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離れられない場所
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店が閉まってもジルヴァはフクシアの中で暮らしていた。
ロイクは自分の死期がわかっていたのだろう。部屋の中はジルヴァたちが変に勘付かないように物を残し、それ以外は全て箱にしまってクローゼットの中に押し込んであった。
中にはメモが一枚あり、それには「燃やせ」の一言だけ書いてあった。ロイクらしいと思いながら裏庭で燃やし、それが完全に炭と化すまでジルヴァは煙を見上げ続けていた。
これからどうするかと何度も考えるがやる気が起きない。金がないわけではない。貯金していた分がまだ少し残っている。生きていくには困らないだろうと楽観視していた矢先、悪魔は突然やってきた。
「家賃だ?」
不動産屋がやってきて、ここが賃貸であることを説明された。
「ロイクはここで長年店をやってた。家賃は支払い終わってるはずだろ」
「ここは売り物件ではなく賃貸物件なので何十年続けようと家賃は発生し続けます」
当時ロイクが結んだ契約書を持参してテーブルの上に広げて説明する不動産屋の男は丁寧な性格をしていたが、ジルヴァはそれに真摯に向き合おうとはしなかった。椅子に腰掛け、テーブルの上に足を乗せて火こそつけてはいないが煙草を咥えている。
「で、お前の言いたいことはこうか? 店が閉店になったんだから出て行け。出て行かないなら家賃を払えって?」
「そうです」
「払わなきゃどうなる?」
「この物件を売りに出します」
堂々とした物言いにジルヴァがテーブルを蹴飛ばした。その直前に男が書類を抱えた紙が宙を舞うことはなく、テーブルが倒れる大きな音だけが響き渡る。
「ここはロイクの夢の店だ。それを売りに出すってどういうことだよ。今までずっと家賃払ってもらってただろうが」
「我々は彼にここを貸したんです。彼はここで店を続けるために家賃を払い続けた。家賃を払っている間はここは彼の物でしたが、家賃が払えなくなれば管理者である我々の物となるだけのこと」
「随分と良い商売だな」
やれやれと呆れたように首を振る不動産の男が溜息と共にジルヴァを見た。
「ジルヴァさん、私どもは何も問答無用で取り上げようと言っているわけではありません。あなたがここを大切に想い、出て行きたくないのであれば家賃を払ってくださいと言っているのです。家賃さえ滞りなく払っていただければそれでいいんです。食事をするにはお金を払う必要があるのと同じで、家に住むにもお金がいるんです」
至って普通の理論である。ジルヴァも頭ではわかっているが、突然やってきた危機的状況にカッとなっていた。何事にも金が発生する。野菜一つにも煙草一本にも値が付いていて金を払わなければ買えはしない。
「家賃はいくらだよ」
起こしたテーブルの上に置かれた書類に書かれているロイクが払ってきた家賃にジルヴァの目が見開く。
高いわけじゃない。払えない額ではない。場所が場所なだけに相応の額と言えばそうだろうが、これを支払えばジルヴァの手元に残る金は微々たるものになる。まだ少しあるとベッドの上で足を組んで天井を見上げながら一日を過ごすなどできなくなってしまう。
「ロイクさんはいくらか残していなかったのですか?」
「あれは俺が好きに手ぇ付けていい金じゃねんだよ」
ちゃんと残されていた。ロイクはこの店を続けることを望んでいなかったから売りに出せと言っていた。ジルヴァが管理すると言ったことでオージは売りにこそ出さなかったが家賃だと金を渡すこともしなかった。渡したのはロイクが残した金だけ。それはロイクがジルヴァのために残した物ではなく、世話をかけた皆で分けろと残していたもの。それを彼らは店を守ろうとするジルヴァのためにと渡したのだが、ジルヴァはそれにだけは手をつけるつもりはなかった。
