじき行動だった。
「あ、謝っておいてくれ」
「キスして謝る男は最低だぞ」
「い、いや、キスしたことじゃなくて、勝手にしたことを……」
「ああ、いいぜ。お嬢、ハロルドの旦那が謝りたいとさ」
「おいっ!」
間髪入れずに中に呼びかけたシキに慌て、逃げようとするも腕を掴まれて阻止される。
中からいつもの軽い足音がしてユズリハが顔を出した。
「そなたはいつも朝から元気じゃのう」
「お、おはよう!」
思ったより大きな声が出てしまったことに目を瞬かせるユズリハがすぐに微笑んで頷く。
「うむ、おはよう。いつもより少し早いな」
「宿題してないんだ。少し早めに行って学校でする」
「そうか。そなたは立派じゃのう」
いつもどおりのユズリハ。顔を合わせにくいとか照れている様子は微塵もない。
「昨日悶々として眠れなかったんだろ。あ、ギンギンか?」
「からかうな!! お前といると疲れる!」
「寝不足のせいじゃないか?」
「お前のせいだ!」
「気をつけてな」
走って行こうとしたが、ユズリハの声に足を止めて振り返る。
「行ってきます」
それを言いたいがため。
「うむ、行ってまいれ」
それを聞きたいがため。
手を振るユズリハに手を上げて馬車に乗り込むと大きく息を吐き出した。溜め息にしては強く大きなもの。
「僕はこんなに破廉恥な人間だったのか……」
シキの言うとおり、昨日は眠れなかった。
キスをしたのは初めてで、まさかそれが和の国の女とすることになるとは思ってもいなかった。自分からしたのだから嫌悪感などあるはずがない。あるのは衝動的にしてしまった困惑と柔らかさ。
ベッドの中で何度自分の唇を触ったかわからない。柔らかかったと、感触を思い出しては乙女のように丸まって顔から火を出し続けた。
そしてさっきもユズリハの顔より唇に目が行ってしまった。ユズリハは気付いていただろうか。
シートの上で膝を抱えて顔を埋めると今も昨日のことを思い出して恥ずかしさに全身を掻き毟りたくなる。
だがそれも学校に着けば消えてしまう。
「鼻が低くて目が吊り上がってるのが特徴」
「黒髪ってのもイマイチだよな」
「赤毛か金髪の二択だろ」
もう誰もハロルドに絡もうとはしない。ハロルド・ヘインズはやはりウォルター・ヘインズの孫であることが証明された今、からかって厄介なことになるのを懸念して周りを囲むことはしないのだが、聞こえるように和女を話題には出す。
(あの黒髪の触り心地の良さをお前らは知らないだろ)
指を通したときの触り心地の良さ、それから匂い。どちらもまだ鮮明に思い出せる。
夜風で冷えた髪が冷たくて、艶やかな黒髪がなんとも言えない触り心地。胸元に入れている自分のハンカチよりもずっと良い手触りだった。
紙に答えを書き込むだけの簡単作業をこなしながらクラスメイトがイマイチだと馬鹿にしている黒髪の良さを知っている優越感に浸る。
「なんかあの変な唇もさ、気持ち悪いよな」
「わかる。小さすぎるよな」
寄せたような唇が描かれやすい和女。見たことのないクラスメイトが抱いているイメージはわかるが、ハロルドはそれさえも鼻で笑いたくなる。
実際は寄せたような唇ではないし、気持ち悪くもない。むしろ、と感想が頭の中で流れそうになり慌てて小さく首を振った。
「でもさ、肌は陶器のように滑らかなんだってよ」
「はあ? んなわけないだろ。どうせガッサガサだろ。和女だぞ。貧乏の国で陶器のような肌になるわけがない」
「俺も知らねぇよ。噂じゃそう言われてるってだけだ」
「もう触ったのか?」
「そりゃそうだろ! なんてったって、あのアーリーンよりイイ女らしいからな!」
窓側の席に集団で固まって教室に響き渡るほど大きな笑い声を上げる卑怯者たちの言葉に感情を乱されるのはやめた。
直接言われたらそれなりの言葉で返し、遠巻きに言われたことは無視をする。いちいち気にして感情を乱すことも相手にすることも自分にとって負にしかならないのだと理解し、気にしないよう心がけた。
