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暴露

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 朝から仕事があるとテンションが上がる。どれだけ地獄を味わおうとも生きていると実感できるのが仕事だ。休みが嬉しいと喜ぶオージたちを昔から羨ましいとは思わなかった。ディルにとって休みは皆に会えない日だから寂しかった。それはどれだけ環境が変わろうと変わることのない気持ち。
 休みなんてなくていい。今もそう思っている。

「ディル、今日は随分元気じゃねぇか」

 皆からそう言われるほどディルは元気だった。空元気ではない。昨日、マダムを怒らせて酷いお仕置きを受けた。だが、言ってやったと自分で自分を褒めることができたのだ。
 マダムはどうしても辞めると言わせたかったのだろうがディルは何をされても辞めると口にすることはなかった。根を上げたのはジョージとティニーのほうで、最後はマダムも『勝手にしなさい!』と怒鳴ってディルを床に転がした。
 完全に諦めたわけではないだろうが、昨日はディルの勝ちだった。だから今日のディルは久しぶりに機嫌が良く、笑顔。そんな当たり前のことで皆が笑顔になる。心配かけていたのだと思い知り、申し訳ない気持ちはあれど不謹慎ながらにも嬉しかった。
 今日は残念ながらホールだが、これだけ上機嫌のときに厨房に入ると浮かれて失敗する可能性もあるためホールで良かったと前向きにもなれている。
 どこで監視されているのかは知らないが、好きなだけ監視すればいい。何を言われようがされようが店は辞めない。妹たちのことで脅されてもジンに掛け合うチャンスはある。だからまだ片隅で震えて怯える必要はない。
 この気持ちのまま十六歳の誕生日を迎えられれば最高だと自分の気持ちが長く続くことを祈っていたが、料理を運んだ際にギュッと尻を掴まれて身体が飛び跳ねた。
 バッと勢いよく振り返った先にいた中年の男性。一人で来た客だ。

「そういう店じゃないんでお触り禁止です」

 客はそれぞれ想いを胸に来店している。台無しにしたくないと笑顔でやんわり注意するが、男のニヤつきは変わらない。ジンが浮かべる笑みによく似ていて嫌な予感がする。

「おいおい、客の顔を忘れたのかよ。お前を満足させてやった客をよぉ」

 テーブルの上にグラスはない。まだ酒は飲んでいない。この男はまだ酔っ払っていないのにまるで酔っ払っているかのような話し方をする。何を言い出すんだと咄嗟に相手の口を塞ごうと伸ばした手を男に掴まれ、男は自らその手を口に運んで押しつけた。だがそれはディルが相手の口を塞いだというより手のひらに唇を押し付けられている感覚が強く、一瞬で全身が粟立つ。

「昼と夜はここで働いて、夜中は客に身体を売ってんだから大したもんだな。欲求不満なんだろ」

 ディルは爽やかで通っていた。笑顔が可愛いと褒めてもらうことも多かった。だから身体を売っていたという客からの暴露に店内がザワつき始める。
 手のひらを舐められた感触に強く振り払うも男の愉快そうな表情は変わらない。
 足と床が一体化したようにその場で動けなくなっているディルの横に立って再び尻を掴んだ男の手がやわやわ動いて揉みしだく。

「な? 男に取り入るのが得意だもんな。俺も何度この尻に世話になったかわからねぇ。今はどっかの金持ちに独占されて買えなくなっちまったがよぉ。専属でご奉仕してるんだよなぁ?」

 ディルの身体がカタカタと震え始める。
 知られてしまった。知られたくなかったのに。この一年、ずっと必死に隠してきたのに。辞めないと宣言したばかりだったのに。
 集まっている客の視線を見るのも怖く、立ち尽くしたままギュッと目を瞑ると急に腕を押されて身体が動いた。

「な、なんだよ! 何す──ッ!!」

 男の慌てた声に目を開けたディルの視界に映ったのは男の胸ぐらを掴んだジルヴァがそいつをバーカウンターへと投げ飛ばす光景。
 カウンター前に並んでいた椅子に激突した男はそれらを薙ぎ倒して床に倒れた。

「ジルヴァ……」

 背の高いジルヴァが顎を上げて男を見下ろす。

「この街でそれが脅しや仕返しになると思ってんなら笑い者になんのはテメーだぞ」
「男のくせに身体売ってんのは事実──」

 強く打った身体は起こすだけでも痛みが生じるのか顔を歪めながらも事実だと声を大きくしようとする男の前にジルヴァの足がドンッと落ちる。

「その男を買って世話になってたのは誰だよ」
「この街じゃ普通のことだろ!」
「ああ、そうだ。普通のことだからわざわざここでそんな普通のことを声を大にするテメーのくだらねぇ人間性に頭キてんだよ」
「稼がせてやった恩も忘れて独占契約結びやがったガキに大人を怒らせるとどうなるか教えてやらなきゃいけないんだよ!」

