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猫かぶり

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「ん……え? えッ!?」

 ハロルドが目を覚ますと外はすっかり明るくなり、朝を迎えていた。
 自分の部屋の天井ではない模様に慌てて起き上がると見覚えのある襖があった。

「あのまま寝たのか……」

 枕が変わると眠れない神経質であることは自覚している。だから眠れるはずがないと思っていたのに、ユズリハの歌が始まって少しあとから記憶がない。枕が変わるだけでダメなのに膝枕で眠ってしまった自分に絶句していた。

「起きたようじゃな。わらわは今から飯にするが、そなたはどうする? ここで食うか? それとも帰るか?」

 時計を見るといつもより遅い時間に起きている。だが焦る時間でもない。部屋に戻って着替えて食事をしてからでも学校には充分間に合う。
 だが今日はせっかくだからと初めて一緒に食事をすることにした。

「僕、昨日……寝てしまったんだな」
「どうじゃ、わらわの子守唄の効果は。あの大男である父上がせがむのもわかるじゃろう」
「確かにな」

 眠くはなかった。欠伸も出なかったし、睡魔を感じてもいなかったのに一瞬で眠りに落ちてしまったのは事実で、すごいと言わざるを得ない。

「あそこに運んでくれたのは……」
「俺だ」

 割烹着を着たシキが食事を運んでテーブルの上に並べる。ヘインズ家では絶対に出てこない魚の丸焼きに四角く形が作られた卵焼き、見たことのない茶色いスープ。そして独特な匂いの黄色い添え物。
 ありがとうを言おうとするもシキの顔を見て口が止まる。

「お嬢の膝枕で眠りこけるお前さんを俺がお姫様抱っこであそこまで運んでやったんだ」
「お姫様抱っこ」
「お前さんがお嬢にしがみついて離さんから困った困った」
「は!?」
「こうやってしがみついてたんだぜ」
「あ、あああああああ、ありえない! 僕は子供じゃないんだぞ! そんな、誰かにしがみついたりはしない!!」
「んでも事実だ。なあ、お嬢?」
「ああ、事実じゃ。困った困った」

 ユズリハの言い方でからかいだとわかった。二人してからかって遊んでいるのだと眉を寄せるとフォークを手に取り、米を大口を開けて押し込んだ。パンと違って味気ない。和人は何が美味くてこんな物を食べているんだろうと眉を寄せる。

「和の国はこっちと違っておかずが多い」
「でもこれに味がない。リゾットにでもしたらどうだ? シキなら作れるだろ」
「悪いが、こっちの味は好みじゃねぇんさ。味が濃すぎる」
「これがなさすぎるだけだろ」
「人それぞれ好みがあるからのう。合う合わんはあるじゃろうてな」

 ユズリハの言葉にハロルドはまた決めつけた言い方をしてしまったと反省して文句を言うのをやめた。
 キレイに切られた卵を一つ取って口に運ぶと普段食べている卵とは違う食感に目を瞬かせながら頷く。その様子に目を細めるユズリハはちまちまと動かしていた手を止めてハロルドの前に置かれていた魚を自分の物と交換した。

「いいのか?」
「それでは食べにくかろう」
「ありがとう」

 魚の身がキレイに骨から取られて並べられている。フォークでも食べやすいようにしてくれたのだと感動さえ覚えたハロルドが素直にお礼を言うと頷きだけが返ってくる。
 ハロルドが話しかけなければ食事中は静かなもので、座布団の上で正座をして姿勢良く食べるユズリハは普段の人をからかって楽しげに笑う人物よりも少し大人っぽく見えた。
 昨夜、髪を下ろして微笑む横顔もそうだが、時折とても美人に見える。

「お前、美人だって言われたことあるか?」
「そう思うたのか?」
「ち、違う! 思ってない! なんで僕がお前を美人だって思うんだよ!」
「焦るな焦るな。ボロが出るぞ」
「焦ってない!!」

