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兄として
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「ジルヴァ、食事終わったあとでいいからちょっと時間もらえる?」
昼休み、声をかけてきたディルの表情を見て食事の手を止めたジルヴァがパンだけ掴んで裏口へと向かう。
「どうした?」
「引っ越しのことなんだけど……」
「決まったか?」
あれから二週間が経ったがディルが誰かに相談している様子はなかった。もしかするとオージに話してオージで止まっていただけかもしれないが、少なくともジルヴァの耳には入っていなかった。ジルヴァはいつもどおりディルからこうして話してくるまで聞きはしないでいた。
引っ越しの話をしようとするディルの表情は浮かない。あまり良い結果には終わらなかったのだろう。あの日、車を降りて別れたときからわかっていた。ディルはどうしたって“お兄ちゃん”をやめられない。
いつもの場所にもたれかかってパンを齧る。残りはディルに差し出し、飲み込んでからポケットの中の煙草を取り出し火をつけた。
「オレ、あの家を買おうと思う」
一語一句想像と違わぬ言葉。
「お前はそれでいいのか? あそこを出てここに帰ってくるまで何十分かかったか覚えてんだろ」
「四十分。でもさ、良い場所だよ。人は少ないけどいないわけじゃないし、お隣のおばあさんは良い人だし。悪くないと思うんだ」
「お前のその短い足で走ってここまで通えるってのか?」
「休みの日にぐっすり眠れば大丈夫だよ」
ミーナがいるからシーナのワガママで引っ越しを決めたわけではないだろう。シーナもちゃんと話を聞ける子供だから話し合いにはなったはず。それでも結局は自分が苦労する道を選んでしまうディルにジルヴァは少し苛立つ。
「なあ、結婚した妹たちはどこへ行く?」
「相手の家」
「もしくは相手が建てた家だろう。結婚して二人が出て行ったらあの家で暮らすのは誰だ?」
「オレ」
とっくに想像はついているだろう未来でもディルはそれも含めて決めたと言う。
ディルが稼いだ金でディルが決めた家を買うならいいじゃないか。口出しすることではない。成人した立派な男なのだから、と頭ではわかっていても無謀すぎる距離に黙っていられない。
「俺は反対だ」
「なら俺が一緒に住めば反対してもいいのか?」
「住まないくせに」
期待のない返事と苦笑に選択をミスったとジルヴァは自分に舌打ちした。
「心配してくれるのはありがたいけど、せっかく引っ越すんだからミーナとシーナの希望を叶えたいんだ。ずっと我慢して頑張ってくれてたし、ようやく一つ叶えてあげられるようになったわけだからさ」
「お前も我慢して頑張ってきただろ」
「オレはお兄ちゃんだから当然だよ」
兄、というだけでそこまで我慢しなければならないのかとジルヴァのほうが悔しくなる。それは母親からの刷り込みと母親を見殺しにしたことで妹たちから奪ってしまった罪の償い。直接手を下したわけではないし、母親があのまま生き続けていればいずれ息子からも搾取していただろう。そしてディルの孤独は強くなり、最悪の事態も想定できた。そうさせないように目を配っていたといえど家に帰ったあとのことまではどうにもできなかったため確実に回避できた自信はない。今こうしていることが全てなため過去の“もしも”を考えたところで意味はないが、ディルの生き方は母親がいなくなったといえど苦しい。
妹が結婚するまできっとその考え方は変わらないだろう。それどころか結婚が近くなればもっとひどくなるかもしれない。
「お前は立派だよ」
「ジルヴァ?」
褒められ慣れていないディルが不思議そうにジルヴァを見る。
「親代わりに妹たち育てて立派に生きてる。でもな、お前は妹たちの人生を背負いながら自分の人生も歩いてんだ。お前の人生の中からお前の選択肢を消すな。兄って言葉一つで全部諦めるようなことしてんじゃねぇよ」
「でも……」
「デモーナ、お前はいつもそうだ。妹たちのために生きなきゃ死んじまうような選択ばっかしやがる。そりゃ悪いことじゃねぇよ。大事にしてくれる家族を大事にするってのは良いことだ。でもな、その家族のために犠牲になり続けるのは違うだろ」