自分の勝手で残した店。守るなら自分の金で。そう決めたジルヴァは「少し待ってろ」と声をかけて二階へと上がり、ボロボロの給料袋から札束を取り出して一階に戻りテーブルに叩きつけた。
「一ヶ月分ある」
札の上から手をどけようとしないジルヴァの手を男も無理にどけようとはしない。
「毎月払うおつもりですか?」
不動産屋もバカではない。自分が関係する事柄については全てリサーチしてから訪問することにしている。だからここで働いていた人間はジルヴァ以外全員が新しい店舗での就職が決まったことはわかっており、ジルヴァが無職であることもわかっている。それなのにジルヴァは手元に残っている金で家賃を払おうとしていた。
生活費を全て家賃に回して「これで待ってくれ」と言う者は少なくない。自分の食費を削ってでも店を守りたい者を数多く見てきた。そうして一ヶ月続けたところで変わらない毎日であれば急に経営が回復することなどないのに捨てきれずしがみつき奈落の底まで落ちていく者たちの亡骸をどれほど見てきたことか。ジルヴァも彼らに近い場所にいると不動産屋の男は思った。
「これはあなたをバカにしているから言うことではなく、私の経験上から言うことです」
「なんだよ」
「たくさんの想いが、夢が詰まった場所であることはわかっていますが、諦めは肝心です。手放すことで命を救うこともある。手放す勇気を逃すことで命を落とすこともある。途方に暮れる前に正しい決断をすることを──ぐッ!」
親切心からとわかっていてもジルヴァはそれ以上聞きたくなかった。
テーブルを倒れない程度の強さで押して男の腹に押しつけた。
「俺の命が終わるのはこの店を手放したときだけだ」
ゲホッゲホッと咳き込んだあと、男は静かに息を吐き出す。
「ジルヴァさん、私は──」
「家賃さえ払えばいいんだろ。払ってやるよ。だからもう黙れ。お説教はうんざりなんだよ」
何を言ってもジルヴァには届かない。どんな親切な言葉も心配も全て拒絶する。
小さく首を振った男は書類をまとめて鞄の中に入れて立ち上がった。
「来月、回収に参ります」
「ああ、耳揃えて払ってやるから楽しみにしてろよ」
強がりでしかないその言葉に軽く会釈だけして男は帰っていった。
男が言いたかったことはわかっている。無謀だ。ここの家賃は他の地区より格安と言えどジルヴァのような人間がそこらで働いて稼げる額ではない。必死でいくつかの場所を掛け持ちしてようやく払えるだろう額だ。ボロくて小さいと言えど二階建て。家賃は建物だけではなく裏庭の敷地もそうだろう。広大な敷地が付いていてあの値段なら勝てる見込みさえあれば自分だけ契約する。
絶対に失わない。その覚悟で休みなく働いてきたロイクが愛したこの店を、ロイクが愛した店を愛した客たち、同僚たち。この店がなくなれば悲しむ者は多い。だからジルヴァはこの店だけは手放さないと決めた。
「ジルヴァ」
聞き慣れた声に振り向くとアルフィオが立っていた。
「なんだよテメーか。新しい店はどうした? もう辞めたのか? 根性ねぇからなァ。褒められてばっかだったテメーにゃ新しい場所は地獄だろ。世界を見るとか笑わせること言ってやがったが──」
「ジルヴァ」
いつもより饒舌に言葉を発するジルヴァが追い詰められているのがわかる。近付いて手を取るも振り払われた。
「キメーんだよ、触んじゃねぇ」
肌を重ねた仲だ。手を触ったぐらいで本能的な拒絶はないだろうが、ジルヴァの中では既に自分も敵なのだろうと理解したアルフィオはポケットから一枚の紙を取り出した。
「なんだよ」
「お前の採用通知」
「受けてねぇ店から採用通知が出るとはスゲー世界になったもんだな」
