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決まりごと
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働くということは規則に縛られるということ。自由もあるが束縛もある。全て自分の思いどおりに動くわけではないし、自分の思いどおりに動かないことのほうがずっと多い。
ジルヴァは十歳まで父親に縛られて生きてきた。母親と話さないように。近所の人間とは目も合わせるな。誰が来ても居留守を使え。お前には俺さえいればいい。外は危ないし、外の世界を作り上げた人間はもっと危ない。親が教えてくれたそれが真実で正しいのだと信じていた。でも実際は違った。こんなにも楽しい世界があった。
人から命令されるのは好きじゃない。誰かの指示に従って生きるのは嫌だ。そう思っていたのに、ここでは違う。怒鳴られようと頭を叩かれようと平気。それは八つ当たりなんかじゃなくて愛があるとわかっているから。だからジルヴァも自分が納得いかないときは蹴りで抵抗するときもあり、その判定は全てロイクに任せる。相手が謝るときもあればジルヴァが謝るときもある。理不尽だと一日中拗ねる日もあるが、誰も気にはかけない。変わらなければならないのだと自らそう意識するようになった。
「いねぇな」
昼休み、ジルヴァは食事をしたら裏庭に出るのが習慣となっていた。ディナー分の野菜を収穫したり、設置してある鳥小屋の中に鳥が入っていないか覗き込んだり、今までなら見向きもしなかったことに目を向けるようになった。
世界は広い。それは区切りがある土地の広さを見るより空を見上げればわかる。空なんか見てどうなる。ここで働く前はそう思っていたのに、ロイクと出会ってから自分の時間の使い方を、心の育て方を学ぼうとしている。
「うおッ! ビビった! 何してんだよ!」
鶏小屋の近くに置いてある箱の中から餌を取り出して容器に注ぎ、中に戻ろうとしたジルヴァの視界に突如現れたロイクの姿に大袈裟なほど肩が跳ねて思わず声が上がる。
「いるならいるって言えよ!」
「ドアが開く音聞こえなかったのかよ」
「聞こえねぇよ! そーっと出やがって!」
「出てねぇ。お前が「鳥さん来てないかなー」ってニコニコして気付かなかっただけだろ」
「ニコニコなんかしてねぇ!」
実際、ニコニコはしていなかったが、最近の楽しみとして鳥小屋を覗くのが習慣となっているジルヴァが餌やり担当になっている。小屋を設置しているだけで近くの森から鳥がやってくる。チュンチュンと愛らしい声を上げる鳥を遠くから見つめる時間はシェフたちとくだらない話をするより好きだった。
声は出さずに笑うロイクが煙草を取り出し火をつけ、空に上っていく紫煙を見上げる。
「何見てんだ?」
ドア横の壁にもたれかかって空を見上げるだけの静かな時間をロイクが過ごしていることは知っている。ジルヴァも時々真似をするが、流れる雲を目で追いかけてるだけの時間にはすぐ飽きがきてしまう。
「空が青いなと思ってな」
「そんなの当たり前だろ。空はいつだって青いじゃねぇか」
「その当たり前に気付ける時間を過ごせてるってのは良いことだよな。幸せなことだぜ」
空の色、風の匂い、野菜の出来、鳥がいるかいないか、客の喜び方、客からの感想──ロイクはどんなことでも「良いことだ」と言う。当たり前のことにいちいち感謝することも、それを「良いことだ」と思うこともしなかったジルヴァにとってロイクの考え方は理解できないものも多かったが、最近は少し違う。できないからしない、ではなく、できないけどしよう、に変わりつつあった。だから隣の壁にもたれかかって一緒に空を見上げる。
「そうだな」
そう呟いたジルヴァにロイクが笑みを深める。
「いつもここで吸ってっけど中で吸えばいいだろ」
「うちの店は禁煙だ」
「アンタはオーナーだぜ。誰が文句言うんだよ」
「俺だ」
店は禁煙。それはどんな金持ちが来ようと変えることはなく、従業員だろうとオーナーだろうと絶対に吸ってはならない決まりがある。
