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出発

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 まだ外は薄明るい早朝。ディルは頭を超すほど高く荷物を積み上げた大きなリュックを背負って立ち上がった。

「行ってきます」

 まだベッドの中で眠るジルヴァの耳元でそう囁き、唇にキスをしてから静かに部屋を出ていった。
 妹たちには挨拶はしない。昨日散々泣かれて辛かった。それはミーナたちも同じで、寝る前に「明日は何も言わないで行って。泣いちゃうから」と泣きじゃくりながら訴える妹たちを見てディルも泣きながら頷いた。
 だからジルヴァの部屋を出たら真っ直ぐ駅へと向かう。
 街は珍しく霧が出ている。不気味だが、空を見上げると白い雲の間から薄い青空が見える。きっと晴れるだろう。そう感じさせる空気にディルは背筋を正して地面をしっかり踏みしめた。
 そんな後ろ姿を窓から見送る視線にディルは気付いていない。
 七年前に自分に課した一日二本という喫煙ルールを破って朝から煙草に火をつけた。

「頑張れよ」

 本人には聞こえない小さなエール。
 別れは昨日済ませた。だから今日は見送り。でも言葉のやり取りは必要ない。自分が起きればディルはきっと言葉を残そうと時間を取るだろうから。
 今日は素晴らしい一日になる。そのためにはうしろ髪引かれるようなことがあってはならない。角を曲がって見えなくなってもまだその通りを見ているジルヴァが目を見開いた。

「頑張るから!」

 曲がったはずの角からもう一度出てきて窓に向かって両手を振るディルにたまらずジルヴァが吹き出した。
 きっと起きていたことにも気付いていただろう。考えていたことも同じだった。だからディルは短い挨拶だけして出ていった。すぐに振り向くことはせず、すぐに駆け出せる場所まで行ってから振り返ることにした。ジルヴァが絶対見ているとわかっていたから。
 聞こえないはずの声がハッキリ聞こえたことにやれやれと自分に呆れながら窓を開けて紫煙を外へ逃した。

「お兄ちゃん、ちゃんと汽車乗れたかなぁ?」
「いつお手紙来るかなぁ?」
「明日にでも来るだろ」
「ホント!?」
「ジルヴァ、期待させちゃダメ」

 シーナはすぐに期待して裏切られて泣く。見知らぬ土地に初めて行く兄が何をしに行くかも知っているミーナが注意すると「悪ィ」とジルヴァが笑う。一人足りない三人での食事は誰も口にはしないが寂しさを感じる。

「ごちそうさま!」
「皿洗いした奴は夕飯のあとにデザートが──」
「今日からシーナと二人でお皿洗いするって約束したの。ジルヴァの分もする。まだたくさんのお手伝いはできないけど、ミーナたちもやれることちゃんとやるから」

 言わなくてもすると当たり前の顔で言うミーナに目を瞬かせたのはジルヴァのほう。喜ぶのではなくそれが当たり前だと言う。それがジルヴァは言葉にならないほど嬉しかった。妹たちはちゃんと兄の姿を見ていたのだ。兄がしてくれていたのだから大人のジルヴァがしてくれて当たり前ではなく、してくれる兄がいなくなったのだから自分たちでするのが当たり前。そう思っていることをディルに伝えてやりたくなった。

「ジルヴァ泣いてるの?」
「あー! 泣いてるー!」
「バーカ。泣くわけねぇだろ。俺の涙は百年に一度しか流れねぇんだよ」
「いつ泣くの?」
「生まれてすぐ泣いたからもう泣けねぇ」
「嘘だ!」
「嘘だー!」

 寂しいのは自分たちではなくディルのほう。これだけ賑やかな娘たちがいながら寂しがっていたら罰が当たる。普段はそんなこと思いもしないのにディルがいないだけでディルが考えそうなことがつい頭を過ぎる。
 朝から元気なミーナたちが皿洗いをしている間に忘れ物がないか、それぞれのリュックの中身を確認する。朝の仕込みの段階で作っておいたランチボックもちゃんと入っていることに頷いて鞄を閉めた。