それに、彼らにユズリハを知ってほしいとも思わない。だからどんなに嫌味を言われようと笑われようとどうだっていいのだ。
「和女との子供とか目も当てられないだろうな。俺だったら捨てるわ」
「俺も」
「和女抱いた時点で一生の汚点だっての」
(お前たちと同級生であることが僕の人生の汚点だ)
ハロルドが鼻で笑うだけで男たちの会話が止まる。
また何か怒鳴るのではないかと警戒しているのだ。
「あ、おはよう、アーリーン」
「おはよう」
友人に声をかけられて挨拶を返すアーリーンの笑顔に元気はない。いつもならハロルドを見て微笑むのだが、今日はそれもない。あんなことを言った男を見て微笑むほうがどうかしている。
勝手に幻想を抱いて勝手に幻滅した自分が悪いのだと気分を害することはなかった。
その日の夜、ハロルドは“ユズリハ邸”で食事をしていた。
シキにウォルターのジイさんに食費を請求すると嫌味を言われながらおかわりを受け取ったハロルドはクラスメイトの会話を思い出して問いかけた。
「お前は将来的に子供が欲しいとかあるのか?」
この世界はよく時間が止まると感じながらユズリハが動くのを待っていると戸惑った顔ではなく怪訝な顔を見せてくる。
「あー……目が合った状態でお前と言われたので聞き間違いではないと思うのじゃが、一応確認させてくれ。わらわに聞いておるのか?」
「目を合わせながら他の奴に聞いてたらおかしいだろ」
「いやなに、おかしな話じゃっただけにおかしなことをしておるのかと思うてな」
失礼な話だと思いながらもどうなんだと視線を向け続けるハロルドにユズリハが問う。あのからかいのニヤつきを見せて。
「わらわとの子供が欲しいのか?」
「は? ち、違う! 僕はまだ十六だぞ! 親になるつもりなんてない! 僕とお前の子供って話じゃない! 僕が愛人を作る話は無くなったけど、お前が愛人でも連れ込んでその愛jんとの子供が欲しくなったときにどうするのかって世間話程度に話題を提供しただけだ!」
「ほほーう、こっちでは愛人との子が欲しいかどうかを婚約者との世間話にするのか? 随分と開けっぴろげじゃのう」
「からかわないで答えろ!」
質問したあとで自分もなぜこんな勘違いされるような話題を相手に振ってしまったのだろうと後悔したが、一度言ってしまったことは撤回できない。
口では相手に愛人ができた場合の話としたが、実際はそんなこと考えてもいなかった。ユズリハは愛人なんか作らない。アーリーンに抱いた幻想のようにユズリハへのイメージでそんなことを勝手に思っているのだ。愛人ができたと言われたとき、自分はそれを「いいじゃないか」と笑って受け止められるかと想像しても寛大な心でそう言える想像は浮かばなかった。
笑顔で愛人を紹介するユズリハの向かいで苦笑も浮かべられず「そ、そうか」と戸惑いを口にして逃げるように部屋に帰る自分しか浮かばない。
自分の想像なのに浮かんでくるのは情けない姿で、それこそ今、苦笑してしまう。
「どうなんだ?」
なぜそんなに知りたいのだろうと自分でも不思議に思う。
「わらわには兄も姉もおる。優秀な兄と姉がな。血筋は残る。わらわが生まずともよいのじゃ」
「お前はどうなんだよ」
「わらわが生んだところで」
「欲しいのかって聞いてるんだ」
遠回しに言うユズリハに焦れて強く問いかけるとハッキリとした口調で返ってきた。
「欲しゅうない」
言葉よりもその目が彼女の意思を物語っている。
「母親になりたいと思わないのか?」
「思わぬ」
「なんでだ? 好きな男を作って、そいつとの子供が欲しいと思わないのか?」
「思わぬ」
揺らがない瞳にハロルドのほうが戸惑ってしまう。
貴族は血を残さなければならない。貴族によっては他者の血を入れないために血縁者同士で子を作ることもあるほど血を残すことを当然としている。ハロルドも結婚すれば子供を持つと当たり前に思っていたが、ユズリハが欲しくないと言うのではその当たり前が当たり前ではなくなってしまう。