「ジルヴァ、俺と一緒に働こう。俺はロイクとの約束どおり世界を股にかけた凄腕のシェフになる。お前も一緒に目指そうぜ。お前はスーシェフなんて嫌がるだろうから俺がスーシェフやる。だから一緒に──」
「ウルセーよ」
嫌悪のこもった声。表情は見るまでもない。
「俺がその店に行ったらこの店はどうなるんだ?」
「家賃は払い続ければいい。さっき出てきた男、不動産屋だろ? 給料は悪くないから俺とお前のを合わせれば簡単に払えるって」
「この街で廃屋はどうなってるか忘れたのか?」
毎日の光景だ。廃屋の中は家がない物たちの溜まり場となり荒れ放題になっている。それは元々そうだったわけではなく、人が集まり酒に酔い暴れてそうなる。この店には椅子もテーブルもソファーもある。皿もカトラリーもグラスも酒もあって家なしの人間には格好の場所だ。シャッターが閉まっていようとこじ開けて入るに決まっている。ロイクに拾われるまで自分達もそうしてきたのだから。
「でもお前、働きもせずにここの家賃払うなんてムリだろ」
「この店捨てたお前が心配することじゃねぇよ」
「捨ててねぇよ! 俺らがここを捨てたと思ってんのか!? この店は俺らの家だぞ! ここが実家なんだよ!」
「だったら守れよ! 何が新しい店で一緒に働こう、だ! 何が世界を股にかけるシェフだ! 何がスーシェフでいい、だ! ふざけんじゃねぇ! この店が閉まっても俺はこの場所から離れねぇ! この店はいつか俺が再開する! 俺がここのオーナーになって店をやるんだ! 世界なんざどうだっていい! 世界がなんだよ! この店はここにしかねぇんだよ! ロイクが守ってきた店はここだけだ! ここが大事なんだろうが!」
ガラスを震わせるほどの怒声にアルフィオが目を見開く。アルフィオの知るジルヴァは負けず嫌いで意地っ張りだが冷静で妙に大人ぶるところがあった。冷たい人間に思われがちだが、感情を乱したくないから冷静を装うようにしていることも知っていた。ロイクが死んだときも泣いてはいたが取り乱すことも嫌味を言うこともせず、火葬して小さくなったロイクが妻と一緒の墓に入るのを黙って見ていた。そんなジルヴァが目の前で泣きながら怒りを訴えている。
肩を上下させながら涙するジルヴァの不安が痛いほど伝わってくる。手を伸ばせば抱きしめられるのにアルフィオはそうしない。アルフィオにとってもここは大事で永遠に消えてほしくない場所だが、いつまでもここで暮らしていくわけにはいかない。シェフの朝は早いから住み込みが一番良い。この地区から出て働くアルフィオにとってジルヴァと同じように生きることはできない選択だった。
「ジルヴァ、俺も家賃は払っていくつもりだった。でもここじゃ他に仕事はない。外に出て探すしかないんだよ。ロイクは俺たちがこの店を継ぐことは反対しなかったけど負を背負わせてまで継いでほしいとは思ってないはずだ」
「ご高説は結構だ。俺はな、死人の感情なんざどうだっていんだよ」
「ジルヴァ!」
ロイクを死人と言い放ったジルヴァにカッとなったアルフィオが怒鳴るもジルヴァは怯まない。
「俺がやりてぇからやるんだよ。世界に出るテメーにゃ関係ねぇことだ。俺はテメーと同じ道はいかねぇ。世界なんざクソくらえ」
中指を立てて唾でも吐き捨てそうなやさぐれた態度を見せるジルヴァに引く気はなかった。これはきっとロイクの魂が目の前に現れたとしても変わらないだろう。
この街は妄想が現実とならない限り安全とは程遠い場所。そこで女が一人で暮らすなど悲惨な末路が待っているだけ。アルフィオはそれを心配していた。
ジルヴァは一緒に育ってきた兄妹のようなもの。心配しないわけがない。でもその気持ちはジルヴァには届かない。
「お前は頑固だからジリ貧になっても頼っては来ねぇだろうけど死ぬ前に頼ってくれ。金寄越せの一文でもいいから書いてくれ」