「怪我すんじゃねぇぞ」
「行ってきます!」
「行ってきまーす!」

 両手を振りながら走っていくミーナたちを見送ったらゆっくりと歩いて帰る。仕込みはしている。開店準備はオージたちがいれば充分だと煙草に火をつけて二本目の煙草を吸う。

『今日は特別だからいんだよ』

 ロイクもそう言ってルールを破る日があった。でも必ず理由があって、吸いたいから吸った言い訳として使うことはなかった。ジルヴァは当時それを言い訳と捉え責めたが、今ならわかる。寂しいと口にもできないこの感情を逃すために煙草に逃げている。そこしか逃げ場がないから口にしてしまいそうな感情を紫煙に乗せて空に放つ。
 会わない日も当然あった。でも明日になれば会える日が当たり前だっただけに明日になっても明後日になっても一週間、一ヶ月、一年経っても会えないと思うと変な感情が込み上げる。
 十一歳のミーナたちは自分の子供でもおかしくない年齢。自分もそういう歳になったのだと歩きながら色々なことを考える。
 一回り違う子供からの感情を受けながらなかなか答えが出せなかった自分がいたのは遠い昔のように感じるほど今は彼らを愛しいと感じる心があった。誰も近付けない。誰も入らせない。誰も愛さない。誰も誰も誰も誰も──そう心に決めたのが嘘だったかのようにディルはすぐに特別になった。
 ロイクがなぜ自分たちを見放さず最後まで愛し続けてくれたのか今ならわかる。鬱陶しく感じることがあろうと腹が立つときがあろうと結局は愛おしいと思うのだ。大事な人を失ったときの孤独など思い出せないほどに彼らがいる生活に染まる。
 自分らしくない。自分が一番そう思う。幼い子供を育てるなんてがさつな自分には向いていないと思うのに面倒を全て引き受けるのに覚悟は必要なかった。

「らしくねぇ、か」

 ククッと笑いが溢れる。

『らしいってのは単なるイメージだ。誰だってソイツの本質を知り尽くせるわけじゃねぇ。だから何を言われようと俺は俺のやりたいようにやるだけだ』

 自分たち孤児二人を育てていることを知った友人にそう言われたロイクの答えはまさに今の自分が返す言葉。誰かに頼まれたわけじゃない。自分がやりたいからやるだけ。そこに他の理由など存在しなかった。ロイクがやったからやったのではなく、放っておけなかったから掴まえた。それだけなのに人生が変わってしまった。良い意味で。それは人に反抗し続けて生きてきたジルヴァには笑ってしまうほどおかしなこと。でももうそれ以外の生き方はできない。

『空ばっか見て飽きねぇのかよ』
『こんな清々しい空見上げねぇのはもったいねぇだろ』
『ここんとこずっと晴れじゃねぇか』
『お前もいつか立ち止まった空見上げる時間ができる。そんとき絶対に思うぜ』

 ロイクの笑顔が浮かぶ。

「いい天気だな」

 無意識に口から出てきた。
 晴れた空など当たり前で珍しくもなんともない。でもそれをわざわざ立ち止まって見上げることはなかったし、感想を口にすることもなかった。言っても青空ではなく暑さや寒さに文句を言うぐらいだった。
 こういうことだったんだとようやく知ることができた。

「ジルヴァ」
「あ?」

 向かいにジンが立っていた。相変わらずの風貌。人の気分を害する嫌な笑み。また何を企んでいるんだと呆れながら近付くと腰に手が伸びてきた。

「触ったら玉潰すぞ」

 触れる直前でピタッと止まった手。

「俺にそんな口利いていいのか? アイツ、他のレストランに移ったそうじゃねぇか。そこでアイツが過去に何してたか噂になったら立場無くなっちまうんだぞ」
「まだそんなこと言ってんのかよ」
「アイツの夢潰したくねぇだろ?」

 何が言いたいかわかるだろうと言いたげなジンの手がジルヴァの腰に回って力を込めると同時にジルヴァが吸っていた煙草をジンの顔めがけて吹き捨てた。

「あぶねッ!」
「あれで懲りたと思ってたんだがな」

 ジンが勢いで離れたことで地面に落ちた煙草を拾い上げて靴の裏で火を消したジルヴァが歩きだす。

「いいのかよ」
「言えばいいだろ。アイツは修行に行っただけでそのうち戻ってくる。向こうでダメならどのみち戻ってくんだよ。母親殺したからなんだってんだ? 何年前の話してんだよ」
「噂ってのはな、過去のことを現在のことのように持ち上げんだよ」
「ああ、だからテメェはまだ兄ちゃん殺されたこと引きずって生きてるわけか」
「あ?」