 唾を吐き捨てるような仕草で鼻を鳴らしたジルヴァがその場で仁王立ちになる。

「何度も世話になるぐらい気に入ってた奴を買えなくなった腹いせにコイツが働く店突き止めて客装ってやってきてコイツを笑いものにしようとするなんざ、随分ナニの小せぇ男だな。そんな小せぇもんで満足させやったなんてよく言えたな」

 ジルヴァの言葉で数人の客がクスクスと笑い始める。その声にカッと顔を赤くする男が勢いよく立ち上がってジルヴァに拳を振りかざすも簡単に受け止められてしまった。
 受け止めた拳を握ったままグググッと押し返すように力を込めるジルヴァに力で敵わない男の背が段々と逸れていく。

「何かを買うには金がいるんだよ。コイツを買った奴はコイツにそれだけの価値を見出したってことだ。当然だろ。コイツはテメーみてぇなクズが安値で買って好き勝手していい奴じゃねぇからな!」

 響き渡る怒声とそれに合わせて突き飛ばすように手を離されたことでバランスを崩した男が今度はバーカウンターの上に伏せるようにぶつかる。

(やめてよ)

 声が出るならそう言いたかった。こんな自分をジルヴァに庇ってほしくなかった。
 唇が震え、目頭が熱くなる。夜の仕事をするようになってから何度も迷惑と心配をかけた自分なんかを庇ってくれなくていい。

「これ以上ここでコイツを見下すような発言したら許さねぇぞ」
「フンッ、こんな汚いボロ小屋で飯食う趣味はねんだよ!」
「うちもクズはお断りなんでな。さっさと出てけ」

 睨みつけてくる男にジルヴァが拳を振り上げて殴る真似をするとビクッと肩を跳ねさせて身を守る動きをした様子にまた数名の客が笑う。クスクスと聞こえる笑い声を背に出ていった男を外に出していた看板を蹴り飛ばして帰っていった。

「デイヴ、さっきの男見つけたら看板の修理代請求しとけ」
「あいよ!」

 この店で一番顔が広いと言われているデイヴからの返事が聞こえると客に背を向けたまま大きく息を吐き出してからクルッと振り向いた。頭は下げず、後頭部を掻きながら「あー」と声を漏らす。

「せっかく来てくれたのに気分害して悪いな。グラスワインかデザートか、どっちか選んで伝えてくれ。俺からの詫びだ」
「お詫びすることなんかないわよ」
「そうだ。ジルヴァの店に来て食事を楽しまない奴は入店禁止にすればいい」
「ディル君も頑張って生きてるのね。えらいわ」
「下がいるといくら稼いでも足りないもんだ。頑張ってるじゃないか」

 誰も嫌悪感を見せることなくディルの腕にそっと手を添えたり背中を叩いたりして褒めていく。
 ジルヴァが言ったとおり、この街で娼婦や男娼をネタに脅そうとしても当たり前に数がいて脅しになんてならない。妹たちがいることを知っている客たちはこぞってえらいと褒めてくれる。子供がいる親が多い客たちは皆、ディルに笑顔を向けてくれた。その優しさに堪えていた涙が溢れ出す。

「親を亡くして自分が育てなきゃいけないってのは大変だよな。たった五歳しか違わないんだろ? うちなんか娘と二十二も離れてるが手を焼き続けてる。でも親だから耐えられることもある。兄貴は……どうだろうな」
「俺にも五歳離れた妹がいるが、十歳の頃に突然親が消えたら俺も消えてたと思う。育てるなんざ考えもしねぇよ」
「オレじゃないよ。ジルヴァが育ててくれたんだ」
「でも立派に兄ちゃんやってるじゃないか。誰がどういう役割をしたかなんて小さなことは気にするな。君が妹を見捨てず、厳しい現実から逃げ出さず朝も昼も夜も関係なく働いてることがえらいんだ」

 マダムシンディに乱暴に扱われるよりずっと涙がこぼれる。止め方がわからなくなった涙を何度も袖で擦って拭るが次から次へと溢れてくる。
 現実は甘くないと思っていた。厳しくて辛くて残酷なんだと。でも、やはり捨てられないぐらい優しい思いで包まれていて、ここが自分にとって最後の砦なんだと感じる。
 
「ディル、ガキじゃねんだからいつまでも泣きべそかいてんじゃねぇ。仕事しろ」
「はい!」
「ジルヴァったら容赦ないわね。抱きしめてあげるぐらいすればいいのに」
「俺は忙しいんだよ」
「あとで抱きしめてもらいなさい」

 婦人が両手でディルの手を握ってポンポンと手の甲を軽く叩いて笑顔を見せた。涙は出るのに自然と笑顔になる。鼻を啜って涙を拭う。まだ完全に止まりはしないが、皆が笑ってくれるからディルはホールの仕事を再開する。料理を運んで、美味しいと感想を聞いて、それを厨房に伝えては「当たり前だ」といつもの言葉が飛んでくる。いつもより多いグラスとデザートの皿を運んではいつもよりずっと大きな笑い声に胸がじんわり温かくなった。
 