アルフィオの心からの言葉にジルヴァが鼻を鳴らして笑う。
「さすが、才能マン様は言うことが違うねぇ。俺がジリ貧になる? 見下してんじゃねぇぞ。俺はいつかこの店を再開する。ジリ貧になんざなるわけねぇだろうがクソ野郎」
「悪い。そういうつもりじゃ……」
「とっとと消えろ。そんでその胸糞悪いツラ二度と見せんな」
言いたいことはたくさんあった。無理はするな。無茶はするな。死ぬな。手を伸ばせ。
でもどれもきっと届かないだろうからアルフィオは口を閉じて店を出た。立ち去る前に振り向いてガラス越しに見たジルヴァはまだ睨んでいて口だけを動かす。それが「失せろ」と告げたため歩き出した。
アルフィオの眉は下がったまま上がらない。ジルヴァが受け入れるわけないとわかっていた。昔から頑固で自分が思ったことは引かない。喧嘩でもなんでもそうだ。アルフィオは自分が兄だと思っていたがそれはジルヴァも同じで、いつもジルヴァは前に立って背中を見せた。その背中は昔は大きく見えていたのにいつの間にか自分のほうが大きくなって、大きく見えていた背中が小さく見えるようになった。それでもジルヴァは変わらない。ポケットに手を突っ込んで胸を張る癖も消えない。
この街に生きているのはハイエナかそれ以外か。ハイエナになれなければ待つのは死のみ。女一人で生きていけるのは酒とクスリに溺れた娼婦だけ。男が必要とする女だけが一人でも生きていける。
ジルヴァはきっと無理だろう。女を食い物にする男を嫌悪しているから抵抗して殺される。そんな未来が容易に予測できるからアルフィオはジルヴァを一人にしたくなかった。だから自分を雇ってくれた店舗のオーナーに頭を下げ続けたが、結果は予想どおり。
手を引いて連れ出して諦めてくれるのならそうするが、ジルヴァは聞かない。きっと何百キロ離れた場所に連れ出してもここへ戻ってしまうだろう。
諦めるのはジルヴァではなく自分だと拳を握って言い聞かせ、アルフィオは逃げるように店へと戻った。
ロイクは自分の死期がわかっていたのだろう。部屋の中はジルヴァたちが変に勘付かないように物を残し、それ以外は全て箱にしまってクローゼットの中に押し込んであった。
中にはメモが一枚あり、それには「燃やせ」の一言だけ書いてあった。ロイクらしいと思いながら裏庭で燃やし、それが完全に炭と化すまでジルヴァは煙を見上げ続けていた。
これからどうするかと何度も考えるがやる気が起きない。金がないわけではない。貯金していた分がまだ少し残っている。生きていくには困らないだろうと楽観視していた矢先、悪魔は突然やってきた。
「家賃だ?」
不動産屋がやってきて、ここが賃貸であることを説明された。
「ロイクはここで長年店をやってた。家賃は支払い終わってるはずだろ」
「ここは売り物件ではなく賃貸物件なので何十年続けようと家賃は発生し続けます」
当時ロイクが結んだ契約書を持参してテーブルの上に広げて説明する不動産屋の男は丁寧な性格をしていたが、ジルヴァはそれに真摯に向き合おうとはしなかった。椅子に腰掛け、テーブルの上に足を乗せて火こそつけてはいないが煙草を咥えている。
「で、お前の言いたいことはこうか? 店が閉店になったんだから出て行け。出て行かないなら家賃を払えって?」
「そうです」
「払わなきゃどうなる?」
「この物件を売りに出します」
堂々とした物言いにジルヴァがテーブルを蹴飛ばした。その直前に男が書類を抱えた紙が宙を舞うことはなく、テーブルが倒れる大きな音だけが響き渡る。
「ここはロイクの夢の店だ。それを売りに出すってどういうことだよ。今までずっと家賃払ってもらってただろうが」
