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二人きりの思い出

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「オレが男娼やってたの知ってたの?」
「ジンから聞いてた」
「……いつ?」
「お前が仕事を始めた日だ」

 言わないと約束したのにジンは破った。それを知っていればもっと強気に出られたのにと思うが、一年前の自分じゃ無理だと思った。膝を抱える腕に力を込めて顔を埋めるとジルヴァがクシャクシャと頭を撫でる。

「ジンから聞かなくてもわかってたっつーの」
「……どうして?」
「濡れネズミがハジメテもらってくれって言ってきたんだぜ? 夢見る夢子がハジメテ捧げる日にあの状態はねぇだろ」
「夢子じゃないし……」
「全部もらってやったろ。何不貞腐れてんだよ」
「……オレが言ったこと全部嘘だって知ってたんだなって思って……」

 ジルヴァが追い返さずにもらってくれたから男娼をする決意ができた。追い返されていればきっと女々しく泣きじゃくって逃げ出していたかもしれない。
 ハジメテを捨てるのに夢を見ていたわけじゃない。場所や台詞なんかどうだってよかった、相手がジルヴァであれば。濡れた状態だったのは今思えば最低だったかもしれないが、最低なのはジルヴァが既に知っていたこと。強がりは全て嘘だと見抜かれていたことが最低だと鼻を啜る。

「オレ、ジルヴァに嘘ついた」
「そうだな」
「なんで怒らないの?」
「なんで怒る必要がある? 生きるためには嘘が必要なこともある。後々テメーの首を締めるってわかってても嘘で塗り固めなきゃならねぇときもある。でもだからってそれら全ての嘘が悪になるってわけじゃねぇだろ」
「でもオレ──」
「嘘をつかないことだけが正義か?」
「それ、は……」

 目を見開く言葉にディルの息が震えた。嘘などつかないほうが良いに決まっている。嘘つきと責められるのだから嘘は良くないことだと思っていた。嘘をつくことで後ろめたさも覚える。でも、ディルの人生は嘘に塗れていた。母親を見殺しにする前からずっと。強がりと言えば強がりかもしれないが、嘘は嘘。そして重ねすぎた嘘はいつしか自分の中から後ろめたさを消し、開き直りのように「仕方ない」と思うようになる。そんな自分に吐き気がしながらもそういう生き方しかできないのはあの日の自分のせいだと、自分への罰だと言い聞かせてきた。だからジンがあのまま妹たちの所へ行って真実を話し、妹たちが軽蔑したとしてもそれを受け入れようと覚悟はあった。心臓が激しく脈打つ時点で完璧な覚悟ではないが、子供の頃から揺らぎ続けてきた覚悟からは少し成長した感覚がある。

「テメーを守るための嘘をテメーがついて何が悪い。お前がついた嘘で誰が傷ついた?」
「妹……」
「アイツらは利口だ。兄ちゃんが頑張ってるのを知ってる。だからなんも言わねんだ」
「オレは兄ちゃんなのにアイツらのこと全然守ってやれてないッ。もっとちゃんと守ってやらなきゃいけないのに……!」

 ポンッと乗せられた手にディルの肩が跳ねるも続く言葉がディルの涙腺を崩壊させる。

「上出来すぎるぐらいだぜ、お兄ちゃん。この街一番の兄ちゃんなんだから胸張れよ」

 ずっと我慢させてきた。ずっと嘘もついてきた。ずっと心配かけてきた。そんなことはわかっていた。それさえも「仕方ない」と気付かないふりをして「稼がなきゃいけないんだから」と背中で押しつけていた気がする。そんな男を褒めてくれるジルヴァにディルは足の間に顔を埋め、喉を震わせながら笑った。

