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顔も知らない婚約者

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 爽やかな風に鳥たちが歌を乗せる気持ち良い青空の下で毎日の日課である深呼吸を済ませたハロルドは学校に行く支度を済ませてから食堂に向かった。
 大体の貴族は幼い頃から両親と食事をすることはなく子供は子供だけの食事部屋で食事をする。ヘインズ家もそう。だから両親や祖父が食事をする食堂には昔から用事がなければ入ることはなかった。
 今日は例外。祖父であるウォルター・ヘインズに呼び出されたのだ。
 ハロルドは正直、祖父が苦手。貴族として領主としての手腕は周りから疎まれるほど才があり、領民からは慕われているが、家族が祖父を慕った過去は一度もない。
 幼い頃から常に祖父に怯えていた。強面で、笑うことは少なく、威圧的。実の子である父親でさえ祖父には逆らえない。ヘインズ家の家長である祖父の言葉が絶対であることは今も昔も変わらない。
 だから今日、呼び出されたのが兄ではなく自分であることに疑問と不安を抱きながら極限の緊張の中、食堂のドアをノックした。

「入れ」

 返事をしたのは父親ではなく祖父。使用人によって開けられたドアの向こうにある長テーブルの奥の席に祖父が座り、テーブルを挟んだ両側に両親が座っている。
 まだ食事中にもかかわらず呼びつけた理由は部屋からここまでの時間に色々と考えたが思いつかなかった。
 学校には主席で入学した。先日のテストの点数も良かった。それなのに呼び出された理由はなんだと聞きたいようで聞きたくない。祖父の口から褒め言葉が出たことは一度もなく、どんなに良い点数を取っても頭を撫でられたことすらなかった。ヘインズ家の人間はそれが当然。努力なき者に祝福も未来もないらしい。
 頑張るだけ頑張っても『当然だな』の一言で片付けられてしまうのだ。祖父は努力を虚しくさせる天才だとハロルドはいつも友人に語っている。
 そんな祖父が一体なんの用だと怪訝さはあるが顔に出さず、笑顔を浮かべて軽く頭を下げてから背中に腕を回してその場に立つ。

「明日、お前の婚約者がここへ嫁いでくる」

 ガチャンッ!と大きな音だけが鳴ったあと、食堂は静まり返る。
 手にしていたナイフとフォークを母親が落とし、父親は握ったまま固まっているのを見ると二人とも知らなかったのだと冷静に見ているが、頭の中は真っ白だった。

「返事はどうした?」

 当事者である孫への説明はなく、返事だけを求める祖父の威圧にハロルドは「わかりました」と答えるしかできなかった。
 
「あ、あああああ、あの、お義父様、それはとてもおめでたいことですね!」
「そうだろう」
「そ、その婚約者はどういうお方なのでしょうか? お義父様がお選びになられた方ですから、素晴らしい方であることはわかっているのですが、先に知っておきたい気持ちが逸ってしまいまして……お教えいただけませんか?」

 長男は既に婚約者がいて結婚も一週間後には式を挙げることが決まっている。優秀だが、調子に乗りやすく人を見下す癖がある難ありで、ハロルドは兄も苦手だった。
 兄の婚約者も同じ伯爵家の娘で才色兼備と絶賛されている。ハロルドも一度だけ会ったことがあるが、控えめで笑顔の素敵な女性だと強く印象に残っていた。
 兄はいつも婚約者を弟に自慢し「お前の嫁はどんなんだろうな」と意地悪くニヤつくばかり。
 ハロルドの人生の目標は“全てに関して兄に勝つこと”だった。兄より全てにおいて優秀で、兄より美しい婚約者を得て、祖父に認められること。
 目標を達するためにハロルドは幼い頃から努力を惜しまなかった。兄より良い成績を収めるために学校の勉強に加え家庭教師の時間を増やした。その結果、兄が学生の頃よりずっと良い成績を記録している。兄も優秀だが、全教科満点は取れなかった。
 全教科満点を取ったテストを祖父の前に並べたとき、褒められることはなかったが「弟の優秀さを誇りに思え」と兄が言われているのを見て心の底から気持ちが晴れた。睡眠時間を削ってまで努力し続けた日々が報われた瞬間だった。
 成績は今の努力を続けていれば失敗はないため次は婚約者。幸いにも同級生に好きな相手がいる。学校でも美人だとちょっとした有名人。兄の婚約者と同じ伯爵令嬢で、婚約者としては申し分ない。あとはパーティーに出席してダンスに誘ってロマンチックな男だと普段とは違った一面を見せるだけ、という場面まで来ているのに、その計画が全て崩れてしまう事態が起こっている。
 失敗は許されない。
 ウォルター・ヘインズの目に狂いがあったことはないが、三人には一つだけ、たった一つだけ不安があった。祖父が持つたった一つの趣味だ。その趣味が含まれていないことを母親はテーブルの下で祈るように手を組みながらそれが白くなるほど強く握ったまま答えを待つ。
 絶望に陥るまでのカウントダウンは三秒もなかった。

