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物分かりの良い女

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「僕は昨日までお前が婚約者だってことも知らなかった」
「おお、そうであったか。驚いたであろう」
「それはもう死ぬほどな。朝、学校に行く前に呼び出されて『明日お前の婚約者が嫁いでくる』と言われたんだ。写真もなければ情報もない。和の国の女であることしか教えてもらえないまま今日を迎えたんだ」
「そうか」

 こんなことをユズリハに言ったところで困らせるだけだと分かっていても言わなければ不満になり続ける。祖父には言えない苛立ちを嫁いできたばかりのユズリハにぶつけることで解消しようとしている。
 ユズリハがどう聞かされていたかは知らないが、困惑しているのは自分のほうで、この関係を望んでいるわけではないと伝わってくれとユズリハを見つめていると数回頷いた。

「お前様はわらわが生まれてからの十五年間、ジジ様より何も聞かされておらず何も知らなんだと?」
「そうだ。だから僕はお前が妻と言われても受け入れられない。好きになることはないだろうしな」
「そうか。じゃが、お前様はジジ様に逆らえぬのであろう?」
「……そうだよ。お前の前じゃどうか知らないけど、ウォルター・ヘインズは誰もが恐れる暴君だ」

 こんな暴言を祖父に聞かれれば仕置き部屋に入れられるのは間違いないが、祖父はユズリハの父親と盛り上がっている最中であるため此処には来ない。
 言いたかった言葉を言えたことで少しスッキリしたハロルドはユズリハに申し訳ないという気持ちがないわけではないものの、昨日初めて聞かされた婚約者と結婚するつもりはないため夫婦ごっこをされる前に言っておきたかった。
 これはハロルドにとっても一種の賭け。自分の気持ちを伝えることでユズリハが父親に泣きつけば全て終わり。受け入れなかった孫を祖父は罰するだろうし、ウォルターとダイゴロウの関係にもヒビが入るかもしれない。
 それでもハロルドがユズリハに告げたのはユズリハが妙に物分かりの良い人間だとわかったから。
 もし、こんなことで泣き出すような性格なら馬車から降りたときに堂々と嘘をつくことはしない。物事を円滑に回すためには多少の嘘が必要であることをユズリハは知っている。
 そう感じたから告げた。ハロルド自身、これが卑怯であることは自覚しているが、期待されたくなかった。
 どうする?とユズリハがどういう行動に出るか緊張しながら見ているとユズリハは限界まで口を大きく開けて大笑いし始めた。
 屋敷中に響き渡るほどの笑い声にポカンとしているのはハロルドだけ。笑い話ではないはずだと何度も目を瞬かせ、触れはしないが軽く手を伸ばした。

「わ、笑い事じゃないだろ? 僕の言ったこと、理解できてないのか?」
「できておるよ。お前様はわらわと婚約破棄はせぬが、妻として見ることはないと言うておるのじゃろう?」
「そ、そうだ……」

 結婚はしなければならない。祖父に逆らえば未来が潰える。だから形だけの夫婦は取るが、妻として受け入れることはないし夫として動くつもりもないと告げたことをユズリハはちゃんと理解している。その上で大笑いしているとわかると余計に不可解だった。
 馬鹿げたことを言っていると笑っているのだろうか。子供だと思ったのだろうか。どちらにせよ笑われるようなことではないと眉を寄せるとそれに気付いたユズリハが声こそ抑えるが肩が揺れるのまでは止められず、俯いて笑い続ける。

「笑いすぎだぞ」
「あー笑った笑った。お前様があまりにもハッキリ言うものでな、意外すぎて笑ったのじゃ。お前様の言い分を笑ったわけではないぞ」
「意外?」

 今日、初めて会った人間に『意外』と言われるほど話していないのにと怪訝な顔をするハロルドにユズリハが微笑む。

「お前様のことはジジ様がよく話してくれた。賢く、努力家で、負けず嫌い。そこに柔軟性が加われば申し分ないが、真面目すぎる。それはお前様の長所でもあり欠点でもある。祖父の顔色を窺って行動を決める性格をしておるとな」
「別に窺って行動を決めてるわけじゃない……。睨まれたくないだけだ」
「そうらしいな。そう聞いておったので、お前様がジジ様を暴君だ、受け入れられないとわらわに告げたことが意外だったのじゃ。上辺だけでも取り繕うのではないかと思うておったからな」

 実際、そうするべきなのだろう。上辺だけでも取り繕って祖父が死ぬまでの長くても十五年か二十年、そうしていれば波乱もなく安定した人生が約束される。
 だが、そうしなかったのはユズリハが和女であることも一つの理由。妻として認めるには抵抗があり、片思いの相手がいるからこそ妻として受け入れたくないのもあった。
 両親も政略結婚で、兄も政略結婚。貴族にとって政略結婚は当然のことで恋愛結婚ができる者は稀。自分もそうしなければならないとわかっていても和女が妻では笑い者になるだけ。
 兄のようにサロンで婚約者を自慢したい。誰からも羨まれる結婚がしたい。自慢できる家庭を築きたい願望があるハロルドにとって祖父が自分の好みで決めた結婚など受け入れられるはずがなかった。

「お前様は、わらわに一目惚れしたか?」
「するわけないだろ」

 和女に一目惚れする男がどこにいるんだと眉を寄せたまま答えるとユズリハはそれに不快感は示さず穏やかな笑みのまま頷く。

「なら、それでよいではないか」
「え?」
「お前様もわらわも家長の決定に従い、結婚するだけのこと。愛し合えとまでは言われておらぬ」
「そ、そうだけど……」
「好いた女でもおるのか?」
「……いたとしてもお前に関係ないだろ」