「今日のジルヴァは甘やかしすぎだよ」
「んだよ、嬉しくねぇのか? 俺が褒めてやってんだぞ」
「不気味」
「テメー……絞めんぞ」
「それでこそジルヴァだって」

 顔を上げて笑うディルの目からは涙が溢れていた。しゃくり上げなくても昔からディルを見ているジルヴァには泣いていることなどバレバレで、ディルもバレているとわかっていた。だから隠さず顔を上げることにした。
 この街で汚れずに生きていける人間はいない。どこを歩いても泥沼で、あまりにも深いその場所から抜け出す方法を考えようとする者はほとんどいない。ずっと泥の中を歩き続けていると次第に慣れが発生し、諦めへと続く。だからこの街は再生しない。腐ったまま、腐敗を蔓延させ感染させる。だからこそディルは妹たちだけはそこから逃したいと考えた。まだ汚れを知らない子だからこそ今より環境の良い場所に逃したい。生まれながらの金持ちと同じにはなれなくても今より環境が良く、安心感のある生活ぐらいは送らせてやれるから。
 嘘をつかない人間のほうがおかしい街で、ディルはいつも必死だった。誰もが斜め下を見て生きている中で真っ直ぐ前を見て生きてきたはずなのに一つタイミングが違っただけで道が歪んでしまった。前を向いていたら転んでしまう、そんなガタガタの道に入ることになった。だからこれ以上転ばないように下を向いて生きた一年。
 それでもディルの必死さは変わらなかった。必死に生きて、必死に嘘をついて、必死に誤魔化そうとした。でも根っこまでは腐りきっていないディルには完全に人を騙すほどの演技力はなくて。

「だから──………よな」
「え?」
「なんでもねぇよ。帰るぞ」

 何を言ったのか聞き取れなかった部分を聞き返したところでジルヴァは答えない。立ち上がって振り返らず戻っていくジルヴァのあとを涙を拭って追いかける。

「片付けなくていいの?」
「デザートはゆっくり味わって食べるもんだろ。食べ終わってるか確認もしねぇで客の皿下げんのか?」
「下げないけど……」
「皿はアレ一枚じゃねんだ。ゆっくり食わせてやれ。俺の新作に涙流しながら舌鼓打ってるとこだろうからな」

 上機嫌に笑うジルヴァの隣を歩くと手の甲が触れ合う。背はまだジルヴァのほうが高い。少し髪が伸びた自分より短く整えているジルヴァのほうが男前かもしれない。スラリと伸びた手足は私服でもコックコートでもよくわかり、なんでも着こなしてしまう。吊り合うとは思っていない。でも好きの気持ちは消えない。

「なーに触ろうとしてんだよ」

 指先ぐらいならと絡めようとした瞬間、飛んできた声に慌てて自分の手を抱きしめるように大袈裟な離し方をする。

「指輪、つけないのかなって」
「指輪して料理はしねぇ。元オーナーもそうだった。愛の証を汚したくねぇし、俺の手垢がこびりついてる物で食材を汚したくもねぇってな」

 愛の証。アルフィオの言葉を思い出す。宇宙からでも見えそうなほど大きな宝石をつけたのは異国の地にいるからこそ日常的に贈れない愛を形にしたのだ。

「お前の特技は百面相だな。泣いたり笑ったり怒ったり悩んだり」
「悩んでるわけじゃないけど……」
「悩みはねぇって? 羨ましいぜ」
「ジルヴァはあるの?」
「俺も人間だからな」

 ジルヴァは誰にも弱みを見せることはしない。いつだって胸を張って自信を持って生きている。でも本人が言うように人間であれば悩みの一つぐらい持っていて当然のこと。
 憧れるほどかっこいい人の悩みとはどういうものか気になったが、聞いたところで答えてはくれないから別のことを聞くことにした。。

「悩みはどうやって解決してるの? 誰かに相談とか?」
「ダチがいねぇからなァ」
「……あー……」
「あー? そこは嘘つくなって言うとこだろうが」
「だ、だってジルヴァから友達の話聞いたことないし!」
「お前に話してねぇだけだ」
「あ……そう、だよ……ね」

 冷たい言い方に足が止まってしまったディルにジルヴァが笑いながら首を振る。わかりやすすぎる反応が見たくてこうした態度を取るのだが、ディルは時々ジルヴァの想像よりも喜んだり落ち込んだりする。それがまたジルヴァの心をくすぐる。