「でも、妹たちはまだ幼いし……」
「誰だって子供だった。大人で生まれてくる奴はいねぇ。我慢して、ワガママ言って、泣いて、笑って、怒って、ハシャぐ。そうやって感情も個性も育てて生きていくんだ。お前って人間もそうやって育てていかなきゃいけねんだよ、本当は」
我慢ばかりだったディルの人生に輝きがあるのはジルヴァといるときだけ。妹たちは大切だが、妹たちといるときは全ての感情を抑えこんでいる。泣きたい気持ちも怒りたい気持ちも吐き出したい思いも全て。でもジルヴァといるときだけは素直になれる。それが幸せだった。こうして味方になってくれるジルヴァの優しさにディルは自然と笑みが浮かぶ。
「オレはね、ジルヴァに甘やかされて生きてきた。美味しい物を食べて、働かせてもらって、アイスを食べて、抱きしめられて眠った。泣いて、慰められて、怒って、受け止めてもらってここまで生きてきたんだ。妹たちがそうする相手はオレしかいないからそうさせてやらないと」
「俺は自分の人生犠牲にしてまでお前を甘やかしたことはねぇぞ」
「家が手に入るのは良いことだよ。自分の部屋があって、キッチンがあって、お風呂もあった。裏庭で野菜を育てて自分たちで料理して食べる。あそこならそういう経験をさせてやれるし、伸び伸びと生きられると思うから」
一軒家は決して安くはない。資産家の息子でもない十六歳の男が自力で手に入れるにはあまりにも高額すぎる買い物だ。
夢が大きいのはいいが、買ってしまえば何があろうと後戻りはできなくなってしまう。だからこそ良い買い物だと背中を押してやれないでいる。
ディルは不幸に取り憑かれているのではないかと思うほど問題を引き込みやすい。不幸体質かと思うこともあるほどに。
一攫千金。世界に名を馳せる。ハーレム。そんなことを望んでいるわけではなく、何も起こらなくていいから平々凡々に生きられるという小さな幸せを願うことすら許されないような人生の繰り返し。
だからこそジルヴァは若気の至りのように大きな買い物を誰かのために決断しようとしているディルに反対する。
「まだ不動産屋に話通してねんだろ?」
「うん」
「なら俺が止めとく。買うな」
驚いた顔をするディルが一瞬どこかホッと安堵を見せたのを感じた。間違っていない。ディルは決めはしたが、それが本当に正しい選択か迷っている。
夢は大きければ大きいほどいい。誰に笑われようと持つのは自由で目指すのも自由。だから兄として妹のために一軒家を買ってやることだって間違いではない。だが、そこに無理が入るだけで全てが台無しになってしまう。シーナはまだそこがわかっていない。
「シーナと話し合って出た結果か?」
「うん」
あの距離のことを話して難しいと言った兄に悲しげな顔をする妹を可哀想だと思ったのだろう。今まで我慢させたのにまた我慢させるのかと思ってしまったのだ。想像に難くない。だからジルヴァはあえて大きく溜息を吐いた。
「あの家買って、お前の貯金はどれぐらい残るんだ?」
「まだたくさんとは言えないけど、ジリ貧になるってわけでもないよ」
「お兄ちゃんとして二人を立派に嫁に出せるぐらいには残ってるんだな?」
ディルの喉がヒュッと鳴ったのが聞こえた。それもそのはず。娘を嫁に出すのは金がかかる。婿を迎える立場ではなく嫁として嫁ぐ立場。向こうでバカにされないように立派に送り出してやらなければならない。それも親代わりの兄の役目。それをすっかり忘れていたディルの顔がどんどん青ざめていく。
「ど、どうしよう……。結婚ってどのぐらいお金かかるのかな?」
「さあな? 結婚したことねぇからわかんねぇな。そもそも兄が結婚資金出してやるわけじゃねぇだろ」
「そ、そうだけどお金と嫁入り道具持たせるんでしょ?」
「らしいな」
年頃の娘を持つ客が言っていた。オージたちもそうだ。女の子は金がかかると。それは服やら化粧品だけの話ではなく、結婚するときもそうなのだ。
まだ結婚の相手がいないといえど、これから学校に通われば恋人の一人や二人できてもおかしくはない。あっという間に十六歳になって、あっという間に結婚という話が持ち出されてもおかしくはないのだ。
家を買い、学校に通わせ、必要な道具を揃え、必要最低限の服や日用品を補充し、そして二人の結婚資金──指折り数えるディルの手が震える。