 立ち止まったジンのドスのきいた声にジルヴァも立ち止まる。

「あの坊ちゃんで満足できんのかよ、テメェみたいな変態が」
「同じ児戯でもテメェのよりマシなんだわ」

 侮辱させればいくらでも言葉が出てくるジルヴァにジンは一度も勝った記憶がない。ジルヴァは面倒くさげに従いはするが、それは従順ではなく渋々。でも今は違う。ディルの未来を潰せると言ってももう従おうとはしない。
 新しい煙草を咥えて口元で揺らす様にジンが舌打ちする。

「妹たちは学校に通い始めたんだってな」
「手ェ出したら殺すからな」
「お前が言うこと聞けば──ッ!?」
「お前殺すのに三秒もいらねぇぞ」

 一歩近付いたジルヴァが周りの目など関係なくジンの股間を掴んだ。手の甲にまだ血管が見えないことから全力ではないが、指の形からそれなりの力が入っていることがわかる。
 ジン同様にジルヴァの声も低くなり、目が本気だと告げている。

「お前がどう生きてどう死のうが俺には関係ねぇ。でもな、アイツらの人生ぶっ壊したら死んだほうがマシだってぐらいの地獄見せてやるからな」
「……ヘッ、そしたらお前のシェフ人生も終わりだな」
「かまやしねぇよ。俺はもう充分すぎるぐらいの幸せもらった。アイツらの人生はこれからだ。それ守るためならテメェのわがまま一つでぶっ壊そうとする奴叩きのめして人生終えるぐらい怖くもなんともねぇんだよ」

 自分の思いどおりにならない人間が気に入らない。どう脅しても結局は開き直って、それで人生がダメになっても堕落で全てを終わりにしようとはしない。ジルヴァもディルもそう。自分よりも他人を大事にするから気に入らない。
 
「なあ、命と玉だったらどっちが惜しいよ?」
「ぐうぅぅううううッ!」

 徐々に込められていく力に唸り声が大きくなる。ジルヴァはやる。絶対にやる。潰れた音がするまで手を離さないだろう。ジンは慌ててジルヴァの手を掴んだ。

「種無し野郎は耐え抜くぐらいの根性もねぇか」

 それでもジルヴァは離さない。まだ込められる力に震えてぶつかるジンの歯が音を出す。

「仲良くしたけりゃそうお願いしろよ。お願いしたら考えてやる」
「は、はなぜ……!」
「離してください、だろ?」
「は、はなじでぐださい!」

 一番大事な部分が本気で潰れようとしている。泡を吹くまでの時間はそうない。それから解放されるために必要なのは従うことだけ。今のジンの頭を占めているのは無事で助かることだけ。
 頼む頼む頼む頼む。歯を食いしばりながら必死に願うジンの必死の形相を嘲笑しながら手を離した。

「お前のその顔、写真撮って街中に貼り出してやりてぇわ」
「覚え、とけ……」

 地面に倒れて尻だけ持ち上げる形になったジンのそれでも折れない言葉に笑いながら去っていく。

「送ったあとでよかった」

 これが迎えに行く途中なら絶対についてきていた。こんなことをしていることが二人にバレたら何を言われるかわからない。少なくとも注意を受けることは間違いないだろう。
 まだ純粋な二人。怖いことをしてくる人間に警戒心は強いが、そうでなければ良い人から始まる。だから彼女たちの中で自分は絶対的な信頼を得られている。甘っちょろいと言えばいいのかありがたいと言えばいいのかわからないが、今は彼女たちから向けられるその感情が心地良い。

「後悔するなよ……!」
「しねぇよ。俺は今最強なんだぜ。テメェごときに負けるわけねぇだろ」

 守ろうとして傷つけた過去を繰り返しはしない。
 長かった一年。短かった一年。思い出すことが多すぎる一年。そしてこれから見守るだけの数年間が始まる。
 注目を集める中、ジルヴァはもう一度空を見上げてから店へと戻っていった。
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