「子供が嫌いなのか?」
「そうではない」
「まだ十五歳だからか? それなら僕もそうだ。子供を持つのは十年先でもいい。あ、もちろんお前に僕の子供を産めって言ってるんじゃなくてだな、僕は──」
「わらわは母にはなれぬのじゃ」
ハロルドの言葉を遮って告げたユズリハに眉を寄せる。
「どういう意味だ?」
ウォルターからはそういう話は聞いていない。『ユズリハは良い子だ』それだけしか言わなかった。
母になれない。それが意味するのはなんだと目を見つめると揺らがぬ瞳がまた告げる。
「わらわの身体は子を成せぬ」
何か言わなければ。何か一言でいい。「そうだったのか」の一言でいいのに、そのたった一言が出てこない。何か言うべきだと頭ではわかっているのに、ユズリハが告げた言葉があまりにも衝撃的すぎて脳が正常に機能しなくなっている。
ユズリハは人をからかいはするが、人にショックを与えるようなからかいをするような女ではない。ましてや人が真剣に話をしていることに気分を害するようなからかいは絶対にしない。
だからこそ軽々しく「本当に?」と聞くことができなかった。疑っているような言葉は使いたくなかったのだ。
「だからそなたにわらわとの子作りの義務はない。安心せよ」
「安心って……別に心配なんかしてない」
愛人を認めたのは、応援していたのはそれが理由だったのかとハロルドの表情が歪む。
「こっちは向こうより技術が進歩してる。それにお前はまだ成長期だ。身体のことなんてわからないだろ」
「期待されとうないのじゃ」
子供ができなくて失望されるのはいつも女。期待されたくないの言葉にユズリハが持つ負の感情が乗っかっているようで何も言えなくなる。
妊娠できる仕組みになっていない男の身体では代わりに産んでやると言うこともできない。ユズリハの身体も精を放つ仕組みにはなっていないのだ。
黙りこむユズリハがまた頭を下げようとするため「下げるな」と言うと動きが止まる。
「このようなことを伝えず、嫁いでしまったこと、申し訳なく思うておる」
子供を産めない女は敬遠される。子を残せない女に価値はないと言われる時代。その中で和女というだけでも差別を受けるユズリハが子供を産めないなどと知られれば両親は祖父になんと言うだろう。
ユズリハと同じで自分にも兄がいて、兄が子供を持てば弟である自分が子供を持たなければと焦る必要はない。
それほど子供好きというわけでもないのに、これは怒ることではないのだとハロルドは微笑みを浮かべる。
「言っただろ、これは別に僕とお前の話じゃないって。僕はまだ十六歳だぞ。父親になる話なんてしたくない。世間話程度にって言ったの忘れたのか?」
「それはそうじゃが……」
「十五歳の女と十六歳の男が向かい合って子供の話に真剣になるのはおかしいだろ」
「優しいのう、そなたは」
いつもの笑顔のはずなのに、見ているだけで全身が痺れるような痛みが走る。
強がりか、それとも素直な笑顔かわからない。まだ知り合って日が浅い。だから見抜けるはずがないのだが、こういうとき、何が適切な言葉なのかわからないのが情けなかった。
「ごちそうさま。いつも悪いな」
「気にするな。そなたが来ると夕飯の品数が増える」
「伯爵家の坊ちゃんに粗末な物を食わせるわけにいかないもんでね」
「シキはいつでも嫁に行けそうだな。探してやろうか?」
「お気遣いなく。嫁ぎ先はもう決まってるもんで」
ユズリハの肩に腕を回して笑顔を見せるシキにぐぬぬと悔しさを滲ませるハロルドを見て二人で大笑いする声が玄関口に響く。
「夜道は暗いからな。襲われないよう気をつけて帰れよ」
「敷地内だ!」
「おやすみ」
「ああ、おやすみ」
「おやすみ、ダーリン」
「うるさい!」
冷て~と大笑いするシキに呆れながらも肩を揺らすユズリハはハロルドが家に入るのを見届けてから中に戻る。