「ジルヴァ、どうしよう……」
捨てられた子犬のような目を向けてくるディルが折っている指を一本上げさせたジルヴァが意地の悪い笑みと共に囁く。
「四年後の結婚資金も、だろ?」
バッと勢いよく顔を離したディルの耳が赤くなる。その様子を見てケタケタ笑うジルヴァを睨みつけるも心臓は乙女のように甘く締め付けられときめいている。
「ディル、お前が良い兄ちゃんでありたいのはわかるぜ。実際お前はそうしてきた」
「うん……」
「でもな、人には誰しも得手不得手がある。苦手なことは人に頼りゃいい」
「でも……」
「デモーナ」
そう呼ばれると口を閉じるしかない。
「シーナの話を聞いてやるのも大事だが、ミーナの話は聞いてやったのか?」
「ミーナは……」
ミーナはシーナを諭すほうに全力を注いで自分の意見は言わなかった。家を見ているときはあれだけ楽しんでいたのだから言いたいことがないわけではないだろうに、ディルが妹を優先するようにミーナは兄を優先していた。
「今日は皆で飯食うか」
「泊まるって言い出すよ」
「泊まりゃいいだろ」
「迷惑かけるだろうし……」
「ほーん……自分は人のベッドでお泊まりして、妹たちはダメなのか。スケベな兄ちゃんだな」
「ち、違うよ! そんなんじゃない! あれはジルヴァが泊まっていいって言ったし、ジルヴァから……」
ディルの中に刻まれている数少ない幸せな思い出。相手がジルヴァであるため決してロマンチックなものではないが、それでもディルの中には幸せな思い出として残っている。
「なら泊まらせりゃいい」
「ありがとう、ジルヴァ」
ディルの頭に手を乗せて空へと紫煙を吐き出す。その横でパンを齧って同じように空を見上げながらディルは何が正解なのかを考えていた。兄として妹の幸せのためにできることはなんだろう。どうしてやれば屈託のない笑顔で過ごさせてやれるのだろう。不出来な兄を持ったことが彼女たちの最大の不幸だからこそ不出来ながらに出来る最大のことをしてやりたいとディルは常々思っている。それでもどうしようもない、上手くいかない現実に殴られ、巨大な壁にぶち当たっては乗り越えられずそこに渦巻く流れに飲み込まれていった。
助けてくれる人の手を握ることしかできない自分の兄として力がまだ妹たちを幸せにするに程足りないことが悔しかった。
昼休み、声をかけてきたディルの表情を見て食事の手を止めたジルヴァがパンだけ掴んで裏口へと向かう。
「どうした?」
「引っ越しのことなんだけど……」
「決まったか?」
あれから二週間が経ったがディルが誰かに相談している様子はなかった。もしかするとオージに話してオージで止まっていただけかもしれないが、少なくともジルヴァの耳には入っていなかった。ジルヴァはいつもどおりディルからこうして話してくるまで聞きはしないでいた。
引っ越しの話をしようとするディルの表情は浮かない。あまり良い結果には終わらなかったのだろう。あの日、車を降りて別れたときからわかっていた。ディルはどうしたって“お兄ちゃん”をやめられない。
いつもの場所にもたれかかってパンを齧る。残りはディルに差し出し、飲み込んでからポケットの中の煙草を取り出し火をつけた。
「オレ、あの家を買おうと思う」
一語一句想像と違わぬ言葉。
「お前はそれでいいのか? あそこを出てここに帰ってくるまで何十分かかったか覚えてんだろ」
「四十分。でもさ、良い場所だよ。人は少ないけどいないわけじゃないし、お隣のおばあさんは良い人だし。悪くないと思うんだ」
「お前のその短い足で走ってここまで通えるってのか?」
「休みの日にぐっすり眠れば大丈夫だよ」
ミーナがいるからシーナのワガママで引っ越しを決めたわけではないだろう。シーナもちゃんと話を聞ける子供だから話し合いにはなったはず。それでも結局は自分が苦労する道を選んでしまうディルにジルヴァは少し苛立つ。
「なあ、結婚した妹たちはどこへ行く?」
「相手の家」
「もしくは相手が建てた家だろう。結婚して二人が出て行ったらあの家で暮らすのは誰だ?」
「オレ」
とっくに想像はついているだろう未来でもディルはそれも含めて決めたと言う。
ディルが稼いだ金でディルが決めた家を買うならいいじゃないか。口出しすることではない。成人した立派な男なのだから、と頭ではわかっていても無謀すぎる距離に黙っていられない。