「悩みは他人に相談したところで解決はしねぇ。誰かに相談すりゃ気持ちが少し軽くなるだけで根本的な解決にはいらねぇだろ。だから俺は悩み事は全部埋めちまうことにしてんだ」
「埋める?」
「悩んだら心に種が生まれるだろ? それを取り出して埋める。やったことねぇのか?」
「……種……取り出す……?」

 どこまで本気でどこからからかいなのかがわからないディルは何度も目を瞬かせながらジルヴァの心を読もうとするもポーカーフェイスを得意とする相手の心意を見抜くことはまだできない。

「お前、もしかして種抱えたままか?」

 あまりに迫真めいた表情を向けるため思わず小刻みに頷いた。

「ヤベェな……。大体の奴は成人迎えるまでにやってんぞ」
「え、嘘。冗談でしょ? ジルヴァいっつもからかうじゃん」
「これがからかってる顔に見えるか?」

 真面目な表情を向けたジルヴァを見つめること数秒、ジルヴァの口元が小さな痙攣を起こしたようにピクピクと動く。

「嘘じゃん!」

 嘘だとバレると大きな声で笑い始める。

「種になって取り出せりゃ俺は今頃大金持ちだっての」
「そんなことで大金持ちになんかなれないよ」

 拗ねたように唇を尖らせるディルの肩を抱きながら「拗ねんなよ」と上機嫌なジルヴァに表情が緩みそうになるも片方の頬を膨らませて表情を作ることで堪えた。

「でも俺は心の中でずっとそうしてきた」

 悩みがないわけじゃない。自己流で解決する方法を見つけたのだ。

「実際、悩み事の大半は悩んでても仕方ねぇことばっかだ。行動するかしねぇかで迷ってるだけでな。悩むと頭と心が占領された上に疲労する。そんなのバカバカしいだろ? でもそのままじゃ考えることはやめられねぇから俺は悩みをグッシャグシャに丸めちまう」
「それが種?」
「種ってのは俺のイメージだ」

 ディルもその場でやってみた。抱えている悩みは泥よりも粘土の濃い物で、厨房の隅にこびりついている真っ黒になった油のよう。それに手を触れさせると粘土の高い液体のようにドロリと指の間を抜けていく。一滴だって落とさないように手早く丸めれば真っ黒な泥団子のようになった。あとは埋めるだけだが、ディルは一つ気になった。

「埋めたら終わり? 奥底にしまうってこと?」

 それなら幾度となく繰り返しやってきたが意味がなかったことだ。

「種を土の中に埋めたらどうなる?」
「実が成る」
「そうだ」
「でももし実じゃなくて爆弾になったら?」

 真っ黒すぎる種が実になったとして、それが真っ黒な爆弾である可能性だってある。それが爆発したら、とディルは不安になった。だが、ジルヴァは空を見上げて「ボンッ!」と声を張る。

「爆発させちまえばいい。そしたら悩みは吹っ飛んで終わりだ」

 だからジルヴァは怒ることが少ないのだろうと納得する。
 爆発するのが怖いのはそのあとの自分を制御できる自信がないから。暴れ終わったあとで死にたくなるほど後悔して逃げ出したくなるのが目に見えているから。でも逃げられない。逃げ出す場所なんてない。だから我慢して、怒りや不安、不満を心の奥底に閉じ込め、大丈夫だと自分に言い聞かせていた。

「オレは上手く爆発させられないかも」
「そしたら俺が火ィつけて蹴飛ばしてやるよ。そうすりゃ嫌でも爆発すんだろ」
「乱暴だなァ」
「それこそが俺なんだろ?」
「まあね。オレの大好きな人は優しいだけの女性じゃなくて意地悪な部分が多いから」
「女見る目がねぇなァ」

 笑っているジルヴァの手を勢い任せに握った。振り払われると思ったが、ジルヴァは手を動かすことはしなかった。握り返すことはしないが、振り払いもしない。十歳の頃、洗い物が終わったあと、ジルヴァが家まで送ってくれた。手を握って暗い道を帰る。街灯のない道。ちょうど今ぐらい暗かった。
 懐かしい思い出に目を細めるディルを横目で見たジルヴァも似たような笑みを浮かべながら店へと戻った。
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