「子供の話、いいのか?」
「よい。いつかはわかることじゃ」
「そうやって敬遠させるこたないだろ」
「恥となりとうない」
「どうせ自分が和女だからと思ってんだろうが、キスされたこと忘れたのかい?」
キスと言われると思い出さないようにしていた恥ずかしさが込み上げ、思わず前髪を押さえるユズリハにとってハロルドは敬遠すべき相手ではない。
今日も朝から必死に顔に出さないよう気をつけていた。そうしなければハロルドが避けると思ったからだ。
キスをされたということは少なからずハロルドの中にそうしてもいいと思う気持ちがあったということ。そうでなければ翌日に家を訪ねてくるはずがない。ましてや夕食を一緒に食べるなんてことは尚更だ。
そんな相手に「恥」と言うユズリハの考えはシキにはお見通しだった。
「一寸先は闇。それだけじゃ」
「まあな」
当たり前のことが当たり前ではない。保証された未来など存在しない──それを知っているからこそ、どうしても心を預けきることができなかった。
どんな顔をして会えばいいのかわからないだけなら今日はやめておくかと家を訪ねなければ済んだ話なのだが、混乱で家を飛び出したせいで教科書が入った鞄をユズリハの家に置いてきてしまったのだ。それがなければ学校に行く意味はない。ましてや昨日は宿題もしていない。部屋に帰ってからも宿題をしなければという考えが出てこず、朝になって学校に行く準備をしようとして鞄がないことに気付いた。そして宿題をしていないことも。
ハロルドは今まで一度だって宿題を未提出にしたことはない。それはヘインズ家の人間として当然のことで、学生としても当然のことだからだ。
それなのに今日、その当然が崩れようとしていた。
「今日も朝から崇高な趣味に勤しんでるのかい?」
「ッ~~~~~!!」
危うく大声を出しそうになったのを両手で口を押さえることで防いだ。
後ろからそっと声をかけるのは絶対にワザとだと確信したハロルドが振り向いて睨みつけようとするも見えたのはシキの顔ではなく見慣れた鞄。
「忘れ物、取りに来たんだろ?」
「あ、ありが……」
鞄を受け取ったハロルドはユズリハに顔を合わせなくて済むことに安堵したのも束の間、鞄を下げたことで見えたシキの顔にお礼が止まる。
「まさかお前さんがお嬢にキスをするとはねぇ」
「み、見てたのか!?」
「いやいや、俺にはそんな崇高な趣味はないもんでね。見えただけさね」
「いつもどこにいるんだよ!」
「それは問題じゃない。問題なのはお前さんがキスをしたってことさ。あと逃げたこと」
「あ、あれは……!」
パニックを起こして逃げてしまったのが事実だとしても、それこそ紳士としてあるまじき行動だった。
「あ、謝っておいてくれ」
「キスして謝る男は最低だぞ」
「い、いや、キスしたことじゃなくて、勝手にしたことを……」
「ああ、いいぜ。お嬢、ハロルドの旦那が謝りたいとさ」
「おいっ!」
間髪入れずに中に呼びかけたシキに慌て、逃げようとするも腕を掴まれて阻止される。
中からいつもの軽い足音がしてユズリハが顔を出した。
「そなたはいつも朝から元気じゃのう」
「お、おはよう!」
思ったより大きな声が出てしまったことに目を瞬かせるユズリハがすぐに微笑んで頷く。
「うむ、おはよう。いつもより少し早いな」
「宿題してないんだ。少し早めに行って学校でする」
「そうか。そなたは立派じゃのう」
いつもどおりのユズリハ。顔を合わせにくいとか照れている様子は微塵もない。
「昨日悶々として眠れなかったんだろ。あ、ギンギンか?」
「からかうな!! お前といると疲れる!」
「寝不足のせいじゃないか?」
「お前のせいだ!」
「気をつけてな」
走って行こうとしたが、ユズリハの声に足を止めて振り返る。
「行ってきます」
それを言いたいがため。
「うむ、行ってまいれ」
それを聞きたいがため。
