十歳で運命の相手を見つけた少年は小さな幸せを夢見る

永江寧々

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涙が出るほど

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「さっさと座れ」
「乱暴にすんじゃねぇよ」
「お、俺も?」

 殴るつもりかと横柄に構えるジルヴァと警戒するアルフィオ。対照的な態度だが、男はどちらかにだけ態度を変えることはしなかった。
 店内で二人を開放したあと、暫くして奥へと入って出てきた手には二枚の皿。そこから立ちのぼる湯気と香りに二人は無意識に喉を鳴らす。

「食え」

 コトッと音を立てて置かれた皿。肺いっぱいまで吸い込みたくなるほどの良い匂いを放つ料理に釘付けになる。こんな匂いは外でしか嗅いだことがない。美味そうな匂いだとアルフィオはいつも口にしたが、ジルヴァは一度だって口にしなかった。それを口にすることで自分がそれを羨んでいるように聞こえるから。でも本当はいつもその匂いが羨ましかった。どんな味だろう。舌を火傷するほど熱いだろうか。それを食べれば身体が温まるだろうか。きっと笑顔になるほど美味しいのだろう。路地に入った所から見るレストランから出てくる客たちの笑顔を見ながらそんなことばかり考えていた。
 いつも腹を鳴らしていた。人通りが多い場所で食べ物を盗むのは煙草を盗むよりもずっと難しくて空腹でも食べ物にありつけないことは多い。だから夜中にこっそり忍び込んで生でも食べられる野菜を狙った。冷たい野菜を二人で分けるはずだったのが、今こうして目の前にあるのは食材ではなく料理。

「睡眠薬でも入ってんじゃねぇだろうな。俺ら眠らせて、その間にサツに突き出すつもりだろ」

 困っている人がいたら助けるなんて偽善者がこの街にいるはずがない。狙いはわかっていると言いたげなジルヴァと同意見だとアルフィオも手をつけないで男を見ていると同じテーブルの椅子を引いてドカッと乱暴に腰掛けた。

「この俺が料理にそんなことするわけねぇだろ」
「テメーのことなんざ知らねぇから疑ってんだよ」
「俺はな、自分に嘘ついても料理にだけは嘘つかねぇって決めてんだよ。じゃなきゃ料理人なんざやれるわきゃねぇだろ」

 ここが繁盛している店であることは知っている。古いが大事に扱われ磨かれていることがわかる椅子とテーブル。ギシッと音を立てる古さもこの店の雰囲気に合っている。
 いつも良い匂いがしていたからこの店には近付かないようにしていた。食べてみたいと思ったところで食べられないのはわかっているから。そんな料理が目の前にある。何度も喉を鳴らし、何度も舌で唇を舐めるも信用するなと自分に言い聞かせる。

「この街にゃ警察はいないも同然だって知ってんだろ。野菜泥棒を捕まえたってお前ら差し出したところでアイツらは見向きもしねぇ。俺はな、意味ねぇことはしねぇよ。お前らみたいな世の中の流れに乗れねぇガキを捕まえて無駄時間食うなら新しいレシピ考えるっつーの」

 なんとなくだが、嘘はついていないような気がした。嘘かもしれない。嘘である可能性もある。だが、そうは思えなかった。先に手を伸ばしたのはアルフィオだった。

「……うまい……」

 ボソッとこぼれた呟きがアルフィオの思考を停止させ、そのあとは皿がピカピカになるまで一言も喋らなかった。

「犬じゃねんだから皿まで舐めんじゃねぇよ」

 上機嫌に笑って乱暴にアルフィオの頭を撫でる男をアルフィオはもう警戒していなかった。おかわりと言いたげに皿を持ったまま男を見ると「よっしゃ」と言って立ち上がる。皿を持ったまま男がこちらを見ていることに気付いたジルヴァが「なんだよ」と問えば「お前はどうする? コイツが全部食っちまうぞ。食いっぱぐれてもいいならいいけどな」と笑って厨房へと入っていく。
 嘘はついていない。アルフィオの前に湯気立つおかわりが運ばれてきて確信へと変わったジルヴァはスプーンを掴んでスープを一口飲んだ。舌が火傷するほど熱くはないが、飲んだ瞬間に冷えきっていた身体が温まる。スープだけではなく、その中に刻まれた野菜が入っていて食感もあり腹に溜まっていくのを感じる。
 料理はいつも父親が作ってくれていた。肉や魚は入っていなかったが野菜はちゃんと入っていた。これだってそれと同じはずなのにスプーンを持つ手が震える。手が止まり、俯いたジルヴァが何度も鼻をズズッと吸い、唇を震わせる。

「ジルヴァ……」

 孤児院で出会ってから今日までアルフィオは一度だってジルヴァの涙を見たことはなかった。どんなに蹴られ殴られようとも涙を滲ませることもなかったジルヴァが鼻水を垂らしながら泣いている。