「皆、今日はごめ──」
「謝んなよ、ディル」

 夜、解散前にオージの言葉に頭を下げようとしたディルの動きが止まる。

「お前は謝らなきゃいけねぇことしたか?」
「……嘘、ついた……」
「俺らがお前に娼婦なんかしてねぇだろうなって聞いたことあったか?」
「ない……」
「ならお前がいつ嘘ついたってんだよ」
「それは……」

 黙り込むディルの肩をデイヴが抱いて頬に強く唇を押し付けた。

「ッ!?」
「気合い入れてあげたのよ」
「やめてやれよ! 吐いちまうだろ!」
「失礼ね! 気合いよ、き・あ・い!」
「オエーッ!」

 ウインクを飛ばすデイヴに合わせたかのように全員が吐く真似をする。

「アンタが嘘をついたことを謝るなら大丈夫じゃないのに大丈夫って言ったことよね」
「あ……」
「心配かけまいと思ってのことだろうが余計な気遣いだっての。俺らがいくら中年親父だって言ってもよ、十五歳のガキ一人支えられない奴はいねぇよ。無理強いするつもりはねぇが、助けての一言ぐらい言ってもいいんだぜ」
「そんなこと……」

 言えないと首を振るディルの前にオージが手を差し出す。なんだとその手を見ているとズイッと何本もの手が視界に入ってくる。

「ここに何本の手がある? お前がどんなに酷い底なし沼に落ちたってこんだけ手がありゃ引っ張り上げられるだろ」
「オレ……皆に迷惑……」
「息子」
「え?」
「だって言ったろ?」

 顔を上げると皆が笑顔で頷いていた。喉が締まる。目頭が熱くなる。唇が震える。我慢しろと自分に言い聞かせてもどれ一つ止まってはくれない。

「父ちゃん助けて!って言われりゃあフライパン地面に叩きつけてでも助けに行くに決まってんだろ」
「だけど……」
「まだやれるって自分を奮わせられるうちはいい。でも言い聞かせるようになったらもうダメだ。今のお前はどっちだ?」

 考えるまでもない。全てを絶望の中で受け入れている状態に言い聞かせるも何もなくなっている。十六歳になるその日を待つだけの日々。
 きっと彼らの言葉に嘘はない。助けてと手を握れば問題を全て解決してくれるだろう。だが、今はまだそうできない理由があった。

「ここで働けてる間はまだ自分を奮わせられてるってことだから大丈夫だよ」


 身体を売ることはここでは恥でもなんでもないから受け入れてくれた。だが、親である彼らに自分の親を見殺しにしたと言えばどうなる。反応はきっと変わるだろう。信じていないわけではない。怖いのだ。
 まだ抱えている秘密があり、それを暴露させないためにジルヴァは五年間もジンから守ってくれた。それをここで自ら暴露するわけにはいかない。するべきではないからジルヴァも一番信頼を置いている彼らにも話さなかったのだから。
 笑顔を見せるディルに眉を下げながらもオージたちは伸ばした手を引っ込めずにそのままディルの頭を乱暴に撫でた。

「ならもっと食え。腹がはち切れるほど食って働け」
「そうよ。ジルヴァの店で働いてる子が痩せてるなんてジルヴァが許さないわよ」
「そうだね。確かに。明日からちゃんと食べるよ。腹がはち切れるぐらいに。だから賄いいっぱい作ってよ」
「任せとけ」

 幸せだ。ここがあるから、彼らがいるから頑張れる。まだ大丈夫。まだやれる。それは自分に言い聞かせる言葉だが、心からそう思えた。

「ディル、マダムが痩せすぎだって怒ってたよ」
「どうでもいい」

 家に帰るとティニーが出迎えるもディルは足を止めることなくその横を通り過ぎていく。

「ここにいて痩せるなんてありえないよ。好きな物が好きなだけ食べられるし、世界で一番安全で安心な場所だよ。天国のような場所じゃないか」

 どこか必死に聞こえるその言葉にディルが嘲笑する。

「そう思えるお前らが羨ましいよ」

 驚いた顔のあとティニーが憎悪にも似た感情を表に出してディルを睨みつけるが、あとからやってきたジョージはニヤついていた。

「お前はマダムに反する“悪い子”だな」

 ママではなくなったマダムからのお仕置きはジョージが受けているものよりずっと厳しいものだが、もうそれに絶望することはない。だってそれは永遠に続くわけじゃない。朝が来れば終わるのだから我慢していれば空が白くなり青に変わる。必死になる必要はないと悟ってから少し心が楽になった。

「オレの好きな飯はここにはないし、ここのシェフには作れない。それに、この国で一番安心できる場所もここじゃない」

 言いきったディルにティニーが拳を震わせる。

「あれだけマダムに良くしてもらっておきながら……“悪い子”だね」

 二人から言われる言葉が何を意味しているのか理解していないわけではないが、それでもディルは笑って「オレはクソガキだから」と言った。
 そのあと、ディルはお仕置きを受けながらあるはずのない天井のシミを数えていた。
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