「俺は反対だ」
「なら俺が一緒に住めば反対してもいいのか?」
「住まないくせに」
期待のない返事と苦笑に選択をミスったとジルヴァは自分に舌打ちした。
「心配してくれるのはありがたいけど、せっかく引っ越すんだからミーナとシーナの希望を叶えたいんだ。ずっと我慢して頑張ってくれてたし、ようやく一つ叶えてあげられるようになったわけだからさ」
「お前も我慢して頑張ってきただろ」
「オレはお兄ちゃんだから当然だよ」
兄、というだけでそこまで我慢しなければならないのかとジルヴァのほうが悔しくなる。それは母親からの刷り込みと母親を見殺しにしたことで妹たちから奪ってしまった罪の償い。直接手を下したわけではないし、母親があのまま生き続けていればいずれ息子からも搾取していただろう。そしてディルの孤独は強くなり、最悪の事態も想定できた。そうさせないように目を配っていたといえど家に帰ったあとのことまではどうにもできなかったため確実に回避できた自信はない。今こうしていることが全てなため過去の“もしも”を考えたところで意味はないが、ディルの生き方は母親がいなくなったといえど苦しい。
妹が結婚するまできっとその考え方は変わらないだろう。それどころか結婚が近くなればもっとひどくなるかもしれない。
「お前は立派だよ」
「ジルヴァ?」
褒められ慣れていないディルが不思議そうにジルヴァを見る。
「親代わりに妹たち育てて立派に生きてる。でもな、お前は妹たちの人生を背負いながら自分の人生も歩いてんだ。お前の人生の中からお前の選択肢を消すな。兄って言葉一つで全部諦めるようなことしてんじゃねぇよ」
「でも……」
「デモーナ、お前はいつもそうだ。妹たちのために生きなきゃ死んじまうような選択ばっかしやがる。そりゃ悪いことじゃねぇよ。大事にしてくれる家族を大事にするってのは良いことだ。でもな、その家族のために犠牲になり続けるのは違うだろ」
「でも、妹たちはまだ幼いし……」
「誰だって子供だった。大人で生まれてくる奴はいねぇ。我慢して、ワガママ言って、泣いて、笑って、怒って、ハシャぐ。そうやって感情も個性も育てて生きていくんだ。お前って人間もそうやって育てていかなきゃいけねんだよ、本当は」
我慢ばかりだったディルの人生に輝きがあるのはジルヴァといるときだけ。妹たちは大切だが、妹たちといるときは全ての感情を抑えこんでいる。泣きたい気持ちも怒りたい気持ちも吐き出したい思いも全て。でもジルヴァといるときだけは素直になれる。それが幸せだった。こうして味方になってくれるジルヴァの優しさにディルは自然と笑みが浮かぶ。
「オレはね、ジルヴァに甘やかされて生きてきた。美味しい物を食べて、働かせてもらって、アイスを食べて、抱きしめられて眠った。泣いて、慰められて、怒って、受け止めてもらってここまで生きてきたんだ。妹たちがそうする相手はオレしかいないからそうさせてやらないと」
「俺は自分の人生犠牲にしてまでお前を甘やかしたことはねぇぞ」
「家が手に入るのは良いことだよ。自分の部屋があって、キッチンがあって、お風呂もあった。裏庭で野菜を育てて自分たちで料理して食べる。あそこならそういう経験をさせてやれるし、伸び伸びと生きられると思うから」
一軒家は決して安くはない。資産家の息子でもない十六歳の男が自力で手に入れるにはあまりにも高額すぎる買い物だ。
夢が大きいのはいいが、買ってしまえば何があろうと後戻りはできなくなってしまう。だからこそ良い買い物だと背中を押してやれないでいる。
ディルは不幸に取り憑かれているのではないかと思うほど問題を引き込みやすい。不幸体質かと思うこともあるほどに。
一攫千金。世界に名を馳せる。ハーレム。そんなことを望んでいるわけではなく、何も起こらなくていいから平々凡々に生きられるという小さな幸せを願うことすら許されないような人生の繰り返し。
だからこそジルヴァは若気の至りのように大きな買い物を誰かのために決断しようとしているディルに反対する。
「まだ不動産屋に話通してねんだろ?」
「うん」
「なら俺が止めとく。買うな」
驚いた顔をするディルが一瞬どこかホッと安堵を見せたのを感じた。間違っていない。ディルは決めはしたが、それが本当に正しい選択か迷っている。