手を振るユズリハに手を上げて馬車に乗り込むと大きく息を吐き出した。溜め息にしては強く大きなもの。
「僕はこんなに破廉恥な人間だったのか……」
シキの言うとおり、昨日は眠れなかった。
キスをしたのは初めてで、まさかそれが和の国の女とすることになるとは思ってもいなかった。自分からしたのだから嫌悪感などあるはずがない。あるのは衝動的にしてしまった困惑と柔らかさ。
ベッドの中で何度自分の唇を触ったかわからない。柔らかかったと、感触を思い出しては乙女のように丸まって顔から火を出し続けた。
そしてさっきもユズリハの顔より唇に目が行ってしまった。ユズリハは気付いていただろうか。
シートの上で膝を抱えて顔を埋めると今も昨日のことを思い出して恥ずかしさに全身を掻き毟りたくなる。
だがそれも学校に着けば消えてしまう。
「鼻が低くて目が吊り上がってるのが特徴」
「黒髪ってのもイマイチだよな」
「赤毛か金髪の二択だろ」
もう誰もハロルドに絡もうとはしない。ハロルド・ヘインズはやはりウォルター・ヘインズの孫であることが証明された今、からかって厄介なことになるのを懸念して周りを囲むことはしないのだが、聞こえるように和女を話題には出す。
(あの黒髪の触り心地の良さをお前らは知らないだろ)
指を通したときの触り心地の良さ、それから匂い。どちらもまだ鮮明に思い出せる。
夜風で冷えた髪が冷たくて、艶やかな黒髪がなんとも言えない触り心地。胸元に入れている自分のハンカチよりもずっと良い手触りだった。
紙に答えを書き込むだけの簡単作業をこなしながらクラスメイトがイマイチだと馬鹿にしている黒髪の良さを知っている優越感に浸る。
「なんかあの変な唇もさ、気持ち悪いよな」
「わかる。小さすぎるよな」
寄せたような唇が描かれやすい和女。見たことのないクラスメイトが抱いているイメージはわかるが、ハロルドはそれさえも鼻で笑いたくなる。
実際は寄せたような唇ではないし、気持ち悪くもない。むしろ、と感想が頭の中で流れそうになり慌てて小さく首を振った。
「でもさ、肌は陶器のように滑らかなんだってよ」
「はあ? んなわけないだろ。どうせガッサガサだろ。和女だぞ。貧乏の国で陶器のような肌になるわけがない」
「俺も知らねぇよ。噂じゃそう言われてるってだけだ」
「もう触ったのか?」
「そりゃそうだろ! なんてったって、あのアーリーンよりイイ女らしいからな!」
窓側の席に集団で固まって教室に響き渡るほど大きな笑い声を上げる卑怯者たちの言葉に感情を乱されるのはやめた。
直接言われたらそれなりの言葉で返し、遠巻きに言われたことは無視をする。いちいち気にして感情を乱すことも相手にすることも自分にとって負にしかならないのだと理解し、気にしないよう心がけた。
それに、彼らにユズリハを知ってほしいとも思わない。だからどんなに嫌味を言われようと笑われようとどうだっていいのだ。
「和女との子供とか目も当てられないだろうな。俺だったら捨てるわ」
「俺も」
「和女抱いた時点で一生の汚点だっての」
(お前たちと同級生であることが僕の人生の汚点だ)
ハロルドが鼻で笑うだけで男たちの会話が止まる。
また何か怒鳴るのではないかと警戒しているのだ。
「あ、おはよう、アーリーン」
「おはよう」
友人に声をかけられて挨拶を返すアーリーンの笑顔に元気はない。いつもならハロルドを見て微笑むのだが、今日はそれもない。あんなことを言った男を見て微笑むほうがどうかしている。
勝手に幻想を抱いて勝手に幻滅した自分が悪いのだと気分を害することはなかった。
その日の夜、ハロルドは“ユズリハ邸”で食事をしていた。
シキにウォルターのジイさんに食費を請求すると嫌味を言われながらおかわりを受け取ったハロルドはクラスメイトの会話を思い出して問いかけた。
「お前は将来的に子供が欲しいとかあるのか?」