「我々は彼にここを貸したんです。彼はここで店を続けるために家賃を払い続けた。家賃を払っている間はここは彼の物でしたが、家賃が払えなくなれば管理者である我々の物となるだけのこと」
「随分と良い商売だな」
やれやれと呆れたように首を振る不動産の男が溜息と共にジルヴァを見た。
「ジルヴァさん、私どもは何も問答無用で取り上げようと言っているわけではありません。あなたがここを大切に想い、出て行きたくないのであれば家賃を払ってくださいと言っているのです。家賃さえ滞りなく払っていただければそれでいいんです。食事をするにはお金を払う必要があるのと同じで、家に住むにもお金がいるんです」
至って普通の理論である。ジルヴァも頭ではわかっているが、突然やってきた危機的状況にカッとなっていた。何事にも金が発生する。野菜一つにも煙草一本にも値が付いていて金を払わなければ買えはしない。
「家賃はいくらだよ」
起こしたテーブルの上に置かれた書類に書かれているロイクが払ってきた家賃にジルヴァの目が見開く。
高いわけじゃない。払えない額ではない。場所が場所なだけに相応の額と言えばそうだろうが、これを支払えばジルヴァの手元に残る金は微々たるものになる。まだ少しあるとベッドの上で足を組んで天井を見上げながら一日を過ごすなどできなくなってしまう。
「ロイクさんはいくらか残していなかったのですか?」
「あれは俺が好きに手ぇ付けていい金じゃねんだよ」
ちゃんと残されていた。ロイクはこの店を続けることを望んでいなかったから売りに出せと言っていた。ジルヴァが管理すると言ったことでオージは売りにこそ出さなかったが家賃だと金を渡すこともしなかった。渡したのはロイクが残した金だけ。それはロイクがジルヴァのために残した物ではなく、世話をかけた皆で分けろと残していたもの。それを彼らは店を守ろうとするジルヴァのためにと渡したのだが、ジルヴァはそれにだけは手をつけるつもりはなかった。
自分の勝手で残した店。守るなら自分の金で。そう決めたジルヴァは「少し待ってろ」と声をかけて二階へと上がり、ボロボロの給料袋から札束を取り出して一階に戻りテーブルに叩きつけた。
「一ヶ月分ある」
札の上から手をどけようとしないジルヴァの手を男も無理にどけようとはしない。
「毎月払うおつもりですか?」
不動産屋もバカではない。自分が関係する事柄については全てリサーチしてから訪問することにしている。だからここで働いていた人間はジルヴァ以外全員が新しい店舗での就職が決まったことはわかっており、ジルヴァが無職であることもわかっている。それなのにジルヴァは手元に残っている金で家賃を払おうとしていた。
生活費を全て家賃に回して「これで待ってくれ」と言う者は少なくない。自分の食費を削ってでも店を守りたい者を数多く見てきた。そうして一ヶ月続けたところで変わらない毎日であれば急に経営が回復することなどないのに捨てきれずしがみつき奈落の底まで落ちていく者たちの亡骸をどれほど見てきたことか。ジルヴァも彼らに近い場所にいると不動産屋の男は思った。
「これはあなたをバカにしているから言うことではなく、私の経験上から言うことです」
「なんだよ」
「たくさんの想いが、夢が詰まった場所であることはわかっていますが、諦めは肝心です。手放すことで命を救うこともある。手放す勇気を逃すことで命を落とすこともある。途方に暮れる前に正しい決断をすることを──ぐッ!」
親切心からとわかっていてもジルヴァはそれ以上聞きたくなかった。
テーブルを倒れない程度の強さで押して男の腹に押しつけた。
「俺の命が終わるのはこの店を手放したときだけだ」
ゲホッゲホッと咳き込んだあと、男は静かに息を吐き出す。
「ジルヴァさん、私は──」
「家賃さえ払えばいいんだろ。払ってやるよ。だからもう黙れ。お説教はうんざりなんだよ」