「腹が減ってるなら飯を食え。人間ってのは美味い飯で腹一杯にすりゃそれだけで幸せになれる単純な生き物だ。道は誰かに作られるもんじゃねぇ。テメーで選んで作っていくもんだ。お前らが不幸になりてぇなら止めやしねぇが、もし幸せになりてぇ思いがあるなら腹一杯飯を食え」

 少し笑みを含んだ優しい声がかけられる。なぜ涙が出るのかわからない。ただスープを一口飲んだだけなのにこんなにも涙が溢れる。

「でも俺ら金持ってねぇし……」

 アルフィオの言葉に男が肩を竦める。

「俺が金払えって言ったか?」
「言ってない」
「お前らが表から入れるようになったら金取るぜ。それまでは裏口から入ってこい。腹一杯飯食わせてやるから」
「いいのかよ……いてッ!」
「腹空かしたガキが一丁前に遠慮してんじゃねぇ」
 
 殴られた頭を自分で撫でるアルフィオが嬉しそうに笑っておかわりのスープを流し込むのと同時にジルヴァの手も動き始めた。美味い。わけのわからない涙を流しながらジルヴァは男が言う腹一杯までおかわりを続けた。

「美味かった!」
「俺の料理だぞ、当たり前だろ」

 二人が食べた皿を重ねた男はそれを持って厨房へと向かう。

「美味かったな、ジルヴァ」
「まあな……」
「おい、何やってんだ。さっさと来い」

 二人で顔を見合わせて厨房へと入ると洗い場の前に立たされる。

「自分で食った皿は自分で洗え」
「え?」
「は?」
「誰がタダで食わせてやるって言ったよ。金稼ぐことはできなくても皿洗うぐらいできるだろ」

 二人が食事を食べるのは皿洗いが条件。でも二人は後出しだとは言わなかった。皿洗いをするだけで湯気立つ食事をさせてくれる人間がどこにいるのか。残飯じゃない食事。他の店は残飯だってくれないだろう。野良猫を追い払うように箒を持って追いかけてくる店もあった。だから二人は何も言わず皿を洗った。

「今日は二階で寝ろ」

 なぜここまでしてくれるのだろう。生意気なクソガキ二人の面倒を見る理由はないはずなのに、どこから来たのか、親はどうしたと聞くこともなく受け入れてくれる。それでも二人は警戒しなかった。
 ギシギシと上がるたびに音が鳴る階段で二階へ行くと奥の部屋へと招かれる。

「毛布は一枚しかねぇから二人でかぶれ。寝れるだろ」
「ありがとな、ジイさん。あいてッ! 礼言ったのになんでぶつんだよ!」

 放られた毛布を抱えながら不満げな顔をするアルフィオに男が眉を寄せる。

「誰がジイさんだ。俺はまだそこまで老け込んじゃいねぇよ」
「でも見た目ジイさんじゃん」 
「顔は老けても体力はお前らクソガキにだって負けねぇぞ」
「若造りはやめとけって。あいてッ!」

 きっと何発でも落とすだろう拳にそれ以上の生意気はやめて「ありがとうございます」と頭を下げたアルフィオにジルヴァは続かない。

「お前ら名前は?」
「俺はアルフィオ。こっちはジルヴァ」
「いい名前持ってんじゃねぇか。俺はロイクだ。オーナーって呼べ」
「名乗った意味」
「明日の朝も皿洗いだからな。早起きしろよ」

 それだけ言って手前の部屋に入っていった。

「朝飯もあるってこと、だよな?」
「……さあな」

 アルフィオから毛布を奪うようにして中へと入っていったジルヴァは期待しすぎないようにしていた。自分たちがしていたことを知ればきっと愛想を尽かすに決まっている。こんな子供に食事をさせていたなど周りに知られれば店の評判に関わるのだから。
 食事もこの待遇も自分たちの話がロイクの耳に入るまでの期限付き。そう思っておくことにした。

「美味かったな……」

 一つのベッドに二人で寝転びながら見上げる天井に向かって呟きをこぼすアルフィオ。

「明日の朝飯はなんだろな。きっとスゲー美味いぜ」

 ジルヴァは返事をしなかった。朝食はいつもシリアルだった。箱に手を突っ込んでバリボリバリボリ音を立てて食べる。そのたびにうるさいとクッションを投げつけられ、母親がいるときは庭に出て食べていた。
 人生そんなに甘くない。だから今日みたいに温かい食事ではないかもしれないし、シリアルである可能性もある。

「うるせーからさっさと寝ろ」

 背中を向けたジルヴァをアルフィオが抱きしめる。

「ジルヴァ、ロイクが言ってたことって当たってるよな。俺いまスゲー幸せだもん」

 そう言って目を閉じたアルフィオに「あっそ」とだけ呟くように返してジルヴァも目を閉じた。明日のことは明日になればわかるし、明日にならなければわからない。こんな柔らかなベッドで眠れるのも今日が最後かもしれない。
 人を欺き続けた罰はいつか必ず訪れる。そう思っているジルヴァにとってこの状況は少し怖いものでもあった。
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