一度、過去に常連の一人が『煙草吸いたいんだけど』とい言うと『外』とだけ言った。普段からお喋りなロイクが発した短い言葉は誰の耳にも冷たく聞こえ、当人だけでなく周りの客も黙らせた。もしこの常連が上手く言ってくれたから、と考えていた者もいただろうが上手くいくどころか失敗に終わった。
『なんだよその言い方。煙草吸いたいって言っただけだろ』
『それを俺に聞こえるようにデカい声で言う理由はなんだ?』
『俺はもともと声がデカいんだ。知ってんだろ?』
『ああ、知ってるさ。俺に言ったんじゃないなら煙草吸いてぇって言やあ俺も絡まなかったんだがな』
この店にはルールがある。それは外に出している看板にもしっかり書いてある。それを「見てなかった」で済ませようとするのは通用せず、お説教が待っている。客が店を選ぶように店も客を選ぶ権利を持っている。客と喧嘩するたびにロイクが言う言葉だ。だから喧嘩になることもある。大人気ない大人たちが言い合い、ときには殴り合う様子は無様だが名物になるときもあった。
『ここはな、飯を楽しむとこだ。店を出るまで持ってる感想は美味かった、だ。煙草の味と匂いで上書きしたきゃさっさと出て次の客のために席空けろ』
一人が店の中で吸えば他の客もその匂いを吸い込むことになる。せっかく食欲が湧く良い匂いで充満している店内に煙草の匂いが混ざるだけで不愉快になる者もいる。
『食事が終わってから帰るまでたった一本さえも我慢できねぇか?』
『どのタイミングで吸おうが俺の勝手だろ』
『この店で勝手ができるのは俺だけでお前じゃねぇよ。俺がダメだって言えばダメなんだよ。わかるか?』
ロイクと喧嘩しても良いことはない。それは常連客が一番わかっている。
今まで、ロイクが誰かと喧嘩するたびにそれを『バカだなアイツ。ロイクのことわかってねんだよ』と笑っていたが、当事者になると笑ってはいられない。イライラする。
『煙草一本さえ許可できねぇとか随分器が小さいねぇ、大将』
『煙草一本さえ我慢できねぇとは随分早漏だな、坊や』
カッとなったのは客のほう。言葉になっていない怒声を撒き散らしながらテーブルに金を叩きつけて帰っていくのを見てフンッと鼻を鳴らし、その金を見てロイクが言った。
『デザートかワイン、どっちか選んでくれ。俺からの奢りだ』
客と認めなかった相手が落とした金を売り上げに入れないこともロイクの中では決まりだった。拍手が起こり、それによせやいと言いたげに手を揺らす。そんな光景が日常茶飯事だで、客が減れば売り上げが減るのに常連だけは良いとはしないその強気な姿勢がジルヴァは好きだった。
「俺にも一本くれ」
ポケットの中に入っている煙草の箱を取ろうとしたジルヴァの手をロイクが叩く。
「こういう嗜好品は自分の金で買えるようになってから吸え」
「もう何十回も吸ってる」
「お前はまだ成長期だ。これからもっと味覚が育つ。大事にしろ」
「煙草吸いまくってる奴に言われてもな」
「俺の舌はもう出来上がってんだよ」
何を作っても美味いと声を上げさせるロイクに見習いのジルヴァが反論できる言葉などない。不貞腐れたように唇を尖らせるジルヴァを横目で見たロイクがふっと笑って胸ポケットから手作りのキャンディを取り出して見せた。
「なんだこれ」
「今度、子供用に出すつもりだ。感想聞かせろ」
販売かおまけ用かはまだ決めていない。
「子供がいないアンタが子供用?」
「バーカ。俺は今子育て真っ最中なんだよ」
「マジかよ。元気だねぇ」
「まあな。クソガキ相手にするには元気じゃなきゃムリだからな」
誰のことを言っているのかジルヴァはわかっているが、気付かないふりをしてニヤつく。子育てと言われたのがくすぐったくも嬉しかったから。
「俺でいいのかよ」
「言っただろ、これは子供用に出すつもりだって。お子ちゃまの感想が必要なんだよ」
棒付きの黄金色のキャンディを包んでいる薄紙をひっぺがして口に入れると同時にバキッと音がした。ボリボリと音を立ててジルヴァの口内で粒となっていくキャンディ。
「うめぇわ」
まるで当てつけのように噛み砕きながら一言放って店の中へと戻っていったジルヴァにロイクが声を上げて笑う。ドア越しにその声を聞くジルヴァの顔にも自然な笑みが浮かぶ。