何を言ってもジルヴァには届かない。どんな親切な言葉も心配も全て拒絶する。
小さく首を振った男は書類をまとめて鞄の中に入れて立ち上がった。
「来月、回収に参ります」
「ああ、耳揃えて払ってやるから楽しみにしてろよ」
強がりでしかないその言葉に軽く会釈だけして男は帰っていった。
男が言いたかったことはわかっている。無謀だ。ここの家賃は他の地区より格安と言えどジルヴァのような人間がそこらで働いて稼げる額ではない。必死でいくつかの場所を掛け持ちしてようやく払えるだろう額だ。ボロくて小さいと言えど二階建て。家賃は建物だけではなく裏庭の敷地もそうだろう。広大な敷地が付いていてあの値段なら勝てる見込みさえあれば自分だけ契約する。
絶対に失わない。その覚悟で休みなく働いてきたロイクが愛したこの店を、ロイクが愛した店を愛した客たち、同僚たち。この店がなくなれば悲しむ者は多い。だからジルヴァはこの店だけは手放さないと決めた。
「ジルヴァ」
聞き慣れた声に振り向くとアルフィオが立っていた。
「なんだよテメーか。新しい店はどうした? もう辞めたのか? 根性ねぇからなァ。褒められてばっかだったテメーにゃ新しい場所は地獄だろ。世界を見るとか笑わせること言ってやがったが──」
「ジルヴァ」
いつもより饒舌に言葉を発するジルヴァが追い詰められているのがわかる。近付いて手を取るも振り払われた。
「キメーんだよ、触んじゃねぇ」
肌を重ねた仲だ。手を触ったぐらいで本能的な拒絶はないだろうが、ジルヴァの中では既に自分も敵なのだろうと理解したアルフィオはポケットから一枚の紙を取り出した。
「なんだよ」
「お前の採用通知」
「受けてねぇ店から採用通知が出るとはスゲー世界になったもんだな」
「ジルヴァ、俺と一緒に働こう。俺はロイクとの約束どおり世界を股にかけた凄腕のシェフになる。お前も一緒に目指そうぜ。お前はスーシェフなんて嫌がるだろうから俺がスーシェフやる。だから一緒に──」
「ウルセーよ」
嫌悪のこもった声。表情は見るまでもない。
「俺がその店に行ったらこの店はどうなるんだ?」
「家賃は払い続ければいい。さっき出てきた男、不動産屋だろ? 給料は悪くないから俺とお前のを合わせれば簡単に払えるって」
「この街で廃屋はどうなってるか忘れたのか?」
毎日の光景だ。廃屋の中は家がない物たちの溜まり場となり荒れ放題になっている。それは元々そうだったわけではなく、人が集まり酒に酔い暴れてそうなる。この店には椅子もテーブルもソファーもある。皿もカトラリーもグラスも酒もあって家なしの人間には格好の場所だ。シャッターが閉まっていようとこじ開けて入るに決まっている。ロイクに拾われるまで自分達もそうしてきたのだから。
「でもお前、働きもせずにここの家賃払うなんてムリだろ」
「この店捨てたお前が心配することじゃねぇよ」
「捨ててねぇよ! 俺らがここを捨てたと思ってんのか!? この店は俺らの家だぞ! ここが実家なんだよ!」
「だったら守れよ! 何が新しい店で一緒に働こう、だ! 何が世界を股にかけるシェフだ! 何がスーシェフでいい、だ! ふざけんじゃねぇ! この店が閉まっても俺はこの場所から離れねぇ! この店はいつか俺が再開する! 俺がここのオーナーになって店をやるんだ! 世界なんざどうだっていい! 世界がなんだよ! この店はここにしかねぇんだよ! ロイクが守ってきた店はここだけだ! ここが大事なんだろうが!」
ガラスを震わせるほどの怒声にアルフィオが目を見開く。アルフィオの知るジルヴァは負けず嫌いで意地っ張りだが冷静で妙に大人ぶるところがあった。冷たい人間に思われがちだが、感情を乱したくないから冷静を装うようにしていることも知っていた。ロイクが死んだときも泣いてはいたが取り乱すことも嫌味を言うこともせず、火葬して小さくなったロイクが妻と一緒の墓に入るのを黙って見ていた。そんなジルヴァが目の前で泣きながら怒りを訴えている。