 あからさますぎる反応だと自分でも思ったが、ハロルドは真面目が故に咄嗟の対応が苦手。いないと言うだけができないのだ。
 ククッとおかしそうに喉奥を鳴らして笑われると馬鹿にされているような気分になり恥ずかしくなる。

「僕は恋愛結婚がしたいんだ」
「そうか。ならば、そやつを形だけ愛人として迎え入れてはどうじゃ?」
「……は?」

 耳を疑う言葉に何を言っているんだと顔に書くハロルドの目に映るのは一口大のお菓子を頬張ってズズズと音を立てて緑の茶をすするユズリハの呑気な姿。

「音を立てるな。下品だぞ」
「熱うてな」
「女だろ。マナーもないのかよ」
「すまぬすまぬ。不快にさせたな」

 マナーも知らない女を妻として迎えなければならないことほど苦痛なことはないと眉間に寄ったシワが深くなる。
 両親の前では普通だった。パーティーで用意されたご馳走に手をつけるわけでもなく、紅茶やシャンパンにも手を伸ばそうとはしなかった。遠慮していたからではなくマナーがないことがバレてしまうからだとわかり、ハロルドの中で嫌悪感が増していく。

「わらわが異国の地に渡る条件として家を建ててもらうこととした。海を渡ったが最後、気軽には帰れぬ故、寂しくないようにとジジ様も実家を再現してくれたのじゃ。わらわはここでシキと暮らすことはジジ様にも伝えておるし、そなたには好きに暮らしてもらいたい」
「……でも祖父はきっと僕がお前と一緒にこの家で暮らすことを当然だと思ってるはずだ」
「奴が聡明な男であることはお前様のほうが知っておるじゃろう。わらわにとってもお前様とは今日が初対面。婚約者は一緒に暮らすべきと言われても困る。故に、わらわの意思を尊重してすぐに同棲などさせぬじゃろう」

 今の祖父は間違いなく孫である自分よりダイゴロウの娘であるユズリハを尊重する。ユズリハが嫌だと言えば無理強いはしないだろう。
 だがそれに安堵するのは危険行為も同然。ユズリハの機嫌一つで全て変わってしまうということ。ここでの会話を暴露される可能性だってあるのだ。

「わらわはお前様の妻となる身じゃが、お前様の妻として振舞うつもりはない。外に出てハロルド・ヘインズの妻という看板をぶら下げて歩くつもりもないしのう」
「当たり前だろ!」

 冗談だとわかってはいるが、想像してしまいゾッとした。
 今日は家族だけのパーティーで他人は呼んでいないためすぐにバレることはない。港で和人が来たと少し騒ぎになってはいたが、ウォルター・ヘインズの客だと思われただろう。
 兄のクリフォードにも『外で余計なことは言うなよ』と脅していたため言いふらす可能性は低い。だが、酔うと余計なことを口走る癖があるためわからない。
 これからずっとこんな不安な気持ちで生きていかなければならないのかと思うと地獄に落ちた気分になる。
 一つ救われたのは、ユズリハもこの結婚を親の命令として受け入れてやってきただけのこと。洋人と結婚できると浮かれていたわけではないことがわかり、それだけが安心できることだった。

「でも、お前はそれでいいのか?」
「かまわぬよ。ヘインズ家に嫁ぐことで役目は果たした。お前様は好いた相手を形だけ愛人として迎え入れればよい。それが最も平和なことじゃ」

 本当に物分かりの良い女だと思った。若干十五歳にして世の中の真理全てを悟ったような話し方をする娘が洋人であればハロルドも喜んで迎え入れた。
 金色の髪に碧い瞳。そばかすがあってもいい。名家の娘で夫を立てることのできる女。控えめで微笑が似合えば尚良い。
 ユズリハはそれとは程遠い女。

「わらわのことは話し相手ぐらいに思えばいい。暴君からの避難場所にでもしてやろう」
「絶対言うなよ」
「はっはっはっはっはっ! 自分で言うたのにか?」
「いないから言ったんだ! 絶対言うなよ!!」
「わかったわかった」

 女が男をからかうなんてあってはならないのにユズリハは平気でからかう。
 なぜからかわれて恥をかかなければならないんだと顔を赤くするハロルドが大きな足音を立てながら帰っていく。

「これでいーのかい?」

 どこからか聞こえる声に頷く。

「かまわぬよ。わらわには此処が居場所じゃ。立派な屋敷を建ててもらえただけで幸せと捉えねばならぬ。見よ、この美しい景色。西洋で拝めようとはな」

 実家で見ていた景色よりも美しいのではないかと笑うユズリハにシキは何も言わなかった。
 ユズリハが決めたことであれば、とシキはいつもそう言う。ユズリハの決定に付き従うだけ。

「父上の世界がこれでまたグッと広がったのじゃ。悪いことなどあるまいて」
「自己犠牲が美しい時代は終わったと思ってたんだがねぇ」
「そなたも忍びならわかるじゃろう」
「まあね」
「そなたには感謝しておる」
「お供できて光栄です」

 選択肢は二つあった。行くか、行かないか。でもそれはあってないようなもので、ユズリハを一人にしてのんびり暮らすことなどできるはずがない。
 赤ん坊の頃から専属として付き従って守ってきた娘を西洋に放り出すことはシキの中には選択肢として浮かぶこともなかった。
 夫となる婚約者があんな子供では余計だと小さく鼻で笑った。
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