口の中いっぱいに広がる甘いキャンディ。贅沢だが、これ一つでその日一日幸せになれるような物だと実感する。
「なぁ、子育ては楽しいな」
煙草を踏み潰して近くの缶に捨てたロイクはしゃがんだまま空を見上げて少年のような笑顔を見せた。
ジルヴァは十歳まで父親に縛られて生きてきた。母親と話さないように。近所の人間とは目も合わせるな。誰が来ても居留守を使え。お前には俺さえいればいい。外は危ないし、外の世界を作り上げた人間はもっと危ない。親が教えてくれたそれが真実で正しいのだと信じていた。でも実際は違った。こんなにも楽しい世界があった。
人から命令されるのは好きじゃない。誰かの指示に従って生きるのは嫌だ。そう思っていたのに、ここでは違う。怒鳴られようと頭を叩かれようと平気。それは八つ当たりなんかじゃなくて愛があるとわかっているから。だからジルヴァも自分が納得いかないときは蹴りで抵抗するときもあり、その判定は全てロイクに任せる。相手が謝るときもあればジルヴァが謝るときもある。理不尽だと一日中拗ねる日もあるが、誰も気にはかけない。変わらなければならないのだと自らそう意識するようになった。
「いねぇな」
昼休み、ジルヴァは食事をしたら裏庭に出るのが習慣となっていた。ディナー分の野菜を収穫したり、設置してある鳥小屋の中に鳥が入っていないか覗き込んだり、今までなら見向きもしなかったことに目を向けるようになった。
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「うおッ! ビビった! 何してんだよ!」
鶏小屋の近くに置いてある箱の中から餌を取り出して容器に注ぎ、中に戻ろうとしたジルヴァの視界に突如現れたロイクの姿に大袈裟なほど肩が跳ねて思わず声が上がる。
「いるならいるって言えよ!」
「ドアが開く音聞こえなかったのかよ」
「聞こえねぇよ! そーっと出やがって!」
「出てねぇ。お前が「鳥さん来てないかなー」ってニコニコして気付かなかっただけだろ」
「ニコニコなんかしてねぇ!」
実際、ニコニコはしていなかったが、最近の楽しみとして鳥小屋を覗くのが習慣となっているジルヴァが餌やり担当になっている。小屋を設置しているだけで近くの森から鳥がやってくる。チュンチュンと愛らしい声を上げる鳥を遠くから見つめる時間はシェフたちとくだらない話をするより好きだった。
声は出さずに笑うロイクが煙草を取り出し火をつけ、空に上っていく紫煙を見上げる。
「何見てんだ?」
ドア横の壁にもたれかかって空を見上げるだけの静かな時間をロイクが過ごしていることは知っている。ジルヴァも時々真似をするが、流れる雲を目で追いかけてるだけの時間にはすぐ飽きがきてしまう。
「空が青いなと思ってな」
「そんなの当たり前だろ。空はいつだって青いじゃねぇか」
「その当たり前に気付ける時間を過ごせてるってのは良いことだよな。幸せなことだぜ」
空の色、風の匂い、野菜の出来、鳥がいるかいないか、客の喜び方、客からの感想──ロイクはどんなことでも「良いことだ」と言う。当たり前のことにいちいち感謝することも、それを「良いことだ」と思うこともしなかったジルヴァにとってロイクの考え方は理解できないものも多かったが、最近は少し違う。できないからしない、ではなく、できないけどしよう、に変わりつつあった。だから隣の壁にもたれかかって一緒に空を見上げる。
「そうだな」
そう呟いたジルヴァにロイクが笑みを深める。
「いつもここで吸ってっけど中で吸えばいいだろ」
「うちの店は禁煙だ」
「アンタはオーナーだぜ。誰が文句言うんだよ」
「俺だ」
店は禁煙。それはどんな金持ちが来ようと変えることはなく、従業員だろうとオーナーだろうと絶対に吸ってはならない決まりがある。
一度、過去に常連の一人が『煙草吸いたいんだけど』とい言うと『外』とだけ言った。普段からお喋りなロイクが発した短い言葉は誰の耳にも冷たく聞こえ、当人だけでなく周りの客も黙らせた。もしこの常連が上手く言ってくれたから、と考えていた者もいただろうが上手くいくどころか失敗に終わった。