肩を上下させながら涙するジルヴァの不安が痛いほど伝わってくる。手を伸ばせば抱きしめられるのにアルフィオはそうしない。アルフィオにとってもここは大事で永遠に消えてほしくない場所だが、いつまでもここで暮らしていくわけにはいかない。シェフの朝は早いから住み込みが一番良い。この地区から出て働くアルフィオにとってジルヴァと同じように生きることはできない選択だった。
「ジルヴァ、俺も家賃は払っていくつもりだった。でもここじゃ他に仕事はない。外に出て探すしかないんだよ。ロイクは俺たちがこの店を継ぐことは反対しなかったけど負を背負わせてまで継いでほしいとは思ってないはずだ」
「ご高説は結構だ。俺はな、死人の感情なんざどうだっていんだよ」
「ジルヴァ!」
ロイクを死人と言い放ったジルヴァにカッとなったアルフィオが怒鳴るもジルヴァは怯まない。
「俺がやりてぇからやるんだよ。世界に出るテメーにゃ関係ねぇことだ。俺はテメーと同じ道はいかねぇ。世界なんざクソくらえ」
中指を立てて唾でも吐き捨てそうなやさぐれた態度を見せるジルヴァに引く気はなかった。これはきっとロイクの魂が目の前に現れたとしても変わらないだろう。
この街は妄想が現実とならない限り安全とは程遠い場所。そこで女が一人で暮らすなど悲惨な末路が待っているだけ。アルフィオはそれを心配していた。
ジルヴァは一緒に育ってきた兄妹のようなもの。心配しないわけがない。でもその気持ちはジルヴァには届かない。
「お前は頑固だからジリ貧になっても頼っては来ねぇだろうけど死ぬ前に頼ってくれ。金寄越せの一文でもいいから書いてくれ」
アルフィオの心からの言葉にジルヴァが鼻を鳴らして笑う。
「さすが、才能マン様は言うことが違うねぇ。俺がジリ貧になる? 見下してんじゃねぇぞ。俺はいつかこの店を再開する。ジリ貧になんざなるわけねぇだろうがクソ野郎」
「悪い。そういうつもりじゃ……」
「とっとと消えろ。そんでその胸糞悪いツラ二度と見せんな」
言いたいことはたくさんあった。無理はするな。無茶はするな。死ぬな。手を伸ばせ。
でもどれもきっと届かないだろうからアルフィオは口を閉じて店を出た。立ち去る前に振り向いてガラス越しに見たジルヴァはまだ睨んでいて口だけを動かす。それが「失せろ」と告げたため歩き出した。
アルフィオの眉は下がったまま上がらない。ジルヴァが受け入れるわけないとわかっていた。昔から頑固で自分が思ったことは引かない。喧嘩でもなんでもそうだ。アルフィオは自分が兄だと思っていたがそれはジルヴァも同じで、いつもジルヴァは前に立って背中を見せた。その背中は昔は大きく見えていたのにいつの間にか自分のほうが大きくなって、大きく見えていた背中が小さく見えるようになった。それでもジルヴァは変わらない。ポケットに手を突っ込んで胸を張る癖も消えない。
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ジルヴァはきっと無理だろう。女を食い物にする男を嫌悪しているから抵抗して殺される。そんな未来が容易に予測できるからアルフィオはジルヴァを一人にしたくなかった。だから自分を雇ってくれた店舗のオーナーに頭を下げ続けたが、結果は予想どおり。
手を引いて連れ出して諦めてくれるのならそうするが、ジルヴァは聞かない。きっと何百キロ離れた場所に連れ出してもここへ戻ってしまうだろう。
諦めるのはジルヴァではなく自分だと拳を握って言い聞かせ、アルフィオは逃げるように店へと戻った。
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