「美しい和の国の女だ」

 ガチャン!と今度は父親が落としたカトラリーが食器にぶつかって大きな音を立てる。
 ウォルター以外の全員が顔を青くして絶句し、使用人さえ驚きに固まっていた。

「ま、まさか……向こうに建てていた家は……」
「その娘のための家だ。俺が隠居するための家じゃない」

 和の国の文化を愛していると言っても過言ではないほど出張を繰り返し、その度に大量の品を買って帰ってくるウォルターの趣味は家族ではなく貴族なら誰もが知っているほど有名なこと。
 和の国独自のキモノというドレスを美しいと言い、和の国の壺やわけのわからない掛軸、カップではなく湯呑み、刀など数え始めるとコレクション部屋にある物を一つずつ数え始めるとキリがない。
 五年から敷地内に和の国に建っているのだろう家屋を建て始めた。家族はそれを遠目に見ながらついに隠居するための離れを建て始めたのだと話していただけに、それが息子の婚約者のための家だと知り、絶望の色を隠せない。

『生まれ変わったら和人になりたい』

 何度聞いたかわからないその言葉が迎えた最悪の事態に自ら聞いた母親でさえ「素晴らしい」と絶賛することができなかった。何か言わなければとわかっているのに、頭の中でその言葉がぐるぐると回るだけ。

「ああああああ明日来ると言ったが、い、いいいいつから決まってたんだ?」

 動揺しても表には出すなと叩き込まれた教えに従い、どんな場面でも気丈に振る舞ってきた父親が動揺する姿を見るのは初めてだが、誰もが聞きたかった質問であり、今この場には父親以外の誰も声を出せる状況ではなかった。

「ハロルドが生まれる前からだ」
「十六年前から決まってたってことか!?」
「何か文句があるのか?」

 睨んではいないのに威圧的なその声と物言いに父親は立ち上がりそうになったのを堪えて緩くかぶりを振る。

「……文句じゃない。文句じゃないが……そんなに前から決まっていたなら……一言ぐらいは欲しかったなって……思って……」

 妻も息子も心の中で「文句を言ってくれ!」と願ったが、段々と声が小さくなっていく様子にそれ以上は期待しなかった。

「必要あるか?」
「お、俺たちの息子だ」
「俺の孫だ」

 そんな理屈で息子の人生を台無しにするなと心の中でだけ訴える自分が情けないが、幼い頃から染み込んだ父親への恐怖は大人になっても払拭できない。威圧的な態度を取られるだけで心臓が異様な速さで動いてしまう。

「クリフォードのときはお前の好きにさせてやっただろう」
「だ、だが、ハロルドはまだ十六歳で……」
「生まれる前から婚約者がいることなど珍しい話ではない。お前とてそうだっただろう」
「そ、そうだけど……」

 自分も物心つく頃には婚約者がいて、それが今の妻。ハロルドもそれと同じだと言われればおかしいとは言えないのだが、おかしいものはおかしい。

「ぼ、僕は婚約者のことを何も知りません。顔どころか名前さえも」
「名はユズリハ。顔は明日わかる。美人だぞ」

 和の国の女が美人でないことは知っている。鼻が低く、凹凸のない平たい顔。特徴がないと言えるその顔に美人という言葉が合うはずがない。

「歳は……?」
「お前と変わらん。十五になったばかりだ」

 よほど年上か年下なら断る理由にもなり得たかもしれないのにと背中で悔しげに拳を握る。

「想像ぐらいはしていただろう? 俺はお前が子供の頃から結婚相手は和の国の女が良いと言っていたからな」
「そう、ですね」

 飽きるほど聞かされたことでも実現するとは思っていなかった。いくら家族を掌握している男でもまさか孫の人生をぶち壊すような選択をするなど想像するはずがない。

「勝手すぎる」そう言えたらどんなに良いだろう。

「父さんは相手の女性に会ったことは?」
「もちろんある。何度もな。俺はユズリハを気に入っている」
「相手の家柄は……」
「商人だ。それも世界を股にかけるほどの豪商。収益だけならうちより上だぞ」

 豪商が貴族よりも権力を持つ世界を生きている以上、そう言われては文句などつけられない。
 ハロルドにとっても悪い話ではない。爵位こそ持たないが、兄の婚約者よりも家柄は上。また悔しがらせるには充分な話。
 しかし、問題はある。相手が和女ということ。笑い者にされるに決まっている。たとえ「兄さんの婚約者より上だ」と言ったところで「でも和女だろ?」と笑われるだけ。誰にも紹介などできるはずがない。
 これでは自分の輝かしい人生設計が台無しだと意を決して口を開いた。

「お祖父様、僕は婚約者は自分で──」
「楽しみだろう?」

 ハロルドの言いたいことはきっとなんとなくは伝わっただろうが、それを意に介さない祖父はそれを遮って同意を求めた。反論を許さない求め方にハロルドは「はい」と笑顔で頷いた。
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