『なんだよその言い方。煙草吸いたいって言っただけだろ』
『それを俺に聞こえるようにデカい声で言う理由はなんだ?』
『俺はもともと声がデカいんだ。知ってんだろ?』
『ああ、知ってるさ。俺に言ったんじゃないなら煙草吸いてぇって言やあ俺も絡まなかったんだがな』
この店にはルールがある。それは外に出している看板にもしっかり書いてある。それを「見てなかった」で済ませようとするのは通用せず、お説教が待っている。客が店を選ぶように店も客を選ぶ権利を持っている。客と喧嘩するたびにロイクが言う言葉だ。だから喧嘩になることもある。大人気ない大人たちが言い合い、ときには殴り合う様子は無様だが名物になるときもあった。
『ここはな、飯を楽しむとこだ。店を出るまで持ってる感想は美味かった、だ。煙草の味と匂いで上書きしたきゃさっさと出て次の客のために席空けろ』
一人が店の中で吸えば他の客もその匂いを吸い込むことになる。せっかく食欲が湧く良い匂いで充満している店内に煙草の匂いが混ざるだけで不愉快になる者もいる。
『食事が終わってから帰るまでたった一本さえも我慢できねぇか?』
『どのタイミングで吸おうが俺の勝手だろ』
『この店で勝手ができるのは俺だけでお前じゃねぇよ。俺がダメだって言えばダメなんだよ。わかるか?』
ロイクと喧嘩しても良いことはない。それは常連客が一番わかっている。
今まで、ロイクが誰かと喧嘩するたびにそれを『バカだなアイツ。ロイクのことわかってねんだよ』と笑っていたが、当事者になると笑ってはいられない。イライラする。
『煙草一本さえ許可できねぇとか随分器が小さいねぇ、大将』
『煙草一本さえ我慢できねぇとは随分早漏だな、坊や』
カッとなったのは客のほう。言葉になっていない怒声を撒き散らしながらテーブルに金を叩きつけて帰っていくのを見てフンッと鼻を鳴らし、その金を見てロイクが言った。
『デザートかワイン、どっちか選んでくれ。俺からの奢りだ』
客と認めなかった相手が落とした金を売り上げに入れないこともロイクの中では決まりだった。拍手が起こり、それによせやいと言いたげに手を揺らす。そんな光景が日常茶飯事だで、客が減れば売り上げが減るのに常連だけは良いとはしないその強気な姿勢がジルヴァは好きだった。
「俺にも一本くれ」
ポケットの中に入っている煙草の箱を取ろうとしたジルヴァの手をロイクが叩く。
「こういう嗜好品は自分の金で買えるようになってから吸え」
「もう何十回も吸ってる」
「お前はまだ成長期だ。これからもっと味覚が育つ。大事にしろ」
「煙草吸いまくってる奴に言われてもな」
「俺の舌はもう出来上がってんだよ」
何を作っても美味いと声を上げさせるロイクに見習いのジルヴァが反論できる言葉などない。不貞腐れたように唇を尖らせるジルヴァを横目で見たロイクがふっと笑って胸ポケットから手作りのキャンディを取り出して見せた。
「なんだこれ」
「今度、子供用に出すつもりだ。感想聞かせろ」
販売かおまけ用かはまだ決めていない。
「子供がいないアンタが子供用?」
「バーカ。俺は今子育て真っ最中なんだよ」
「マジかよ。元気だねぇ」
「まあな。クソガキ相手にするには元気じゃなきゃムリだからな」
誰のことを言っているのかジルヴァはわかっているが、気付かないふりをしてニヤつく。子育てと言われたのがくすぐったくも嬉しかったから。
「俺でいいのかよ」
「言っただろ、これは子供用に出すつもりだって。お子ちゃまの感想が必要なんだよ」
棒付きの黄金色のキャンディを包んでいる薄紙をひっぺがして口に入れると同時にバキッと音がした。ボリボリと音を立ててジルヴァの口内で粒となっていくキャンディ。
「うめぇわ」
まるで当てつけのように噛み砕きながら一言放って店の中へと戻っていったジルヴァにロイクが声を上げて笑う。ドア越しにその声を聞くジルヴァの顔にも自然な笑みが浮かぶ。
口の中いっぱいに広がる甘いキャンディ。贅沢だが、これ一つでその日一日幸せになれるような物だと実感する。
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