この世界はよく時間が止まると感じながらユズリハが動くのを待っていると戸惑った顔ではなく怪訝な顔を見せてくる。
「あー……目が合った状態でお前と言われたので聞き間違いではないと思うのじゃが、一応確認させてくれ。わらわに聞いておるのか?」
「目を合わせながら他の奴に聞いてたらおかしいだろ」
「いやなに、おかしな話じゃっただけにおかしなことをしておるのかと思うてな」
失礼な話だと思いながらもどうなんだと視線を向け続けるハロルドにユズリハが問う。あのからかいのニヤつきを見せて。
「わらわとの子供が欲しいのか?」
「は? ち、違う! 僕はまだ十六だぞ! 親になるつもりなんてない! 僕とお前の子供って話じゃない! 僕が愛人を作る話は無くなったけど、お前が愛人でも連れ込んでその愛jんとの子供が欲しくなったときにどうするのかって世間話程度に話題を提供しただけだ!」
「ほほーう、こっちでは愛人との子が欲しいかどうかを婚約者との世間話にするのか? 随分と開けっぴろげじゃのう」
「からかわないで答えろ!」
質問したあとで自分もなぜこんな勘違いされるような話題を相手に振ってしまったのだろうと後悔したが、一度言ってしまったことは撤回できない。
口では相手に愛人ができた場合の話としたが、実際はそんなこと考えてもいなかった。ユズリハは愛人なんか作らない。アーリーンに抱いた幻想のようにユズリハへのイメージでそんなことを勝手に思っているのだ。愛人ができたと言われたとき、自分はそれを「いいじゃないか」と笑って受け止められるかと想像しても寛大な心でそう言える想像は浮かばなかった。
笑顔で愛人を紹介するユズリハの向かいで苦笑も浮かべられず「そ、そうか」と戸惑いを口にして逃げるように部屋に帰る自分しか浮かばない。
自分の想像なのに浮かんでくるのは情けない姿で、それこそ今、苦笑してしまう。
「どうなんだ?」
なぜそんなに知りたいのだろうと自分でも不思議に思う。
「わらわには兄も姉もおる。優秀な兄と姉がな。血筋は残る。わらわが生まずともよいのじゃ」
「お前はどうなんだよ」
「わらわが生んだところで」
「欲しいのかって聞いてるんだ」
遠回しに言うユズリハに焦れて強く問いかけるとハッキリとした口調で返ってきた。
「欲しゅうない」
言葉よりもその目が彼女の意思を物語っている。
「母親になりたいと思わないのか?」
「思わぬ」
「なんでだ? 好きな男を作って、そいつとの子供が欲しいと思わないのか?」
「思わぬ」
揺らがない瞳にハロルドのほうが戸惑ってしまう。
貴族は血を残さなければならない。貴族によっては他者の血を入れないために血縁者同士で子を作ることもあるほど血を残すことを当然としている。ハロルドも結婚すれば子供を持つと当たり前に思っていたが、ユズリハが欲しくないと言うのではその当たり前が当たり前ではなくなってしまう。
「子供が嫌いなのか?」
「そうではない」
「まだ十五歳だからか? それなら僕もそうだ。子供を持つのは十年先でもいい。あ、もちろんお前に僕の子供を産めって言ってるんじゃなくてだな、僕は──」
「わらわは母にはなれぬのじゃ」
ハロルドの言葉を遮って告げたユズリハに眉を寄せる。
「どういう意味だ?」
ウォルターからはそういう話は聞いていない。『ユズリハは良い子だ』それだけしか言わなかった。
母になれない。それが意味するのはなんだと目を見つめると揺らがぬ瞳がまた告げる。
「わらわの身体は子を成せぬ」
何か言わなければ。何か一言でいい。「そうだったのか」の一言でいいのに、そのたった一言が出てこない。何か言うべきだと頭ではわかっているのに、ユズリハが告げた言葉があまりにも衝撃的すぎて脳が正常に機能しなくなっている。
ユズリハは人をからかいはするが、人にショックを与えるようなからかいをするような女ではない。ましてや人が真剣に話をしていることに気分を害するようなからかいは絶対にしない。