夢は大きければ大きいほどいい。誰に笑われようと持つのは自由で目指すのも自由。だから兄として妹のために一軒家を買ってやることだって間違いではない。だが、そこに無理が入るだけで全てが台無しになってしまう。シーナはまだそこがわかっていない。
「シーナと話し合って出た結果か?」
「うん」
あの距離のことを話して難しいと言った兄に悲しげな顔をする妹を可哀想だと思ったのだろう。今まで我慢させたのにまた我慢させるのかと思ってしまったのだ。想像に難くない。だからジルヴァはあえて大きく溜息を吐いた。
「あの家買って、お前の貯金はどれぐらい残るんだ?」
「まだたくさんとは言えないけど、ジリ貧になるってわけでもないよ」
「お兄ちゃんとして二人を立派に嫁に出せるぐらいには残ってるんだな?」
ディルの喉がヒュッと鳴ったのが聞こえた。それもそのはず。娘を嫁に出すのは金がかかる。婿を迎える立場ではなく嫁として嫁ぐ立場。向こうでバカにされないように立派に送り出してやらなければならない。それも親代わりの兄の役目。それをすっかり忘れていたディルの顔がどんどん青ざめていく。
「ど、どうしよう……。結婚ってどのぐらいお金かかるのかな?」
「さあな? 結婚したことねぇからわかんねぇな。そもそも兄が結婚資金出してやるわけじゃねぇだろ」
「そ、そうだけどお金と嫁入り道具持たせるんでしょ?」
「らしいな」
年頃の娘を持つ客が言っていた。オージたちもそうだ。女の子は金がかかると。それは服やら化粧品だけの話ではなく、結婚するときもそうなのだ。
まだ結婚の相手がいないといえど、これから学校に通われば恋人の一人や二人できてもおかしくはない。あっという間に十六歳になって、あっという間に結婚という話が持ち出されてもおかしくはないのだ。
家を買い、学校に通わせ、必要な道具を揃え、必要最低限の服や日用品を補充し、そして二人の結婚資金──指折り数えるディルの手が震える。
「ジルヴァ、どうしよう……」
捨てられた子犬のような目を向けてくるディルが折っている指を一本上げさせたジルヴァが意地の悪い笑みと共に囁く。
「四年後の結婚資金も、だろ?」
バッと勢いよく顔を離したディルの耳が赤くなる。その様子を見てケタケタ笑うジルヴァを睨みつけるも心臓は乙女のように甘く締め付けられときめいている。
「ディル、お前が良い兄ちゃんでありたいのはわかるぜ。実際お前はそうしてきた」
「うん……」
「でもな、人には誰しも得手不得手がある。苦手なことは人に頼りゃいい」
「でも……」
「デモーナ」
そう呼ばれると口を閉じるしかない。
「シーナの話を聞いてやるのも大事だが、ミーナの話は聞いてやったのか?」
「ミーナは……」
ミーナはシーナを諭すほうに全力を注いで自分の意見は言わなかった。家を見ているときはあれだけ楽しんでいたのだから言いたいことがないわけではないだろうに、ディルが妹を優先するようにミーナは兄を優先していた。
「今日は皆で飯食うか」
「泊まるって言い出すよ」
「泊まりゃいいだろ」
「迷惑かけるだろうし……」
「ほーん……自分は人のベッドでお泊まりして、妹たちはダメなのか。スケベな兄ちゃんだな」
「ち、違うよ! そんなんじゃない! あれはジルヴァが泊まっていいって言ったし、ジルヴァから……」
ディルの中に刻まれている数少ない幸せな思い出。相手がジルヴァであるため決してロマンチックなものではないが、それでもディルの中には幸せな思い出として残っている。
「なら泊まらせりゃいい」
「ありがとう、ジルヴァ」
ディルの頭に手を乗せて空へと紫煙を吐き出す。その横でパンを齧って同じように空を見上げながらディルは何が正解なのかを考えていた。兄として妹の幸せのためにできることはなんだろう。どうしてやれば屈託のない笑顔で過ごさせてやれるのだろう。不出来な兄を持ったことが彼女たちの最大の不幸だからこそ不出来ながらに出来る最大のことをしてやりたいとディルは常々思っている。それでもどうしようもない、上手くいかない現実に殴られ、巨大な壁にぶち当たっては乗り越えられずそこに渦巻く流れに飲み込まれていった。
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