 まともな会話にならないのはユズリハがいつもからかうからで、昨日の会話が嘘のように今日はいつもどおり。
 思い出話をするユズリハの声は静かで、それこそ子守唄のように優しいものだった。
 今はそれを思い出せないほどニヤつき混じりの意地悪な表情に合った声を出す。

「お前はそうやって誰でもからかう人間なんだな!」
「お、よいよい。考え方を変えるのは大事なことじゃぞ。えらいえらい。ご褒美にまた子守唄を歌ってやるぞ」
「お前はからかわれる相手の気持ちを考えたことあるのか!?」
「ない!」

 最低だと怒るハロルドに大笑いするユズリハを見ていると自分も楽しくなることに気付いた。
 からかわれるのは腹が立つ。でも人の欠点を突くからかいではない。
 人の笑顔を見て自分が笑顔になれることはあまりなかった。祖父の笑顔は不気味で、兄の笑顔は不愉快で、アーリーンの笑顔は喜んでくれている事実が嬉しかっただけ。
 人が笑っているのを見て一緒に笑うなんてハロルドの人生にはなかったことだ。

「行ってきます」
「うむ、行ってまいれ。気をつけてな」

 成長するにつれ「行ってきます」を言わなくなった。祖父には言う。無言で行こうとすると「挨拶はどうした?」と言われるから。でも両親や兄には言わない。これから学校に行くことがわかっている相手にそんなことをわざわざ言う必要性が感じられなかったから。
 でもここを出るときはいつも行ってしまう。
 ユズリハの声に背中を押されるように軽足で玄関を出たら一度振り向く。するとユズリハが笑顔で手を振ってくれている。それに片手を上げてから再度足を踏み出す。
 それがなんだかとても心地良かった。

 学校に向かう馬車の中でも、もう憂鬱な気分にはならない。
 からかわれることは怖くない。ストレスにも感じない。全てユズリハのおかげだった。
 馬車を降りる足取りも教室へ向かう足取りも軽い。
 今日は朝からとても良い気分だった。
 教室に入るまでは──

「おーい! ハロルド・ヘインズ様のご到着だぜー!」

 くだらないと内心で吐き捨てて席へと向かう。

「ハロルドさん、おはようございます」
「おはよう、アーリーン」

 アーリーンだけがこうして話しかけてくれる。
 心優しい淑女の手本のような女性だと微笑みかける。

「アーリーンは優しいよな」
「そんなことありません」
「ハロルドのことなんか気にかけてやるのなんかアーリーンぐらいだぜ。優しさなんかかけずにさ、暴君ウォルター・ヘインズに逆らえずに決められた婚約者、ハロルド・ヘインズの妻は醜い和女だって笑ってやれよ」

 実際、同じクラスの令嬢たちでさえハロルドを笑っている。あのハロルド・ヘインズの婚約者が和女。どんな顔をしているのか見てみたいと集団で笑い話にしている。
 アーリーンは違う。集団に入って一緒に話すことはせず、ハロルドに寄り添うほうが多かった。
 それを嫉妬する男子生徒の言葉に久しぶりにイラッときた。ユズリハは醜い女ではない。美人に見えるときもある。なにより、誰に自慢しても恥ずかしくないほど優しい女だと拳を握るとそれを見たアーリーンが両手でその拳を包み込んだ。
 小さな手だが、やはりユズリハのほうが小さかった。

「可哀想なハロルドさん。今日、お父様に言って進言してもらいますから、もう少しだけ我慢してくださいね。きっと婚約破棄の話が持ち上がると思います。そうすればもう恥ずかしい思いをすることもありませんから」

 プツンと何かが切れる音がした。なんの音だろうと冷静に考える頭はある。それなのに冷静に行動する頭はなかった。

「ハロルドさん……?」

 手を乱暴に振り払われた理由がわからないアーリーンが戸惑った顔をハロルドに向ける。どうしたのかともう一度手を伸ばすも触れる前にあからさまに避けられた。

「悪いけど、僕は可哀想なんかじゃない」
「え?」
「婚約破棄するつもりなんかないし、僕はもう彼女が妻であることを認める書類にサインもした」

 目を見開いて口を開いたまま固まるアーリーンには鈍器で頭を殴られたような衝撃だろう。
 祖父によって決められた婚約者が和女で、それに逆らえないハロルドを可哀想だと思っていた。ハロルドは自分に気があると確信さえあったのに、感謝どころか蔑むような目を向けられている。