だからこそ軽々しく「本当に?」と聞くことができなかった。疑っているような言葉は使いたくなかったのだ。
「だからそなたにわらわとの子作りの義務はない。安心せよ」
「安心って……別に心配なんかしてない」
愛人を認めたのは、応援していたのはそれが理由だったのかとハロルドの表情が歪む。
「こっちは向こうより技術が進歩してる。それにお前はまだ成長期だ。身体のことなんてわからないだろ」
「期待されとうないのじゃ」
子供ができなくて失望されるのはいつも女。期待されたくないの言葉にユズリハが持つ負の感情が乗っかっているようで何も言えなくなる。
妊娠できる仕組みになっていない男の身体では代わりに産んでやると言うこともできない。ユズリハの身体も精を放つ仕組みにはなっていないのだ。
黙りこむユズリハがまた頭を下げようとするため「下げるな」と言うと動きが止まる。
「このようなことを伝えず、嫁いでしまったこと、申し訳なく思うておる」
子供を産めない女は敬遠される。子を残せない女に価値はないと言われる時代。その中で和女というだけでも差別を受けるユズリハが子供を産めないなどと知られれば両親は祖父になんと言うだろう。
ユズリハと同じで自分にも兄がいて、兄が子供を持てば弟である自分が子供を持たなければと焦る必要はない。
それほど子供好きというわけでもないのに、これは怒ることではないのだとハロルドは微笑みを浮かべる。
「言っただろ、これは別に僕とお前の話じゃないって。僕はまだ十六歳だぞ。父親になる話なんてしたくない。世間話程度にって言ったの忘れたのか?」
「それはそうじゃが……」
「十五歳の女と十六歳の男が向かい合って子供の話に真剣になるのはおかしいだろ」
「優しいのう、そなたは」
いつもの笑顔のはずなのに、見ているだけで全身が痺れるような痛みが走る。
強がりか、それとも素直な笑顔かわからない。まだ知り合って日が浅い。だから見抜けるはずがないのだが、こういうとき、何が適切な言葉なのかわからないのが情けなかった。
「ごちそうさま。いつも悪いな」
「気にするな。そなたが来ると夕飯の品数が増える」
「伯爵家の坊ちゃんに粗末な物を食わせるわけにいかないもんでね」
「シキはいつでも嫁に行けそうだな。探してやろうか?」
「お気遣いなく。嫁ぎ先はもう決まってるもんで」
ユズリハの肩に腕を回して笑顔を見せるシキにぐぬぬと悔しさを滲ませるハロルドを見て二人で大笑いする声が玄関口に響く。
「夜道は暗いからな。襲われないよう気をつけて帰れよ」
「敷地内だ!」
「おやすみ」
「ああ、おやすみ」
「おやすみ、ダーリン」
「うるさい!」
冷て~と大笑いするシキに呆れながらも肩を揺らすユズリハはハロルドが家に入るのを見届けてから中に戻る。
「子供の話、いいのか?」
「よい。いつかはわかることじゃ」
「そうやって敬遠させるこたないだろ」
「恥となりとうない」
「どうせ自分が和女だからと思ってんだろうが、キスされたこと忘れたのかい?」
キスと言われると思い出さないようにしていた恥ずかしさが込み上げ、思わず前髪を押さえるユズリハにとってハロルドは敬遠すべき相手ではない。
今日も朝から必死に顔に出さないよう気をつけていた。そうしなければハロルドが避けると思ったからだ。
キスをされたということは少なからずハロルドの中にそうしてもいいと思う気持ちがあったということ。そうでなければ翌日に家を訪ねてくるはずがない。ましてや夕食を一緒に食べるなんてことは尚更だ。
そんな相手に「恥」と言うユズリハの考えはシキにはお見通しだった。
「一寸先は闇。それだけじゃ」
「まあな」
当たり前のことが当たり前ではない。保証された未来など存在しない──それを知っているからこそ、どうしても心を預けきることができなかった。
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