「和女を妻にしたって笑いたければ笑えばいい。馬鹿にしたければ馬鹿にすればいい。君たちが何をもって和人を見下し、和女を笑い者にするのかは知らないが、彼女は君たちよりよっぽど大人で優秀な女性だ」

 本当はもっと言ってやりたい。怒鳴りつけて殴ってもやりたい。でもきっと何が理由でそんなことをしたのか話せばユズリハは苦笑するだろう。そしてきっと「くだらぬことを」と言うのだろう。だから我慢する。感情に操られるな。自分もそう生きると決めたんだと拳を握った。

「強がんなよ! 和女が俺たちより優秀? あるわけねぇだろ! そんなに言うなら俺たちの目の前に和女を連れてこいよ! ブスだって罵って笑い者にしてやるからよぉ!」
「そうだそうだ! アーリーンよりイイ女だってのか? あるわけねぇよな! 強がるな!」
「そうだよ! アーリーンと並べてやれ! それで後悔させようぜ!!」
「ハロルド・ヘインズは和女が婚約者になったことで頭がおかしくなったのでアーリーンの魅力に気付きませんでしたって土下座させようぜ!」

 盛り上がる男子生徒に混ざって笑う女子生徒。低俗な人間の集まりだと呆れてしまうが、それよりもアーリーンが何一つ否定しないことに気持ちが冷めていた。
 オロオロするわけでもなく困惑するでもなく、まんざらでもない顔をして「そんなことない」と両手を振っている。
 苛立ちは捨てろ。自分の見る目がなかったんだと自分に呆れろ。

「早く連れてこいよ!」
「御者に行って連れてこさせろよ!」
「妻にしたぐらいなんだから恥ずかしくないんだろ?」

 ハロルドを取り囲んでギャアギャアと耳障りな騒音を立てるクラスメイトに我慢ならず振り上げた拳を思いきり机に叩きつけた。
 想像よりずっと大きな音が響いたことでクラスメイト全員が黙った。嬉しそうに両手を振っていたアーリーンもそのままのポーズで固まっている。

「やかましい! このドアホめが!!」

 思いきり息を吸い込んで腹の底から声を出した。
 自分でもこんな声が出るのかと思うほど低い声が出たことに笑ってしまう。ダイゴロウを思い出してユズリハの言い方を真似ただけなのに迫力があった。
 さっきまで人を笑い者にしていた者たちは目を見開いて驚いている。

「恥ずかしくないからサインしたんだよ。でもお前らの前に連れてくるわけないだろ。お前らみたいな幼稚で低俗な馬鹿どもの前に彼女を連れてきたら彼女の目が腐る。お前らがどんな幼稚なことを言おうと彼女は絶対に怒らないし言い返さない。だって彼女はお前らと違って大人だからな」

 何匹も猫を被り続けていたのを外すことにした。こんな幼稚な人間に猫をかぶって紳士的に話をすることこそ馬鹿馬鹿しいことだ。

「お前らの婚約者なんてどうせロクな女じゃないんだからそれこそ笑い者にされる覚悟しとけよ」

 鞄を持って立ち上がり、クラスメイト全員を流れるように指さして言い放ったハロルドが出口へと向かう。

「ああ、そうだ、アーリーン」

 ドアを開けたところで振り向いたハロルドに顔を向けるアーリーンに爽やかな笑顔を向ける。

「ユズリハは君よりずっとイイ女だよ」

 じゃ、と言いたいことを言って帰っていったハロルドを追いかける者は誰もいなかった。
 スキップしたくなるほどスッキリした気持ちで馬車まで向かい、御者に「帰ろう」と笑顔で声をかけたのは初めて。
 戸惑う御者はなんとなく恐怖を感じて、いつもより少しだけ馬を急がせてヘインズ邸に戻った。
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